「お断りします」
俺は言った。敢然と、
「私も旦那さまと同じ気持ちです」
秘書のオーリーンは、首を振ってため息をついた。「旦那さま、それは少々──」
「嫌です」
「しかしながら──」
「絶対に嫌です。どうしてもと言うなら、僕は実家に帰らせてもらいます」
「私も帰らせていただきます」
と、グレイがあとに続く。俺は、ちら、と隣を見上げる。従者も、ちら、と、こっちを見下ろしてくる。
二メートルの高みでうなずく青灰色のたれ目には、力がこもっていた。俺も力強くうなずき返した。俺たちの心は今、間違いなくひとつになっている。
「………………」
オーリーンは俺とグレイを順々に見比べて、長い中指で銀縁眼鏡を押し上げた。
「……よろしい」
「…………」
「そうまでおっしゃるのであれば、いたしかたありませんな。──グレイ」
「はい!」
「おまえは、
「はっ、はいっ!」
……俺はようやく胸をなでおろした。
エディットが王后さまのお供でハティア王国へ出発したあと、俺は彼女の部屋で寝起きすることになっていた。書棚に隠してある『証拠の手紙』を手に入れようと、再び誰かが押し入ってくる可能性があるからだ。
俺が一人で張り番をすると申し出ると、当然のように異議を唱えたのがオーリーンである。彼は従者のグレイへ、俺と同室になるよう命じたのだ。それを俺は頑として
結局グレイは、エディットの部屋の北側の隣にある俺の部屋で寝泊まりすることになった。いざとなったら壁をぶち破って駆けつけます、と魔法剣士は頼もしい。壁を破るのはよしたほうがいいと思うけど。
元々あるじたるエディットでさえ不在がちだった部屋なのだ。見張りといっても四六時中張り込んでいるわけではないのだが──
「──旦那さまのお召しものは、ひと通り移しておきましたから」
侍女のバルバラが、重ねた本を運びながら言う。
「ありがとうございます」
「いいええ」
バルバラはてきぱきと書棚へ本を収めてゆく。彼女は
「バルバラさんは、ずっとこのうちで働いているんですか?」
「はい。母も祖母も、代々の奥さまにお仕えしたんですよ」
護衛も兼ねておりますけどね、と、金茶の髪の小柄な侍女は、メイド服の二の腕に力こぶを作ってみせる。
「エディットさまが王太后陛下のお招きで王都へお越しになったとき、わたしもお供してきたんです。ですからこのお屋敷には──もう十二年以上、でしょうか」
「そんなに小さいころから……」
「ええ。でも、エディットさまは、もっとお小さくていらっしゃいました。わたしは母といっしょでしたし」
猫の瞳のようにきつい侍女のまなざしが、ほんの少し優しくなる。
「ご両親を亡くされたエディットさまに、王太后陛下が王宮へおいでになるようお勧めになりましたけれど」
エディットさまはお断りになりました、と、バルバラは言う。
父親が書記官を務めていたころ過ごしたこの屋敷にいたい──七つにもならない小さな女の子が、ともに暮らそうという祖母の誘いを断ったのだそうだ。
「幼年学校は男の子ばかりなので寄宿舎にはお入りにならず、ここから馬で通われて」
バルバラは、大きな窓の向こうを指でさす。
「エディットさまがお出かけの時刻になると、塀に沿って見物人がずらーっとならんだんです。それはそれはすごい人出だったんですよ」
当時の国王夫妻の孫娘が両親を亡くし、一人王都へやってきた。たおやかで優美な『
「剣術も、お勉強の成績も、ほかの貴族の坊ちゃまがたに少しも負けていなかった、って、マーレーンさまがいつもおっしゃってました」
オーリーンの父親の
「……旦那さま、ひとつ、教えてさしあげましょうか」
いたずらを思いついた男の子みたいに、頬にそばかすのある侍女の瞳がくるめいた。
「なんですか?」
「エディットさまの苦手なもの。旦那さまはご存じですか?」
苦手なもの。
「いいえ」
俺はかぶりを振った。するとバルバラは、秘密めかして声をひそめた。
「……お小さいころは、
雷。
あのエディットが。
「今はもう、ぜんぜん平気なご様子ですけどね」
目をぱちつかせる俺を見て、バルバラはつけ加えた。
「十年くらい前でしょうか。ひどい嵐の晩に、エディットさまが突然わたしたちの部屋までおいでになって──」
『バルバラが恐ろしがっているといけないからきてやった。今夜はわたしがいっしょに寝てやろう』
「──って、大きな声で、まくしたてるみたいにおっしゃるんです。母もわたしもびっくりしてしまって」
バルバラが彼女の口ぶりを真似たので、俺はつい吹き出してしまった。
「結局その晩、エディットさまは母のベッドでお休みになりました」
「バルバラさんの、じゃなくて?」
「ええ」
せつない気持ちになる。──怖い思いをしたとき逃げ込める母親の胸を、幼いエディットはすでに失っていた。
「旦那さま、くれぐれも申し上げますけれど、お小さいころのお話ですからね。みんなには絶対ないしょですよ」
念押しされる。わかってます、小さいころの話なんだよね……
とはいえ、いろいろと想像してしまう。──気がつけば、バルバラに顔をのぞき込まれていた。
「……旦那さま?」
「は、はい?」
「もしかして、残念だったりしていらっしゃいます?」
「えっ、な、なにがですか?」
「もう平気になられちゃったのが」
ええ、まあ、残念と言いますか、なんと言いますか。
母は今も元気に国許でお城勤めしてますよ、と、バルバラは屈託なく笑った。──みんな、先祖代々エレメントルート家の家来なのかな。
部屋を出ると、廊下に控えていたグレイがあとをついてきた。窓はどこもきっちり閉まっているし、使っていない部屋にはすべて鍵をかけてある。これは今までとなんら変わりはない。
階段を降り、カラン、と、大扉のベルを鳴らして外へ出る。
「いんや、おいらは先代さまに拾っていただいて、このお屋敷へきたんですよ」
「──旦那さま、旦那さま」
グレイが毛皮のコートを両手で抱え、あわてて駆けてくる。雪が降ってるわけでなし、大げさなことである。マイルズなんて、素手で腕まくりまでしているのに。
「十五、六年も経ちますかねえ。おいらも若え時分にゃいろいろありまして、へえ」
マイルズは、えへへ、と、ちりちりの金髪をかき回した。
「いっさいがっさいをなくしちまいましてね。その辺でぶっ倒れてたのを、通りかかった
目が覚めたときはたいそう驚いたそうだ。物乞い同然の身なりの自分が、真っ白な
「ちょうどご一家で、お国許から王都へおいでになってたときでしてねえ」
マイルズは遠くを見るような目つきになり、鼻をすすり上げた。「エディットさまが、こーんなちいちゃい時分で」
ごつごつした手のひらが示すのは、目の前の馬車の車輪ほどの高さでしかない。
「なんてお美しい奥方さまとお嬢さまだろうって……おいら、すっかり
銀の髪のエルヴィン夫人は、とても親切にしてくれた。温かい食べものと、寝る場所を世話してくれた。セドリック卿は、仕事がないなら
「そのまんま、ずうずうしく置いてもらってるわけでさぁ」
今でも忘れない。初めて会ったときのエディットはまだ三つかそこら。ふんわり裾の広がったドレスは薄紅色。長い黒髪にも同じ色のリボンを結んで、そりゃあ可愛らしかった──と、マイルズは目を細めた。
「じつをいいますとね、おいら長えこと、てめえの名前のほかには字が読めなかったんですよ」
「エディットさまがお一人で王都へきなさったばかりのころ、そいつがバレちまいまして」
マイルズが読み書きできないと知ると、エディットは大きな
「読んでやる、っておっしゃるんですよ」
文字を知っていれば、本を読めるようになるぞ。世の中にはこんなに楽しいお話がたくさんあるんだ──そんなふうに言われた。そして、あどけない澄んだ声が読み聞かせてくれたのは、悪い魔法使いの呪いで水晶の中に閉じ込められた姫君を救い出す、勇者の物語。
はじめはしぶしぶ、次第に熱を入れて教わるようになった。
「今じゃおいらだって、
エディットさまはたいしたおかたですよ、と、マイルズは首を振った。
──きれいに掃き清めてある庭を歩いてみる。枯れた葉もすっかり落ちた木立を透かして、高い塀が見えた。あの塀を、彼女にないしょで乗り越えたこともあったっけ。
「グレイさん」
なんとなく尋ねてみる。吐く息は白い。でも、贅沢な毛皮に襟首まで覆われて、俺の体は暖かい。
「グレイさんは、いつからここに?」
「エディットさまが成人なさった年です」
バルバラよりさらに二つ三つ年上らしい従者は、のどかな調子で答えた。「それまでは、私の父がお仕えしておりました」
グレイの父親も、むろん魔法士だ。──私よりもずうっと腕っこきですよ、と、胸を張っている。
「……グレイさん」
「はい、旦那さま」
「僕になにか、できることはないでしょうか」
時間切れだ──出発前、エディットは言った。そうだろうか。彼女がいなくても、俺にやれることはあると思うのだ。いつくるのかもわからない敵の出かたを待つだけなんて、時間が惜しいような気がする。
「できること、ですか」
従者は困ったようにたれ目をしばしばさせた。俺が危ない目に遭えば、オーリーンに責められるのは彼なのだ。
「ゆうべオーリーンさんから聞いたんですけど、『仮面の男』の可能性がある貴族は、かなりしぼられているそうですね」
「はい、私もそのように伺っています」
「僕が一人一人を見ることはできないでしょうか」
「えっ?」
グレイはぽかんと口を開けた。
ダーヴィドの館で会った、黒い仮面をつけた謎の男。顔を隠してはいたが、俺は直接姿を見て、声を聞いている。その後昨日までに可能性が高いと感じたのは、レールケ伯爵とゾンターク公爵だ。けれど、爵位授与式に出席していた貴族で、
確かめられるのは、俺だけだ。
俺には、
「もちろん、みんなにもちゃんと相談します。グレイさん、僕を手伝ってもらえませんか?」