客席から、拍手が起こった。
ほんのわずかの息つぎのため、オドネルが楽屋へ戻ってくる。ユーリが瞳を輝かせて駆け寄った。
「師匠、よかったですよ!」
オドネルは、鼻白んだように一歩引き下がった。
「そ、そうだろうかね」
「はい! とても!」
「きみがそう言うのなら、ローランドくん」
オドネルは、グレイが水をそそいだカップを差し出すのをうわの空で受け取り、ぐい、と、ひと息であおった。用心深い口ぶりで言う。「悪くない出来だったと思うことにしよう」
「私もなにか
グレイがうらやましそうにつぶやいた。演らせてあげたいのはやまやまなのである。しかし、極端に背が高い彼は人の印象に残りやすい。彼がエディットのお供で王宮へ出入りしていたことを、覚えている誰かがいるかもしれない。残念ながら、今回は楽屋でお留守番だ。
場をつなぐための音楽が流れている。オドネルは楽曲に合わせるように息を吸いこみ、呼吸を整えた。魔法の明かりを維持しつつ、別の
小休憩が終わり、ユーリが舞台へ上がった。
「このあとは、お越しくださいました皆さまがたの、お国許の名所をお目にかけたいと思います。──と申しましても、術者が
おお、と声があがった。見巧者がいるらしい。
これからオドネルがおこなうのは、『
人気はあるが、大勢に見せるには不向きな術である。魔法への耐性は人によって異なるからだ。俺とユーリは今までに何度かオドネルの『夢幻』を見ている。日ごろから
オドネルが壇上へ戻ると、再び拍手が沸いた。俺も期待が高まってくる。具体的な演目は、オドネルとユーリ、二人だけで決めたのだ。
「はじめに、フーデマン卿のお国許、ヴラフ領から」
ユーリが
──突然、景色が一変した。
俺は息をのんだ。目の前には、一面の大海原。
生まれて初めて海を見た。初めてなのに、海だとわかった。俺は今、船上にいる。両足が甲板を踏みしめている。船腹に波頭が勢いよくぶつかって、体がぐらりと揺れた。潮の香りで胸がいっぱいになる。──振り返れば、遠く美しい砂浜に、あおあおとした防潮林がどこまでも続いていた。ヴラフは東にある海辺の
目を上げる。塔の
やがて背が、尾ひれが、波をかきわけせまってきた。くじらだ。巨大な口を開けた大くじらが尾を打ち払う。ザバァーッ……と、音を立てて俺を飛び越えてゆく。濃い影が落ち、周囲が暗くなる。
きらきらと水しぶきが輝いた。まるで真珠をまき散らしたように、頭の上に降りそそぐ。気がつくと、額に手をかざしていた。
……一瞬ののち、ふいに俺の体は蒼の塔の、
幻影が消えてしまっても、まだ深い海のにおいに包まれているようだ。人々のざわめきは一向に収まる気配がない。俺の隣で、グレイが感心したように口笛を吹いた。
俺は、気を取り直して衝立のすきまへ目をやった。ゾンターク公爵は、美しい
「続いて、ミュラー卿のお国許、ペトラナ領」
ユーリの声は落ちついたものだ。俺は大きく深呼吸した。まぼろしだとわかっていても、まだ胸がどきどきする。
ペトラナも海に近い。今度は港の突端にそびえる大灯台だ。煉瓦造りの直方体の塔が、夕映えを受けて、あざやかな赤に輝く。じきに夜がきた。灯台のてっぺんには、こうこうと
演目が進むにつれて趣向がわかった。海の上から港へ、そして海岸を離れて内陸へ。見渡す限りに広がる黄金の小麦畑。月の光に照らされた山影。街へ出る。石造りの古いお城。苔むした神々の像が立ちならぶ
一番最後は王都だった。アセルティアの都が誇る、アセルス城の雄姿である。ユーリが国王の治世長かれの言葉を結びにすると、人々は喝采した。
大成功だ。こんなに立て続けの『
「ティ坊ちゃま、用意はいいですか?」
ユーリが楽屋に駆け込んできた。黒くて太いふちの眼鏡をはずし、急いで俺に渡してよこす。
俺は眼鏡のつるを耳にかけた。そうすると、さっきまでのユーリ=ローランドと俺は、
今日の俺も燕尾服を着ている。彼女の分と、同じ仕立てで二着あつらえたのだ。頬にも同じそばかすの化粧。会が始まる前、俺とユーリ、二人ならんで銀星館の女の子にやってもらった。
顔の輪郭を隠す髪は、ユーリによく似た栗色のかつらである。俺は男にしては、ちびのやせっぽち。彼女は女性にしては、どちらかといえば小柄な程度で中肉だ。体格に大きな違いはない。俺と背丈を合わせるため、ユーリは五センチばかり
すべらかな手ざわりの、絹製のシルクハットを頭に載せる。緑の瞳が見えてしまわないよう、気持ち目深に。
「うん、大丈夫でしょう」
じろじろと俺をながめ下ろしていたグレイが、腕を組んで大きくうなずいた。
「ティ坊ちゃま、がんばって」
ユーリは髪ひもを取り出し、長い髪をいつものように頭のてっぺんでまとめている。──おろしていたほうが、可愛いような気がするんだけど。
「がんばります」
俺は献金箱を抱えて楽屋を出た。オドネルの隣に、すばやくならぶ。
「──モルトー城が本物そっくりで、とても美しゅうございましたわ」
「楽しかったよ。また機会があれば、ぜひ」
「これはマウア卿ご夫妻、本日はありがとうございます」
俺よりよほど引きこもり暮らしをしているかに見えて、オドネルは案外如才ない。にこやかな笑みで挨拶し、握手を交わしている。俺に相手の声を聞かせてくれるためだ。
間近に立ったときの身長差も大切だ。献金箱に金を入れて行き過ぎる男性貴族を、俺はさりげなく注視する。
「──おお、レールケ卿、本日はわざわざのお運び、いたみ入ります」
「いや」
フィリップ=レールケ伯爵だ。彼はオドネルを見ると、口元に薄く笑みをにじませた。
「どれも非常に見事だった。王弟殿下もきっとお喜びになるだろう」
「だとよろしいのですが。──いかがでしたか。テレリアでケスペラント寺院を入れたのは、私の趣味でしてね」
レールケ伯爵の領地は、北部にあるテレリア領だ。青白い頬がかすかにほころんだ。
「ああ、ケスペラントもしばらく訪れていないな。懐かしく思ったよ」
くくくく……と、声を押し殺すようにして笑っている。献金箱を支える手のひらに汗が浮かんできた。彼の笑いかたには、聞き覚えがある。
ガチャ──抱えた箱の重みが、ずしりと増した。レールケ伯爵が大きな金袋を入れたのだ。うっかり礼を言いそうになり、あわてて頭を下げた。声を出してはいけない。ユーリと別人なのがばれてしまう。
だが、たとえ言葉を発したとして、彼が気づいただろうか。レールケ伯爵は、俺にまったく注意を払っていなかった。オドネルと挨拶をすませると、去ってゆく。
「……カイルくん」
もう室内に残る人は、ほとんどいない。オドネルがそっと、耳元へ口を寄せてきた。
「彼には気をつけたまえ」
「え」
「レールケ卿だ。彼には、魔法が通じていない」
俺も声をひそめてささやき返した。
「……どうしてわかるんですか?」
「私はね、カイルくん。
あっ、と思った。俺はどの街にも名跡にも行ったことがないから、わからなかった。オドネルはわざと、演じた建物とは別の名前を出したのだ。
「それだけではないがね」
言いつつ彼は、自分の瞳を指でさす。「顔や目線の動きで、演者にはわかるんだよ。見えていない観客がどのくらいいるものか」
場合によっては出しものを変えなくてはならないからね、と、オドネルは言う。彼は今までにも大勢の前で『
オドネルは、レールケ伯爵に魔法が通じていないと言う。俺の
心臓が、早鐘のように打ち始める。
──面白いではないか。エレメントルート家の魔法使いの小僧、顔が見たい。
仮面の男は、俺が魔法を使うと承知していた。なのにダーヴィドへ命じ、恐れげもなく俺のさるぐつわをはずさせた。
……もしかしたら。
もしかしたら、仮面の男にも魔法が効かなかったんじゃないだろうか。