伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 客席から、拍手が起こった。

 

 ほんのわずかの息つぎのため、オドネルが楽屋へ戻ってくる。ユーリが瞳を輝かせて駆け寄った。

 

「師匠、よかったですよ!」

 

 オドネルは、鼻白んだように一歩引き下がった。

 

「そ、そうだろうかね」

「はい! とても!」

「きみがそう言うのなら、ローランドくん」

 

 オドネルは、グレイが水をそそいだカップを差し出すのをうわの空で受け取り、ぐい、と、ひと息であおった。用心深い口ぶりで言う。「悪くない出来だったと思うことにしよう」

 

「私もなにか()りたいなあ」

 

 グレイがうらやましそうにつぶやいた。演らせてあげたいのはやまやまなのである。しかし、極端に背が高い彼は人の印象に残りやすい。彼がエディットのお供で王宮へ出入りしていたことを、覚えている誰かがいるかもしれない。残念ながら、今回は楽屋でお留守番だ。

 

 場をつなぐための音楽が流れている。オドネルは楽曲に合わせるように息を吸いこみ、呼吸を整えた。魔法の明かりを維持しつつ、別の(わざ)を演じようというのだ。気づくものは少なかろうが、相当の魔力がないとできないことだそうだ。

 

 銀星館(シルヴァ・ブレイズ)の女の子たちが、客席の一人一人にカクテルのグラスと、つまみのカナッペを配ってまわる。チーズや魚肉のパテ、キャビアなどを準備したのは、もちろんエレメントルート伯爵家の料理長、ネロだ。

 

 小休憩が終わり、ユーリが舞台へ上がった。

 

「このあとは、お越しくださいました皆さまがたの、お国許の名所をお目にかけたいと思います。──と申しましても、術者が()()でしか目にしたことのない風景もございます。本物と違うところもあるかもしれませんが、どうかお許しくださいませ」

 

 おお、と声があがった。見巧者がいるらしい。

 

 これからオドネルがおこなうのは、『夢幻(ぷりるーど)』という魔法だ。観客の精神に働きかけ、あたかもその場にいるかのような、まぼろしを見せる。

 

 人気はあるが、大勢に見せるには不向きな術である。魔法への耐性は人によって異なるからだ。俺とユーリは今までに何度かオドネルの『夢幻』を見ている。日ごろから()()()()を知る相手であれば、まださじ加減はたやすい。だが、今日のお客はそうではない。

 

 オドネルが壇上へ戻ると、再び拍手が沸いた。俺も期待が高まってくる。具体的な演目は、オドネルとユーリ、二人だけで決めたのだ。

 

「はじめに、フーデマン卿のお国許、ヴラフ領から」

 

 ユーリが口上(こうじょう)を述べる理由は、明らかである。オドネルは呪文を唱えなくてはならない。彼の唇は途切れずに動いている。大きな術は、詠唱も長い。

 

 ──突然、景色が一変した。

 

 俺は息をのんだ。目の前には、一面の大海原。

 

 ()()()()

 

 生まれて初めて海を見た。初めてなのに、海だとわかった。俺は今、船上にいる。両足が甲板を踏みしめている。船腹に波頭が勢いよくぶつかって、体がぐらりと揺れた。潮の香りで胸がいっぱいになる。──振り返れば、遠く美しい砂浜に、あおあおとした防潮林がどこまでも続いていた。ヴラフは東にある海辺の(くに)だ。

 

 目を上げる。塔の(すす)けた天井はそこになく、雲ひとつない抜けるような青空だ。空と、より深い青との境目。だんだんとうねりが大きくなって、水平線が盛り上がる。なにかがこちらに近づいてくる。

 

 やがて背が、尾ひれが、波をかきわけせまってきた。くじらだ。巨大な口を開けた大くじらが尾を打ち払う。ザバァーッ……と、音を立てて俺を飛び越えてゆく。濃い影が落ち、周囲が暗くなる。

 

 きらきらと水しぶきが輝いた。まるで真珠をまき散らしたように、頭の上に降りそそぐ。気がつくと、額に手をかざしていた。

 

 ……一瞬ののち、ふいに俺の体は蒼の塔の、衝立(ついたて)にかこまれた楽屋の中へ戻っていた。

 

 幻影が消えてしまっても、まだ深い海のにおいに包まれているようだ。人々のざわめきは一向に収まる気配がない。俺の隣で、グレイが感心したように口笛を吹いた。

 

 俺は、気を取り直して衝立のすきまへ目をやった。ゾンターク公爵は、美しい(おもて)に驚きの色を浮かべていた。レールケ伯爵も、興奮した様子の隣席の男と、なにやら言葉を交わしている。

 

「続いて、ミュラー卿のお国許、ペトラナ領」

 

 ユーリの声は落ちついたものだ。俺は大きく深呼吸した。まぼろしだとわかっていても、まだ胸がどきどきする。

 

 ペトラナも海に近い。今度は港の突端にそびえる大灯台だ。煉瓦造りの直方体の塔が、夕映えを受けて、あざやかな赤に輝く。じきに夜がきた。灯台のてっぺんには、こうこうと篝火(かがりび)(とも)される。荘厳な光が()いだ海面に映り、闇のかなたまできらめいてゆく。

 

 演目が進むにつれて趣向がわかった。海の上から港へ、そして海岸を離れて内陸へ。見渡す限りに広がる黄金の小麦畑。月の光に照らされた山影。街へ出る。石造りの古いお城。苔むした神々の像が立ちならぶ()()()()寺院──さまざまな地方を旅するようだ。

 

 一番最後は王都だった。アセルティアの都が誇る、アセルス城の雄姿である。ユーリが国王の治世長かれの言葉を結びにすると、人々は喝采した。

 

 大成功だ。こんなに立て続けの『夢幻(ぷりるーど)』を、誰も見たことがなかったらしい。大技をやりとげ、少々やつれた感のあるオドネルが舞台を降りる。

 

「ティ坊ちゃま、用意はいいですか?」

 

 ユーリが楽屋に駆け込んできた。黒くて太いふちの眼鏡をはずし、急いで俺に渡してよこす。

 

 俺は眼鏡のつるを耳にかけた。そうすると、さっきまでのユーリ=ローランドと俺は、()()()()()()()()()()

 

 今日の俺も燕尾服を着ている。彼女の分と、同じ仕立てで二着あつらえたのだ。頬にも同じそばかすの化粧。会が始まる前、俺とユーリ、二人ならんで銀星館の女の子にやってもらった。

 

 顔の輪郭を隠す髪は、ユーリによく似た栗色のかつらである。俺は男にしては、ちびのやせっぽち。彼女は女性にしては、どちらかといえば小柄な程度で中肉だ。体格に大きな違いはない。俺と背丈を合わせるため、ユーリは五センチばかり(かかと)のある靴を履いている。

 

 すべらかな手ざわりの、絹製のシルクハットを頭に載せる。緑の瞳が見えてしまわないよう、気持ち目深に。

 

「うん、大丈夫でしょう」

 

 じろじろと俺をながめ下ろしていたグレイが、腕を組んで大きくうなずいた。

 

「ティ坊ちゃま、がんばって」

 

 ユーリは髪ひもを取り出し、長い髪をいつものように頭のてっぺんでまとめている。──おろしていたほうが、可愛いような気がするんだけど。

 

「がんばります」

 

 俺は献金箱を抱えて楽屋を出た。オドネルの隣に、すばやくならぶ。

 

「──モルトー城が本物そっくりで、とても美しゅうございましたわ」

「楽しかったよ。また機会があれば、ぜひ」

「これはマウア卿ご夫妻、本日はありがとうございます」

 

 俺よりよほど引きこもり暮らしをしているかに見えて、オドネルは案外如才ない。にこやかな笑みで挨拶し、握手を交わしている。俺に相手の声を聞かせてくれるためだ。

 

 間近に立ったときの身長差も大切だ。献金箱に金を入れて行き過ぎる男性貴族を、俺はさりげなく注視する。

 

「──おお、レールケ卿、本日はわざわざのお運び、いたみ入ります」

「いや」

 

 フィリップ=レールケ伯爵だ。彼はオドネルを見ると、口元に薄く笑みをにじませた。

 

「どれも非常に見事だった。王弟殿下もきっとお喜びになるだろう」

「だとよろしいのですが。──いかがでしたか。テレリアでケスペラント寺院を入れたのは、私の趣味でしてね」

 

 レールケ伯爵の領地は、北部にあるテレリア領だ。青白い頬がかすかにほころんだ。

 

「ああ、ケスペラントもしばらく訪れていないな。懐かしく思ったよ」

 

 くくくく……と、声を押し殺すようにして笑っている。献金箱を支える手のひらに汗が浮かんできた。彼の笑いかたには、聞き覚えがある。

 

 ガチャ──抱えた箱の重みが、ずしりと増した。レールケ伯爵が大きな金袋を入れたのだ。うっかり礼を言いそうになり、あわてて頭を下げた。声を出してはいけない。ユーリと別人なのがばれてしまう。

 

 だが、たとえ言葉を発したとして、彼が気づいただろうか。レールケ伯爵は、俺にまったく注意を払っていなかった。オドネルと挨拶をすませると、去ってゆく。

 

「……カイルくん」

 

 もう室内に残る人は、ほとんどいない。オドネルがそっと、耳元へ口を寄せてきた。

 

「彼には気をつけたまえ」

「え」

「レールケ卿だ。彼には、魔法が通じていない」

 

 俺も声をひそめてささやき返した。

 

「……どうしてわかるんですか?」

「私はね、カイルくん。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あっ、と思った。俺はどの街にも名跡にも行ったことがないから、わからなかった。オドネルはわざと、演じた建物とは別の名前を出したのだ。

 

「それだけではないがね」

 

 言いつつ彼は、自分の瞳を指でさす。「顔や目線の動きで、演者にはわかるんだよ。見えていない観客がどのくらいいるものか」

 

 場合によっては出しものを変えなくてはならないからね、と、オドネルは言う。彼は今までにも大勢の前で『夢幻(ぷりるーど)』を演じた経験があるようだ。

 

 オドネルは、レールケ伯爵に魔法が通じていないと言う。俺の守護聖霊(ぞるがんど)、カローロは、レールケ伯爵を追おうとしたグレイを、俺に止めさせた。

 

 心臓が、早鐘のように打ち始める。

 

 ──面白いではないか。エレメントルート家の魔法使いの小僧、顔が見たい。

 

 仮面の男は、俺が魔法を使うと承知していた。なのにダーヴィドへ命じ、恐れげもなく俺のさるぐつわをはずさせた。

 

 ……もしかしたら。

 

 もしかしたら、仮面の男にも魔法が効かなかったんじゃないだろうか。

 

 

 

 


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