伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 間章 ハティアからの帰還
 60 冬の旅


 あと旬日も経たないうちに、新たな年がやってくる。

 

 深夜の街道を旅するものは誰もいない。街道沿いの枯れ果てた草原には、部隊の白い天幕が点在していた。煮炊きの煙もすでに消え、明るく燃える篝火(かがりび)と、幾人かの歩哨の姿が残るばかり。

 

「おやすみなさいませ、王后陛下」

 

 夜半を過ぎても、きりりと涼しい声がした。豪奢な天幕の入口が巻き上がる。ボリスは姿勢を正した。

 

 女官たちに見送られて出てきた人物は、陰に控えるボリスへ軽くうなずいてみせた。しなやかな腰にはレイピア、外套(マント)の下に銀の胸甲、左胸のしるしは金のふちどりの赤い星──王后の親衛隊の、隊長であることを示している。

 

 たばねた黒髪をひるがえし、警護の騎士を従えて歩き出した()()──あるじの後ろ姿を、ボリスは追った。

 

 アントニエッタ王后の一行がハティア王国を出発し、アセルスへの帰路についてから、七日余り。

 

 ハティアはアセルス王国より貧しく、近隣諸国の中で最も小さな国である。その分王家も家庭的で、温かな雰囲気があった。アセルス城と比べるとちっぽけといってもよい宮殿に、王族全員が肩を寄せ合い、ともに暮らしていた。

 

 アントニエッタ王后の母、ハティア王妃の病は(あつ)かった。しかし意識はしっかりしており、隣国に嫁いだ娘と、十年ぶりに涙の再会を果たした。なにより、王后がハティアをあとにするまで()()()くれた。滞在中に崩御することがあれば、王后の帰国が延びたやもしれぬ。

 

 王后の天幕を出たあるじは、ごく近くに設営された自身の天幕へ帰る。簡素な室内に明かりはランプがひとつだけ。騎士たちが去って、あるじはようやく息を吐き出した。

 

「姫さま」

 

 周囲に誰もいなくなると、ボリスはつい、昔からの呼びかたを口にしてしまう。

 

()()が、届いております」

「報告か」

 

 軍装を解きながら、あるじはつまらなそうに唇をとがらせた。だからボリスは必ず告げるのだ。これは、()()ではない。

 

 秘書のオーリーンは、エレメントルート家の家士たちをくまなく使い、じつにまめやかに報告書を届けてよこす。それは必要だし、ありがたくもある。だが、彼女が待つのは別なものだ。

 

 なら自分から書き送ればよいのに──むろん、ボリスは口に出さぬ。生まれたときから知るあるじへ、気安さもあって、こっそり心の内で思うのみである。

 

 たとえ目当てのものと違うからといって、あるじはそれを()()()()にはしない。いつもの通り、開いた紙へ真摯なまなざしを走らせる。──深みのある紫の瞳が、ふいにやわらかくなった。

 

「ボリス、読んでみろ」

 

 あるじが書簡を差し出した。「レールケ卿の監視を始めたそうだ」

 

(ほう……)

 

 ボリスは少々意外に思う。(あお)の塔で、魔法学院の宣伝にかこつけて仮面の男をしぼり込む。計画が進んでいるとは知らされていた。けれど、秘書は冷徹無比な見かけによらず、慎重な若者だ。なまじのことでは動くまいと思ったのに。

 

 フィリップ=レールケ伯爵には、一種類以上の魔法が通じないと思われる──考察を目にし、ボリスの背筋にいささか寒いものが走る。だが、あるじは瞳を輝かせていた。

 

()()男にも魔法が効かないらしい言動があった、とあるだろう? カイルが思い出したんだ」

「旦那さまも、おやりになりますな」

「うん」

 

 どうだ見たか、と言わんばかりの、得意そうな笑みである。素直に誇らしげな様子がとても愛らしい。うっかりこんな顔を見せてしまえば、彼女を奪い合って騎士たちが暴動を起こす。

 

 あるじの夫である少年は、王宮の蒼の塔で魔法を学んでいる。それをボリスは、子どもの手遊(てすさ)びと同じだと思っていた。彼はボリスの若い相棒とは違う。戦場において何百人分もの働きをする、()()()()魔法使いではない。

 

 秘書と同様、ボリスも少年が蒼の塔へ通うことに反対だった。うちでおとなしくしていたほうが、彼の身のためだとも思った。だが、

 

『だめだ。やりたいのならやらせるべきだ』

 

 人には誰にでもしたいことをする権利がある──そう彼女は言い張った。結果、若い二人が我を通したわけだが、それが思いもかけないところで、生きた。

 

 あのオーリーンを動かしたのだ。少年がレールケ伯爵を仮面の男と考える理由には、一理も二理もあるのだろう。

 

 よい知らせが入り、あるじは機嫌がいい。日ごろ誰の前でも硬い(おもて)を崩さぬ彼女だが、最近はこうして、あどけないとさえいえる表情を見せる。

 

 あるじは天幕の奥で寝じたくを始めた。ボリスは彼女に背を向ける。けれど、出てはいかない。彼は騎士ではなく、あくまでも私的な家来だ。だからこそ、この遠征のあいだ、彼女のそばから離れたことはない。

 

 王弟妃の茶会の席で、一人の近衛騎士が少年に呼び出し状を手渡した。のちに続く誘拐事件のきっかけともいえるあの騎士は、すでに身元が割れ、捕らえられている。博打(ばくち)で作った借金の(かた)に引き受けた、と自白したが、なにも知らされていなかったようだ。たたいても、それ以上の埃は出なかった。

 

 敵には近衛隊に入り込める伝手(つて)がある。だからボリスは、片時も警戒を(おこた)らない。もちろん、あるじもよくわかっている。

 

「……エディット」

 

 低く、ひそやかに呼ぶ声がした。

 

 ボリスが振り返ると、あるじは寝台の上で剣を手にしていた。寝じたくといっても、髪をほどいて制服に着替え、襟をくつろげただけである。王后からお呼びがかかれば、いつなんどきでも出向いてゆかねばならないからだ。

 

「エディット、僕だよ」

「リュカ」

 

 あるじは、ほっと息を吐き出した。

 

「エディット、今、いいか?」

 

 くり返し呼ぶ声に、ボリスは入口の幕を持ち上げた。ぎょっとしたように、まだ若い騎士が飛びすさる。あるじと同い年で幼なじみの彼も、今回の遠征に加わっているのだ。

 

 ぎろり、と、思いきり目に力を込めてやった。けれど、ひるみながらも彼は勇敢だった。

 

「や、やあ、ボリス」

 

 リュカ=サーヴェイは、月明かりの下でも昼間と変わらずさわやかだ。「エディット、いるんだろ?」

 

 いない。帰れ。

 

 と、言ってやりたい。が、いなかったらそれはそれで問題になる。ボリスはうなずいた。

 

「リュカ、なにかあったのか?」

 

 背後からあるじが現れると、リュカの顔は見る間に明るくなった。

 

 なにもないに決まっている。なにかがあれば、こんなふうにのらりくらりと尋ねてくるわけがない。

 

「いや、別になにも」

 

 案の定、リュカは照れ隠しのようにちょいと鼻の頭を指でこする。あるじの()()()()には機嫌のよさのなごりか、ランプの明かりににじむような色香があった。青年騎士は、たちまち目をそらした。

 

「ほら……このところ、ぜんぜん話せてなかったからさ」

 

 当たり前だ。あるじは王后の親衛隊の隊長なのだ。下っ端の平騎士と、話す暇などあるものか。

 

 サーヴェイ伯爵の次男坊は長身で眉目秀麗、行軍の最前列に立たせて恥ずかしくない容姿の持ちぬしだ。剣の腕もまずまず。おつむが少々足らないが、女官たちのうわさ話にのぼる程度には魅力的といってよい。

 

「エディット、どう? 少し、その辺でも歩いてみないか?」

 

 月がとってもきれいだよ、などと、たわけたことを口にする。見れば、入口の両脇に立つはずの歩哨の姿が消えていた。いったいどんな鼻薬をかがされたのか。ボリスはひそかに歯噛みした。まったく、職務怠慢にもほどがある。

 

「ああ、かまわない」

 

 けげんそうではありながらも、あるじはうなずいた。外套をはおり、剣を片手に外へ出る。当然ボリスも付き従う。リュカは迷惑そうだが、知ったことか。

 

 リュカはあるじを天幕の裏手に(いざな)った。もっと闇の深い場所へ行きたいらしいのに、彼女は野営地から離れようとしない。リュカはため息をついた。あきらめたようだ。

 

 ──静かに輝く満月の白い光が、二人の姿を照らし出している。うるわしい彼女と、容色はまあまあの彼がならべば、それはまるで絵画のような光景ともいえる。

 

「エディット」

「なんだ」

 

 冷たい風が草原を吹き渡る。彼女の外套の背に流れ落ちた黒髪が、ふわりと揺れた。

 

「どうしてる? 最近」

 

 問われてあるじは目を丸くした。百五十名足らずの部隊の隊長の動向を、知らない部下がいようとは思いもよらなかったのだろう。

 

「リュカこそ、どうしたんだ」

 

 あるじにはわかるまい。あっというまに部隊長まで昇り詰めた彼女へ、同年のリュカ=サーヴェイが少々複雑な、妬心とまぶしさの入り交じった視線を向け続けていたことなど。

 

「二人で会いたかったんだよ。久しぶりに」

「そうか」

 

 二メートルと離れぬボリスの存在は、忘れることにしたと見える。あるじが王都へきたばかりのころから親しい二人である。無口な彼女の性格は、彼も理解しているはずだ。だが、リュカはなおも言葉をつなごうとする。

 

「エディット、なあ──」

 

 するとあるじは小首をかしげ、リュカの端整な面立ちをのぞき込んだ。

 

「わ、悪かったよ」

 

 リュカは気圧(けお)されたように唇を曲げた。

 

「だって、呼べるか? ()()()()()()()()()()なんて。いや、それは、職務上はしかたがないけど、二人だけでいるときくらい、いいだろう?」

「もちろん、わたしはかまわないが……」

「本当かい? よかった。だめだって言われたら、どうしようかと思った」

「なぜ?」

「エディットは隊長だから。もう()なんか相手にしてくれないかと思ってさ」

「馬鹿を言うな」

 

 と、あるじは笑う。だが彼女は、心ここにあらずのふぜいだ。リュカはそれに気づかない。

 

 意を決したように、彼は頬を引き締めた。

 

「エディット」

「──え?」

「きみは……幸せなの? 伯爵と、本当の夫婦じゃないんだろ? 昔は誰とも結婚しないって言ってたじゃないか」

「………………」

 

 あるじは瞳を大きく見開いて、まじまじと幼なじみの顔を見つめた。

 

「リュカ」

「な、なんだよ」

「あなたはそうやって、わたしの名前を口にするな」

「誰もいないときだけだよ。いいだろう? 俺たちの仲なんだから──」

「ああ、違うんだ。そういう意味じゃなく……」

 

 あるじはかぶりを振る。やはりどこか、うわの空だ。リュカがなにか言おうとするのにいっさいかまいつけず──唇に笑みを浮かべた。

 

 リュカ=サーヴェイは呆然と立ちすくんだ。幼いころからあるじと親しい彼は、彼女の美貌を見慣れている。それでも彼は目を(みは)り、息をのんだ。見るものすべての心をとろかすような、ふるいつきたくなるような微笑みだ。

 

 あるじのなめらかな頬に、あんな()()()があっただろうか。ボリスは内心ため息をつく。己れの笑顔ひとつにどれだけの破壊力があるか、少しは心得ていただきたい。

 

「ある程度親しくなければ、直接名前は呼びづらいものだろうか」

「そ、そりゃあ……」

 

 俺だってエディットじゃなかったら……とかなんとか、リュカはしどろもどろになっている。

 

「ふーん……なるほどな」

「えっ?」

「帰ったら、いじめてやろう」

 

 いささかすねたともとれる口ぶりで、あるじはつぶやいた。「ありがとう、リュカ。久々に話せて楽しかった」

 

「お、おい、エディット」

 

 さくり、と、軍靴が枯れ草を踏む音がする。きびすを返したあるじへリュカが踏み出し、腕をつかんだのだ。彼女は驚いたように顔を振り向けた。

 

 ボリスは動じない。身を守るすべなら、充分過ぎるほど仕込んである。ましてや相手が彼ならなおさらだ。

 

「待てよ。──なあ、エディット、きみは今、幸せなのか? 違うだろう?」

「…………」

 

 今度はあるじがあっけにとられ、リュカを見つめ返す番だった。

 

「結婚したのは、お父上の(かたき)を探していることと関わりがあるのか? あんな、まだ子どもじゃないか。三つも年下の、ダンスもろくに踊れない田舎もの、あれならよほど」

 

 俺のほうがましだ──おそらく彼は、その言葉を飲み込んだ。

 

「……放せ」

 

 ちらほらと舞い始めた雪のように、冷え切った声音だった。

 

「エディット」

「聞こえないのか。()()()()、リュカ=サーヴェイ」

 

 彼女の瞳の色を見て、リュカはただちに命じられた通りにした。「ごめん」

 

 再び、あるじはきびすを返す。

 

「ごめん、エディット」

「…………」

「俺が悪かった。俺──ひどいことを言った」

「……気にするな」

 

 あるじが足早にボリスの前を通り過ぎる。立ちつくすリュカを尻目に、ボリスもあとへ続いた。

 

 天幕へ戻ったあるじは、昼間届いた報告書を手に、寝台へ腰を下ろした。さして長くもない、秘書が書いた事務的でそっけない文面だ。

 

 一枚目、二枚目、と目を通す。もういっぺん最初に戻る。瞳が何度もくり返し文字を追う。彼女の頬には、小さなえくぼが浮かんでいる。

 

 いつしか紙をめくる音がとだえていた。(とばり)を上げて、己れの寝床からのぞいてみると、あるじは目をつむり、寝台へ横になっている。ボリスは起き上がった。毛布を重ね、そっと彼女の体を覆う。

 

 明かりをしぼる。──制服の胸に(いだ)かれた書簡は、そのままにしておくことにした。

 

 

 

 


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