なだらかな丘が幾重にも連なっている。遥かかなたには、真っ白な冠を戴いた高い峰。その姿は堂々と威風をそなえて、さながら雪の女王のようだ。
アセルス王国への帰路についたアントニエッタ王后と、護衛の近衛隊の一行は、なにごともなくキトリーの領内に入っていた。
「エディット」
馬車の小窓が開いた。あるじは手綱をさばいて馬を寄せる。「はい、王后陛下」
いまだ二十代のはずのアントニエッタ王后は、このひと月余りのあいだに、かなり面やつれしたようだった。無理もない。ただでさえ母の命が明日をも知れないのに、不慣れな長旅、最期まで
「……帰ってきたのね、わたくしたち」
王后は身を震わせながら、冷たい外気を大きく吸いこんだ。国境はとうに越えた。己れはハティアの一王女ではなく、大国アセルスの王后──その気概を、取り戻そうとするかのようだ。
あるじはうなずいた。
「王子殿下にお会いになれるのも、まもなくです」
「そうね、待ち遠しいわ。エディットにも、早く会いたい人がいるでしょう?」
「ええ、それはもちろん」
あるじはごく真面目な面持ちで答えた。アントニエッタ王后は、扇で口元を隠して笑う。王后はあるじがお気に入りだ。からかいがいの
「「おうこうさまぁー!」」「「エディットひめー!!」」
ほっぺたを真っ赤にした子どもたちが、歓声をあげて隊列を追ってくる。王都で待つテオドア王子と同じ年ごろの男の子が混じるのを見て、王后の瞳がなごんだ。軽く手を振る。
「行きにも思ったけれど──エディット、あなたの故郷は、すてきなところね」
馬上のあるじは、ただ黙って頭を下げた。
騎馬と馬車の一行は、冬枯れの牧草地帯をゆるゆると抜けてゆく。やがて丘の向こう、大きな
本当は、もう少し西寄りの丘から夜明けを待つのが
濠をまたぐ木造りの跳ね橋が下りている。本日王后が到着することは、先ぶれを出して伝えてあった。周りの騎士たちの表情も明るい。ここまで戻れば王都まであと七日、自分たちの居場所へ帰る日も近い、という安堵の思いが伝わってくる。
車輪とたくさんの
先頭に立つマーレーン=ショウは、キトリーをはじめ、エレメントルート伯爵家が治める四ヶ領を預かる
彼はまさしく、息子の三十年後の姿そのものを映している。白くなっても豊かな髪を後ろへなでつけ、痩身に銀縁眼鏡、酷薄そのものの一重の瞳がこちらを見る。
「帰りも世話になります、マーレーン」
馬車を降りたアントニエッタ王后が声をかけると、家令は胸に手をあて、うやうやしく礼をした。
「わたくし、今夜は早目に休ませていただくわ」
「まあ、お加減が悪くていらっしゃるのですか?」
側仕えの女官が顔色を変える。王后は笑みを見せ、おっとりとかぶりを振った。
「そうではないの。少し疲れただけなのよ」
アントニエッタ王后と女官たちが主塔にある客間へ案内されると、あるじは副官のハーラーを差し招いた。ハーラーは三十代の後半にさしかかった男で、あるじの隊長就任以前から、部隊の副隊長を務めていた。落ちついた人柄で人望もある。まだ若いあるじには大事な片腕だ。
「みんなも疲れているだろう。今夜は四交代にして、できるだけ勤務時間を短くしてやってくれ」
「承知いたしました」
往路でキトリーへ立ち寄ったとき、あるじも騎士たちも、これからの任務の重さに気を張りつめていた。だが今は、アントニエッタ王后を母后へ会わせることもでき、無事国内へ戻ってきた。天幕での野営ではなく、久々にベッドで手足を伸ばして眠れるのだ。騎士たちにもくつろいだ雰囲気があった。
大広間では、一行をねぎらう
「おお! エディットさま!」
大わらわの厨房で、当番兵をともなったあるじの姿に目ざとく気がついたのは、料理長のマイクである。
「長いお役目、お疲れさまでございましたなあ!」
マイクは額の汗を拭き拭き、こちらへやってくる。大きな体で足を踏み出すごと、ズン、と床が揺れる。彼は王都のエレメントルート伯爵家本邸の料理長、ネロの父親だ。
「マイク、何度も大勢で押しかけて、手数をかけるな」
「なにをおっしゃいます、エディットさま。お客が多けりゃ多いほど、腕が鳴るってもんですよ」
息子に輪をかけて巨大な
今宵あるじが休むのは、最上階にある自室ではなく、王后の客間に近い部屋である。そこでも懐かしい顔が彼女を待ち受けていた。
「おかえりなさいませ、エディットさま」
部屋を整えたのは、本邸の侍女バルバラの母、グレーテだ。
「今夜はゆっくりお過ごしになれるのでしょう?」
娘と同じ金茶の髪には、白いものが混じり始めている。帽子と
「うん」
「お役目がひと段落なさったら、居間へお寄りになってくださいましね。皆さまがお待ちかねでございますよ」
「ああ、そうしよう」
相変わらず、あるじは言葉少なである。けれど、バルバラの母は成人するまで王都でともに暮らした仲だ。あるじの長い髪を
日が暮れてまもなく、大広間で宴が始まった。制服に着替えてレイピアを腰に下げ、凜々しくうるわしいあるじが姿を現すと、騎士たちは歓呼の声をあげた。
「みんな、今日までご苦労だった」
あるじはおもむろに口を開く。騎士たちは、しん……と静まり返った。
「王后陛下は皆の働きに大変満足なさっている。もちろん、わたしもだ。──王都まであと七日、存分に飲み食いし、明日からの行軍の英気を養ってくれ」
この世のものとは思えぬ美しさに加え、挨拶が短い彼女の隊長ぶりは、上々の人気である。副官のハーラーへ、今夜は無礼講だ、と言い置いて、あるじは宴席をあとにする。
「エディットさま!」
廊下の向こうから、若い娘が駆け寄ってきた。飛びつかんばかりにあるじを抱きしめ、頬に接吻する。「おかえりなさい!」
この少女はマーレーンの娘、オーリーンの妹のリリアナという。あるじが王都へ住まいを移す六歳までのあいだ、いっしょに育ったひとつ違いの乳きょうだいだ。
「ね、エディットさまはもうご存じ?」
黒髪と黒い瞳のほかは、
「……お兄さまの、
「オーリーンの?!」
あるじの
「ええ、そうよ。エディットさまがご結婚なさってから、って、ずうっと逃げてらしたでしょう? もうその言い訳は通用しないわ。エディットさまは、旦那さまをお迎えになったんですもの」
そこで二人は居間に着いた。あるじは警護の騎士たちへ、大広間の宴会に加わってかまわない、と、あわただしく言い渡す。
「マーレーン! 本当か?!」
あるじは向こうにいるマーレーン=ショウを、大きな声で呼ばわった。居間にはキトリーの統治において主要な役目を果たす家来たちが、大勢集まっていた。おかえりなさいエディットさま、と皆が口々に声をかける。
家令は眉を片方つり上げた。「いったいなんのお話ですか?」
「だから、今そこでリリアナに聞いたんだ。オーリーンに縁談があるそうじゃないか」
「ええ」
勢い込んで問うあるじを
領主が長らく不在のキトリーで、この家令はもはや城主と変わりない。にもかかわらず、彼は腰の軽いまめな男だ。皆の飲みものが切れていないか、つまみは足りているか、順々に卓を見てまわる。その彼を、あとからあるじが追いかける。
「相手はどこの誰なんだ? もう話はまとまったのか?」
「…………」
「どんな女性だ? 年は? オーリーンはなんと言ってる?」
「…………」
マーレーンはぴたりと足を止めた。そして姿勢を正して、あるじへ向き直った。
「エディットさま」
「な、なんだ」
「もう大人におなりあそばしたのですから、
銀縁眼鏡を押し上げつつ言われ、あるじの顔が真っ赤になった。
「わたしは、ま、前から、オーリーンは早く結婚したほうがいいと思っていただけだ!」
「さようでございますか。ご自分がご結婚なさると他人の世話を焼きたくなるのは、世の常でございますからな」
「そうじゃない!」
彼女がむきになるので、室内はなごやかな笑い声に満ちた。
「──ボリス、あんたもこっちで一杯やらないか」
呼ばれて振り返ると、大きな暖炉のそばの一画に、男たちがつどっている。座に加わり、ボリスも酒杯をかたむけた。
「どうだ、息子はあんたに迷惑をかけちゃいないかね」
くすんだ金髪に穏やかな青灰色の瞳の男は、カトラス・エストック=レーヴァテイン。座っていても図抜けた長身とわかる、グレイの父親だ。彼とボリスは長年組んでやってきた。ボリスはかぶりを振った。
「いいや、とてもよくやってくれている」
「役に立っているなら、なによりだ。あいつはどうも、いくつになっても甘っちょろくてな」
「今の世の中、俺やあんたたちみたいな商売のものは、甘いくらいがちょうどいいのさ」
カトラスは息子とよく似たたれ目をさらにやわらげた。「……違いない」
「じいさまは元気にしてるのか」
「ああ。このあいだ、精霊を使いによこした。近ごろは北のほうをぶらぶらしてるんだと」
「──ボリス、
早くも
「おいおい、物騒なことを言うじゃないか」
「今こそ時だろう。なにせ王后陛下は、われらの手の中だ」
ひげを生やした豪族の
「姫さまはそこまでお望みじゃない」
「それにまだ、この国で一番貴いおかたが下手人と決まったわけでもない」
年取った代官がわざと顔をしかめ、もっともだ、と皆がうなずく。
「なんにせよ、いつなにがあってもいいように、準備だけは整えておくのさ。なあ、みんな」
おうとも、逆賊になったら皆で国を出てやろう、船団を組んで海へ漕ぎ出し、東の大陸まで行ってやろう──集まって飲むたびに出る与太話だ。
向こうではリリアナがあるじへ、しきりにしゃべりかけている。王都での新婚生活の様子を尋ねているようだ。早く領主さまを連れて帰ってきて、とせがまれて、あるじはずっと赤い顔のままだ。時折娘らしい、はにかんだ笑みを見せる。それが今までの彼女らしくない。
「おきれいになったなあ……」
誰かがつぶやいた。馬鹿、エディットさまがお美しいのはお生まれになったそのときからだ、と、別な誰かがまぜっ返す。そうだそうだ、と、またみんなが笑った。
「隊ではなにもないのか。妙な動き、ってやつは」
カトラスがボリスに問うてくる。ボリスも真顔に戻った。行きに寄ったとき、彼とマーレーンには、あるじが親衛隊長に指名されたいきさつもふくめ、これまでに起こったできごとをくわしく話してある。
「今のところは格別、なにも」
ハティアへの往路ではなにも起こるまい、とボリスは考えていた。王后がふるさとの母后に会いたがっていたのは本当だ。仮にも親衛隊長となったあるじの身になにかがあれば、ハティア行きそのものを中止せざるを得なくなる。
敵に他国を巻き込むつもりがないとしたら、なにかが起こるのは、帰路。──つまりは国境を越え、アセルス国内に入ってからだ。
「……てことは、危ないのはここから先か」
カトラスはのんびりと言った。顎に手をあて、にやにやと笑う。
「そうだな」
ボリスもうなずいた。──