伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 61 故郷

 なだらかな丘が幾重にも連なっている。遥かかなたには、真っ白な冠を戴いた高い峰。その姿は堂々と威風をそなえて、さながら雪の女王のようだ。

 

 アセルス王国への帰路についたアントニエッタ王后と、護衛の近衛隊の一行は、なにごともなくキトリーの領内に入っていた。

 

「エディット」

 

 馬車の小窓が開いた。あるじは手綱をさばいて馬を寄せる。「はい、王后陛下」

 

 いまだ二十代のはずのアントニエッタ王后は、このひと月余りのあいだに、かなり面やつれしたようだった。無理もない。ただでさえ母の命が明日をも知れないのに、不慣れな長旅、最期まで看取(みと)ることすらかなわなかった。ふくよかな頬はいくらかこけた。はしばみ色の瞳にも、濃い憂いが残っている。

 

「……帰ってきたのね、わたくしたち」

 

 王后は身を震わせながら、冷たい外気を大きく吸いこんだ。国境はとうに越えた。己れはハティアの一王女ではなく、大国アセルスの王后──その気概を、取り戻そうとするかのようだ。

 

 あるじはうなずいた。

 

「王子殿下にお会いになれるのも、まもなくです」

「そうね、待ち遠しいわ。エディットにも、早く会いたい人がいるでしょう?」

「ええ、それはもちろん」

 

 あるじはごく真面目な面持ちで答えた。アントニエッタ王后は、扇で口元を隠して笑う。王后はあるじがお気に入りだ。からかいがいの()()ところがいいのだろう。

 

「「おうこうさまぁー!」」「「エディットひめー!!」」

 

 ほっぺたを真っ赤にした子どもたちが、歓声をあげて隊列を追ってくる。王都で待つテオドア王子と同じ年ごろの男の子が混じるのを見て、王后の瞳がなごんだ。軽く手を振る。

 

「行きにも思ったけれど──エディット、あなたの故郷は、すてきなところね」

 

 馬上のあるじは、ただ黙って頭を下げた。

 

 騎馬と馬車の一行は、冬枯れの牧草地帯をゆるゆると抜けてゆく。やがて丘の向こう、大きな(ほり)にかこまれた黄褐色の城塞が姿を現す。──この瞬間が、ボリスは好きだ。まるで湖にぽっかり浮かんでいるような、キトリーの古城。

 

 本当は、もう少し西寄りの丘から夜明けを待つのが()()。朝日が照り映えるキトリー城ときたら、このうえもない美しさだ。次に見られるのはいつだろう、と、ボリスは思う。

 

 濠をまたぐ木造りの跳ね橋が下りている。本日王后が到着することは、先ぶれを出して伝えてあった。周りの騎士たちの表情も明るい。ここまで戻れば王都まであと七日、自分たちの居場所へ帰る日も近い、という安堵の思いが伝わってくる。

 

 車輪とたくさんの(ひづめ)に踏まれ、幅の広い橋板がゴトゴト鳴った。城門をくぐった先の広場で、一行は多くの人々に出迎えられた。

 

 先頭に立つマーレーン=ショウは、キトリーをはじめ、エレメントルート伯爵家が治める四ヶ領を預かる家令(スチュワード)である。王都であるじの留守を任されている秘書のオーリーンの父親だ。

 

 彼はまさしく、息子の三十年後の姿そのものを映している。白くなっても豊かな髪を後ろへなでつけ、痩身に銀縁眼鏡、酷薄そのものの一重の瞳がこちらを見る。

 

「帰りも世話になります、マーレーン」

 

 馬車を降りたアントニエッタ王后が声をかけると、家令は胸に手をあて、うやうやしく礼をした。

 

「わたくし、今夜は早目に休ませていただくわ」

「まあ、お加減が悪くていらっしゃるのですか?」

 

 側仕えの女官が顔色を変える。王后は笑みを見せ、おっとりとかぶりを振った。

 

「そうではないの。少し疲れただけなのよ」

 

 アントニエッタ王后と女官たちが主塔にある客間へ案内されると、あるじは副官のハーラーを差し招いた。ハーラーは三十代の後半にさしかかった男で、あるじの隊長就任以前から、部隊の副隊長を務めていた。落ちついた人柄で人望もある。まだ若いあるじには大事な片腕だ。

 

「みんなも疲れているだろう。今夜は四交代にして、できるだけ勤務時間を短くしてやってくれ」

「承知いたしました」

 

 往路でキトリーへ立ち寄ったとき、あるじも騎士たちも、これからの任務の重さに気を張りつめていた。だが今は、アントニエッタ王后を母后へ会わせることもでき、無事国内へ戻ってきた。天幕での野営ではなく、久々にベッドで手足を伸ばして眠れるのだ。騎士たちにもくつろいだ雰囲気があった。

 

 大広間では、一行をねぎらう(うたげ)のしたくが進められていた。マーレーンは、この辺のさじ加減にぬかりがない。今宵は王后が早く休みたがるのを見越し、豪華さよりも、若い騎士たちが喜びそうな味つけの濃い献立と、大量の酒を用意している。

 

「おお! エディットさま!」

 

 大わらわの厨房で、当番兵をともなったあるじの姿に目ざとく気がついたのは、料理長のマイクである。

 

「長いお役目、お疲れさまでございましたなあ!」

 

 マイクは額の汗を拭き拭き、こちらへやってくる。大きな体で足を踏み出すごと、ズン、と床が揺れる。彼は王都のエレメントルート伯爵家本邸の料理長、ネロの父親だ。

 

「マイク、何度も大勢で押しかけて、手数をかけるな」

「なにをおっしゃいます、エディットさま。お客が多けりゃ多いほど、腕が鳴るってもんですよ」

 

 息子に輪をかけて巨大な料理長(コック)は、はちきれそうな丸顔をにっこりさせた。

 

 今宵あるじが休むのは、最上階にある自室ではなく、王后の客間に近い部屋である。そこでも懐かしい顔が彼女を待ち受けていた。

 

「おかえりなさいませ、エディットさま」

 

 部屋を整えたのは、本邸の侍女バルバラの母、グレーテだ。

 

「今夜はゆっくりお過ごしになれるのでしょう?」

 

 娘と同じ金茶の髪には、白いものが混じり始めている。帽子と外套(マント)を受け取って、かいがいしく世話を焼きながらグレーテが問う。

 

「うん」

「お役目がひと段落なさったら、居間へお寄りになってくださいましね。皆さまがお待ちかねでございますよ」

「ああ、そうしよう」

 

 相変わらず、あるじは言葉少なである。けれど、バルバラの母は成人するまで王都でともに暮らした仲だ。あるじの長い髪を()きながら、グレーテの顔がほころんだ。

 

 日が暮れてまもなく、大広間で宴が始まった。制服に着替えてレイピアを腰に下げ、凜々しくうるわしいあるじが姿を現すと、騎士たちは歓呼の声をあげた。

 

「みんな、今日までご苦労だった」

 

 あるじはおもむろに口を開く。騎士たちは、しん……と静まり返った。

 

「王后陛下は皆の働きに大変満足なさっている。もちろん、わたしもだ。──王都まであと七日、存分に飲み食いし、明日からの行軍の英気を養ってくれ」

 

 この世のものとは思えぬ美しさに加え、挨拶が短い彼女の隊長ぶりは、上々の人気である。副官のハーラーへ、今夜は無礼講だ、と言い置いて、あるじは宴席をあとにする。

 

「エディットさま!」

 

 廊下の向こうから、若い娘が駆け寄ってきた。飛びつかんばかりにあるじを抱きしめ、頬に接吻する。「おかえりなさい!」

 

 この少女はマーレーンの娘、オーリーンの妹のリリアナという。あるじが王都へ住まいを移す六歳までのあいだ、いっしょに育ったひとつ違いの乳きょうだいだ。

 

「ね、エディットさまはもうご存じ?」

 

 黒髪と黒い瞳のほかは、欠片(かけら)ほども兄に似たところがない。リリアナは快活で、笑顔の可愛らしい娘だ。歩きながらあるじの腕に腕をからめ、秘密めかして耳元へ口を寄せる。

 

「……お兄さまの、()()()のお話」

「オーリーンの?!」

 

 あるじの(すみれ)の瞳がまん丸になった。リリアナは両手を打ち合わせて笑い崩れた。

 

「ええ、そうよ。エディットさまがご結婚なさってから、って、ずうっと逃げてらしたでしょう? もうその言い訳は通用しないわ。エディットさまは、旦那さまをお迎えになったんですもの」

 

 そこで二人は居間に着いた。あるじは警護の騎士たちへ、大広間の宴会に加わってかまわない、と、あわただしく言い渡す。

 

「マーレーン! 本当か?!」

 

 あるじは向こうにいるマーレーン=ショウを、大きな声で呼ばわった。居間にはキトリーの統治において主要な役目を果たす家来たちが、大勢集まっていた。おかえりなさいエディットさま、と皆が口々に声をかける。

 

 家令は眉を片方つり上げた。「いったいなんのお話ですか?」

 

「だから、今そこでリリアナに聞いたんだ。オーリーンに縁談があるそうじゃないか」

「ええ」

 

 勢い込んで問うあるじを()()()ように、マーレーンはそっけなく答えた。「今でも遅すぎるくらいでございますからな」

 

 領主が長らく不在のキトリーで、この家令はもはや城主と変わりない。にもかかわらず、彼は腰の軽いまめな男だ。皆の飲みものが切れていないか、つまみは足りているか、順々に卓を見てまわる。その彼を、あとからあるじが追いかける。

 

「相手はどこの誰なんだ? もう話はまとまったのか?」

「…………」

「どんな女性だ? 年は? オーリーンはなんと言ってる?」

「…………」

 

 マーレーンはぴたりと足を止めた。そして姿勢を正して、あるじへ向き直った。

 

「エディットさま」

「な、なんだ」

「もう大人におなりあそばしたのですから、()()()のあとをついてまわるのは、おやめください」

 

 銀縁眼鏡を押し上げつつ言われ、あるじの顔が真っ赤になった。

 

「わたしは、ま、前から、オーリーンは早く結婚したほうがいいと思っていただけだ!」

「さようでございますか。ご自分がご結婚なさると他人の世話を焼きたくなるのは、世の常でございますからな」

「そうじゃない!」

 

 彼女がむきになるので、室内はなごやかな笑い声に満ちた。

 

「──ボリス、あんたもこっちで一杯やらないか」

 

 呼ばれて振り返ると、大きな暖炉のそばの一画に、男たちがつどっている。座に加わり、ボリスも酒杯をかたむけた。

 

「どうだ、息子はあんたに迷惑をかけちゃいないかね」

 

 くすんだ金髪に穏やかな青灰色の瞳の男は、カトラス・エストック=レーヴァテイン。座っていても図抜けた長身とわかる、グレイの父親だ。彼とボリスは長年組んでやってきた。ボリスはかぶりを振った。

 

「いいや、とてもよくやってくれている」

「役に立っているなら、なによりだ。あいつはどうも、いくつになっても甘っちょろくてな」

「今の世の中、俺やあんたたちみたいな商売のものは、甘いくらいがちょうどいいのさ」

 

 カトラスは息子とよく似たたれ目をさらにやわらげた。「……違いない」

 

「じいさまは元気にしてるのか」

「ああ。このあいだ、精霊を使いによこした。近ごろは北のほうをぶらぶらしてるんだと」

「──ボリス、王都(そっち)の様子はどうなんだ」

 

 早くも呂律(ろれつ)の危うい口ぶりで問うのは、この城の兵士長だ。「()()()の準備なら、とっくの昔にできているんだぜ」

 

「おいおい、物騒なことを言うじゃないか」

「今こそ時だろう。なにせ王后陛下は、われらの手の中だ」

 

 ひげを生やした豪族の(おさ)も言う。皆が心地よく酔った笑顔である。ボリスも笑いながら首を振った。

 

「姫さまはそこまでお望みじゃない」

「それにまだ、この国で一番貴いおかたが下手人と決まったわけでもない」

 

 年取った代官がわざと顔をしかめ、もっともだ、と皆がうなずく。

 

「なんにせよ、いつなにがあってもいいように、準備だけは整えておくのさ。なあ、みんな」

 

 おうとも、逆賊になったら皆で国を出てやろう、船団を組んで海へ漕ぎ出し、東の大陸まで行ってやろう──集まって飲むたびに出る与太話だ。

 

 向こうではリリアナがあるじへ、しきりにしゃべりかけている。王都での新婚生活の様子を尋ねているようだ。早く領主さまを連れて帰ってきて、とせがまれて、あるじはずっと赤い顔のままだ。時折娘らしい、はにかんだ笑みを見せる。それが今までの彼女らしくない。

 

「おきれいになったなあ……」

 

 誰かがつぶやいた。馬鹿、エディットさまがお美しいのはお生まれになったそのときからだ、と、別な誰かがまぜっ返す。そうだそうだ、と、またみんなが笑った。

 

「隊ではなにもないのか。妙な動き、ってやつは」

 

 カトラスがボリスに問うてくる。ボリスも真顔に戻った。行きに寄ったとき、彼とマーレーンには、あるじが親衛隊長に指名されたいきさつもふくめ、これまでに起こったできごとをくわしく話してある。

 

「今のところは格別、なにも」

 

 ハティアへの往路ではなにも起こるまい、とボリスは考えていた。王后がふるさとの母后に会いたがっていたのは本当だ。仮にも親衛隊長となったあるじの身になにかがあれば、ハティア行きそのものを中止せざるを得なくなる。

 

 敵に他国を巻き込むつもりがないとしたら、なにかが起こるのは、帰路。──つまりは国境を越え、アセルス国内に入ってからだ。

 

「……てことは、危ないのはここから先か」

 

 カトラスはのんびりと言った。顎に手をあて、にやにやと笑う。

 

「そうだな」

 

 ボリスもうなずいた。──()()()が起こるとすれば、キトリーの勢力圏を出て王都へ戻るまでの、七日間。

 

 

 

 


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