(はてさて)
己れが人当たりの悪いこわもてであると、ボリスは充分に承知していた。うっかり考えを見せてしまわぬよう、せいぜい顔をしかめてみる。
ボリスが一人店を離れたすきに、あるじは捕らわれた。目的があるじなら、ただちに連れ去ってしまえばよい。なのに彼らはわざわざこの場にとどまっている。──これはもう、ボリスが戻るのを待っていたとしか思えない。
「……きさまら、なにが目的だ」
柳眉をひそめ、小暗い紫の瞳がじろりと周囲をめぐる。中通りをはさんだ向かいの路地から五人。建物の陰からも、四、五人。ボリスのあとからくるのも合わせれば、二十人に一人か二人、欠ける程度か。いずれも薄汚い、いかにも街の掃きだめといった連中だ。
おおかた、ぬかるみにはまっていた馬車も、彼らの仲間だろう。わざわざそんな舞台をしつらえ、ここまでの人数を集めたのだ。あるじとボリス、そろって生け捕りにするつもりと見た。
「目的かい?」
白いうなじに向けて短剣を差しつける男が、へらへらと笑う。汚らしい長い金髪を、馬の尾のように後ろでくくった若造だ。
「あんたらを捕まえたら、
あるじは斜め後ろをねめつけた。「……誰から?」
「そりゃ、あのラムジィ旦那からに決まってら」
と、若造は顎をしゃくる。見れば、押し出しのいい中年の男が手下を従え、泥水をびしゃびしゃ跳ね上げて通りを渡ってくるところだった。──あれが「ラムジィ旦那」か。
「よお、あんた……すっげえ
若造の下卑た目つきに、薄気味の悪い光が混じる。言葉通りに舌なめずりする彼の息が、あるじの首筋へかかりそうになった。
「こらあっ、ビリー! 離れろ!」
若造は一気に興ざめた顔になった。「旦那ぁ」
「馬鹿! おまえなんかが触れていいおかたじゃないぞ!」
「ちぇ、いいじゃねえか。減るもんじゃなし」
「いいや、減る、減っちまう! エディット姫のお美しさが、すり減っちまうよ!」
小蝿でも追い払うように両手を振り回し、ラムジィ旦那は断言した。ほほう、と、再びボリスは感心する。となれば、彼はあるじが誰でなにものか、
「申し訳ございませんねえ、エディット姫」
ラムジィはもみ手でもしかねない満面の笑みだ。目と目のあいだが離れた
「あたしといっしょに、ご足労ねがえますかね?」
「どこへ」
ぴしゃりと厳しいあるじの声音に、ラムジィは感極まったように身を震わせた。
「きていただければ、おわかりになりますよ。さ、さ」
みっしりと毛の生えたごつい手が、本の包みを抱えた細い手首へ伸びてゆく。──が、紫の瞳にすさまじい殺気が込められているのを感じ取ったか。ラムジィはそそくさと手を引き、打たれたように甲をさする。
そこへ、向こうの角から箱型の乗り合い馬車が曲がってきた。ラムジィは馬鹿ていねいなお辞儀をした。
「さ、どうぞ、エディット姫。お宅さまのお乗りものに比べれば、すこおしばかり、座り心地が悪いかもしれませんがね」
「──おい、おっさん」
大柄な若いのが、ボリスの背を剣先でこづく。「あんたもだ。乗りな」
この場から、離れようというらしい。
ボリスの腰の長剣も取り上げられた。後ろ手に、やけにぎゅうぎゅう縛られる。ラムジィ、あるじ、ビリーに続き、馬車のステップへ足をかける。横長の座席には、すでに一味の腕自慢らしいのが二人、わがもの顔でふんぞり返っていた。手にはぎらりと光る大刀だ。ご念の
「待った待った!」
馬車の扉が閉められるまぎわ、もう一人、貧相な中年男が息せき切って駆けつけてきた。
「ひどいじゃないか、ラムジィさん。あたしを置いていきなさるおつもりかえ」
「おお、これはお客人」
あるじの隣へ陣取ったラムジィは、彼女の肩へ腕を回そうとしたり、引っ込めたりと落ちつかない。この思いきりの悪さでは決して大物にはなれまいが、手刀を食らって不格好な鼻がさらに曲がってしまわずにすむので、賢明ともいえる。
「うちで待っていてくだされば、じきに吉報をお届けできるものを」
「そうは参りませんよ」
「お客人」は、空いた座席にどさりと座り込んだ。薄い眉を寄せて、ぷりぷりと怒っている。
「王都の親分から、『サンドロ、おまえ自身の目ン玉できっちり見届けるまでは、帰ってきたら承知しないよ』と、きついお達しなんでね」
(おやおや)
こちらの御仁が依頼ぬしか。なるほど身に着けた
「……どこへ行く」
馬車が走り出すと、あるじが冷たい声で問うた。ラムジィ旦那は「お客人」が嫌な顔をしているのもかまわず、うっとりと上機嫌だ。
「美しい女騎士とは聞いていたけれど、まさかここまでとはね!──サンドロさん、本当にやらなくっちゃだめなのかい?」
「だめだよ、ラムジィさん。うちの親分がどれほどおっかないか、あんたもわかっていなさるだろう」
「ラムジィさん!」
「うるさいな。──ねえ、エディット姫。あたしゃ、あんたにひとつ、提案したいことがあるんだよ」
平然と見返すあるじに、ラムジィは分厚い唇の両はしを持ち上げた。
「王后陛下のお供なんかやめちまって、このままあたしのところへこないかい?」
あるじは、二、三度瞬きした。
「この馬車は、あなたの住まいに向かっているのか」
「いいや、残念ながら違う。あんたがたをノエルで一番の名所へお連れしようと思ってね」
車窓からの風景は街中を抜け、次第に家並みがまばらになる。向かう先は、郊外なのだ。ラムジィは、にんまりと笑った。
「……これから行くのは、マイリンゲンの
(なるほど)
これで彼らがボリスを待っていた理由がわかった。あるじとボリス、主従ともども殺してしまおうという腹だ。事故にでも見せかけたいのか。あるじ一人をさらっただけでは、ボリスに騒がれてしまう。
「あんたがあたしの言いなりになるんなら、従者の命は助けてやってもいいんだよ」
ラムジィが目くばせし、ボリスは隣のやくざものから剣で脇腹をつつかれた。──おお、ここはひと声発しなければ。
「ひっ……姫さまっ……」
われながら無念そうな声が出た。ボリスの小芝居になにを思ったか、あるじの瞳が丸くなった。さらにその様子をどう解釈したのか、ラムジィはニタニタとうれしそうだ。
あるじはいかにも
「旦那はずりぃよぉ。結局てめえのもんにするのかよぉ」
あるじに短剣を突きつけるビリーが、ずいぶんなふくれっつらになっている。
「うるさい。飽きたらおまえにも貸してやる」
「けちだなあ。飽きたんなら、俺に
「ああ、やるやる。いくらでもくれてやる。飽きたらな」
「
「お客人」ことサンドロは、苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。
──馬車がガタガタと音を立てて揺れ始める。いつのまにか、葉の落ちた木々にかこまれた、ひとけのない山道だ。
「……金なら出すぞ」
冬枯れた外の景色をながめていたあるじがつぶやいた。すかさずラムジィが目をむいたので、サンドロが飛び上がった。
「ラムジィさん! あんた、約束を
あるじはビリーの短剣をけだるげに払いのけ、
「わたしは裕福だぞ。その男が支払う三倍の金を出そう」
「さ、三倍!」
ぽかんと口を開けたラムジィは、目の前の美女が
「ラムジィさん! 欲をかくのもいいかげんにおしよ!」
「しかしなあ、こちらの女騎士さまは、三倍とおっしゃるんだぜ?」
「な、なら、あたしが親分に掛け合ってやる! 四倍だ!」
「わたしは五倍でもかまわないが」
「いいねえ。夢のようだ」
ラムジィは恍惚と笑みを浮かべた。流れる黒髪、長いまつ毛がふちどる涼しげな目元。清らかで、それでいて誘うような赤い唇──あるじの顔から肢体へ、さらにはつま先までを、じっとりとなめるようにながめていく。
「……ただねえ、エディット姫。あんたにはもう、あたしに支払う金なんざ、銅貨一枚だって残っちゃいないからねえ」
「なに?」
あるじが眉をひそめる。──鞭を打つ音と、二頭の馬のいななきが響いた。馬車は大きく揺れて、停止した。
「ラムジィさん! そら、着いたよ!」
「うるせえなあ。──おい、みんな降りろ。どっちにしたって従者のほうは片付けるんだ」
──そこは山あいの、ぽっかりと開けた土地だった。砂利の上にはところどころ雪が残り、木立の向こうから、ごうごうと激しい滝の音がする。
「どういう意味だ」
あるじはラムジィに詰め寄った。彼女の唇が震えているのは、寒さのせいばかりではあるまい。ラムジィは口笛でも吹きそうに、すっとぼけた顔をした。
「なんのお話ですかい?」
次の馬車が山道をガラゴロやってくる。
「どういう意味だと
「そうとも、エディット姫!」
彼らのほかには人っ子一人おらず、泣いてもわめいても助けはこないのだ。やにさがったラムジィは、勝ち誇ったように言い放った。
「あんたのお屋敷は、今ごろなにもかも灰になっちまってるのさ!」
「なんだと?!」
あるじの顔が蒼白になった。
ボリスは彼女が、胸にしっかりと抱えていた包みを、
だが、そうではなかった。震える彼女の白い手は、油紙にくるんで十字にひもをかけた三冊の本を強くつかみ、決して離そうとしない。
「なにをした! いつだ!」
「
ラムジィがサンドロのほうを振り返る。王都からきた貧相な中年男は、しかたがなさそうにため息をつき、肩をすくめた。
「ああ、そのはずだよ」
「あんたが『手紙』を隠したまんま、いつまでたっても出さないからさ。──親分はたいそう怒っていなさる。なら
ラムジィはわざとらしく口をすぼめ、己れの二の腕をさすってみせた。
「怖い怖い。ダーヴィド親分を怒らせるのはよしたほうがいい。命あっての
「おお、ラムジィさん!」
「さっき四倍とお言いだったのを、忘れるんじゃないよ」
ラムジィは抜け目なくつけ加えた。
「さ、おしゃべりはおしまいだ。二人とも、滝つぼめがけて飛んでもらおうか。なんなら手伝ってやってもいいんだよ」
ボリスは叫んだ。声を限りにふりしぼった。「──
びゅう、と、一陣の風が吹いた。
見えないなにかがボリスの背後を矢のように駆け抜ける。ぶつり──手首を縛った縄が切れた。
──瞬間、ボリスは身を沈めた。からんだ縄をほどきざま、正面から振りかぶってきた男に当て身を食らわせる。即座に大刀を奪い取ると、もう一人のみぞおちに、
あるじがラムジィを蹴り倒していた。情けなくひっくり返った彼の小剣を抜き放つ。ビリーの短剣を跳ね上げ、包みを持った左手でサンドロへ肘打ちをくれる。つかみかかってきた巨漢に足をかけて転ばせる。身をひねり、向かってくる男たちをかわしつつ、切り飛ばしていく。
「うわあっ!」
突如、四方八方につむじ風が巻き起こった。荒くれものたちへ次々とかまいたちが放たれる。やくざどもは叫び声をあげ、その場に倒れ伏した。
「エディットさま!」
風を収め、長剣を手に走り寄ってきたのは、くすんだ金髪に背の高い壮年の男──カトラス・エストック=レーヴァテイン。魔法剣士のグレイの父親だ。
「お怪我はございませんか!」
「カトラス!」
あるじは剣を投げ捨て、カトラスの外套にしがみついた。
「大変だ。ダーヴィドが、本邸に火を放った」
「なんですって?!」
「──隊長ぉ!」
何頭もの馬が疾駆する
「やあ、ご無事でしたね! こっちもうまくいきました!」
馬上のハーラーは快活に白い歯を見せる。
「ついに捕まえましたよ!
近衛隊のあとから、
「どうかしましたか?」
ハーラーが馬を降り、けげんな顔でこちらへ近づいてきた。
なにかが起こるなら、このノエル市だ。ボリスもあるじもそう考えていた。遠征隊の隊長を務める彼女から警護の騎士が離れるなど、まずないと言ってよい。私的な買いものに出かける今日は、数少ない貴重な機会だ。それを知る誰かが行動に出た結果が、
敵はなにをどうするつもりか。知りたければ、向こうの手に乗ってやるのが一番である。このような事態にそなえ、キトリーからカトラスが姿を隠して同行していた。待ち伏せがあるなら誰かが外へ
あるじの手の一方は本の包みを、もう一方はカトラスの外套のはしを離さずにいる。
「……隊長、どうしたんです?」
ボリスとカトラス、二人の深刻な面持ちを確かめてから、忠実な副官はもう一度問うた。あるじは決然と顔を上げた。
「ハーラー、王都のわたしの屋敷が、昨夜襲撃を受けたらしい」
「ええっ?!」
あるじは唇をかみしめる。しぼり出した声はかすれ、瞳がうるみを帯びていた。「わたしはまだ、帰るわけにはいかない……」
そのときカトラスが、一片の雲もない澄みきった空に向けて、手を伸べた。
「エディットさま、あれを」
日は西へかたむきつつある。あるじは天を振り仰いだ。その視線の先を、ボリスも見た。ハーラーは大きく口を開けた。
天空に高く円を描いて飛ぶのは、鳥だった。──ただの鳥ではない。虹色の光を放ち、輝く翼を大きく広げた、尾の長い鳥。
「……弱ったなあ。名前がわからない」
カトラスは、まぶしげに瞳を細めてつぶやいた。
「さあ、おいで」
青みがかった石ころが、まるで餌であるかのようだった。鳥は彼の姿を認めた。用心深く、何度も何度も旋回をくり返す。少しずつ、ゆっくりとこちらへ降りてくる。
カトラスの腕にようやく翼をたたんだとき、ボリスは気がついた。──羽音がまったくしなかった。魔法剣士が手にした小石と同じ色合いの、薄青く丸い瞳。
「よしよし、おまえは
カトラスは虹色の鳥に碧玉をひとつぶ与え、優しく言葉をかけた。かたわらで
「大丈夫ですよ、エディットさま。──あなたが大切に思う人は、みんな無事だそうですから」