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俺の従者は、きりきりと引き締まった顔で言う。
「いいですか、旦那さま。戦いも、最後は気力です」
「はあ」
と、俺はとりあえず相づちを打った。いかに気合いを込めた
くすんだ金髪のてっぺんには寝ぐせがあっちを向いている。それなりに整った顔立ちなのに、二枚目に見えないのはなぜだろう。陽だまりに寝そべった猫みたいな、
それでも彼は、腕っこきの魔法士だ。
「『
「でも、『
従者は二メートルの高みから俺を見下ろして、青灰色の瞳をなごませた。
「いつも前衛が守ってくれるとは限りませんからね。どれだけ短い時間で自分の魔力を引き出せるか、これが攻防の鍵になります」
グレイは右腕を、水平の高さまで持ち上げる。──彼の人差し指は廊下の突き当たり、小さな木箱の側面に、ぐるっと描いた黒丸へ狙いを定めた。木箱を載せた猫足の飾り台は、図書室の扉の脇で骨董品らしき壺が鎮座していたのを、二人で運んできたものだ。
「『
赤みを帯びた小さな光の
パアン!
予想よりもずっと大きな音がして、俺は思わず首をすくめた。五メートル以上離れているのに、
「わあー……」
「いかがです? このくらい短い呪文なら、白兵戦でも充分役に立つでしょう?」
「そうですね」
「練習次第では、詠わなくても思い通りに魔力をあやつれるようになりますよ」
「──いったいなにをやっているのよ!」
侍女のバルバラが、血相を変えて一階から飛んできた。
「ひどい! さっき掃除したばかりなのに!」
惨状を目にし、バルバラは悲痛な叫びをあげた。木箱を載せていた飾り台は、茶色い雪が降ったみたいに木くずまみれだ。付近の絨毯はもちろん、脇にのけてあった壺もである。当然だ。木箱はもはや焚きつけにすらならないくらい、
グレイがへどもどしながら、こちらを見る。「やあ、こ、これはですね」
すがるような視線で助けを求められ、俺はあわてて口を出した。
「バルバラさん、あの、僕がグレイさんにお願いしたんです。ね、グレイさん、そうですよね?」
「ええ、その、旦那さまに、手本をお見せしようかな、と思いまして」
「……外でやればいいでしょう」
バルバラの両のこぶしがぷるぷる震えている。ただでさえつり上がった瞳も、さらにとんがっている。グレイは、ごくんと唾を飲み込んだ。もちろん、俺もである。
「ぼ、僕は寒いのが苦手なので……」
「私も苦手なので……」
「じゃあ、今すぐ片付けなさい! 今すぐ!」
「「はっ、はいっ!」」
俺たちは、そろって廊下を駆け出した。
──窓の外では、雲をちぎって振りまいたような大つぶの雪が、しんしんと降り続く。美しく雪化粧をほどこした王都で、俺は新たな年の始まりを迎えた。
フィリップ=レールケ伯爵は、本当に仮面の男なのか。エレメントルート家の家士たちが、交代で監視を続けている。けれど、まるで俺たちの思惑を見透かすように、彼がダーヴィドと接触する気配はない。新年にも国許へは帰らず、王弟シベリウスの側近として、私邸と王宮を行き来するだけの日々らしい。
レールケ伯爵とは対照的に、ダーヴィド一家はあわただしい動きを見せている。彼らが思いきった行動に出る可能性がある、と、秘書のオーリーンがみんなに告げた。それで俺も、魔法を武器に戦う稽古を続けている。
アントニエッタ王后のお供で隣国ハティアへ出かけたエディットは、あと七日足らずで帰ってくる。そろそろ彼女の故郷へ立ち寄っているころだ。それとも、もう出発したかもしれない。──キトリーは南の
もうじき春がきて、俺は十六歳になる。
◆◇◆
夢を見た。
とても静かで、闇に包まれた精霊の森。
大きく枝葉を広げた太い杉の根元。ごつごつした
そうだ。思い出した。──お母さんは、村一番の裁縫上手。姉妹にお父さんはいないけど、おじいさんとおばあさんといっしょに、森のはずれの小さな家で暮らしてる。王さまに頼まれて、何日も寝ずに縫ったお姫さまのドレス。ようやく仕上がり、お城へ届けた帰り道。
急がなきゃ。おじいさんとおばあさんが待っている。近道をしようと、三人の親子は暗い森の
──どうしたんだろう。
なぜだか妙にもどかしい気持ちがこみ上げてくる。どうして女の子たちは…………ないんだろう。
『ティ、覚えてるか? つらくなったら口笛を吹け!』
『違うぞ、レオン! さびしくなったら歌を歌え、だ!』
兄さまたちは、どうして俺にあんなことを言ったのかな。アルノーを離れて王都に住むことになった俺が、つらそうに見えたから?
『さびしくなったりつらくなったら、歌でも口笛でもいい、俺たちを呼べ!』
レオン兄さま、違うよ。これはそんなお話じゃない。女の子たちがさびしくなってお母さんを呼ぶお話じゃないもの。
──突然、二人の女の子がこちらを向いた。
彼女たちの小さな肩にかかる茶色の三つ編みが、奇妙に思えるほどゆっくりと揺れた。俺は、青みがかった四つの瞳に見つめられる。
姉妹の唇が、同時に動いた。
……カイル。
えっ?
『カイル』
『ねえ、カイル』
二人とも、俺の名前、知ってるの?
『寝ていちゃだめよ』
『そうよ、早く起きて』
可愛らしい声が口々に言う。きみたちは俺なんか気にしている場合じゃないでしょう。早くお母さんに聞こえるように──
『カイル!』
──目が覚めた。
分厚い夜具を押しのけて体を起こす。辺りは暗く、夜明けはまだ先のようだ。次第に闇に目が慣れて、火を落とした暖炉、チェストや椅子などの家具の輪郭が見えてきた。俺は大きなベッドに、一人きり。
「カローロ……?」
俺は、俺の
返事はない。
ナイトテーブルの上の燭台に、火を
なんの物音もしない。屋敷中が寝静まっている。
「………………」
俺は明かりを手に寝室を出た。続き部屋になった居室もベッドに入る前のまま、読み差しの本の置き場所も変わっていない。
カローロにはどんな力があるか、少しずつだが俺にも理解できるようになっていた。問うても彼は教えてくれない。それは精霊と親しくなるうちにわかる、と、オドネルも言っていた。
居室の壁にならぶ高い書架。亡くなったセドリック=エレメントルート卿が集めた、たくさんの本。
俺は胸ポケットから幸運の
書きもの机に燭台を置き、窓に近い書架の前へ立った。中段から数冊の本を抜く。──奥まで手を入れると、冷たい金属の扉に指先が触れた。探り当てた鍵穴へ、小さな
──カチ。
錠の回る音が、やけに大きく響いたように感じた。
手探りで、一通の封書を取り出す。表書きを見れば、宛名はもっともらしくセドリック卿の名前になっている。裏に差出人の署名はない。はがれた封蝋には紋章も入っていない。本当に十年以上経ったように古びて、いかにも謎めいた秘密の手紙だ。だが、これは偽物である。事件の当夜、実際にセドリック卿を呼び出した手紙があったとしても、現物は残っていない。
だから、中身を見たって意味はない。俺は封書を半分に折りたたみ、上着のポケットに押し込んだ。
本を元に戻して廊下へ出る。迷いはしたが、扉の鍵はかけなかった。
「ややや、旦那さま!」
いきなり後ろから声をかけられて、驚きのあまり息が止まるところだった。向こうも同じように驚いたらしい。俺が明かりを向けると、背高従者がたれ目をしばしばさせていた。
「ああ、びっくりした」
グレイは俺に、おおどかな笑みを見せる。
「旦那さま、こんな夜更けに、どうなさったんです?」
「グレイさんこそ」
彼が休むのは、すぐそこの
「どうも様子がおかしいんですよ。外の気配が、ほとんど感じられません」
「外の?」
「はい」
俺たちは壁を背にし、ならんで廊下へしゃがみ込んだ。
「エディットさまがお出かけになってから、敷地に入るものがいればわかるように、結界を張っているんです。そいつがどうも……」
「破られたんですか?」
「いえ、どちらかというと」
難しい顔になる。「ぐちゃぐちゃにかき回されているような気がしまして」
「侵入者がいるってことでしょうか」
「ありえますね。旦那さまは、どうして?」
「僕は、起こされたんです」
「
俺はうなずいた。「はい」
「へえ……」
グレイの瞳が、少しだけ細くなった。
やはりなにかある。いや、これから
カローロは、俺の身に危険がせまると──より正確にいえば、
「グレイさん、みんなを起こしに行きましょう」
グレイはうなずいた。
「そうですね。──ああ、大丈夫。もうバルバラが、マイルズさんを起こしています」
二階にいながらにして、三階の使用人部屋の様子がわかるのか。彼になにができても今さら不思議はないのだが、さすがにぎょっとしてしまう。しかし、俺の従者は普段と変わらず、みみずくみたいにとぼけた顔のままである。
俺は今までグレイを恐れていた。彼が魔法使いだと知ってから、それも、非常に力のある魔法使いだと知ってから、彼をずっと
それどころか、俺はグレイに二度も救われた。──一度目は、この屋敷に盗賊が押し入ったとき。二度目は、俺がダーヴィドの館に捕らわれたとき。
俺たちは彼の魔法に守られている。彼はみんなを守るためにここにいる。俺はもう、彼を怖いと思わない。
「旦那さま、
グレイは立ち上がり、使用人用の裏階段へ向かおうとする。俺は首を振った。
「いいえ、集まるのは
「え?」
俺も立ち上がり、エディットの──彼女が戻るまでは、俺の部屋の扉を指し示す。
この部屋こそ、俺たちが守るべき本丸だ。
「グレイさん、こちらへくるよう、みんなに伝えてください」
「………………」
しばしのあいだ、魔法剣士はたれ目をぱちくりさせていた。──やがて、大きな笑みでうなずく。
「かしこまりました、旦那さま」
そのとき──
カシャーン……
どこかで、ガラスの割れる音が響いた。