かつて、魔法使いは『兵器』だった時代があった。
魔法使いは言葉をあやつる。魔法使いは言葉に力を与える。『呪文』という彼らの言葉はその手に宿り、指先へ、そして『魔法』となって現れる──
ガラスが割れた音は、一階の奥のほうからだ。グレイは顔を振り向けた。
「──『ヴィルヘルミナ』」
呼びかけに
『お呼びでしょうか』
「行けるか?」
『ええ、どうにか』
明らかに人ではないのに、女の声だと俺にもわかる。──ふっと、グレイの足元の
俺は唾をのんだ。さっきグレイは、「結界をぐちゃぐちゃにかき回されている気がする」と言った。おそらく屋敷の近くに魔法使いがいて、彼の魔法を
「グレイ!」
暗い廊下の向こうから、侍女のバルバラが走ってきた。今夜の夜番を務める彼女は、メイド服でも寝間着姿でもない。黒装束の両腕に手甲をはめた完全武装だ。息を切らし、いつもはさらりと整った金茶の髪が少々乱れている。
「旦那さまも、起きていらしたんですね。──グレイ、思ったよりも大勢きたみたいよ。今の音は?」
「食堂からだと思います。今、様子を見に行かせました。皆さんは?」
「マイルズが起こしてまわってるわ」
「なら大丈夫ですね」
グレイが笑みを見せた。彼を見上げるバルバラが、ほっと肩の力を抜いた。──そのとき、再びガラスの割れる激しい音が響き渡った。今度は食堂とは反対側、一階の居間のほうからだ。
「!」
バルバラの顔色が変わった。グレイも眉をひそめた。俺にもわかった。きなくさい──
「バルバラ、旦那さまをお願いします」
「わかった!」
グレイが長い脚で二段飛ばしに階段を駆け降りる。玄関ホールに降り立つ寸前、
ガツン! バキン!!
外から誰かが玄関を破ろうとしている。大扉のベルが今さらのように、けたたましく敵襲を告げた。メキ、メキ、メキ、──分厚いオーク材の扉に、ひびが入ってゆく。
グレイが足を止めたのは一瞬だった。
「『
ギシッ──扉に彫り込まれた
それを見届け、グレイは居間へ向かって走り出す。
ガシャーン!!
背後で大きな音がして、俺は振り返った。俺の──エディットの部屋からだ。
急いでノブをつかんだ。「旦那さま!」とバルバラが叫んだが、かまわなかった。扉を開けた瞬間、風になびいて波打つカーテンの
バルコニーに人影が見えた。
「いたぞ!」
男のわめく声。彼らが狙っているのは、俺だ。それと──
この部屋に隠されている、
「旦那さま! 下がって!」
窓は乱暴に蹴り開けられた。侵入してきた黒ずくめの男たちの前へ、バルバラが飛び出した。襲ってくる鉄槌をかいくぐって回り込むと、大男の膝の裏に蹴りを入れる。
一人目が大きくよろめいた。すぐさま身を沈めたバルバラは、二人目のナイフをかわして顎へ一撃を見舞う。──最後の一人が松明をかざす。書棚に火をつけようとしている。
だめだ!
「『
言葉は想像を
どおん、と、地響きがした。バルバラが食らわせた痛打に、大男が大の字にひっくり返ったのだ。小柄な侍女はすばやく鉄槌を奪い取り、振りかぶった。
「うおっ」
ナイフの男が飛びのいて避ける。松明の男も押されて後ずさった。風に
思い出せ、水の
「『
早く、少しでも早く。頭の中に、大量の水を思い浮かべるんだ。
「うわあああ!!」
男の服に火が移った。炎を払おうとしてか、松明を床へ落としてしまう。俺は右手で男を指した。
「『天よりくだる大いなる水よ 地に
ジューッ……
男の全身から真っ白な水蒸気が立ちのぼる。だが、まだ足りない。バルバラが、絨毯をはってせまりくる炎をものともせずに、松明を拾い上げた。
「このアマ!」
バルコニーの向こうまで松明を放り投げた侍女の背に、ナイフの男が飛びかかった。
「旦那さま! バルバラさん!」
ドスンドスンドスンドスン──大男が倒れたときより何倍も重い地響きが、異様な速さで俺のそばを駆け抜けた。
「──なっ?!」
突如現れた巨大な影は、ぎょっと立ちすくむナイフの男めがけて突進した。トロルにも負けない巨漢の体当たりをまともに食らい、男はあっけなく昏倒した。
「旦那さまっ!」
料理長のネロが、白煙に咳き込みながら、悲痛な顔つきで俺を振り返った。
「もうだめだ! 早く逃げて!」
「ネロ! みんなは?!」
バルバラはまだあきらめていない。焦げた男のほうもぶん殴って気絶させると、しゃにむにカーテンを引きちぎろうとしている。
「食堂の火が消せないんです! じきにこっちまで煙がきちまう!」
「ええっ?! グレイはなにをしてるのよ!」
「そ、それが……」
ネロの丸顔は
やっぱりそうか。──胸の鼓動が速くなる。俺は一人だけ知っている。
でも今は、それどころじゃない。
このまま逃げちゃいけないんだ。ここは、この部屋は、たくさんの書棚とたくさんの本は、セドリック卿がエディットに遺した形見だ。全部燃やしてしまうなんて、絶対にさせてたまるか。
けれど、俺の霧雨みたいな水の魔法では、カーテンと絨毯を燃やす炎を広げないようにするので精いっぱいだ。
「ネロ! いいから手伝って!」
バルバラにもわかっている。寝室から毛布を持ち出して絨毯にかぶせ、なんとかもみ消そうとする。ネロも大あわてで加わった。
白煙が瞬く間に部屋中に立ちこめる。息が苦しい。それでもネロの巨体が踏みしだくと、絨毯の炎はたちどころに消えた。肉や魚を巧みにさばく大きな手がカーテンを引きちぎり、これも踏み消してしまう。
「早く! まだみんなが
言いながら、ネロは三人の侵入者をひとまとめに廊下へ引きずり出し、俺が扉に鍵をかけた。せめて、これ以上エディットの部屋を荒らされたくない。
まだ魔力は残っている。俺には最高の教師が二人もついているのだ。魔法の明かりで廊下を照らす。──行く手にはネロが打ち倒した賊が何人も、うめき声をあげて転がっている。
吹き抜けから玄関ホールを見下ろす。大扉はグレイの魔法のおかげで破られていない。しかし二階の廊下の先は、煙が満ちてなにも見えない。厨房へ通じる裏階段を使うのは無理だ。
「……図書室はどうなっているかしら」
焼け焦げだらけになった服の袖で口元を覆って、バルバラがつぶやいた。俺はかぶりを振った。
「先にみんなの無事を確かめましょう」
ネロの先導で、俺たちは正面階段を降りてゆく。一段ごとに煙が濃くなり、玄関ホールへ降り立ったところでネロが振り返った。
「旦那さま、こいつは一度──」
「ネロ、危ない!」
バルバラが叫んだ。俺はとっさに指を向けた。「『
振り下ろされるやいばに、カチン! と、豆つぶほどの光弾が跳ね返った。グレイのお手本に比べれば極小といってよい大きさと威力だが、ほんの少し、切っ先がそれた。
ネロにはそれで充分だった。丸太のような
「旦那さま、一度外へ出ましょう。これじゃあ、食堂まで行くのは無茶だ」
「でも」
「オーリーンさまは引きどきをわかっています。裏口から退避しているはずよ」
バルバラも言う。グレイはともかく、秘書のオーリーン、執事のワトキンス、下男のマイルズと、別邸から泊まり込みにきている四人のゆくえがわからない。けれど、煙が晴れる気配は一向になく、
一階の居間も窓が破られ、すでに踏み荒らされた跡があった。俺たちは炎を避けてテラスへ転がり出た。暗い空に、もうもうと白い煙が立ちのぼる。
「そんな!」
泣き出しそうなネロの声に顔を上げる。見れば、厨房と周辺の部屋の窓から、真っ赤な炎が噴き出している。
「あああ、俺の城が……」
ネロが手にした
「──グレイ!!」
バルバラが口に両手をあてて叫んだ。彼女の視線を追って、俺も空を見上げる。
西にかたむいた月。夜空に瞬く星々とほのかな雪明かり。窓から壁をなめるようにのぼる炎で、わずかに見える。屋根の上に、誰かがいる。
──まさか。
背の高い従者が手にした長剣に、光がきらりと反射した。向かい合うのは黒くて長い衣の人影だ。もしかしてあれは、ローブじゃないのか。グレイが相対しているのは、魔法使いだ。
「見て!」
バルバラが指さす先の上空で、白銀に輝く大狼が牙をむく。正面には黄金のたてがみをなびかせた巨大な獅子。あの獅子は、グレイの精霊だ。
ガアアーッ!!──獅子が、大気を震わすような咆哮をあげた。
「なにやってるのよ、このダメ魔法使い! 早くしなさいってば!」
バルバラが地団駄を踏み、獅子の雄叫びに負けない大声で怒鳴りつけた。「このままじゃ、お屋敷が全部燃えちゃうじゃないの!」
屋根の上のグレイは大きく体をのけぞらせた。彼のことだ。「ややや、そいつは一大事」とでも言ったに違いない。
長剣を天に向けて掲げた。なにかを叫ぶ声。──刹那、空には闇を切り裂くひとすじの稲妻が
獅子が
「旦那さま!」
バルバラに腕を取られた。そのバルバラごと、俺の体は浮き上がった。ネロに抱えられるようにしてテラスを降りる。俺たちは前庭の真ん中にある大樹の下まで運ばれた。
グレイの底知れぬ魔力を感じる。すさまじいまでの風雨が、容赦なく俺たちを襲う。木の幹とネロの巨体に押しつぶされそうに
──滝そのものの勢いの、横殴りの雨だ。割れた窓からどんどん邸内へ流れ込む。
「やった!」
バルバラが歓声をあげ、ネロは「俺の、俺の
稲妻が幾筋も輝き、雷鳴がくり返し轟いた。木陰にいようと俺たちはとっくにずぶ濡れだ。
長い黒衣の人影はもんどりうって倒れ、屋根から転がり落ちた。いっぺん二階のバルコニーに引っかかり、くるりと一回転して雪の積もった植え込みへ──
「ネロさん、放して!」
「旦那さま?!」
「お願いです、早く!」
ドサッ、と、落ちた音がする。俺はネロの腹の肉を押し上げて、急いで駆け出した。風はいくらか弱まったが、前が見えないほどの雨だ。ぐしゃぐしゃになった雪に足を取られる。泳ぐようにして、植え込みに倒れた人影まで、やっとたどり着く。
雨と寒さのせいばかりではなく、俺の両手は震えてしまう。びしょぬれになったローブの体を引き起こした。フードをめくる。
「うう……」
しわがれた声にどきりとする。けれど、男の髪は白くなかった。俺は呪文をつぶやき明かりを
よかった。俺は大きく息を吐き出した。──この魔法使いは、ダーヴィドの館で俺を助けてくれたデメトリオじゃない。