伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 いっさいの音もなく── 

 

 低く垂れ込めていた雲が、静かに引いてゆく。

 

 紺青(こんじょう)の天にはいつしか星々のきらめきが戻り、小舟のような月が浮かんでいた。

 

 澄み渡った外気に、ぶるり、と体が震えた。猛烈な風雨にさらされて全身はずぶ濡れだ。髪が額に張りつく。俺と同じように濡れねずみのネロとバルバラも、身を震わせる。

 

「みんなは」

 

 侍女のバルバラがどうにか口を開いた。そばかすの散った頬は、寒さに青ざめていた。

 

「裏口へ行きましょう」

 

 と、俺は言った。屋根の上に、グレイの姿は見えなくなっている。

 

 ──深夜、邸内を見回っていたバルバラは、敷地内でこそこそ動くあやしい影を、屋根裏の物見窓から目撃した。三階の使用人部屋で休む下男のマイルズを起こし、二階へ降りて俺たちと会った。

 

 巨漢の料理長ネロは、マイルズの声に飛び起きたという。裏階段から一階まで駆け降りると、厨房はすでに煙に満ちていた。人影の残滓(ざんし)が暗がりに集まってできたようなグレイの精霊が、裏口を守ろうと立ちはだかった。だが、扉の脇の小窓から差したまばゆい白光に焼かれて、かき消えてしまったそうだ。

 

 侵入者は、裏口を破ってなだれ込んできた。一階のそこかしこで窓が割られ、松明を投げ込まれる。全員で応戦したが、そのあいだに食堂の火は消し止められないほど大きくなっていた。

 

 ネロは俺を外へ逃がすよう、秘書のオーリーンに命じられて二階までやってきたのだ。

 

 ──俺たちが庭へ回ってみると、もはや攻防の大勢は決していた。

 

 グレイが降らせた激しい雷雨は、炎が燃え広がるのを食い止めただけではなく、敵がたの戦意を大いに()いだ。しかも、向こうの魔法使いはもういないのである。オーリーンは極めて意気軒昂だ。俺の姿を認めて眉を片方つり上げる。

 

「旦那さま、お怪我はございませんか」

「はい、僕は大丈夫です」

「それはなにより。──いいか! 一人も逃がすな!」

 

 濡れた黒髪をぴったりと後ろへなでつけ、銀縁眼鏡には()()ひとつ入っていない。長剣を片手に、檄を飛ばす。

 

「この野郎! よくもお屋敷を!」

 

 マイルズが、薪を割る斧を振り回して突進した。執事のワトキンスまでが、(いしゆみ)を肩にかついでいる。

 

 ヒュッ──低いうなりとともに、一人の腕にワトキンスの矢が突き立った。彼の強烈な眼光は、狙いを定めるためだったのか。ならずものは、大きく叫んで泥水の中へひっくり返った。

 

 仲間を見捨てて逃げ出そうとする暴漢たちの前に、今度はグレイの獅子が回り込む。太い牙をむき出しにして、()えた。

 

「うわあぁっ!」

「助けてくれえ!!」

 

 さらにネロとバルバラが加わったから、俺たちの勝利は決定的になった。別邸から応援にきている四人の剣士が、腰を抜かした男たちをぶん殴り、手ぎわよく縛り上げてゆく。

 

 ──そこへ、ばちゃり、と、水たまりに足を踏み込む人影があった。

 

「なんだこりゃあ……」

 

 辺りを見回して、呆然とつぶやく男はまだ若い。頼りなげな体を安っぽい外套(マント)に包み、頭には街の若い衆がよくかぶる()()のある帽子、まん丸いふちの眼鏡をかけている。

 

「ジロー!」

 

 新たな来訪者に気づいたバルバラが駆け寄った。ジローと呼ばれた青年は、眼鏡の奥の瞳を見開いた──のだろうが、糸同然に細いまなこは、あまり大きくならなかった。

 

「バルバラさん、こ、こいつはいったい、なにがあったんです?」

 

 いまだ煙の立ちのぼる窓。雨のせいで雪がぐずぐずに溶けた庭。そこかしこでうめき声をあげる泥まみれの()()()たち──彼が驚くのも無理はない。が、俺たちだって驚いた。ジローの外套も帽子も、まったく湿りけすらなく、乾き切っている。

 

「よそじゃ()()()なんかいませんよ。一滴だってね」

 

 と、青年は目をぱちつかせた。「ひどい雷だとは思っていましたが……まさか、お屋敷からだったなんて」

 

「それで、なにかあったの?!」

 

 バルバラが勢い込んで問う。あとから聞いた話だが、ジローはエレメントルート伯爵家のために働いてくれる町衆のまとめ役のような立場なのだそうだ。彼は痩せた(おもて)を引き締めた。

 

「ついにダーヴィドが動いたもんですから、お知らせにきました」

 

 今夜お屋敷を襲うからだったんですね、と、ジローは硬い声音である。

 

「接触したの?! レールケ伯爵と?!」

「本人が、じゃありませんよ。ダーヴィドが片腕を使いに行かせたんです。──あいつは用心深くて、今までお屋敷街へじかに人や手紙をやることなんてなかったんですが、今夜は直接」

「見たのね?!」

「見ましたとも。レールケ伯爵邸の裏門から入っていくのを、はっきりとね」

 

 よおし! と、バルバラは右のこぶしを左の手のひらへ、勢いよく打ちつけた。

 

「しっぽを出すのも時間の問題ね!──ジロー、悪いんだけど、もうひとっ走り頼まれてくれる?」

「かまいません。なんなりと言いつけてください」

 

 若い密偵は力強くうなずいた。

 

 郊外にあるエレメントルート伯爵家の別邸まで、ジローが知らせに行くことになった。ついでに町役人にもひと声かけてくれるそうだ。こいつらの()()()が必要ですからね、と、青年は勇んで走り去った。

 

 俺たちは、破られた裏口から邸内に入った。真っ先に泣き崩れたのはネロである。厨房の窓はことごとく割られ、鍋釜食器のたぐいが散乱していた。木製の調理台や椅子には、大きな焼け焦げがある。そのうえ床一面が水びたしだ。

 

 もっと悲惨なありさまなのが食堂だった。カーテンと絨毯のほとんどが燃えてしまい、まだ煙がいぶっている。オーリーンの眉間のしわは、今までにないほど深くなった。

 

 ともあれ、急いで残り火を消し、乾いたものに着替えなければ、俺たちは凍えてしまう。

 

 廊下に転がるやくざたちは、応援の四人組が手足を縛って外へ放り出した。窓が割られておらず、水の入っていない部屋が俺たちの当座の根城になった。

 

 グレイが魔法で温かい風を送り、髪を乾かしてくれる。空き部屋からマイルズが集めてきた敷布(シーツ)で体を拭いて、バルバラがクローゼットの奥で見つけた無事な衣服に着替えると、ようやく人心地がついた。ワトキンスは、地下からブランデーの瓶を抱えてきた。強い酒で、少しでも温まろうというのだ。

 

「なにか食べなくちゃ。元気が出ません」

 

 次第に夜が明けてくる。ネロは涙をぬぐって立ち上がった。おかげで棚が、ぐらりと揺れた。

 

 かまどもすっかり水をかぶっている。乾かした薪を大鍋に入れて、火を起こす。さらにその上に小鍋をかけ、お湯を沸かした。ネロがありあわせのものでこしらえたスープを飲むと、みんなの顔にも生気が戻ってくる。

 

 さあ、さっさと片付けよう。──朝日が昇ってからのオーリーンの活躍ときたら、鬼気せまるものがあった。

 

 彼は別邸から飛んできた家士たちを総動員し、燃えたり破れたりしたカーテンと絨毯、(すす)まみれの壁紙までを、すべて引きはがしにかかったのだ。

 

「金に糸目はつけるな」

 

 盛大に顔をしかめて、秘書は言い切った。

 

 引っ立てられる賊や、火事の跡をのぞこうと見物人も押し寄せ、門の辺りは結構なにぎわいを見せている。そこへ、左官屋だの建具屋だのガラス屋だのが、王都中から呼び寄せられた。エディットが帰る前に屋敷を()()()()()()()()()()という腹だ。久しぶりに、エレメントルート伯爵家の底知れぬ財力を見せつけられた気分である。

 

 壁や床を乾かすため、魔法で温風を起こせるグレイは引っ張りだこになった。ささやかながら俺も手伝おうとしたのだが、バルバラに捕まって湯殿へ押し込められてしまった。

 

「よーくあったまるまで、出てきちゃいけませんよ。お風邪を召されでもしたら大変です」

 

 ……そんなわけで、昼を過ぎるころ、俺は()()()()になり、テラスの窓もすっかり入れ換えのすんだ居間で、乾いた毛布にくるまれて長椅子に丸くなっていた。

 

「ダーヴィドが、レールケ伯爵に連絡(つなぎ)を取っています」

 

 バルバラが、ジローに知らされた話をみんなへ伝える。「絶対に、ゆうべの襲撃の打ち合わせよ。失敗して、いい気味だわ」

 

 こちらは俺を入れても全部で十一人、敵がたは五十人を超えていたそうだ。バルバラの報告に、オーリーンはうなずいて俺へ向き直った。

 

「首謀格の数名は別邸で預かり、尋問をおこなう手はずをつけてあります」

 

 彼らに襲撃を命じたのはダーヴィドだ。これで確かな証言を得られる──満足げに述べる秘書の顔には、そう書いてある。

 

 ──カイル。

 

 ふいにカローロが俺を呼ぶ。どきりとする。彼から話しかけてくるときには、必ずなにかある。

 

『カイル』

 

 せかすように、強く腕を引かれた。これで終わったと思ってはいけないんじゃないか。俺は顔を上げ、秘書を見た。

 

「僕たちはみんなで追い払いましたけど……あちらは大丈夫でしょうか」

「奥さまが、ですか?」

「ええ」

 

 ここまで人数を()いて、大がかりな襲撃をかけたのだ。ダーヴィドは以前から計画を立てていたに違いない。王后さまの母上の(やまい)を知り、絶好の機会だと思ったはずだ。エディットが親衛隊長になるよう仕向けて、王都の外へ行かせてしまう。本邸の戦力を()ぐだけでなく、彼女から気心の知れた家来たちを引き離す──おそらくは、亡きものにするために。

 

 彼女がいなくなってしまえば、セドリック=エレメントルート卿の(かたき)を探すものはいなくなる。俺が()()なら間違いなく、本邸襲撃と同時にエディットを襲う。

 

「可能な限りの手は打ってあります」

 

 オーリーンは、中指で銀縁眼鏡を押し上げた。「奥さまとの連絡は、密にしておりますので」

 

「近衛騎士の大半は、エディットさまのお味方ですよ」

 

 バルバラも言う。エディットの副官には、すべてを打ち明けてあるそうだ。彼女の周囲は信頼のおけるもので固めてある。けれど、それだけでは部隊の中にいるであろう内通者をあぶり出すことができない。()()()()()すきを見せるよう、ボリスが(はか)らっております、と、オーリーンは至って冷静だ。

 

「旦那さま、キトリーには私の父がいます」

 

 グレイが腰をかがめ、俺の顔をのぞき込んだ。

 

「父は私よりずっと場数を踏んだ、優秀な護衛です。ほかの人にはないしょで、お供をすることになっています」

 

 だからエディットさまは大丈夫ですよ、と青灰色のたれ目が、なおいっそう優しくなった。

 

 ……そうなんだろうか。

 

 きっとみんなの言う通りだろう。こうやって俺がいちいち動揺するから、みんなは俺になにも言えないんだ。落ちついて任せよう。──俺は、不安な気持ちを飲み込んでしまおうとした。

 

 でも。

 

 カイル、早くしろ、と、カローロはあわただしく俺をせきたてる。彼が俺を呼ぶとき、なにかが起こる。俺が()()(いだ)くなにかが。

 

 俺は毛布をのけ、長椅子から立ち上がった。

 

「──旦那さま?」

 

 バルバラのけげんそうな声にはかまわず、居間を出る。大勢の大工や職人たちのあいだをぬって、張り替えられたばかりの絨毯を踏み、玄関ホールへ。そして、ひびをふさいだ大扉を開け放つ。

 

 カランコロン──大きく鳴ったベルは健在だ。青一色に晴れた空へ、俺は左手を伸べた。

 

「カローロ」

 

 俺の守護精霊(ぞるがんど)を呼ぶ。「……行って」

 

 街道のどこかを、王都に向かって進むエディットのもとへ。

 

 カローロは、翼神(つばさのかみ)の眷族。大きな翼で天を駆け、言の葉を(つた)うる神の子孫だ。きっと、誰が行くよりも一番速い。

 

「早く伝えて。僕たちはみんな、無事だって」

 

 ゆうべの本邸襲撃を、彼女はまだ知らないはずだ。だけど、一刻も早く知らせなきゃ、と俺は思う。俺たちは一人だって欠けていない。それを今すぐ知らせなければ、彼女が泣いてしまう。そんな気がした。

 

 ああ、わかった。

 

 俺だけに聞こえるいらえがあった。

 

 全身を、魔法の力が駆けめぐる。まるで俺の指先から()でたように、カローロが天へ羽ばたいた。光のつぶを輝かせ、飛び立っていく。

 

「──やあ、こいつはすごい」

 

 振り返ると、グレイが立っていた。背高従者はまぶしそうに額へ手をかざし、空を見上げる。

 

「旦那さまの守護精霊(ぞるがんど)は、翼神の()()()()なんですね」

「はい、オドネルさんからそう聞きました」

 

 何代目の子孫かまでは、知らないけどね。

 

 俺も南の空を見上げた。もうすぐエディットが帰ってくる。きっと元気に、俺たちの──俺のもとへ、帰ってくる。

 

 

 

 

 


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