そして俺たちには、つかのまの休日が訪れた。
……違った。
俺たちに、ではなかった。俺は毎日が休日も同然の、このうえなくのんきな日々を送っている。正確にいえば、エディットに休日が訪れたのである。
ハティア王国から帰国したエディットは、翌日の午後、王宮へ出仕した。これは休暇を取るためで、遠征の報告の取りまとめや、休暇前の申し送りがあるからだ。それさえすめば自由の身──たとえ数日だとしても──と、彼女は言う。
日が暮れて、エディットはドワーフおじさんをお供に帰宅した。
俺は
「カイル、ただいま」
玄関ホールまで駆けつけた俺を見下ろし、微笑むエディットが美しい。いや、信じがたい美人なのは元からだけど、しばらく会わないあいだに拍車がかかったと思う。
「お、おかえりなさい」
俺は少々たじろいでしまった。彼女はいつもの制服姿だが、夕暮れどきでも輝く美貌は、まさしく「本性を現した」という言いかたが、ぴったりだ。上手の猫は爪を隠す。ひょっとしたら、俺が知る彼女の美しさなんて、ほんの小手先だったのかも。
いやいや──俺は心の中で首を振った。そんなことを考えるのはあと回しにしよう。俺が知りたいのは、今夜の彼女の過ごしかただ。
「あの、夕食はどうするんですか?」
「どうする、とは?」
「もうすませたかと思ったので……」
もちろん俺は、彼女を食事に誘うつもりだった。エディットは二階へ向かう。俺もならんで階段をのぼる。
「わたしなら、これからだが」
やった。
「じゃあ、いっしょにいかがですか?」
「食事をか」
「はい」
自室の扉を開けながら、エディットはちらりと俺をながめた。「……誰と?」
「僕と、です」
「誰が?」
ええーっと……?
「
俺が少々戸惑いを感じつつ答えると、なぜだかエディットは唇をとがらせる。
「……カイル」
「はい」
「
いやに力のこもった声音で名を呼ばれた。見えない圧力に押され、俺は両手の指先を合わせて一歩後ずさった。
「なんでしょうか……」
「カイル、今夜はぜひ、
「はい、ありがとうございます……」
これは、なに……??
誘いを受けてくれたのはいいが、どうにも憤然とした口ぶりなのだ。
「カイル、わたしは先に湯浴みをすませてくる。──バルバラ、したくを頼む」
「かしこまりました、エディットさま」
と、斜め後ろに控えていた侍女がお辞儀をした。エディットは貼りつけたようににこやかな笑みで、俺に向き直った。
「待たせることになってすまないな、カイル」
「い、いいえ、僕はかまいません」
「では、のちほど食堂で会おう、
まるでとどめを刺すように、彼女の笑顔は
二の句の継げない俺を廊下に取り残し、エディットは、さっさと寝室へ行ってしまった。
──しかし、食事の段になると、風向きがさらに変わっていた。
以前の俺たちは、食堂の長テーブルのはし同士、向かい合わせに座っていた。じつに話が遠かったものだが、いつからだろう。俺とエディットが九十度の角度で隣り合わせになれるよう、席が片はしに寄せられている。いっそ小さい食卓を用意してくれたほうが、なにかと手間が
「カイル、今日はなにをして過ごしていたんだ?」
「午後から蒼の塔へ行ってきました」
「そうか。今はどんな魔法を学んでる?」
あれ。
「最近は、呪文を詠唱しないで魔法を使う方法を教わっています」
「そんなことができるのか」
エディットが興味深げに瞬いた。
「ええ。僕にはまだ難しいですが……」
どうやら
「この種類の魔法では、呪文はただの引き金なんです」
「引き金?」
「はい。自分の想像通りに魔力をあつかうための、きっかけと言ってもいいんですが」
言葉は想像を
「魔力を外に出すだけなら、僕もそれなりに慣れてきたと思うんですけど」
プディングのスプーンを皿のはしに置き、俺は右手を上に向ける。
細くよじった糸のような、手のひらに走る筋を見つめる。──意識を集める。魔力を集める。形にする。
エディットの唇がわずかに開いた。俺の手の中に、小さな光の玉が現れる。ここまでなら、俺も
思い描くのは、もっと明るい──たとえば、夜道をゆく人々の
けれど、俺の具体的な
「……『
声を合図に、透き通った魔力の玉は、濃く、はっきりとした光を放った。銀の燭台に
エディットは瞳を大きく見開いた。「たいしたものだな!」
俺は思わず赤面した。──集中が途切れ、魔法の明かりははじけるように消え失せた。俺は今まで、エディットの前でじかに魔法を見せたことがなかった。彼女が関心のあるふうだったのでついついやってしまったが、どうせなら、もっと格好いい魔法がよかったのに。
「いえ、ぜんぜん、そんなことは……」
「………………」
「グレイさんなら、僕よりもすごい魔法を──」
しまった。
ますますよろしくないことを口走った。エディットの口がちょいととがる。さっきも見せた、なんだか面白くなさそうな唇だ。
「──さて」
エディットは、執事のワトキンスがお茶をそそごうとするのを断り、喉元からナプキンをはずした。
「せっかくの休暇だ。わたしは本でも読もうと思う。カイルはどうする?」
「は、はい、僕も」
彼女のおみやげの本を、ゆうべから二人で読み始めたのだ。エディットは、おいてきぼりにされてすねた子どもみたいな瞳になって、俺を見る。
「
「え」
じぃぃぃーっ……と、見つめられる。穴が開くどころか、反対側まで射貫かれてしまいそうだ。
「……僕の部屋ではいかがでしょうか」
非常にささやかであり、かつ、最後の抵抗である。エディットの口がとうとう
「だめだ! わたしの部屋にこい!」
そ、そんなに大きな声を出さなくても。
エディットは、どかどかと足音高く、食堂を出ていってしまった。
「…………」
かたわらでは、ワトキンスが暗黒のまなこを光らせつつ、静かに食器を下げている。女主人に妙な目力を教えないでほしい。
……俺はまだ、
いつのまにか、それが彼女にばれている。
あそこでグレイの名前を出したのはまずかった。でもユーリ先生といい、どうして気がついちゃうかなあ……と、俺は首をひねる。特に二人だけのときなんて、誰に話しかけているかは一目瞭然だ。いちいち呼びかけなくてもわかるじゃない?
俺は食堂を出て、二階へ足を向けた。エディットの休暇は短い。つまらないことで時間を無駄にするのは馬鹿らしい。
──コン、コン、コン。
扉をノックする。「あのう……」
果たして、なんと呼びかけたものか。まあ、とりあえず……
「開けてもいいですか?」
訪ねてきたのが俺なのは、声でわかるでしょう。
ところが、返事はない。
「…………」
俺は扉の前で腕を組む。──もー、こうなったら開けちゃうよ?
部屋の
念のため、先にノブを回してみる。
カチャ。
鍵はかかっていなかった。
……部屋にこいと言ったのは彼女なので、当たり前といえば当たり前だ。
なるたけ音を立てないように扉を開けて、室内をのぞき込んでみる。
エディットは居室の長椅子に腰かけて、開いた本を両手で高く掲げていた。あの表紙は、時間旅行ができる魔法使いの物語だ。四分の一ほどの位置にはさんであった
彼女の顔は本の向こうに隠れていて、ぜんぜん見えやしない。俺はそうっと中に入り、扉を閉めた。
「…………」
ぺらり──エディットが本の
「あの……」
また、ぺらり。
俺はエディットの隣に腰を下ろした。サッ、と、彼女がこちらを向く。本を高々と持ち上げているから、顔はちっとも見えないままだ。
「わたしに用か」
やけに冷たい声が、本の陰から問うてきた。
「はい……」
「なんの用だ」
「ええと、僕もいっしょに」
分厚い本が少し下がる。向こう側から、ちら、と紫の瞳がのぞく。
「いっしょに?」
「本を読みたいと思って……」
「誰と?」
──エディットと、二人きりで。
言いたいのはそれだけだ。でも、誰かに呪いをかけられたみたいに、喉から言葉が出てこない。
別に、彼女の名前が好きじゃないとか、言いにくいとかではない。今までに呼びかける機会もあった。なんとなく、機を逸していただけである。
というか……
俺は目をそらして下を向いた。
すごく恥ずかしいんだもん……
俺の全身は、この言葉に完全に支配されている。口に出したら、俺の中でなにか、とてつもない変化が起こってしまいそうな気さえする。
俺がぐるぐると迷ううちに、切れ長の瞳はまた表紙の陰に隠れてしまった。──気まずい。こんなときに限って、ワトキンスもバルバラも、お茶のひとつも持ってこないのだ。本当にあの人たちは、気が利くんだか利かないんだか。
俺は胸に手をあてて、覚悟を決めた。──落ちつけ、俺。絶対に、なんてことはないはずなんだ。
「あのう……」
「…………」
目を閉じて。
口に出すのはたったのひと言。
「エディット、さん……?」
「ここで『さん』を付けるのか?!」
わっ。
見ればエディットは閉じた本を膝に置き、思いきり不服そうな顔でこちらをにらんでいる。
「あ、あの、それは」
僕よりも年上なので……と言おうとして、あわててよした。彼女の瞳が今にも泣き出してしまいそうだ。瞬きが速い。
……本気で?
こちらも上目になってしまうが、エディットの瞳には、
彼女に対する呼称をどうするか。これも結構微妙な問題だ。彼女は俺の妻である。
でも、そうだよね。俺たちが知り合ってからずいぶん経つ。夫婦なんだし、『さん』はないよね……
「エ……」
エディットは本の上にきっちりと両手をそろえ、唇をとがらせて待っている。そんなふうに見つめられたら、ますます言えなくなっちゃうよ。
「えーと……」
絶対無理。
両手を伸ばす。彼女の体に腕を回して、そっと抱きしめる。──息を吸って。目をつむって。心浮き立つさまを表す彼女の名前だけを、くり返し胸の内で想う。そんなことは、今までにも数えきれないほどあったんだから。
顔を見ないで、言葉にするだけ。想いを喉から押し出すように、ただ声に出すだけ。
「……エディット」
言えた。
こんなに勇気が必要だったにもかかわらず、俺の心臓も、息も、どちらも止まらなかった。おかしくなるほど胸が高鳴って、熱が出たかと思うくらい体が熱くなって、それだけだ。
少し待っても返事はなかった。形のいい小さな耳たぶに、ささやくように言ったのに。
それなら、もう一度。
「エディット」
さっきよりは落ちついた声で呼べたと思う。俺はおそるおそる体を離してみた。顔をのぞこうとしたら、瞳をそらされてしまった。ほっぺたが赤い。
「エディット……?」
白いはずの首筋も赤く染まっている。視線が膝に落ちる。軽く握った手を唇に添えて、彼女はうなずいた。
「……うん」
聞こえててよかった……
「やっと、わたしの……」
「え?」
「いや、なんでもない」
エディットは顔を赤らめたまま、首を振った。
「──カイル」
「はい」
彼女の透き通ったまなざしが、俺を見つめる。長いまつ毛の下の、
膝の上の本の表紙に、白い右手が触れた。
「これを手に入れた、ノエルという街で」
なにかの気持ちを抑え込もうとするように、ひと言ひと言を区切りながら、彼女は言う。「……わたしのところに、美しい鳥がきた」
ようやく頬に浮かんだかすかな笑みと、小さなえくぼ。
「カイルがあの鳥を、よこしてくれたんだろう?」
「はい」
俺はうなずいた。俺の
「もしも全員無事だと知らせてもらえなかったら、あのときのわたしは、なにをしていたかわからない」
本邸に火を放ったと言われて、目の前が真っ白になった。すべてを投げ出して一人王都へ向かったとは、さすがに思いたくないが──と、エディットは苦笑いする。
「わたしとボリスは、ノエルでダーヴィドの手のものに襲われた。そのときに、やつの計略を知るものを捕らえたんだ」
本邸を襲撃したのはダーヴィドの差し金だと、
「これからわたしは、打って出るつもりだ。皆へ
エディットはつぶやくように、静かに続けた。
「あなたはもう、アルノーに帰ったほうがいい」
危険だから、俺はいないほうがいいと言うのか。
「いいえ」
俺は首を振った。彼女が俺に選んでくれた本の上、彼女の右手の甲に、左手を重ねる。絹の部屋着に包まれた肩がびくりと震えた。
「僕は帰りません」
「カイル」
「あいつは僕をさらって閉じ込めた一味の親玉ですよ。そうでしょう?」
俺だってダーヴィドには、いろいろ痛い目に遭わされたんだからね。
「…………」
エディットは驚いたように唇を開いた。俺がなにを言うのか、まるきりわからないのだろうか。
「確かに、そ、そうかもしれない。だが」
「帰りません」
強くかぶりを振る。エディットの右の手を握る左手に、力を込める。たとえ彼女が
「そばにいます。いっしょにいたいんです、エディット」
この人は嘘つきだ。本当の気持ちじゃないって、目が言ってる。そんなふうに、俺が本当に帰ってしまったらどうしようと思うみたいに、不安そうにこちらを見られたら、いくら俺でもすぐにわかる。
「あ……」
エディットの声が、少しだけ震えを帯びた。ほっと小さく息を吐き出して、瞳を閉じる。
「ありがとう……」
俺は自分が彼女といっしょにいたいから、そのままを口にしただけだ。
ただそれだけのことなのに──
なにかとても、とてもいいことをしたように思えたのは、どうしてなんだろう。
「エディット……」
伸ばした俺の指先が、ほのかに熱を帯びた彼女の頬へ、そして、湿りけを残した髪にも触れる。
「もっと、近くに行ってもいいですか……?」