伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 そして俺たちには、つかのまの休日が訪れた。

 

 ……違った。

 

 俺たちに、ではなかった。俺は毎日が休日も同然の、このうえなくのんきな日々を送っている。正確にいえば、エディットに休日が訪れたのである。

 

 ハティア王国から帰国したエディットは、翌日の午後、王宮へ出仕した。これは休暇を取るためで、遠征の報告の取りまとめや、休暇前の申し送りがあるからだ。それさえすめば自由の身──たとえ数日だとしても──と、彼女は言う。

 

 日が暮れて、エディットはドワーフおじさんをお供に帰宅した。

 

 俺は(あお)の塔から帰って自分の部屋にいた。今の服装は、一応襟のある上着。ごく普通のシャツ。つまるところは部屋着である。出かけもしないのに、()()()()に着替えるのはおかしいかな──などと、鏡の前で迷っていると大扉のベルが鳴り、俺は急いで廊下へ飛び出した。

 

「カイル、ただいま」

 

 玄関ホールまで駆けつけた俺を見下ろし、微笑むエディットが美しい。いや、信じがたい美人なのは元からだけど、しばらく会わないあいだに拍車がかかったと思う。

 

「お、おかえりなさい」

 

 俺は少々たじろいでしまった。彼女はいつもの制服姿だが、夕暮れどきでも輝く美貌は、まさしく「本性を現した」という言いかたが、ぴったりだ。上手の猫は爪を隠す。ひょっとしたら、俺が知る彼女の美しさなんて、ほんの小手先だったのかも。

 

 いやいや──俺は心の中で首を振った。そんなことを考えるのはあと回しにしよう。俺が知りたいのは、今夜の彼女の過ごしかただ。

 

「あの、夕食はどうするんですか?」

「どうする、とは?」

「もうすませたかと思ったので……」

 

 もちろん俺は、彼女を食事に誘うつもりだった。エディットは二階へ向かう。俺もならんで階段をのぼる。

 

「わたしなら、これからだが」

 

 やった。

 

「じゃあ、いっしょにいかがですか?」

「食事をか」

「はい」

 

 自室の扉を開けながら、エディットはちらりと俺をながめた。「……誰と?」

 

「僕と、です」

「誰が?」

 

 ええーっと……?

 

()()()()いっしょに、ですけど……」

 

 俺が少々戸惑いを感じつつ答えると、なぜだかエディットは唇をとがらせる。

 

「……カイル」

「はい」

()()()

 

 いやに力のこもった声音で名を呼ばれた。見えない圧力に押され、俺は両手の指先を合わせて一歩後ずさった。

 

「なんでしょうか……」

「カイル、今夜はぜひ、()()()()いっしょに食事をしよう。いいな、カイル」

「はい、ありがとうございます……」

 

 これは、なに……??

 

 誘いを受けてくれたのはいいが、どうにも憤然とした口ぶりなのだ。

 

「カイル、わたしは先に湯浴みをすませてくる。──バルバラ、したくを頼む」

「かしこまりました、エディットさま」

 

 と、斜め後ろに控えていた侍女がお辞儀をした。エディットは貼りつけたようににこやかな笑みで、俺に向き直った。

 

「待たせることになってすまないな、カイル」

「い、いいえ、僕はかまいません」

「では、のちほど食堂で会おう、()()()

 

 まるでとどめを刺すように、彼女の笑顔は煌々(きらきら)しい。

 

 二の句の継げない俺を廊下に取り残し、エディットは、さっさと寝室へ行ってしまった。

 

 ──しかし、食事の段になると、風向きがさらに変わっていた。

 

 以前の俺たちは、食堂の長テーブルのはし同士、向かい合わせに座っていた。じつに話が遠かったものだが、いつからだろう。俺とエディットが九十度の角度で隣り合わせになれるよう、席が片はしに寄せられている。いっそ小さい食卓を用意してくれたほうが、なにかと手間が(はぶ)けていいような気がするんだけど。

 

「カイル、今日はなにをして過ごしていたんだ?」

「午後から蒼の塔へ行ってきました」

「そうか。今はどんな魔法を学んでる?」

 

 あれ。

 

「最近は、呪文を詠唱しないで魔法を使う方法を教わっています」

「そんなことができるのか」

 

 エディットが興味深げに瞬いた。

 

「ええ。僕にはまだ難しいですが……」

 

 どうやら()()する攻勢は、あれでひと段落したようだ。単に飽きたのか。それともこれは、嵐の前の静けさだろうか。

 

「この種類の魔法では、呪文はただの引き金なんです」

「引き金?」

「はい。自分の想像通りに魔力をあつかうための、きっかけと言ってもいいんですが」

 

 言葉は想像を(いざな)う。誘われた想像に魔力を加えれば、それは現象となる。──想像さえ思い通りにできるなら、言葉はかならずしも必要ではない。

 

「魔力を外に出すだけなら、僕もそれなりに慣れてきたと思うんですけど」

 

 プディングのスプーンを皿のはしに置き、俺は右手を上に向ける。

 

 細くよじった糸のような、手のひらに走る筋を見つめる。──意識を集める。魔力を集める。形にする。

 

 エディットの唇がわずかに開いた。俺の手の中に、小さな光の玉が現れる。ここまでなら、俺も(うた)わなくてもできる。

 

 思い描くのは、もっと明るい──たとえば、夜道をゆく人々の()()()となる、街路灯の炎。さやかな輝きで地上を照らす月の光。

 

 けれど、俺の具体的な想像(いまーご)を魔力に映すには、まだ呪文(きっかけ)が必要だ。

 

「……『輝け(るーも)』」

 

 声を合図に、透き通った魔力の玉は、濃く、はっきりとした光を放った。銀の燭台に(とも)る明かりよりもずっと強く、食器やグラスの影が、真っ白なテーブルクロスを染めるほど。

 

 エディットは瞳を大きく見開いた。「たいしたものだな!」

 

 俺は思わず赤面した。──集中が途切れ、魔法の明かりははじけるように消え失せた。俺は今まで、エディットの前でじかに魔法を見せたことがなかった。彼女が関心のあるふうだったのでついついやってしまったが、どうせなら、もっと格好いい魔法がよかったのに。

 

「いえ、ぜんぜん、そんなことは……」

「………………」

「グレイさんなら、僕よりもすごい魔法を──」

 

 しまった。

 

 ますますよろしくないことを口走った。エディットの口がちょいととがる。さっきも見せた、なんだか面白くなさそうな唇だ。

 

「──さて」

 

 エディットは、執事のワトキンスがお茶をそそごうとするのを断り、喉元からナプキンをはずした。

 

「せっかくの休暇だ。わたしは本でも読もうと思う。カイルはどうする?」

「は、はい、僕も」

 

 彼女のおみやげの本を、ゆうべから二人で読み始めたのだ。エディットは、おいてきぼりにされてすねた子どもみたいな瞳になって、俺を見る。

 

()()()?」

「え」

 

 じぃぃぃーっ……と、見つめられる。穴が開くどころか、反対側まで射貫かれてしまいそうだ。

 

「……僕の部屋ではいかがでしょうか」

 

 非常にささやかであり、かつ、最後の抵抗である。エディットの口がとうとう()の字になった。

 

「だめだ! わたしの部屋にこい!」

 

 そ、そんなに大きな声を出さなくても。

 

 エディットは、どかどかと足音高く、食堂を出ていってしまった。

 

「…………」

 

 かたわらでは、ワトキンスが暗黒のまなこを光らせつつ、静かに食器を下げている。女主人に妙な目力を教えないでほしい。

 

 ……俺はまだ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いつのまにか、それが彼女にばれている。

 

 あそこでグレイの名前を出したのはまずかった。でもユーリ先生といい、どうして気がついちゃうかなあ……と、俺は首をひねる。特に二人だけのときなんて、誰に話しかけているかは一目瞭然だ。いちいち呼びかけなくてもわかるじゃない?

 

 俺は食堂を出て、二階へ足を向けた。エディットの休暇は短い。つまらないことで時間を無駄にするのは馬鹿らしい。

 

 ──コン、コン、コン。

 

 扉をノックする。「あのう……」

 

 果たして、なんと呼びかけたものか。まあ、とりあえず……

 

「開けてもいいですか?」

 

 訪ねてきたのが俺なのは、声でわかるでしょう。

 

 ところが、返事はない。

 

「…………」

 

 俺は扉の前で腕を組む。──もー、こうなったら開けちゃうよ?

 

 部屋の(キー)は、ゆうべのうちに返してしまった。しかし、本来俺の手にかかれば、この程度の錠前など無意味と同義である。むろん俺さまの魔法の威力を、むやみやたらと見せつけるつもりはないのだが。

 

 念のため、先にノブを回してみる。

 

 カチャ。

 

 鍵はかかっていなかった。

 

 ……部屋にこいと言ったのは彼女なので、当たり前といえば当たり前だ。

 

 なるたけ音を立てないように扉を開けて、室内をのぞき込んでみる。

 

 エディットは居室の長椅子に腰かけて、開いた本を両手で高く掲げていた。あの表紙は、時間旅行ができる魔法使いの物語だ。四分の一ほどの位置にはさんであった(しおり)が、テーブルの上に載っている。──え、俺といっしょに読んでたのに、一人で先に進んでるの?

 

 彼女の顔は本の向こうに隠れていて、ぜんぜん見えやしない。俺はそうっと中に入り、扉を閉めた。

 

「…………」

 

 ぺらり──エディットが本の(ページ)をめくった。

 

「あの……」

 

 また、ぺらり。

 

 俺はエディットの隣に腰を下ろした。サッ、と、彼女がこちらを向く。本を高々と持ち上げているから、顔はちっとも見えないままだ。

 

「わたしに用か」

 

 やけに冷たい声が、本の陰から問うてきた。

 

「はい……」

「なんの用だ」

「ええと、僕もいっしょに」

 

 分厚い本が少し下がる。向こう側から、ちら、と紫の瞳がのぞく。

 

「いっしょに?」

「本を読みたいと思って……」

「誰と?」

 

 ──エディットと、二人きりで。

 

 言いたいのはそれだけだ。でも、誰かに呪いをかけられたみたいに、喉から言葉が出てこない。

 

 別に、彼女の名前が好きじゃないとか、言いにくいとかではない。今までに呼びかける機会もあった。なんとなく、機を逸していただけである。

 

 というか……

 

 俺は目をそらして下を向いた。

 

 すごく恥ずかしいんだもん……

 

 俺の全身は、この言葉に完全に支配されている。口に出したら、俺の中でなにか、とてつもない変化が起こってしまいそうな気さえする。

 

 俺がぐるぐると迷ううちに、切れ長の瞳はまた表紙の陰に隠れてしまった。──気まずい。こんなときに限って、ワトキンスもバルバラも、お茶のひとつも持ってこないのだ。本当にあの人たちは、気が利くんだか利かないんだか。

 

 俺は胸に手をあてて、覚悟を決めた。──落ちつけ、俺。絶対に、なんてことはないはずなんだ。

 

「あのう……」

「…………」

 

 目を閉じて。

 

 口に出すのはたったのひと言。

 

「エディット、さん……?」

「ここで『さん』を付けるのか?!」

 

 わっ。

 

 見ればエディットは閉じた本を膝に置き、思いきり不服そうな顔でこちらをにらんでいる。

 

「あ、あの、それは」

 

 僕よりも年上なので……と言おうとして、あわててよした。彼女の瞳が今にも泣き出してしまいそうだ。瞬きが速い。

 

 ……本気で?

 

 こちらも上目になってしまうが、エディットの瞳には、()()として泣いてやる、という気合いが満々にみなぎっている。

 

 彼女に対する呼称をどうするか。これも結構微妙な問題だ。彼女は俺の妻である。()()付けはどうかというのもうなずける。しかし、年長者に向かって呼び捨てもいかがなものか。

 

 でも、そうだよね。俺たちが知り合ってからずいぶん経つ。夫婦なんだし、『さん』はないよね……

 

「エ……」

 

 エディットは本の上にきっちりと両手をそろえ、唇をとがらせて待っている。そんなふうに見つめられたら、ますます言えなくなっちゃうよ。

 

「えーと……」

 

 絶対無理。

 

 両手を伸ばす。彼女の体に腕を回して、そっと抱きしめる。──息を吸って。目をつむって。心浮き立つさまを表す彼女の名前だけを、くり返し胸の内で想う。そんなことは、今までにも数えきれないほどあったんだから。

 

 顔を見ないで、言葉にするだけ。想いを喉から押し出すように、ただ声に出すだけ。

 

「……エディット」

 

 言えた。

 

 こんなに勇気が必要だったにもかかわらず、俺の心臓も、息も、どちらも止まらなかった。おかしくなるほど胸が高鳴って、熱が出たかと思うくらい体が熱くなって、それだけだ。

 

 少し待っても返事はなかった。形のいい小さな耳たぶに、ささやくように言ったのに。

 

 それなら、もう一度。

 

「エディット」

 

 さっきよりは落ちついた声で呼べたと思う。俺はおそるおそる体を離してみた。顔をのぞこうとしたら、瞳をそらされてしまった。ほっぺたが赤い。

 

「エディット……?」

 

 白いはずの首筋も赤く染まっている。視線が膝に落ちる。軽く握った手を唇に添えて、彼女はうなずいた。

 

「……うん」

 

 聞こえててよかった……

 

「やっと、わたしの……」

「え?」

「いや、なんでもない」

 

 エディットは顔を赤らめたまま、首を振った。

 

「──カイル」

「はい」

 

 彼女の透き通ったまなざしが、俺を見つめる。長いまつ毛の下の、(すみれ)の瞳。整った鼻梁と、やわらかく結んだ唇。

 

 膝の上の本の表紙に、白い右手が触れた。

 

「これを手に入れた、ノエルという街で」

 

 なにかの気持ちを抑え込もうとするように、ひと言ひと言を区切りながら、彼女は言う。「……わたしのところに、美しい鳥がきた」

 

 ようやく頬に浮かんだかすかな笑みと、小さなえくぼ。

 

「カイルがあの鳥を、よこしてくれたんだろう?」

「はい」

 

 俺はうなずいた。俺の守護精霊(ぞるがんど)、カローロのことだ。

 

「もしも全員無事だと知らせてもらえなかったら、あのときのわたしは、なにをしていたかわからない」

 

 本邸に火を放ったと言われて、目の前が真っ白になった。すべてを投げ出して一人王都へ向かったとは、さすがに思いたくないが──と、エディットは苦笑いする。

 

「わたしとボリスは、ノエルでダーヴィドの手のものに襲われた。そのときに、やつの計略を知るものを捕らえたんだ」

 

 本邸を襲撃したのはダーヴィドの差し金だと、言質(げんち)を取った。

 

「これからわたしは、打って出るつもりだ。皆へ(はか)ったあとになるが、だから──」

 

 エディットはつぶやくように、静かに続けた。

 

「あなたはもう、アルノーに帰ったほうがいい」

 

 危険だから、俺はいないほうがいいと言うのか。

 

「いいえ」

 

 俺は首を振った。彼女が俺に選んでくれた本の上、彼女の右手の甲に、左手を重ねる。絹の部屋着に包まれた肩がびくりと震えた。

 

「僕は帰りません」

「カイル」

「あいつは僕をさらって閉じ込めた一味の親玉ですよ。そうでしょう?」

 

 俺だってダーヴィドには、いろいろ痛い目に遭わされたんだからね。

 

「…………」

 

 エディットは驚いたように唇を開いた。俺がなにを言うのか、まるきりわからないのだろうか。

 

「確かに、そ、そうかもしれない。だが」

「帰りません」

 

 強くかぶりを振る。エディットの右の手を握る左手に、力を込める。たとえ彼女が()()と言っても、俺からは離さない。

 

「そばにいます。いっしょにいたいんです、エディット」

 

 この人は嘘つきだ。本当の気持ちじゃないって、目が言ってる。そんなふうに、俺が本当に帰ってしまったらどうしようと思うみたいに、不安そうにこちらを見られたら、いくら俺でもすぐにわかる。

 

「あ……」

 

 エディットの声が、少しだけ震えを帯びた。ほっと小さく息を吐き出して、瞳を閉じる。

 

「ありがとう……」

 

 俺は自分が彼女といっしょにいたいから、そのままを口にしただけだ。

 

 ただそれだけのことなのに──

 

 なにかとても、とてもいいことをしたように思えたのは、どうしてなんだろう。

 

「エディット……」

 

 伸ばした俺の指先が、ほのかに熱を帯びた彼女の頬へ、そして、湿りけを残した髪にも触れる。

 

「もっと、近くに行ってもいいですか……?」

 

 

 

 


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