──そばにいたい。
そう思ったから、俺は彼女の名前を口にする。彼女の心に、魂に、少しでも近づきたくて。
「エディット」
指の背でそっと、彼女の頬の輪郭をたどる。顔にかかったおくれ毛が、俺の指先にからむ。
「もっと、近くに行ってもいいですか……?」
深い紫の、切れ長の瞳が大きく見開かれた。
「いいのか?」
問うたのは俺なのに、問い返された。それがおかしくなり、ちょっとだけ笑ってしまう。
「はい」
うなずくや否や、強く抱きしめられた。腰を浮かせた彼女の膝から本が落ちる。拾おうと伸ばした手は、革表紙に届く前にさえぎられた。
「エディット、本が……」
長椅子に背中が沈み込む。唇が重なってくる。なにをひと言も口にできなくなり、俺は彼女の体へ両手を回す。
やがて──
エディットが、俺から顔を離した。
「旅のあいだ……」
ひどく腹を立てているようにも聞こえる、ぶっきらぼうな声音。
「わたしは何度も、あなたのことを思い出した」
王都から遠く離れたハティアの王宮で。小雪の舞う草原の天幕の宿りで。大勢の騎士を従え、王后さまの馬車のかたわらで。
「僕もです」
すると、
俺は床から本を拾い上げた。時間をさかのぼる呪文を知った魔法使いは、過去への旅を決意する。それは自らの未来を変えるため──ゆうべ二人で読み進めたのは、まだほんの出だしまで。
「……あれは元のように、本棚にならべておこうと思うんだ」
エディットの視線の先には、大きな机に積まれた書物の山があった。グレイが魔法で降らせた雨に濡れ、傷んでしまった本ばかり。
「そうですね」
俺は、壁の空いている部分を指でさす。真新しい壁紙に、ランプの光で浮かんで見える地模様が美しい。
「もうひとつ、あそこにも棚を置きましょう」
この部屋の本棚には、セドリック卿かエディットのお気に入りがならんでいた。大半がふくらんだり、ゆがんだり、今までの書架だけでは収まりきらない。──なら、新しく増やせばいい。
「うん」
エディットは瞳をなごませた。「明日の朝、オーリーンに言おう」
エディットは時々こんなふうに、これから先の時間を感じさせる言葉を口にする。だから俺は安心できる。明日も彼女のそばにいていいんだ、と思う。
彼女はいつもそうだ。どれほど短く、そっけなくても、自分の思いを伝えてくれる。
それから俺たちは、本を読もうとした。でも、無理だった。膝と膝が、肩と肩が触れるたび、文字から顔を上げてしまう。目が合えば、唇も合わせたくなった。指が触れれば、手のひらも重ねたくなった。俺たちはどちらからともなく、相手の唇を求めた。
──ふと、俺を見るエディットの瞳が細くなった。
「………………」
みるみるうちに頬が真っ赤に染まる。どうしたのかと見ていると、固く唇を結び、すっくと立ち上がった。
「カイル、こい」
えっ、どこに?!
本なんて、あっというまに取り上げられた。俺はエディットに手首をつかまれて、なかば引きずられるようにして寝室へ向かう。
エディットは、音を立ててクローゼットの扉を開け放った。確かに俺は、昨日の朝までこの部屋で寝起きしていた。だから火事と浸水のあとも俺の衣服はひと通り置いてあったが、彼女の帰宅後に入れ替えられたと思っていた。それが、寝間着やなんかもそっくりそのままだ。いったい誰のどんな
適当な一着を乱暴に手渡される。なりゆきに頭がついてゆかず、おろおろしていると、エディットの人差し指が壁をさした。──なるほど。あっちを向いて、さっさと
うん、まあ、それはいい。しかし、いつまで壁を見ていればいいんだろう……などと、俺は考える。どうしても指先が震える。なかなかボタンがはまらない。
背後できぬずれの音がやんだ。俺はおそるおそる振り返った。
結い上げていた髪をほどき、まるで深海の色を映したような、濃い青の夜着をまとった彼女が立っていた。鞭を思わせるしなやかな肢体を、衣の裾が長く覆っている。
「カイル」
決然とこちらへ歩み寄ってくる。ただちに顎に指がかかり、口づけされた。異議を唱える
「エディット、あの」
どうにか唾を飲んだ。俺の脚をこじ開け、彼女の引き締まった
「ど、どうしたらいいか、知ってるんですか?」
「なにが」
「
「知るわけがないだろう」
顔をいっそう赤くして、エディットは唇をとがらせた。えっ? そうなの? だって俺、
「大丈夫だ。どうにでもなる」
大真面目な声と瞳で力強くうなずかれた。──そんな、どうにでもって!!
寝間着のボタンに指がかかった。着替えた意味は完全になくなった。やわらかな
「エディット、明かりを……消しましょう?」
「そうだな」
「カイル……」
エディットの息づかいが変わる。俺の胸に、彼女の指がはう。俺は体をのけぞらせた。
寝室のランプは、ずっと向こうのチェストの上だ。あれさえ消せたら、暖炉の炎だけでちょうどよくなるんだけど。
彼女が俺の核心に触れるので、思わず両手で顔を覆ってしまった。だが、彼女の視線をさえぎるためのその手は、あっけなく除かれる。もう一度、唇を吸われた。
あのランプまで手が届けば。ガラスの
「…………」
──突然、室内が暗転した。俺の具体的な
薄闇の中、エディットの肌が白く浮かび上がる。吐息が熱い。俺も彼女の耳たぶに、そっと口づけを返す。
……なるほど、この感じか。
今まで
◆◇◆
カーテンの向こうが、ぼんやりと明るい。
目を開けたら、エディットがいた。暖炉の薪は燃えつきている。俺は毛布をたぐり、彼女に寄り添った。
「ん……」
エディットが身じろぎした。瞳を閉じたままで、俺の背に腕を回す。彼女の肌の温かさが、俺の体の奥まで伝わってくる。
再びまどろむうち、唇にキスされた。それで本当に目が覚めた。彼女が俺を見ている。瞳が合うと、エディットが微笑んだ。俺もこそばゆい気持ちになって、くす、と笑う。
「僕は一度、部屋に戻ったほうがいいでしょうか」
シャツに袖を通して、尋ねてみる。男ものの室内着に着替えたエディットは、
「なぜだ?」
……なぜだと
しかし、そうか。俺はこの家の主人で、彼女の夫だ。誰に遠慮する筋合いもないのである。ないはずだ。ないに違いない。
と、思ったけれど。
──コン、コン、コン。
ノックの音がして、俺は口から心臓が飛び出すかと思うくらい驚いた。ベッドの下かクローゼットの中か、どちらに隠れるか迷ったほどだが、エディットは涼しい顔だ。
「入れ!」
果たせるかな、執事のワトキンスである。彼はいつにない晴れやかなまなこで、モーニングティーを捧げ持ってきた。しかも可愛らしい小花模様のティーカップは二人分。どういう諜報網が敷かれているのか、このうちは。
──エディットが一階の居間にみんなを呼び集めたのは、朝食の後片付けもすっかりすんで、全員の手が空いたころだった。
「先日の本邸襲撃の件は、わたしの口から宰相閣下にお伝えしてある」
エディットは厳しいまなざしで口を開いた。いつものように大きな長椅子の背へ片肘をかけ、足を投げ出している。俺は彼女のかたわらに腰を下ろしていた。
「だが、休暇が明けたら、国王陛下へ正式に謁見を申し込む。そのときに、王后陛下の親衛隊長の職をお返しするつもりだ」
さすがに何人かがざわついた。平静なのは、すでに知らされていたらしい秘書のオーリーンと、一か月半に渡る遠征をともにした彼女の従者、ドワーフおじさんのみである。
「守勢に立つのはもう充分だろう」
ダーヴィドを討つための証拠はそろった、と、エディットは言う。彼女はノエル市で、領主のメーベルト男爵と近衛隊の協力のもと、自身を襲ったダーヴィドの配下二名を捕らえた。そのラムジィとサンドロという男たちは、王都まで連行され、本邸襲撃の首謀者らとともに、別邸に留め置かれている。
「これからは攻めに転じる。国王陛下へ奏上し、ダーヴィド捕縛の許可をいただく。やつを追うことで、
ダーヴィドの背後にいるのは、仮面の男。そして──
「これはあくまで、わがエレメントルート家の私闘だ。このうえ王宮騎士団の手を借りることはできない。それでわたしは、隊長職を返上する」
質問は? と問うように、エディットは一人一人を見回した。個人的な仇討ちだから、だけではないだろう。仮面の男のさらに先には、国王マティウス二世か、王弟シベリウスか──いまだ定かではないが、この国の最高位にある兄弟のうち、どちらかがいる可能性が高い。彼らの息のかかった兵を頼みとするのは、あまりにも危うい。
「カイル」
彼女の声音は硬く、俺を見つめる瞳が
俺はこのエレメントルート伯爵家の当主、エレメントルート伯爵だ。それだけではない。『証拠の手紙』を狙うダーヴィドの配下に拉致され、彼自身から暴行を受けた。俺はダーヴィドの犯罪の、極めて有効な証人の一人でもある。
そんなふうに俺を見なくてもいい。俺はあなたとともに行くと、自分の意志で決めたんだから。
「はい」
俺はうなずいた。
「でもひとつだけ、条件があります」
「条件だと?」
エディットが、眉をひそめて身を乗り出す。俺は笑みが浮かんでくるのをこらえて言った。
「このままでよければ、伺います」
「なに?」
大きく
「僕はもう、変装はしません。今のままの僕でよかったら、エディットといっしょに王宮へ行きます」
金髪のかつらも、上げ底の靴も、もういらない。彼女は敵かもしれない貴族たちに、できるだけ俺を見せないようにしてきた。けれど、仮面の男にもダーヴィドにも、俺の本当の姿はとっくに知られている。彼らを追い込むためにやれることはすべてした。もう俺を隠しておく必要は、なにもない。
「僕が
「………………」
エディットは、なにかを言いかけるみたいに唇を開いている。そんな彼女を横目に、俺は首をかしげてみせた。
「でも、いいんですか? お城で王さまに申し上げるってことは、ダーヴィドを討つって大々的に宣言するわけでしょう? あいつに逃げられたりしませんか?」
「あ、ああ……」
しかし、俺の台詞が聞こえているのかいないのか、エディットは呆然と瞬くばかりだ。
「いや、カイル……それはだな……」
「…………」
「わたしだって、ずっと、美しいと思っていた。あなたの、その……」
「…………」
彼女の手が、俺の短い赤毛をおずおずとかき上げる。「あなたの髪は、まるで夕日のような色だと……」
俺の髪より赤い顔で言われてしまった。──へえー、そうなの? 『まあまあ』って言われたことなら、あったような気がするけど。
それに、どこかで聞いた
「旦那さま、奥さま」
オーリーンが高らかに咳払いする。「どうかその先は、どちらかのお部屋でお願いいたします」
エディットはますます赤くなり、俺は下を向いた。別に忘れていたわけではないが、ここはみんなが集まる居間である。そしてただいま現在打ち合わせの真っ最中だ。
「……もしもダーヴィドが王都から逃げ出すことがあれば」
銀縁眼鏡を中指で押し上げ、秘書は言う。
「それはそれで好都合。やつの
まず、逃げはしない。──オーリーンが言うのは、そういう意味だ。つまり、ダーヴィドは俺たちを迎え撃つ。
それでも。
「行きましょう、エディット。王宮へ」
国王マティウス二世、もしかしたら、仮面の男をあやつる首謀者かもしれない男との、謁見へ。