──アセルス国王、マティウス・クリストハルト=アセルティス。
父親は先の国王、ディートヘルム一世。母親は昨年崩御したエレオノーラ王太后。即位にあたって父王の名を継いではいない。曾祖父から譲り受けた名をそのままに、マティウス二世と名乗る。
幼いころから暴力的で荒々しい性格だったと聞く。ディートヘルム一世は、限度を遥かに超えた長い年月、彼を世継ぎと認めなかった。三十をいくつも過ぎてようやく王太子となり、妻子も得た。即位ののち五年余りが過ぎたが、彼はわりあい穏やかな善政を敷いている。それには、王弟シベリウスの貢献も大きい。
略式ではあるが、無数の宝石をちりばめた緋色の冠を戴き、大きな手を王笏の
「われらが妹、エルヴィンの娘、エディット……」
彼と王弟とは、エディットの母、今は亡きエルヴィン王女の兄に当たる。
「はい、国王陛下」
俺とならんで
「今もまだ、セドリックの
「はい」
凜と張った、
「わたくしは、父に人から
「殺めたものを見つけたなら、なんとする」
「
セドリック=エレメントルート卿が王宮で殺害されたとき、エディットはわずか五歳。王都から遠く離れた故郷、キトリーにいた。
エディットの休暇のあいだ、俺たちは二人で時を過ごした。夜ごと夜ごと、彼女は少しずつ話してくれた。──父親が死んだと家来たちから聞かされても、ずいぶん長いあいだ、意味がわからなかったそうだ。
『それを理解できたのは、母が亡くなったときだ』
最愛の夫を失った母は出産に耐え切れなかった。死んでしまった赤ん坊は、弟だったと聞いた──気高く整った美貌に笑みを浮かべ、春になれば咲き誇る
「叶うことなら、父の最期がどのようであったかも、知りたいと願っております」
俺の妻は、国王の前でも臆することなく堂々と述べる。この伯父と姪は、よく似ている。剛毅果断な性質を、少しも隠そうとしない。
「……さもあろう」
マティウス二世は、重々しくうなずいた。
「おまえの婿に、あのような身なりをさせていたのは、そのためか」
金髪のかつらで赤毛を隠し、上げ底の靴で背丈を変えていた、俺の変装の件だ。エディットは唇を結び、頭を低くする。
「はい。──国王陛下、王弟殿下、皆々さまを
誰もひそとも声を立てず、謁見の間は、深い静寂に満ちた。
「………………」
マティウス二世は、冷厳な
「おまえたちの申し入れとは?」
エディットは答えた。「おそれながら、陛下にお願いが三つございます」
「三つもか」
そこで初めて国王は瞳を細めた。笑ったのだ。伯父が妹の子へ向けるにふさわしい、からかい混じりで
「ありがとうございます。まず、ひとつ目は」
エディットは、マティウス二世の隣の座にあるアントニエッタ王后に目を移す。
「まことに勝手ながら、王后陛下親衛隊長の職を、お返しいたしたく存じます」
「エディット!」
王后さまが、両手で口元を覆う。
「申し訳ございません、王后陛下。わたくしは若年。かような大任は、荷が勝ち過ぎます」
「そんな、あなたはとてもよく務めてくれているのに」
「……アントニエッタ」
国王が静かに妻を制した。「エディット、続けよ」
エディットは、再びマティウス二世へ瞳を戻す。
「は。──二つ目は、わが夫が申しましたダーヴィドなるもの、
高官たちがざわめいた。ダーヴィドは、広大な王都の南半分を
俺は王弟のかたわらに控えるレールケ伯爵、俺たちが、ダーヴィドの背後にいる仮面の男とみなす人物の顔を見た。動じる気配はまったくない。
マティウス二世は、巨大な玉座の肘掛けに頬杖をつき、いっそ愉快そうな笑みである。
「物騒な話を、よくもやすやすと申すものよの……」
国王の前で、堂々と
「…………」
しばしの無言の時を経て、国王はおもむろに口を開いた。「……エディット」
「はい、国王陛下」
「三つ目は、なんだ」
彼女の望みは、あとひとつ残っている。
「はい、願わくば──隊長職を辞しても、近衛騎士のままでいとうございます」
武官とはいえ、ようやく十九になろうかという少女である。二人の伯父を
「わがままは、重々承知のうえでのお願いです。王家に捧げたわが剣は、どうかそのままで──」
深く、
「──陛下。いえ、兄上」
国王とよく似た、しかし、陰のない声音だ。下段にいる王弟シベリウスが、兄を見返った。
心配そうに見つめる隣のクララ夫人へ、穏やかにうなずく。彼は国王と二歳違い。もしも国王夫妻のひとり子が王女であれば、今ごろ彼が王太子でも少しもおかしくはない。王位継承権はテオドア王子に次ぐ第二位。大公の位を持ち、宰相とともに、アセルスの政治において重きを成している。
「なんだ、シベリウス」
笑みをふくんだまなざしを、そのまま兄は一人きりの弟へ向けた。
「セドリックの死の真相を知りたいとのエディットの申し条、私も無理からぬことと存じます」
彼がそばにいるから、国王は再び道を踏みはずさずにすんでいる──そうも言われる、聡明さと温情にあふれた口ぶりだ。
「なれど、このうえ王都百万の民を、武力による抗争で
「さればなんとする。ダーヴィドとか申す無頼の捕縛のために、王宮騎士団でも派遣しろと言うのか?」
マティウス二世の愉悦の表情は変わらない。王家と血縁があるとはいえ、たかが一貴族の私怨に、国家が介入するのも
「いいえ、兄上。そうではございません」
一応は公式の場だ。しかし王弟は国王を、兄と呼ぶ。シベリウスはこれを親族の問題ととらえている。少なくとも、そういう姿勢を見せている。
「エディット、おまえはまさか、国許から巨万の兵を呼び寄せて、王都を埋めつくすつもりか? そうではあるまい?」
のどかなるキトリーをはじめ、エレメントルート伯爵家が治める四ヶ領に、
「とんでもないことでございます、シベリウス
本邸には俺をふくめて総勢九名、別邸には三十名余りの家士がいるが、それだけだ。かまえてことを大きくするつもりはない──エディットはそう答えた。
「いかがでしょうか、兄上」
王弟は国王へ向き直る。
「国許から兵を呼ばない。王都で
一種、非情ともとれる提言である。
五十名にも満たない家士だけで立ち向かおうとは、無茶が過ぎる。この場にいた誰もが、そう思っただろう。
けれど、政府が公式にエレメントルート伯爵家をあと押しすることはできない。身内の情を考えても、譲れるのはここまで──王弟が言うのは、理にかなっている。そもそも、エディットが隊長職を辞すと申し出たのは、仇を探すことと政府を切り離すためだ。
マティウス二世は興味深げな表情で、かたわらに立つゾンターク公爵へ目を向けた。
「……宰相であれば、いかに
うるわしの宰相閣下はこちらを見やり、口元をほころばせた。
「陛下、私もこの家のものたち、道にそむくことはあるまいと存じます。──また、王弟殿下の仰せ、まことに当を得たご判断かと」
「ならばよい。すべて許そう」
あっけない裁可に、俺たちはつい目と目を見交わし合った。大急ぎで顔を伏せる。
「「国王陛下、ありがとうございます!」」
声までそろってしまった。くす、と、笑ったのは、王弟妃クララ夫人だ。マティウス二世は悠然と立ち上がった。
たっぷりした深緑の
エディットと俺は跪いたまま、貴人たちの退出を見送った。王弟夫妻が行き過ぎるとき、ふとクララ夫人が一人、足を止めた。
「エレメントルート卿」
「はい」
海のように青い瞳を見上げる。クララさまは、落ちついた色合いのドレスの前で両手を組み合わせ、俺たちを見比べた。俺の本当の姿を見てどう思っているのか、少し困ったような笑顔だ。
「クローディアが、あなたにお会いしたいそうなの。お借りしていた本を、お返ししなければいけないのですって」
俺の『ダルトンの呪文の書』のことだ。魔女志願の小さなお姫さまは、多少なりとも
ちら、と隣をうかがってみる。エディットがちょいと唇をとがらせた。怒っているわけではなさそうだ。
「はい、必ず伺います」
「いつでもおいでになってくださいね。──そういえば、あなたの、その髪の色」
思わず、ぎくっとしてしまう。「は、はい?」
クララさまは上品に微笑んで小首をかしげた。
「とってもすてきでいらしてよ」
──すべての貴族が去り、俺たちはようやく立ち上がった。エディットの吐く長い息がかすかに震えている気がして、俺は彼女の指先をそっと握る。互いの手がとても冷たく、しびれているようにさえ思う。
国王、王弟、本当にどちらかが黒幕なのか。二人は謁見の場で敵としての顔を見せなかった。そして、いっさい関心のない素振りで俺たちの前を通り過ぎていったレールケ伯爵も同様だ。
「帰ろう」
と、エディットは言った。
「これで一歩、前に進みましたね」
「うん」
これはダーヴィドから仮面の男へ、さらにはその先へたどり着くための大事な一歩だ。しかし、国許からの援軍はない。王都の本邸と別邸にいる俺たちだけで、ことに当たらなくてはならない。
俺はそんなことを口にした。けれど馬車に乗った早々、エディットは俺の頬に接吻してきた。せっかく整えてある髪を、くしゃくしゃにかき回される。
「本当にそうだと思うか?」
「え?」
だって、たった今、王さまたちとそういう話になったばかりじゃない?
「それよりもカイル、国王陛下の御前でのあなたのふるまいは、とてもよかったぞ。見違えた」
「あ……ありがとうございます」
こんなにあからさまに、面と向かって褒められたのは初めてじゃないかしら。うっかり顔が熱くなってしまったが、エディットは俺を横目に、いたずらっぽく肩をすくめる。
んん? なんだろう、いったい……この反応。