伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 言葉は王都を駆けめぐる。

 

 うららかな日差しのもと、通り沿いの商家の店先で。黄昏(たそがれ)どき、路地裏の長屋(アパート)の井戸の周りで。夜もすがら、酔漢たちが騒ぐ酒場の中で。人々は面白おかしく笑いながら、ときにはおびえ恐ろしそうに、そして、別なときには哀愁たっぷりに──

 

 

     ◆

 

 まったく見ず知らずのおばさんが、俺の手を取り、泣くのである。

 

「本当に()()()だこと……奥方さまのために、こんなお若い伯爵さまがねえ……」

 

 おばさんは、王宮に住み込みで働く娘さんへ、届けものにきたと言う。通用門でならんでいたら、声をかけられた。娘さんは今年で十八。近所ではちょっと評判の美人だそうで、おかげで下女奉公に出られたとか。できれば同じく、お城勤めの男の人からお婿さんを選んでもらいたい以下省略(うんぬんかんぬん)

 

 俺の従者、背高のグレイは、たれ目の上の眉を寄せ、恐ろしいまでに真剣だ。

 

「もしかしたら旦那さまは、年上の女性にとてもお強いのかもしれませんよ」

 

 ……えっ?

 

 (あお)の塔では、ユーリもじろじろと俺を見る。

 

「まるですごい美少年みたいに言われてるんですよ、ティ坊ちゃまが」

 

「まるで」ですか……俺の元家庭教師、ユーリ=ローランドは、そこはかとなく失礼な人だ。

 

 いつもと変わらないのは、オドネル一人だけである。

 

「人のうわさなど、そんなものじゃないかね。大海(おおわたつみ)の神の履く(くつ)には水かきがついていると言われるのとおんなじさ」

 

 そう言って笑い、オドネルはポンと手を打つ。

 

「ああ、忘れていたよ。──見たまえ。これは魔法使いではなく、大昔の巫女が(つづ)った覚え書なんだがね」

「そんなもの、どこで手に入れたんですか?」

 

 目を丸くしてのぞき込むグレイは、こう見えて腕のいい魔法士だ。俺とユーリも、オドネルから魔法を教わっている。つまり、ここにいるのは好きな人間ばかりなのだ。俺たちはみんなで、大机の真ん中に広げられた古い書物へ身を乗り出した。

 

 世間がどれほど騒がしかろうと、蒼の塔ではいつもと同じように時が流れている。目の前にあるのは、いわば神々が語る声だ。一人の少女が太古の神と交わしたあまたの言葉。その中から神の名前を探し出す。ひとつずつ、俺の『魔導書(ぐりもりーれ)』に書かれた召喚魔法(さーる)が、読み解かれてゆく。

 

 帰る時間になっても、西の空にはまだほのかな日の光が残る。馬車から見える街並みから、汚れて小さくわだかまっていた雪がとうとう消えた。──とはいえ、夜はまだ冷え込む。暖炉の炎が欠かせない。

 

「ダーヴィドの拠点は南部を中心に、王都全体で五か所」

 

 エディットの従者、ドワーフおじさんは、いかめしい顔で居間の壁にかけた地図を指す。今までどこにしまってあったのか、ずんぐりした彼よりふた回りも幅の広い巨大な地図だ。小路のひとすじに至るまで、驚くほど詳細に描かれている。従者が示す先には、赤い丸が飛び飛びに記してあった。

 

 ──国王マティウス二世に願い、ダーヴィド討伐の許しを得た謁見から十日余り。夕食後、俺たちは全員そろって最近の調査報告に耳をかたむけていた。

 

「朝はこちら、晩はあちらと、やつはねぐらを点々としております。われわれが攻め入ってくるかと警戒しているのでしょう」

「それは面倒だな」

 

 エディットは長椅子の背に片肘をかけ、面倒と言いつつ、小気味よさげな表情だ。このところの世間はすっかりエレメントルート伯爵家へなびいてしまい、ダーヴィド一家に加担するものは肩身の狭い思いをしているらしい。

 

「イヴォン街の本宅へ戻るのは、せいぜい三日に一度といったありさまで」

 

 下町にあるダーヴィドの馬鹿でっかい屋敷には、大勢のならずものが集結しているという。だが、大親分の危機だというのに今ひとつ集まりが悪い。守るべきご本尊が襲撃を恐れて留守がちだったら、そんなものか。

 

 秘書のオーリーンは従者の報告にうなずくと、エディットへ視線を移した。

 

「奥さま、いかがなさいますか。イヴォン街の本宅の見取り図は、すでにボリスが手に入れておりますが」

 

 エディットは首を振った。

 

「いや、まともに追いかけては、こちらが疲弊する一方だ。向こうもそろそろ辛抱の糸が切れるころだろう」

「僕たちから攻め込むんじゃないんですか?」

 

 俺も尋ねてみる。前に彼女は「攻めに転じる」と言っていた。てっきりこちらから攻撃を仕掛けると思ったのに。

 

「わたしたちは人数が少ないからな」

 

 と、エディットは穏やかな笑みを見せる。

 

「正面から当たっても勝ち目はない。だから、今のうちにダーヴィドのやる気を()ぎたいと考えている」

 

 ダーヴィド本人が、セドリック=エレメントルート卿殺害事件に直接関わったとは思えない。おそらく彼は、仮面の男に頼まれて『証拠の手紙』を奪う手助けをしているだけだ。

 

 たやすい仕事、と気軽に引き受けたのだろう。俺たちの住む本邸は使用人が少なく、一見警護もゆるやかである。なのに手紙は手に入らない。それどころか彼は今や、俺たちの標的だ。

 

 ダーヴィドは、香具師(やし)の元締めだ。地回りの露天商や大道芸人たちをたばね、商いの場所や売りものの世話をして()()()()料を取るのが商売だ。王都の人々からこうも目の(かたき)にされては、本業が成り立たなくなる。仮面の男が出す報酬がいくらなのかは知らないが、これではわりに合わない──そう考えても、おかしくない状況になってしまった。

 

 というか、そうなるようにエディットが仕向けたのだ。

 

「わたしたちには、なにかの期限があるわけじゃない。こうしているうちに、やつが手を引いてくれるとあとが楽なんだが……」

 

 さすがにおとなしく引っ込みはしないだろうが、と、エディットは笑う。

 

 ──カツ、カツ。

 

 玄関から、大扉をたたく音がした。

 

 カツ、カツ、カツ。

 

 ノックは急かすようにくり返される。執事のワトキンスが居間を出ていった。こんな遅い時刻に、誰だろう。

 

 大扉が開き、次いで閉まるのは、ベルの音でわかる。やがてワトキンスが戻ってきた。黒々とした闇のまなざしが、俺たちを順にめぐる。

 

「エディットさまへ、お目にかかりたいと申すものが参っておりますが」

 

 オーリーンが眉をひそめる。「誰だ?」

 

「本人は、ダーヴィドの使者であると申しております」

 

 ざわっ、と、その場の空気が動いた。

 

「…………」

 

 エディットは、わずかに瞳を細めただけだ。ワトキンスは慇懃に頭を下げた。

 

「見る限り、連れはおりません。いかがいたしましょうか」

「よし、通せ」

 

 エディットは、すぐに立ち上がった。

 

 ワトキンスが来訪者を応接間へ案内している。こちらからはエディットと俺、オーリーン、護衛にグレイが立ち会うことになった。

 

「……おくつろぎのところを、お邪魔しますよ」

 

 面長で、ひょろりと痩せた男が一人待っていた。年は三十になるかならずか。もちろんグレイほどではないが、背が高く、やや前かがみの猫背。堅い商家で金勘定でもしていそうな、真面目な顔立ちをしている。金褐色の髪をきちんと分けて、ピンと襟の張ったシャツに垢ぬけた上着が、いかにも都会っ子だ。

 

「あたしはステファノと申します。ダーヴィド親分の使いで参りました。以後お見知りおきを、エディット姫、それに──」

 

 狼の目のような琥珀(こはく)色の瞳が、俺を見る。笑ったようだ。「……エレメントルート伯爵」

 

 手ぶらである。こちらの陣地に単身乗り込んできたのだ。頼りなげに見えても相当の度胸があると思ったほうがいい。俺とエディットは椅子にかけた。ステファノと名乗る男は座ろうとしない。

 

 案内した執事は去った。グレイが出口をふさぐように扉の前へ立つ。オーリーンは両手を後ろ手に組み、ステファノに歩み寄った。

 

「使者と言ったな」

「ええ」

 

 ステファノは頬に苦笑のような笑いを浮かべた。若く見えるが、口の端のしわが分別ある年齢を思わせる。その笑みを顔に貼りつけて、彼は口を開いた。

 

「単刀直入に申し上げましょう。親分は、()()()()()()()とおっしゃっていましてね」

 

 丸まっていた背筋を伸ばす。そうすると、向かい合う秘書と同じくらいの背丈がある。

 

「和睦だと?」

 

 銀縁眼鏡の奥の、オーリーンの冷徹な瞳は変わらない。エディットもいっさい表情を変えることはない。

 

「そろそろ勘弁してやろうと思っちゃいただけませんかね? あたしらは、充分痛い目にあった」

 

 こんなに悪い評判が立っちまったら、やりにくくってしようがない、と、ステファノは首を振る。

 

「親分には手を引くおつもりがありますよ。どうすればお許しいただけます? 本人からじかに詫びを入れさせますか? それとも、お屋敷を直すのにかかった費用を、全額弁償しましょうか?」

 

 あわれっぽく、許しを()うように両手を広げてみせる。まるでこっちが脅していると言わんばかりの弁明だ。

 

「どちらも無用だ」

 

 秘書は険しく言い放つ。ダーヴィドから謝られたところで、なにがどうなるわけでもない。ましてや改装にかかった費用など、エレメントルート伯爵家の財力をもってすれば、()()()()も同然の金額だ。払ってもらう必要など、微塵もありはしない。

 

「でしょうねえ」

 

 ステファノも本気で言ったわけではなさそうだ。

 

「残念ながら、あたしたちは大金持ちのお貴族さまが喜びそうなものなんて、なんにも持っちゃいませんからね。──ただひとつを除いてはね」

 

 真面目そうに見えた面差しに、ひどく狡猾(こうかつ)な、よこしまな影が混じる。

 

「……取り引きをしませんか」

 

 狼の瞳が輝きを増す。ステファノは、自身の薄い唇を舌先で湿した。

 

「教えてあげますよ、あんたたちの知りたいことを。それで手打ちにしませんか?」

 

 ()()()()()()()()()()

 

「われわれの知りたいことがなにか、知っているのか」

 

 オーリーンは中指で銀縁眼鏡を押し上げる。ステファノはにたりと笑う。彼が話に乗ってきたと思ったようだ。

 

「もちろん。エディット姫のお父上を殺しなすった下手人だ。違いますか?」

 

 ふいに──

 

 エディットの横顔から、血の気が消えた。秘書の声音が低くなる。

 

「……知っているのか、おまえが」

 

 ステファノは、あっさりとうなずいた。

 

「伯爵さまは、お会いになったと伺いましたよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 心臓が痛くなる。息が苦しくなる。俺はエディットの手の甲に、手のひらを重ねる。冷たい彼女の右の手は、俺の左手を強く握り返してくる。

 

 俺が会った男とは、ダーヴィドの館で対した、仮面の男のことか。彼が、セドリック=エレメントルート卿を殺害した犯人なのか。

 

「あの男が義父上(ちちうえ)を……手にかけたんですか」

 

 俺の問いに、ステファノはわざとらしく肩をすくめてうそぶいた。

 

「さ、あたしはそう聞いていますがね。本当のところを知りたけりゃ、ご本人に尋ねてみてはいかがです?」

「あの男が誰なのかは知っているんですね?」

「まあね」

 

 仮面の男はフィリップ=レールケ伯爵、と俺たちは考えている。変装した俺と爵位授与式で会っていて、かつ、俺がダーヴィドの館に捕らわれた日時に、在宅証明(アリバイ)のない人物。背格好や瞳の色の相似、二人ともに魔法が効かない様子があり、ダーヴィドと連絡を取っていること──状況証拠はいくつもある。けれど、確証はない。

 

 確かに、知りたい。本当にレールケ伯爵が仮面の男なのか。そして十四年前、エディットの父親を刺したのは、彼なのか。夜半の主宮殿で、血を流して倒れたセドリック卿をそのままに立ち去ったのは──

 

 エディットが瞳を上げた。「教えてくれ」

 

「奥さま」

 

 オーリーンの制止の声は、彼女の耳まで届いていない。

 

「ステファノと言ったな。教えてくれ」

「エディット」

「カイルが会った、仮面をかぶった男は誰だ」

「エディット、待って」

 

 俺は急いでステファノへ向き直る。「少し、時間をもらえませんか?」

 

「かまいませんよ。ですが、長く待たされるのは困ります。うちは今、坂道を転げ落ちてる真っ最中なんでね」

「三日ください。それまでに考えます」

「だめだめ。そんなにかかってちゃ、うちの縄張りは東部のヴォルフ一家に根こそぎ持っていかれちまう」

「じゃあ、二日。これ以上は譲れません」

「いいでしょう」

 

 ステファノはうなずいた。とっさに二日と言ってしまったが、長かったのか短かったのか──エディットは、固く唇をかみしめていた。握った手から小刻みな震えが伝わってくる。彼女が落ちつきと、いつもの冷静さを取り戻すのに、二日で足りるだろうか。

 

「返事はイヴォン街の、オスカー・オスヴィンの店へよこしてください。日時と場所を打ち合わせましょう。話は親分が直接お会いしたときに」

 

 それで彼の役目はすんだようだ。ステファノはきびすを返す。扉の前に立つグレイを、陰湿な上目でにらみつける。「……さっさとどきなよ」

 

 グレイはちらりと秘書を見た。オーリーンがうなずくと、魔法剣士は長い脚で一歩、左へずれた。

 

「──あ、そうそう。忘れるところだった」

 

 去りぎわ、香具師の元締めの使いは、振り向きもせずに言い置いた。

 

「親分とお会いになるときには、()()()()()()()()()()()()、お願いしますよ」

 

 例の手紙──

 

 痩せた猫背と金褐色の髪が、視界のすみから消えた。オーリーンがグレイをともないあとへ続く。

 

「エディット」

 

 こっちを向いて。

 

 やっと俺の声が聞こえたのか、エディットは金縛りが解けたように大きく息を吐き出した。

 

「カイル……」

「はい」

「ついに、きたな」

 

 強く抱きしめられた。せつなくなるほど激しい鼓動を聞いた。彼女の長い吐息は、まだ震えを帯びている。当然だろう。俺は彼女の背へ腕を回す。だが──

 

 ダーヴィドはエレメントルート伯爵家と和睦したがっている。ステファノはそう言った。もう手打ちにしたいと。だから、自分たちの後ろにいる仮面の男の正体を教えると──つまりそれは、仮面の男とは手を切るという意味ではなかったか。

 

 だったら、どうしてダーヴィドはまだ『証拠の手紙』を欲しがるんだ?

 

 

 

 

 

 


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