──エディットが。
熱を出した。
「旦那さま、大丈夫ですよー。もうすぐお医者さまがいらっしゃいますからね」
あっけらかんとさえ聞こえる口ぶりで、侍女のバルバラが言う。
ダーヴィドの使者、ステファノと名乗る男が訪れた翌朝だ。目が覚めると、隣にいるエディットの体が熱かった。ほっぺたを赤くして、とても苦しそうで、俺は大あわてで飛び起きた。
粛々と医師が招かれた。俺を除いて誰一人取り乱すものはいなかった。エディットが王都にきた六歳のころからの
「なに、ご心配には及びません。少々お疲れになっただけでしょう」
なんて言われたから、安心してもいいのかな……と、ようやく思うことができた。
うろたえる俺をよそに、みんなはてきぱきと頼もしい。下男のマイルズがたくさんの薪を割って、暖炉の炎を大きくする。グレイは魔法で水を凍らせ、バルバラが
みんなが出ていったので、寝室は静かになった。薬が効いて眠るエディットの寝息が、かすかに聞こえるだけだ。
「…………」
巨大なベッドの真ん中に、ぽつんとエディットが横たわっている。俺は彼女の顔が見える位置まで椅子を運び、腰をおろして本を開く。こうしていれば、彼女の容体が変わったらすぐわかるもの。
こんなときは、今までに何度も読んだお気に入りを読むに限る。話の筋は頭に入っている。どこから始めてもどこでやめても、まったくかまわない。エディットの様子をうかがいながら、簡単に物語に出入りできる。
──あれ。
目を上げると、彼女はこちらに背を向けていた。寝返りを打ったのか。
しかたがない。俺はもういっぺん椅子を抱え、本を小脇にはさんで反対側にぐるっと回る。エディットは瞳を閉じて眠っている。
一度、暖炉へ薪をくべに立った。戻ってみれば──あ、また、あっちを向いちゃった。
おかげで額の上につるした氷のうがずれていた。普段の彼女は寝相がいいから、きっと熱のせいで眠りが浅いんだな。
天蓋付きの豪華なベッドは、むやみやたらと広い。手を伸ばしたところで届きやしないので、俺はよつんばいになって、揺らさないよう、なるたけ静かに彼女の枕元へ、
「…………」
氷のうを
──仮面の男がセドリック卿を殺した犯人だ、と、ステファノは言った。少なくとも、彼はそう聞いていると。
小さいころから、必ず探すと思いつめていた父の
赤らんだ頬に、ほつれた黒髪がひとすじ落ちている。それを指先で、そうっとのける。
「…………」
前にも、同じようなことがあった。
『
「……………………」
……いやいやいや。
だから、なにを考えているんだ、俺は。
エディットは具合が悪いのだ。寝かせておいてあげなくちゃ。
しかし──
こんなふうに弱りきった彼女を見るのは初めてだ。なんというか、こう、非常に庇護欲をそそられるではないか。
……
あの夜、銀星館の老館主ラウラが、俺のそばで歌ってくれた、癒やしの歌。
俺は腕を組んで考える。──待てよ。王子さまが
「……カイル」
いつのまにか、エディットが氷のうを持ち上げて、こちらへ顔を向けていた。
「だめだぞ」
も、もしかして、ずっと起きてたの?
「うつったら、どうする」
俺をにらむ
「……先生は、ちょっと疲れただけだっておっしゃってました」
つまり、風邪じゃない。風邪じゃないんだから、なにをしてもうつらないと思うけど?
エディットは、ふーっと息を吐き出した。身を起こそうとするので、背に枕を入れて体を支えるようにする。分厚い毛布で肩までくるんであげると、うるんだ瞳が俺を見る。
「……一回だけだからな」
「え」
一回だけ? 風邪じゃないのに?
俺はかなりな上目になっていたと思う。風邪ではないはずなのに、エディットは、ゴホ、と咳き込んだ。ますます顔を赤くする。
「に、二回だ。それ以上はだめだ」
二回かあ……
俺は彼女のうなじへ手を添えた。額に額をあててみると、まだ熱い。赤く染まった頬に頬を寄せても、乾いた唇に唇を重ねても。──これで一回。
俺にうつせば、きっと治る。だから、もう一回。
水差しの水をグラスへそそいで手渡すと、エディットはひと口飲んで笑みを見せた。
「心配をかけて、すまない」
「いいえ」
俺は首を振った。エディットの瞳の光がいつもより力なく感じられて、せつない気持ちになる。
「……考えていたんだ。ゆうべの男の申し出に、
ステファノが言った「取り引き」のことだ。──仮面の男の正体を教える。その代わり、俺たちはダーヴィドと和睦する。
エディットは取り引きに応じるつもりなのだ。期限は明後日。イヴォン街のオスカー・オスヴィンの店まで、返事を伝える必要がある。
「誰に行ってもらうか、決めたんですか?」
「うん。グレイに頼もうと思う」
ダーヴィドの配下には魔法使いもいる。魔法剣士のグレイなら、なにがあってもおおかたのことに対処できる──と、エディットは言う。なるほど確かにその通りだ。
だから、俺は言った。
「僕も行きます」
ぱちり、と、エディットは目を閉じた。すぐに大きく見開く。「……なに?」
「
「なぜ?!」
「そんなに大きな声を出したら、また熱が上がりますよ」
「絶対にだめだ!」
即決のうえ、即答だ。少しくらい検討してくれてもいいじゃないの。
──親分とお会いになるときには、『例の手紙』をお忘れなきよう、お願いしますよ。
ステファノの去りぎわの
例の、とは、『証拠の手紙』のことだ。セドリック=エレメントルート卿を殺害した犯人や、黒幕は誰なのかが書いてある……と思わせている偽手紙。ダーヴィドはエディットから『手紙』を奪おうとしていた。
仮面の男の正体を教える。つまり、仮面の男を裏切ると言った舌の根も乾かぬうちに、『証拠の手紙』を持ってこい、とステファノは告げた。ダーヴィドは俺たちをだまそうとしている。『手紙』を取り上げたあげく返り討ちにするつもりだ──これが秘書をはじめとして、昨夜の俺たちの総意である。エディットも大いに唇を曲げつつうなずいた。
非常にうまいやり口だ。オーリーンは慎重になるべきだと言うが、どんなにあやしいと思っても、エディットはダーヴィドの申し出を受けるだろう。仮面の男が誰なのか、確証を得る方法はほかにない。
それに彼女は、王都の人たちを巻き込む恐れのある抗争が長引くことを、好まない。
「僕には、
エディットも一度、
「カローロには、僕の怖いものがわかります」
「怖いもの?」
「はい。僕が怖いと感じるものが近づくと、教えてくれるんです」
いいよね、カローロ。エディットには話しても。
彼は俺が『恐れ』を
「今の僕は、ダーヴィドからだまし討ちにされることが一番怖いんです」
相手の言葉に偽りがないか、信用しても大丈夫か、俺にならわかる。
「一人で行くなんて言いません。グレイさんといっしょに行きますから」
「…………」
エディットは、恐ろしく真剣なまなざしで考え込んでいる。もう少し、熱が下がってから言ったほうがよかったかな。
「……ボリスも連れていけ」
行ってもいいの?!
「はい! そうします!」
あの人なら腕も立つし、下町にもくわしいし──俺は勢いよくうなずいた。けれどエディットは、まだ険しく眉を寄せている。
「……ネロもいたほうがいいな」
ん?──そりゃ、巨漢の料理長は、体に見合った剛力の持ちぬしではあるけれど。
「バルバラも行かせよう。マイルズもいればなにかと役に立つ。ワトキンスの弓の腕は確かだ。いや、わたしもカイルといっしょに行く」
「ちょ、ちょっと待ってください」
そんなことを言い出したら、きりがない。留守番は秘書一人になっちゃうじゃないの。
「だめですよ。エディットは大将でしょう? うちにいてくれないと」
「この家の当主は、カイルじゃなかったのか?」
エディットは不満たっぷりだ。このあいだ、当主は俺だと言ったことをまだ根に持っているようだ。
「『手紙』があるんですから、屋敷をからっぽにはできません」
「持っていく」
子どもみたいに唇をとがらせる。しょうがないなあ、もう。
「ダーヴィドと会う前に持ってくるなんて、向こうも考えていませんよ。せっかくきれいに直したのに、また荒らされたらどうするんですか」
「………………」
とがったままの口で黙り込む。でも、瞳がぜんぜん
「あの二人だけで、大丈夫です」
グレイのほかにドワーフおじさんもきてくれれば、鬼に金棒だ。万一屋敷が襲われても、ほかのみんながいるし、エディットだってあさってまでには元気になる。この人は強いんだもの──俺は彼女の肩に肩を寄せ、頬に接吻する。
「こんなのただのお使いです。ダーヴィドと会う日時と場所を決めるだけなんですから、うちで待っていてください」
お願いだから、いい子にしてて。
すねた瞳が、ちら、と俺を見た。そんな目をされちゃうと、俺も──
わっ。
熱があるとは思えない強い力だ。俺は腕を引かれて、たちまち彼女の膝へ横倒しになった。
「少し、休む」
ど、どうぞ。
瞬く間に、夜具の下へ引きずり込まれてしまう。俺の耳元で、エディットがつぶやく。
「……カイル」
「はい」
「そばにいてくれるか」
「はい、います」
それで彼女の腕が、少しだけゆるんだ。
安心して。俺はここにいる。あなたが眠るまで、眠ったあとも、ずっと離れずにいるから──
やがて、エディットの穏やかな寝息が聞こえてきた。俺も彼女の胸に
◆◇◆
──王都南部の下町、イヴォン街。
「よろしいですか、旦那さま」
ドワーフおじさんが、こちらを振り返る。
さすがだ。彼は丈は低いがたくましい。ちょっと髪を乱し、ずんぐりした体に少々破れの目立つ
魔法剣士のグレイも似たり寄ったりの格好だ。そうすると、いかにも剣の師匠と若い弟子、といった二人組になる。弟子がびっくりするほど背高なのは、ご愛敬だ。
俺はといえば、つば付きの丸い帽子で赤毛をすっぽり覆い隠してしまった。肘に
剣の師弟と靴磨きの少年、とは、あまり脈絡のない組み合わせである。いっそ俺も小剣を腰に帯び、孫弟子を気取ってみようかとも考えたのだ。が、意外に重たいのでやめにした。
俺たちはグレイが御者を務める馬車で隣町まで行き、そこから歩いてイヴォン街に入った。行き先の店の場所は、ドワーフおじさんが知っていた。いわゆる酒場であるという。
「旦那さま、私たちのあいだにいれば、大丈夫ですからね」
グレイが励ますように言ってくるが、そう見くびってもらっては困る。俺だって下町が初めてではない。ならずものと同じ釜の飯を食ったことさえある。
「しかし、『旦那さま』とお呼びするのはよくないな」
旅の剣士が顔をしかめて腕を組むと、若い弟子もうなずいた。靴磨きの俺としても賛成だ。そんな呼ばれかた、誰かに聞かれたらせっかくの変装が台なしだ。
「本名だと、ばれちゃいそうですしねえ」
今日だけの呼び名をつけましょうか、と、グレイが首をひねった。近ごろの俺は、王都でちょっとした有名人なのだ。
「レオンハルトでお願いします」
と、俺は答えた。そろって目をぱちくりさせた二人へつけ加える。「
「……どなたのお名前でしたっけ?」
先に歩き出した俺を、グレイが長い足で追いかけてくる。
「僕の三番目の兄です」
「はあ、そうでしたか」
従者二人は、どこかけげんそうながらも、俺の左右にならんできた。──この三人で、オスカー・オスヴィンの店とやらに向かうのである。