カタコトと揺れる馬車の中、ダーヴィドはふと、向かい合わせに座る男へ声をかけた。
「……正直、おまえさんがくるとは思わなかった」
「ほう、なぜだ……?」
まるで肺病持ちの老人が笑うように、独特のしわがれた声が問う。
「おまえさんは、あの坊やがえらくお気に入りだったじゃないか」
「気に入った、と言った覚えはない……俺は昔の義理を果たしただけさ」
「ふん」
ダーヴィドは不満そうに鼻を鳴らす。相手はくつくつと笑った。「報酬に見合う働きはしているつもりだがな……」
「どうとでも言うがいいよ」
いまいましげにつぶやいて、ダーヴィドは車窓の外へ目を移す。
◆◇◆
「ワトキンスは
本邸一階の居間である。秘書のオーリーンが銀縁眼鏡を押し上げながら名を出すと、黒服の執事は前へ進み出て一礼した。
「ネロ、おまえもだ」
続いて呼ばれた巨漢の料理長は、愕然と顎を落とした。
「そんな! 俺も行きますよ!」
「おまえの料理でもてなすような相手ではない。本邸の留守を守れ」
とりつく島もなく言い渡され、ネロの大きな体は、かわいそうなくらいしょんぼりしてしまう。
マイルズとバルバラが瞳をうるませ、両手を組み合わせて、ふるふると首を振っている。オーリーンは大きく息を吐き出した。
「マイルズ」
「へいっ!」
「おまえは伝令だ。なにかあれば別邸と本邸を行き来してもらう。いっしょにこい」
「へ、へいっ!」
四十男の下男がおどり上がった。次いで、オーリーンは小柄な侍女へ目を向ける。
「バルバラは──」
「行きます!」
「侍女なら別邸にも──」
「絶対に行きます!」
らんらんと輝く気合いに満ちたまなざしに、これは言いふくめるのが面倒だと思ったのかもしれない。オーリーンはうなずいた。
「おまえは奥さまのお世話係として同行しろ」
「ありがとうございます!」
うしっ、と、バルバラは腰の両脇でこぶしを握りしめた。メイド服の侍女らしからぬ彼女の構えを見て、留守番を言いつけられたネロは心底うらやましそうだ。
本日の午後、別邸でおこなわれるダーヴィドとの会談に、エディットが出向く。秘書は当然として、二人の従者も警護のために付き従う。本邸のそなえには、別邸から家士が数名派遣されてくる。
会談に同席できるのは、三名までだ。さて、俺はといえば──
エディットは長椅子に足を投げ出し、秘書とみんなの様子を見つめていた。その視線をさえぎるように、隣から俺がのぞき込むと。
「……………………」
じろりと見られた。俺も負けじと、目尻の切れ上がったきつい瞳を見返した。
俺は行くよ? 連れていってくれないなら、一人でだって、こっそり行っちゃうからね?
ふーっ……と、やけに長々しいため息をつかれてしまった。
「カイル……」
「はい」
「だめだと言っても、ついてくる顔だな……」
「ええ」
ご理解いただき、ありがとうございます。──俺は背筋を伸ばす。俺がエレメントルート伯爵、エディットの夫なのだ。彼女の父親を殺害した犯人にまた一歩近づける。この大事な局面に、俺が行かずにすませられると思うのか。
「……わかった」
いかにも音を上げた、というふうに、彼女はとうとう首をうなずかせた。
「向こうに着いたら、わたしから離れるな」
「はい」
「いいか、なにがあってもだぞ。やつらがどう出るのか、まだわからないんだからな」
「わかってます」
俺って信用ないんだなあ。オスカー・オスヴィンの店まで会談の日取りを決めに行ったとき、ちょっとした小競り合いがあったことはエディットにも話したのに。従者たちからも、俺がそれなりの
まあ、話していないできごともあるけど……と、俺は金髪の美少女の、誘うような笑みを思い出す。
ダーヴィドがなにか仕掛けてくるのか、まだわからないのは事実である。そのため、向こうの要求通り、『証拠の手紙』は持参することになった。作り直したばかりの偽手紙は、秘書の上着の内ポケットに収められた。
皆で出かけようとしたときだ。ワトキンスが俺を呼び止めた。
「旦那さま、エディットさまを、どうぞよろしくお願いいたします」
髪に霜を置いた五十がらみの執事は、黒々と光るまなざしで言う。
「あの晩、お出かけになる大旦那さまをお見送り申し上げたのは、私です」
きっと、一日も忘れたことはないのだろう。──ワトキンスは俺に向かって深々と頭を下げた。
別邸へ、俺たちは馬車で
王宮で書記官を務めていたセドリック卿と、王女だったエルヴィン夫人。おばあさまは長いあいだ、二人の恋に反対していた。だが、彼らが結婚するとき、美しい館を贈った。広々とした白亜の建物を噴水のある庭園が取り巻き、春になれば多くの花々が咲き乱れる。
本邸からはおよそ一時間の道のりだ。車寄せまで出迎えてくれたのはサウロといい、豪快に笑う五十がらみの親父さんである。会談は応接間でおこなわれる。俺たちは、居間でダーヴィドの到着を待つことになった。
同席するのはステファノがきた晩と同じ、オーリーンと、魔法剣士のグレイだ。ドワーフおじさんは扉の外で警護に立つ。
──カイル。
『くるぞ』
カローロが俺に警戒をうながした。──くるぞ、あの男だ。
あの男だ。
コンコンコン、と、ノックの音がして、厳しく顔を引き締めたサウロが現れた。
「きました」
ついに待ち望んでいた客が訪れたのだ。俺たちは立ち上がった。手のひらに汗がじんわりとにじんできて、俺は上着の裾を握りしめる。
──本当は知っているんだろう? 手紙はどこに隠してある?
脳裏に
あいつは、何度も俺を殴った。鉄格子のはまった暗い暗い地下牢。あいつは俺を人質に使うつもりだった。執拗に、わざと見えないところを選んで、くり返しくり返しくり返し──
口の中がからからに乾き、唾を飲み込むことすらできない。戸口に向かおうと足を踏み出したが、くらりと目まいがする。のめるように前へ倒れるかと思ったとき──俺の体は、力強い両腕に支えられていた。
「カイル」
……ああ。
彼女が俺を呼ぶ声は、とても優しくて、とてもきれいだ。
「大丈夫だ。わたしがいる」
「は、はい」
後ろから抱きしめられた。俺を守ろうとするように──俺の短い赤毛に、彼女が頬を寄せてくる。
「しばらく、こうしていよう」
「え、でも」
「やつらは待たせておけばいい」
耳元で、彼女は少し笑う。「……こうしていよう、カイル」
「……はい」
俺は足元の絨毯に描かれた模様へ、目を落とした。
俺の背に、ゆったりと穏やかなエディットの心音が伝わってくる。喉が締めつけられるように苦しかったのに、彼女の髪の甘いにおいが、俺の呼吸を楽にした。少しだけ高い彼女の体温が俺の体に流れ込み、温めてくれる。
互いの鼓動が同期したと感じるまでのあいだ、俺たちはそのままでいた。オーリーンとグレイがそばにいることなんか、頭の中から消えていた。
いつまで待っても俺たちがこないから、ダーヴィドはいらいらしているかも──そう思ったら、おかしくなった。俺は、胸元へ回されたエディットの腕を押さえた。
「もう、平気です」
「そうか?」
あ、なんだかつまらなそう。俺はつい笑ってしまった。こわばっていた頬が、自然にゆるむ。自分でもわかる。
このままでいたい。でもこれ以上お客さまを待たせるのはよくないだろう。エディットの腕をほどいて振り返る。手指に指をからめる。
「行きましょう、エディット」
「うん」
彼女が微笑むから、俺は安心する。俺たちが扉へ向き直ると、グレイがノブに手をかけた。
ダーヴィドが待ち受ける応接間へ──
年を取ってはいるが、がっしりした体つき。灰色の髪は豊かで、大きな鼻と、彫りの深い顔立ち。ダーヴィド──まごうことなき彼だ。
こちらを
「これはこれは、エレメントルート伯爵……」
俺たちが入っていくと、いくらか腰を低くする。不気味にものやわらかな声音と笑みも、俺が覚えているそのまま。
約束通り、連れは三人だ。一人は本邸を訪れた使者、ステファノ。もう一人は見知らぬ若い大男。最後の一人は──
わかっていた。武器を持つなと言えば、武器などなくても戦えるものを連れてくる。大男を選んだのは、腕っぷしの強い用心棒が欲しかったんだろう。そして、こちらにも魔法士がいることは知られているから。
グレイはいつものように飄々と、
深くかぶったフードが顔を隠している。あいだから腰まで伸びる、真っ白な長い髪。
俺がダーヴィドの館で
「かけなさい」
オーリーンが来訪者たちへ、会談の始まりを告げた。
ダーヴィドとステファノは、卓をはさんでエディットと俺の向かいに腰をおろす。大男は威嚇するように秘書をにらみつけ、ダーヴィドの後ろに立った。
デメトリオは、椅子にかけたダーヴィドのかたわらだ。それぞれが落ちつくのを待ち、ダーヴィドはおもむろに口を開いた。
「お初にお目にかかりますな、エディット姫。おうわさ通り、たいそうお美しい」
「…………」
エディットはなにも答えない。本邸の居間にいるときと同じように脚を組み、長椅子の背へ片肘をかけただけだ。
「……ずいぶんと手ひどい仕打ちを受けましたよ」
香具師の元締めは、毒気をはらんだ声音である。ドワーフおじさんが中心となり、ダーヴィド一家の悪評を、王都中にふりまいた。おかげで彼の本業は、かなりの打撃を受けている。
「それはこちらも同様だ」
冷ややかに返したのはオーリーンだ。本邸は彼らにより襲撃を受けた。ダーヴィドは首を振る。
「もう一度攻め込むことなど、たやすかったのだがね。平民どもを
秘書の片頬が、ぴくりと上がる。あれは彼の微笑みだ。改装のため、多くの職人や商人たちが昼夜を問わず本邸を訪れた。そこへ再び火を放ったり、襲撃をかけるなどできなかった、と、ダーヴィドは言ったのだ。
「まあまあ、今後の話をしませんか」
ステファノが、ダーヴィドとオーリーンを見比べ、とりなすように言う。オーリーンは眉を片方つり上げた。
「今後とは?」
「そんな昔の話をしたって、
「いいだろう。和睦を結びたいと申し出たのは、おまえたちだ」
コツ、コツ、コツ、コツ──秘書が歩き回る、靴の音。
「では、聞かせてもらおうか」
「なにをです?」
「われわれに教えると言ったな。おまえたちの後ろにいるものの、名前だ」
俺がダーヴィドの館で会った、仮面の男の正体だ。
「ええ、それはもちろん。ですがね、そいつを教えたらどうなるってところを、先に聞かせてもらわなくちゃ」
「どうなる、とは?」
ステファノは芝居がかったしぐさで両手を広げる。
「教えたら、あんたたちはあたしらに、なにをしてくれるのかってことですよ」
「声明でもなんでも出してやる。エレメントルート伯爵家は、ダーヴィド一家と和解したと」
「どんな方法で?」
「おまえたちが望む方法を取る。辻ごとに高札でも立てるか?」
「ぜひともそう願いたいね」
「……では、先にお触れを出してくださったら、お伝えしましょう」
「なに?」
「言った通りですよ。──
ダーヴィドは、腕を組んで黙り込んでいる。エディットも眉ひとすじ動かさない。オーリーンは首を横に振り、突き放すように言い捨てた。
「論外だ」
「条件が飲めないんなら、この話はなしだ。いいんですか? あの男が誰なのか、知りたいんでしょう?」
「かまわん。われわれはもう、知っているからな」
「ご冗談を」
さすがにステファノは笑い出した。こちらへ瞳を向けてくる。
「伯爵さまがお会いになったときゃ、仮面をつけていたでしょう。あの人は、あたしらにもめったに顔を見せないんだ。──顔も知らない相手の名前を、知りようがあるもんか」
「その通りです。顔は見ていません」
と、俺は答えた。俺が見たのは頭からすっぽりかぶった黒い仮面。濃い茶色の双眸。高い背丈と、痩せぎすの体つき。それだけなのは、間違いない。
しかし、仮面の男は、俺が『エレメントルート伯爵』だとすぐに気づいた。
「あのころ、僕は『伯爵』として人前に出るとき、姿を変えていました」
金髪のかつらをかぶり、上げ底の靴を履いていた。俺は、大きく息を吸いこむ。
「だから、僕たちは調べたんです。──変装した僕と会っている貴族を、すべて」