「調べた……?」
ステファノの瞳の
はは、と、彼は乾いた声を立てて笑った。
「変装して会った貴族を、すべて……?」
「はい」
「なにを、馬鹿な」
相対したのは、ただのひとたび。それもわずかな時間。俺が仮面の男の声を聞いたのも、ほんの数言。──けれど、俺の本当の姿を見て、ひと目で『エレメントルート伯爵』と見破れた人物には限りがある。
「貴族じゃないかもしれないだろう!」
ステファノは強く首を振る。
「あんたは結婚式のとき、王都中のもんに姿を見られている!」
「確かにそうですね」
大聖堂を
「ははあ……」
ステファノの口の端に、こすからい笑みが浮かんだ。唇のあいだから、ちろりと赤い舌先がのぞく。
「わかりましたよ。あんたらは、こいつと目星をつけた相手はいても、確信が持てないんだ。違いますか?」
仮面の男は、
──ふいにダーヴィドが、胸の前に組んでいた腕をほどいた。
「……誰だと思うのかね?」
「親分」
「知っているなら言えばいい」
まるで獲物に狙いを定める獰猛な鷲だ。鋭い視線が、俺をねめつけた。
「言ってみなさい。あのおかたが誰なのか、さあ」
あの目に呑まれてはだめだ。「それは」
「カイル」
エディットが、膝の上で握った俺のこぶしに手を置いた。
口に出しては、いけない。
「……まあ、いい」
鷲の双眸で俺を見据えたまま、ダーヴィドは深く息を吸い、吐き出す。
「そこまで言うからには、自信があるんだろう」
「ええ、あります」
「私が嘘をついたら、どうする」
俺も目をそらさずに答える。
「あからさまな嘘なら、わかります」
「なぜ」
「変装した僕と会ったことのある貴族たちが、あの朝どこにいたかを知っているからです」
たやすく知れたわけではない。みんなが調べてくれたのだ。エレメントルート伯爵家の家士たちが手分けして一軒一軒を回り、聞き込んだ。
ダーヴィドはむっつりとつぶやいた。「……ライト侯爵」
「違います」
俺は首を振り、オーリーンがあとを引き継いだ。
「侯なら前夜、私邸で晩餐会を開かれており、翌朝もお泊りになった多くのかたがたに姿を確認されている」
「いいかげんなことを言えば、すぐにわかります」
挑発しないようにしなくては。俺は平静な声を出そうと
「私が言わないとしたら?」
「直接尋ねます。本人に」
「…………」
納まらない腹の虫をどうにか納めようとするように、ダーヴィドはしばらく無言だった。
「……ステファノ」
「は、はい」
「私はもう、
「親分!」
白い眉のあいだには、くっきりとしわが寄っていた。憎々しげな舌打ちとともに、老人は吐き捨てた。
「まったく馬鹿馬鹿しい。なぜ私がこんな」
「親分、いけませんよ!」
「なにがいけない。元々私は貴族同士のくだらん喧嘩になぞ、なんの関わり合いもないんだ」
「ですが」
「とんだ茶番じゃないか。ステファノ、帰るぞ」
「親分!」
「好きなだけ本人に尋ねればいいだろう」
「そうはいきませんよ!」
王都中に悪評が広まった彼らは、追いつめられている。ほかの香具師の元締めに、縄張りを奪われそうになっているのだ。
俺たちにはいくらでも時間がある。けれど、ダーヴィドはそうではない。
ステファノの瞳がきょときょとと動いた。連れに助けを求めるようだが、背後の大男は不機嫌そうな渋面を崩さず、微動だにしない。ダーヴィドのかたわらに立つ魔法使い──デメトリオも、ローブのフードを深くかたむけたまま、顔を上げようとしない。
そこへ、ノックの音がした。扉を開けたのは別邸の
「きましたよ。ざっと百人ばかり」
秘書は普段よりも大仰に、眉を片方つり上げた。
「ほう、百人もか。なにものだ?」
「見たところ、無法ものの寄せ集めといった連中です。前庭で小競り合いが始まりましたので、私はこれで」
大柄なサウロはきびきびと出ていく。──建物の外から人の叫ぶ声がする。徐々に大きく騒がしくなり、剣を打ち合わせる高い音が混じる。攻め込んできた集団に、家士たちが応戦しているのだ。
オーリーンはダーヴィドへ向き直った。
「和議を申し入れておきながら配下に攻めさせるとは、さすがのやり口だな」
「知らんよ」
ダーヴィドは居直るように、長椅子へふんぞり返る。苦いものを飲んだどころではない。これ以上ないほどのしかめつらだ。
俺の隣で、くす、と、エディットが笑った。
「あなたの手下以外ありえないだろう」
「知らんと言ったら知らん。第一、今日ここへくることはほかのものには伝えていない。──ただ、おまえさんがたと会うことに、いい顔をしない連中がいるから」
にやりとする。「私の知らないところで、強硬派がなにか
確かにオスカー・オスヴィンの店へ出向いたとき、ダーヴィドとエレメントルート伯爵家の和睦に反対する集団が襲ってきた。そうしたことがあったのは事実だが──俺の胸には、かすかなわだかまりが生まれる。
「くそったれ、どこのうすら馬鹿どもだ」
ステファノが口汚く
「あたしが止めてきます」
「いいじゃないか、やらせておけ」
ダーヴィドの瞳にずるそうな光が
「すまないな。このあいだあちらのお屋敷を荒らしたばかりというのに、今度はこちらとは」
くっくっくっ、と、声を出して笑う。「……あんたたちも、苦労が絶えないことだな」
「親分、そんなことを言ってる場合じゃないでしょう! 冗談じゃない、邪魔をされては困るんだ!」
ステファノは扉に駆け寄り、勢いよく開け放った。廊下で待ち受けていた中年従者を押しのける。
「どけ!」
ドワーフによく似たいかつい顔が、エディットを見た。彼女がうなずくので従者は一歩横へ引く。ステファノは足音高く走り出していく。
ガシャーン!!
窓ガラスが割れた。石が投げ込まれた、と思った。エディットが眉をひそめる。俺も、オーリーンも、護衛として控えるグレイも、音がした方向へ顔を振り向けた。──おそらくは、ダーヴィドも。
刹那。
ダーヴィドの背後に立つ大男が、動いた。
会談の席に、武器は持たない。彼らの体は、サウロが事前にあらためている。けれど、若い男の頑健な肉体は、それだけで充分な凶器となりうる。
そしてまた、言葉をあやつる魔法使いも。
「ぐっ……!」
大男の太い腕が、
……どうして?
一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。この大男は、ダーヴィドが連れてきた用心棒のはずだ。なのに、なぜ自分のあるじを?
真っ先に反応したのは、グレイだった。
今日、彼も帯剣していない。大男へ向け、ためらわずに右手を伸べる。だが、黒衣の影がすばやくあいだへ割り込んだ。
魔法使いは左手を掲げ、グレイが放った光弾を軽く払う。赤みを帯びた光の
「お、おい、きさ……まら……なにを……」
首を絞められるダーヴィドの顔が、みるみるうちに紅潮していく。彼がもがいて手足をばたつかせるごと、大男は歯を食いしばり、たくましい腕の筋肉がますますふくれあがる。
「まあ、落ちつけ」
笑いをふくんだしわがれ声が、誰に言うともなく告げた。痩せた右手がフードを持ち上げる。
若々しい黒いまなこがのぞく。デメトリオは、グレイにくるりと背を向けた。
「……『
抑揚のない呪文とともに、青白い光が
「ぎゃあーッ!!」
この場にいた誰にとっても思いがけないできごとだったはずだ。大男はダーヴィドから飛び離れた。右手を抱え、うめきながら床を転げまわる。驚きと恨みのこもったまなざしが、魔法使いを仰ぎ見た。
「畜生ッ、なにを、なにをするんだ! あんた──」
「誰がおまえたちの肩を持つと言った……?」
そのとき、外へ向かったステファノの、腹の底からしぼり出すような絶叫が応接間まで響いてきた。
「
ワアアッ──とたんに外からの声が、いちだんと大きくなった。ステファノの
「エレメントルート家のやつらが、だましやがった! 和睦を結ぶなんて、嘘っぱちだったんだ!」
──あっ!
ダーヴィド殺害こそが、ステファノの目的だったのだ。さらにはそれを、俺たちのしわざだと思わせようとしている。
「早く行ったらどうだ……」
デメトリオがぼそぼそとつぶやいた。
「このうえ屋敷が踏み荒らされてもかまわんのなら、無理にとは言わんが……」
オーリーンがうなずく。グレイがただちに駆け出した。ドワーフおじさんから剣を受け取り、外へ向かう。
エディットに腕を取られた。「カイル! 行くぞ!」
「は、はい!」
エディットも剣を手に走り出す。俺は必死でついていく。開け放たれた玄関扉の外に出て、目を
ステファノの姿は、ダーヴィドが乗ってきたとおぼしき馬車の御者台にあった。猫背を伸ばして立ち上がり、三下どもを鼓舞している。──今、別邸の家士は三十名に欠ける。キトリーから選りすぐりの精鋭が集められているが、敵はサウロの報告通り三倍を超えるか。
「グレイ! 殺すな!」
エディットが大きな声を出した。長い足で石段を駆け降りた魔法剣士は、抜き放ったつるぎを高々と掲げ、陽気に叫んだ。
「お任せあれ!」
そして、振り下ろす!
ドォォォン!!──轟音とともに、前庭へ幾筋もの地割れがジグザグに突っ走った。雪がこいを解いたばかりの生け垣が、二つ三つ吹っ飛ぶ。やくざどもは悲鳴をあげて左右に散った。
「魔法士だ!」
「化けものを呼んだやつだぞ! 逃げろ!!」
「おいっ!」
血相を変えた一人が御者台へ取りすがり、ステファノの足首をつかんだ。
「話が違う! 魔法士は抑えられるって言ったじゃねえか!」
「うるせえッ!」
ステファノは、男を蹴り落として金切り声をあげた。
「デメトリオ! てめえ、裏切ったな!」
振り返れば、ローブの裾をさばきつつくるデメトリオと、その後ろはダーヴィドだ。悪運強く生き延びたようだ。しきりと手で喉をさすっている。
デメトリオは笑う。
「好きなように言ってくれるな……なにがしかの約束を
「いいかげんにしろ! 野郎ども!!」
さすがダーヴィドは、無頼の徒をたばねる大親分である。声こそかれてはいるものの、そこらの若造ならちぢみ上がるに違いない形相で怒鳴りつけた。
「どういうことだ?!」
「親分は生きてるじゃねえか!」
そこかしこから戸惑いの声があがりだした。早くも勘のいいのが、一人、二人と後ずさりしている。
「いいか! ただですむと思うな! この場にいる全員、どこへ逃げようとなにがあろうと、地の果てまで追いかけて、必ず八つ裂きにしてくれるからな!!」
ダーヴィドの怒号に力を得たかのごとく、数に劣るエレメントルート伯爵家の家士たちが、押し戻し始めた。
「ステファノ、きさまだけは絶対に許さん……この私を殺そうとはいい度胸だ……」
俺たちや、配下のならずものはもちろん、ダーヴィドをも裏切った男は、真っ青な顔で御者台に立ちすくんでいた。
ダーヴィド殺害が成功していれば、痛烈な逆転の一手となったのは想像にかたくない。──和平交渉の席で、交渉相手をだまし討ちにしたエレメントルート伯爵家の評判は、地に落ちる。この場に集めた配下全員が証人だ。親分の弔い合戦と称して一家を総動員し、こちらを完膚なきまでにたたきのめすこともできただろう。
ステファノは、以前から元締めの座を狙っていたのか。それともダーヴィドに恨みがあってこの機に乗じたものか。俺にうかがい知ることはできないが、いずれにしても彼は追いつめられた。
「こんちきしょう、地獄に落ちやがれッ!」
「もう! お庭がめちゃめちゃじゃないの!」
黒装束に手甲をはめた勇ましいなりで参戦していたバルバラが、グレイにぎゃあぎゃあ怒鳴っている。「少しは手かげんしなさい!」
「さて、どうする……帰る足がなくなったな……」
デメトリオが言う。別邸は郊外にある。王都の真ん中まで戻るだけでも馬車で一時間。徒歩なら確実に倍以上はかかる。
「うちの乗りもので帰るのはどうだ?」
エディットが人の悪い笑みで問うと、ダーヴィドはますます苦りきった顔になる。エレメントルート伯爵家の紋章入りの馬車で帰れば、さぞやいい和睦の
「……ふん」
ダーヴィドの不服げな目が俺たちを順々にめぐる。そして──
「いいとも、言ってやろう。もうこんな馬鹿げた騒動はうんざりだ」
ドワーフおじさんが、縛り上げた大男を引っ立ててきた。ついにあきらめたらしく、
「私に『手紙』を奪えと命じたのは、レールケ伯爵だよ。どうだね、当たっていたかね?」