「旦那さまにご迷惑はおかけできません。やはり、私が行かなくては」
グレイがおろおろと両手をもみしぼる。彼は誰よりも強くて、優しい。待ち受ける官憲をあっさり蹴散らすことも、一人で逃げ出すことも簡単にできるのに、そんなことはついぞ考えない。
「いいえ、結構です」
俺はきっぱりと首を振った。
魔法で王都を騒がせたというグレイの罪状は、難癖と同じである。みすみす彼を渡すくらいなら、俺が行くほうが百倍ましだ。レールケ伯爵は戦いの準備をしている。グレイが身動きできない状態で、レールケ伯爵からダーヴィドみたいな総攻撃をかけられたら、うちはおしまいなんだから。
「おいらにゃ、難しいことはわかりませんがね」
下男のマイルズが顔をしかめ、ちぢれた金髪をしきりとかき回す。
「王さまや王弟さま以外に、どなたか頼れるお人はいませんかね? たとえば、宰相さまとか」
秘書のオーリーンはそっけない。
「あのかたには慎重に当たらねば。国王陛下のご意志がどこまで働いているかわからない」
「なら、王后さまに打ち明けるのはどうです?」
料理長のネロも憤然とした面持ちだ。エディットは、王后アントニエッタさまに近しく仕える騎士である。親衛隊長の職は
「話にならん。国王の妻だぞ、あまりにも危険だ」
「では、レールケ卿に、手紙を渡すと申し出てはいかがでしょう」
欝々たる闇のまなざしでテーブルにデザートの皿を載せ、執事のワトキンスまでが口を出す。『証拠の手紙』と俺の交換を持ちかけようというのだ。今度は俺がかぶりを振った。
「手紙は偽物ですよね? 中身を見られたら、ばれてしまうんじゃありませんか?」
本物の『証拠の手紙』は存在しない。だまそうとしていると思われたら、こちらが不利になる一方だ。
「どうせ危険を
……とは言ったものの。
もう少し静かに食事させてもらえないかなあ──と思っても、この状況では無理なようだ。
食堂である。普段なら俺とエディット、給仕にワトキンスがつくだけなのに、会議の場がそっくりこちらへ移動してしまった。これではおいしいチョコレートのタルトも、なんだか喉を通りづらい。
エディットが秘書を見上げた。
「確かに、単純に和解を申し入れるだけでは、レールケ卿は聞く耳を持たないだろうな」
「はい」
オーリーンは軽く頭を下げる。ただ
「あまりあからさまにはせず、どなたかに仲介に立っていただく方策を探れ」
「かしこまりました」
「いっそ当人のところへ乗り込んでもいいくらいだが……」
レールケ伯爵の先には、国王か王弟、どちらかがいると思われる。一番避けたいのは全面対決だ。だから直談判は避けてきたのに──俺はなんとなく下を向いた。
──あなたより大切なものが、ほかにあると思うのか?!
彼女は俺に、そう言った。
俺は今朝まで、自分に人質としての価値があるとは、考えていなかった。グレイの代わりに逮捕されるくらい、なにほどのものかと思っていたのだ。
「……エディットも、食べましょう?」
せっかくネロが作ってくれた朝食に、彼女は口をつけようとしない。
「ああ、そうだな」
このところ、ずっと考えていた問いが、またふいに頭に浮かんだ。
──どうしてレールケ伯爵は、こうまでして『証拠の手紙』を欲しがるんだろう?
事件の前日も当日も、屋敷にセドリック卿を呼び出す手紙は届いていない。しかし、犯人からじかに渡された手紙があったとする。だとしても、彼の遺体はなにも所持していなかった。誰かが回収したのか?
倒れたセドリック卿の衣服を探り、手紙を抜き取ったものがいたとしたら、それは犯人に違いない。けれど、犯行の際に取り戻したなら、今さら偽物を欲しがるはずがない。
「オーリーンさん」
俺はティーカップを置き、秘書を振り返った。
「偽の手紙を作ったのは、どうしてなんですか? 以前から手紙が存在したといううわさがあったんですか?」
「いや、うわさが立ったのは最近だ」
答えたのは、秘書ではなくエディットだ。
「わたしははじめ、ボリスたちに『エレメントルート家は首謀者が誰なのかを知っている』という程度のうわさを広めるよう命じたんだが」
いつのまにか尾ひれがついていた、と彼女は苦笑いする。ああ、と俺も思い出した。──なあ、エディット、証拠の手紙があるって、本当なのか?
うちの馬丁のレジー、わかるだろ? あいつがゆうべ、街で聞いてきたんだ。ずいぶん評判になってるみたいだけど……
「せっかくなので便乗した。『手紙』を取り戻そうとして、多少なりとも敵が動けば上々だと思ったんだ」
ふーん……
それなら作戦はうまくいったわけだ。こうして俺たちは、レールケ伯爵の名前を知ったんだから。
まあ、本当に手紙があったとしても、犯人が持ち去ったと決めつけるのは早計だ。遺体の第一発見者や、検死をしたものなど、考えられる人物はいくらでもいる。セドリック卿自身が、出かける前に処分したとも考えられる。
ネロの料理をおなかいっぱいに食べたので、燃料は満ち満ちた。──さて、戦闘服はなにを着よう。よそ行きでは堅苦しい。ここはひとつ、
うちの人たちは本当に過保護もいいところだ。このままでは俺たちの寝室が次の議場だ。丁重に礼を述べ、お引き取りいただく。
もちろん、エディットを除いて。
オドネルにもらった幸運の
横をすり抜けようとしたら、腕を取られた。
「……必ず迎えに行く」
抱き寄せられて目を上げる。初めて会ったときよりも、彼女の瞳が近い。俺の背丈が伸びたから。
エディットの十四年間の孤独を思うと、胸が痛む。周りは敵の息がかかる可能性のあるものばかりだった。仮に王族、貴族の中に心からの味方ができれば、いつなんどき危うい立場に立たせてしまうかわからない。黒幕は、国王か王弟──この言葉が持つ意味は、果てしなく重い。
「はい、お願いします」
それだけを言って、口づけする。顔を離すと、厳しかった紫のまなざしがやわらいだ。
「とても美しかった」
「え」
「カイルが
そんなふうに言われると、かなり恥ずかしい。俺が見せた『
顔が熱くなってしまうので、目をそらそうとした。けれどエディットは、いたずらっぽく瞬いて、俺をのぞき込んでくる。
「ほかには?」
「え、な、なにがですか?」
「カイルはほかに、どんな魔法ができるんだ?」
──やがて俺は、騎士たちにかこまれて馬車に乗る。窓に頑丈な鉄格子がはまった護送馬車だ。必ず迎えに行くと、エディットが約束してくれた。だからもう、なにも怖くない。
「……ごめんね」
このあいだから、カローロはずっと警告してくれていた。なのに俺は、彼の言葉に耳を貸そうとしなかった。──いいや、と、俺の
カイルはあれでよかったんだろう?
「うん」
だったら、かまわない。
「ありがとう」
向かいに座る中隊長が、気味悪そうな目つきで俺を見る。……だよね。俺一人で話しているようにしか見えないもの。
馬車の車輪はガラガラと音を立て、王宮へ向かう。蒼の塔へ行くときとは反対の、東側に回る。正門を過ぎ、騎士の門も通り過ぎ、北へ折れた。広い広い王宮のはずれ、目立たない、ひときわ小さな門から入城する。
「どこへ行くんですか」
尋ねても中隊長は無言だった。車窓越しに見える門衛たちは、西口通用門の衛兵ケンのような制服ではなく、鎧兜に身を固めた軍装だ。ひょっとしてここは、罪人用の入口なのか。
──気をつけろよ。
耳元でカローロの声がして、俺は黙ってうなずく。
城内の木々に、新緑が芽吹くのはまだ先だ。馬車はひとけのない一画で停まった。足を下ろした石畳のすきまから枯れ草がのぞき、どことなく手入れを
ここは……
正面にそびえ立つのは、石造りの塔。
アセルス城には、十二の塔がある。俺が通う蒼の塔もそのひとつ。
門にいたのと同じく軍装の騎士たちが、金属の枠を打ちつけた巨大な扉の輪を引いた。
ギイイイイ……
「……閣下、こちらへどうぞ」
中隊長の口ぶりが、どこかぎくしゃくとぎこちない。
「ここは?」
「閣下のようなおかたに、静かにお過ごしいただくための場所です」
「魔法使いを閉じ込める牢……という意味ですか?」
中隊長は薄く笑う。「……そうお考えになっても結構です」
かつて、この大陸にはたくさんの魔法使いがいた。アセルス王国にも大勢の魔法士がいた。中には罪を犯すものもいただろう。魔法使いの罪人を収監する塔なのか。
「僕をここに入れるよう、あなたの上官が命じたんですか」
「…………」
「もしも僕が、入るのは嫌だと言ったら?」
すると、中隊長が目くばせをする。俺をかこむ五人の騎士が、いっせいに剣の柄に手をかけた。
……なるほど。
俺は塔の内部に足を踏み入れた。ガシャ、ガシャ、ガシャ──鎧が触れ合う不穏な足音が響くたび、うずたかく積もった埃が左右に割れる。まるで灰色がかったさざ波が引いていくようだ。
室内は蒼の塔と同じくらい広いはずなのに、鉄格子と白い石壁で無数に区切ってあるせいか、非常にせせこましく感じる。扉までが格子だから、通り過ぎる牢の中には誰もおらず、なにもないのがひと目で見渡せる。ひと部屋にひとつずつある縦長の格子窓から、静かに日の光が落ちている。
俺は騎士たちにかこまれ、規則正しく連なる鉄格子のあいだの通路を歩く。──不思議だ。明らかに数年以上閉め切られていたようなのに、鉄格子には
目を落とす。埃の下から現れる白い床には、ところどころ文字が刻まれている。
通路の突き当たりに、幅の広いらせん階段があった。赤ん坊くらいの大きさの魔物の像が、手すりを支える柱の上に鎮座する。壁に沿い、ぐるりと回りながら二十段ばかりをのぼる。
二階にも、一階と同じように、鉄格子と石壁にかこまれたがらんどうの牢屋がならぶ。三階にも──気がつけば、階が上になるたびに、ひと部屋が広く、つまり部屋数が少なくなっている。人の気配がしないことに変わりはないが、牢ごとに寝台や水がめが置かれているのが見てとれた。さらに上の階になると、椅子や机などの調度品も現れた。
ここは何階だろう。数えきれないほどの段をのぼった。広い円筒形の
ついに最上階までたどりついた。塔の先端であるためか、今までの階よりも狭い。だが、仕切りの鉄格子がまったくない。窓の外には青い空が見える。
「お入りください」
中隊長が嫌みなほど慇懃にお辞儀をして、俺をうながした。──石張りの床には、今しがたしたたり落ちたばかりの血のような、真っ赤な文字が刻まれている。この魔法陣の向こうに、
「どうぞ、閣下」
ねずみのごとく陰湿な、中隊長のまなこを見返しても、カローロはなにも言わない。俺は古き神々の言葉で描かれた輪の内側へ踏み込んだ。
──なんだ?
床の文字列に靴底が重なったとき、全身をこまかな針で刺されるような感覚があった。俺が魔法陣を越えるのを見届け、中隊長と騎士たちは階段を引き返してゆく。俺は一人、最上階に残された。
しばらく待ってみたが、誰かが戻ってくる気配はない。
俺が乗った護送馬車のあとを、グレイの精霊がつけてくることになっていた。俺が白金の塔に入ったことは、そろそろエディットも知っているだろう。
ゆっくりと、室内を歩いてみる。
最近掃除をした様子もないのに、この部屋は埃が薄い。魔法陣の中央には、色あせてはいるが、毛足の長い絨毯が敷かれている。ベッドは天蓋付き。古風な意匠でも、元は豪華だったと思われるテーブルや長椅子。ここは貴人を閉じ込めるための部屋なのか。
大理石を張った横長の飾り棚には、額縁に入った細密画、変色した銀の燭台、鏡などがならぶ。書きもの机や、大きな書棚もある。
「………………」
これはなかなか
敵はグレイを、ひいては俺を罪に