ザン将軍の胴間声が、夜のしじまを打ち破った。
「なにをしている!早くあの女を捕らえるんだ!」
瞬間、騎士たちは迷うかに見えた。しかし、上官の叱咤に、彼らは次々と抜剣する。
ここから先は、賭けだ。
にらみ合うことしばし。大扉の鍵穴から外をのぞく俺には、エディットが微笑みを浮かべたように思えた。
金属のすべる音をさせて、彼女がゆっくりとレイピアを引き抜いた。それが合図となり、騎士たちが散開した。
一人が雄たけびをあげた。エディットは突き出される剣先をすばやくかわす。ただちにもう一人のやいばを
「エディットさま!」
いずこからともなく、聞き慣れた魔法剣士の声がした。エディットが体を低くする。──そこに、ぽとん、ぽとん、と、空から丸いものが落ちてきた。石畳を二、三度跳ねて、コロコロと転がってゆく。兵の一人が確かめるように身を乗り出す。さらに後ろへ、もうひとつ。
シューッ、と、小さな丸いかたまりは音を立て、真っ白な煙がもくもくと噴き出し始めた。
「なんだこれは!」
煙は、みるみるうちに辺り一面に立ち込め、俺の視界もふさがれてしまう。
「あっ! こいつ!」
「なにをする!」
誰かがわめいた。煙幕にまぎれて偽騎士二人が塔の鍵を奪うべく、隊長に襲いかかったのだ。怒号が飛んで大混乱の中、鎧の音があわただしく行き交う。見えないと気がもめてしかたがないが、これは打ち合わせ通りだ。待つしかない。
ドォォォン!!
なにかがぶつかり、大扉が揺れた。次いで、分厚い扉の向こうで、心が震えるほど懐かしい彼女の声が俺を呼ぶ。
「カイル!」
「は、はい!」
「そこにいるのか?!」
俺は大扉に片耳を押しつけた。
「はい、います! ここにいます!」
「離れていろ! すぐに開ける!」
錠前に鍵が差し込まれ、即座に回る。そして、ついに──
「カイル!」
大扉を開け放ち、白煙とともに飛び込んできたのは。
レイピアを右手に下げたエディットだった。口を開く暇もなく、強く抱き寄せられる。──ほうっ、と、温かな吐息が耳にかかった。
「怪我は、ないな?」
「大丈夫です」
「出るぞ。わたしから離れるな」
戸口の向こうへ──
腕を取られて外へ踏み出したとたん、目まいがするほど強烈な感覚に襲われた。俺の魔力は今まで塔の至るところに仕掛けてあった『
「エディット! 前!」
俺の頭を押さえつけるようにして、エディットが身を沈めた。煙の中から振りかぶってきた騎士の脚を払う。鎧の騎士は大きな音を立てて石畳に仰向けになった。その体を、二人そろって飛び越える。
「囚人が逃げたぞ! 捕まえろ!」
ようやく事態を飲み込んだらしい隊長が、金切り声で叫んだ。──誰かが呼子を吹いた。応援を呼んでいる。
「エディットさま! 突破いたしますぞ!」
いつのまにか甲冑を脱ぎ捨てたサウロが、俺の前へ走り出た。
「グレイが上から誘導します!」
エディットの前には、同じく剣以外の装備をはずしたドワーフおじさんだ。魔法剣士も
煙幕の中を、無我夢中で走った。敵のくる方向は鎧の音でわかる。加えてグレイが上空から指示してくれる。まぐれ当たりのように突っ込んできた騎士は、サウロかドワーフおじさんが鎧のすきまをなぎ払った。
だしぬけに視界が晴れた。けれど、俺たちは待ちかまえていた軍勢に
「この場をたばねるものは誰か!」
老いてはいるが、かくしゃくとした大音声だ。俺たちを追ってきたザン将軍の配下たちも、不意を打たれたように立ち止まった。
「なにものだッ!」
「下がれ、下郎!」
バサリと音を立て、老人は馬から飛び降りた。──ぞろぞろと古めかしくも黒い光沢を帯びた
老人は痩せた胸を反らせた。周囲をにらみつけると、威厳ある口ぶりで大喝する。
「われこそはバルディビア侯爵。きさまら、この
あとから聞いたが、バルディビア家とは、かつてアセルス王国で魔道を治めた四家の筆頭。すべての魔法士の長を務めた名家である。
「国王陛下よりお預かりいたし魔道の
「──侯!」
息を切らしたザン将軍が、侯爵の前にまろび出た。
「おお、ご老体。なにゆえこのような時刻に、このような場所までお出ましになりましたか」
「ええい、やかましい! 儂にひと言の断りもなく、これはいったいなんの真似ぞ!」
「それは」
将軍は驚いたように振り返る。誰かを探すようだが、視線の先には戸惑うような配下の騎士がいるばかりだ。
──ワッ、と後方で騒ぎが起こった。晴れかかる煙幕の向こうから、黒塗りの二頭立てが飛び出してきた。左右を守る二騎の騎兵が槍を振り回し、止めようとするザン将軍の兵を払いのける。
すれ違いざま、黒い仮面をかぶった男の横顔が、馬車の窓越しに見えた。
「逃げるのか」
エディットはレイピアを鞘に収め、ベルトにはさんだ太い
「候、ご出馬に感謝申し上げます。白金の塔の鍵、謹んでお返しいたします」
「なに、久々に袖を通されたご先祖の衣装こそ、そなたたちに感謝しておる」
「とてもご立派です」
エディットが美しく笑むと、ローブをまとったバルディビア侯爵は、しわだらけの目元をなごませ、呵々と笑う。
「
「はい、ありがとうございます!」
エディットと俺は一礼して走り出した。
王宮の敷地は広大だ。白金の塔の区画はほかに建物もなく、芽吹く前の木々がさびしく立ちならぶ。
「エディットさま! 旦那さま!」
門の脇に、太い棍棒を手にした巨漢の料理長ネロと、武装した侍女のバルバラがいた。彼らの足元には、すでに数人の騎士が大の字になっている。
「馬車はあちらへ!」
バルバラが指をさす。下男のマイルズが馬を引き出す。乗馬鞭と手綱を受け取り、エディットは
「みんな、バルディビア候を頼んだぞ! カイル、いっしょにこい!」
革手袋をはめた手のひらが、まっすぐに差し出された。俺が握り返すと、力強く馬上に引き上げられる。俺はエディットの前で横向きに座り、彼女の腰にしがみついた。
「馬に乗ったことは?」
凜々しい紫の瞳が、俺の顔をのぞき込んだ。
「あ、ありません」
「わかった。しっかりつかまっていろよ」
「はい!」
栗毛の馬は、尻に鞭を当てられると即座に駆け出した。
「エディット」
引き締まった腰に固く腕を回した。肩へ頭をもたれる。彼女の瞳は、すでに前を向いている。
「……口をきくな。舌を噛むぞ」
──レールケ伯爵の馬車は、両脇に騎兵を従え、俺たちの先をただひた走る。
◆◇◆
エディットが俺に、ともに行こうと口にした。
俺たちが乗った馬は、鞭が入るとすぐに駆け出した。辻ごとに立てられた街路灯の赤い灯が、瞬く間に後ろへ流れてゆく。
「エディットさま!」
こちらも懸命に馬を駆り、グレイが追いついてくる。エディットが怒鳴り返した。
「みんなは?!」
「バルディビア侯爵のご助勢を!」
前方の騎兵たちが速度を落とす。俺の従者はにやりと口角を上げた。手綱から片手を離し、抜剣する。
「旦那さま! 援護をお願いします!」
叫ぶなり、腰を上げた。──えっ、今?! この俺に、今振るの?!
もたもたしている暇はない。グレイの馬は前へ出てしまった。エディットは手綱をあやつるのみならず、前に座る俺の体を支えている。手が
腹をくくるか。右腕は彼女の腰に回しているが、俺にはまだ左手が残っている。
「『
揺れる馬上で、
「『聴け 盟約に従い 白き光を解き放て 聖なる御手より聖なる盾を』!」
エディットがハティア王国へ出かけているあいだに覚えた
彼をはさんだ二騎の騎兵が、立て続けに槍を振るった。が、光の幕が跳ね返す。代わりにグレイが長い腕で長剣を
「うわあッ……!」
金属音を響かせて、騎兵が転がり落ちる。明るい火花が石畳に跳ねた。
「こいつッ!!」
続けざま、左の二人目も槍を振り回す。グレイが後退する。敵が利き手と逆にいるため、さすがの彼の長躯でも剣が届かない。逆に向こうの穂先はこちらに届く。
「エディット、支えてください!」
「よし、いいぞ!」
彼女の腕に体重を預け、体をひねって右手を前に出す。
「『
カチイン! と、俺の小さな光の
短い
ガツッ!
魔法の矢が、鈍い音を立てて屋根をかすめ、箱型の馬車は激しく揺れた。けれど、速度は落ちない。
貴族の屋敷が建ちならぶ街を、二頭立ての馬車が疾駆する。俺たちはあとを追う。時間が経つのがひどく長く感じられたが、実際には十五分か、せいぜい二十分足らずのできごとだったろう。
ガラガラガラガラ──行く手に見える引き戸の門扉が大きく開いた。黒塗りの馬車が突進する。馬車は、あの館へ逃げ込もうとしている。
「……レールケ伯爵邸だ」
俺の後ろでエディットがつぶやいた。
貴族の私邸の敷地に入れば、治外法権の領域だ。逃げ込まれたら、めったなことでは手出しできない。グレイが、「そろそろ止まってくださいよ!」と怒鳴って再び長剣を掲げる。──魔法の矢が、今度は馬車の後輪めがけて放たれた。命中だ。
ガガガガガッ!
後ろの車輪が片方はじけ飛んだ。車体が倒れそうなほどかたむいて、石畳に引きずられるすさまじい音がした。二頭の馬は、悲鳴のようないななきをあげる。御者台から男が転がり落ちて逃げ出した。
馬車の扉が開く。──黒い仮面をすっぽりかぶった長身の男が、路上に降り立った。怪我をしている様子はない。こちらを
「待て!」
手綱をしぼったグレイが叫んだ。高く前足を上げた馬上から、やつの足元を狙って、もう一発。
仮面の男の後ろ姿へ向かって、一直線に飛んだ黄金の矢は──
「!」
俺と同時に、エディットも、ハッと息をのんだのがわかった。
魔法の矢は、仮面の男の
そのときに、見えた。門の内には、燃える篝火に赤々と輝く甲冑をまとい、槍を手にした一軍の姿。
仮面の男はすばやく門内に走り込んだ。彼が手を振ると、ガラガラガラガラ──門扉は、ただちに閉じてゆく。
グレイが不敵に口元をゆがめ、右手を上げた。詠唱を始める。
「よせ!」
エディットが、魔法剣士を制した。「グレイ、手を出すな!」
仮面の男の体は魔法の矢をそらした。彼に効かないのは『
門は完全に閉じた。しばらく待ったが、邸内は不気味に静まり返っている。あれだけの兵がいるのに、こそりとも音がしない。
レールケ伯爵に、打って出るつもりはないのだろうか。
「…………」
エディットは馬を幾歩か後戻りさせ、それから、馬首を返した。
「いったん引こう。カイルを取り戻せた。これで充分だ」
「……承知いたしました」
グレイは大きく息を吐き出す。振り上げてしまった手のやり場に、いささか困っているようだ。
「私は先に戻って、王宮の様子を見てきます」
「ああ、頼む。馬がかわいそうだが──」
エディットは、汗まみれの馬の首をたたいてなだめながら言う。
「おそらく大丈夫だろう。ザン将軍は引き上げざるを得まい。あちらの応援は誰もこなかったからな。──オーリーンがうまくやったらしい」
「オーリーンさんが? どういう意味ですか?」
俺が尋ねると、エディットは、あとで説明する、とつぶやいた。──ふと、険しかったまなざしが優しくなる。
「カイル」
俺の肩に、彼女の
「いいえ」
ちっとも遅くなんかない。
「でも、これからどうするんですか?」
このまま引き返すなんて。せっかく仮面の男──レールケ伯爵を、ここまで追い詰めたのだ。みんなと合流し、別邸の家士たちも合わせて、一気に乗り込んでしまいたい、と思わないでもない。けれど、エディットは微笑んでかぶりを振る。
「街中で戦争を始めたいわけじゃないからな」
向こうも同じ考えとは限らない。しかし、レールケ伯爵は戦争を始めなかった。俺たちを目の前にして、門を閉ざした。
王都は国王が治める地。無断で軍勢を
「……わたしはレールケ卿に、本当は『手紙』など存在しないと打ち明けようと思う」
「えっ」
『証拠の手紙』の役目は終わった、と、エディットは言う。俺たちは、レールケ伯爵の名前を知ったから。
「代わりに、父の件で知ることを、すべて話してほしいと頼むつもりだ」
はじめ、レールケ伯爵はダーヴィドに『手紙』を奪うための工作を依頼した。ダーヴィドが屈すると、公的な力を駆使して俺たちを追い込もうとした。俺が白金の塔で会ったときの態度からも、彼がセドリック卿殺害事件に無関係とは思えない。だが、
『おまえも、巻き添えになっただけなのだろう』
彼の言葉を思い出す。彼は答えてくれるだろうか。
「もしも彼が、
あなたがセドリック=エレメントルート卿を殺害したのか、と俺が尋ねたとき、彼ははっきりと否定した。
「それでもいい」
ぽつりと言う。「……もう、こんな思いをするのはたくさんだ」
「エディット」
「あなただけじゃないんだ。わたしは誰も失いたくない。失うかもしれないと考えるのが嫌だ」
「…………」
「みんなにも、わかってもらう」
ああ、そうか──
俺がいない夜、エディットは俺を想ってくれた。俺の無事を祈ってくれていた。
理解できてしまって、うなずく。俺も、彼女を失いたくない。失うことを想像すらしたくない。今ここでこうしているように、いつでもそばに、彼女の体温を感じていたい。
「……歌を、ありがとうございました」
白金の塔の最上階で、一人きりだった夕暮れ。エディットの声がかすかに聞こえた。俺が頼んだから、歌ってくれたんだよね。
「なんの話だ?」
暗い街を行きながら、いつもより濃い色に見える彼女の瞳を、きっかり見つめて言ったのに、あさっての方角に視線をそらされてしまった。俺は、くすっと笑った。──きっとエディットは、王家の離宮へおばあさまのお見舞いに出向くたびに、神官たちが詠う癒やしの歌を耳にしていたんだ。
「聞こえましたよ」
「だ、だから、なんの話だ」
「僕の
俺たちを乗せた馬は、ゆっくりと、ひとけのない大路を引き返してゆく。