「男ってほんと弱いしダメな生き物だよね」
と中学時代のクラスメイト達は笑っていた。
今思えば彼女達は男子を無理矢理下に置くことで安心したかったんだろう。
成長期を迎えて自分達よりも大きくなってしまった存在を恐れて。
小学校の頃は、なんだかんだ言っても実力勝負だったと思う。
かけっこでも何でも運動で男子に負けた記憶はない。
だから純粋に自分の方が上なんだと思うことができた。
でも中学に入って、体育が男子と女子は別になった。
どうしてわざわざそんなことをするんだろう、と聞いた時は疑問に思っていた。
そして成長期に入ってあっという間に大きくなっていく男子の姿を見て、そういうことなんだと気づいた。
一緒にやったら男子の方が強いことがはっきりしてしまうからなんだと。
その時初めて矛盾を感じたんだと思う。
中二の時、廊下を走っていて男子にぶつかった。そして弾き飛ばされてしまった。
もう名前も覚えていないその男子は青ざめていて平謝り状態だったけど、それどころではなかった。
ぶつかっていったのはこっちなのに、簡単に跳ね返されてしまったからだ。
自分よりも二回りは大きそうな男子が泣きそうな顔になっている中、呆然としていたらしい。
その男子に非難の声が飛んでいるのが聞こえて、ようやく我に返った。慌てて謝った。
中三の時、階段でよろめいて、クラスの男子に助けてもらった。
一段目でつまづいただけなので、助けがなくてもせいぜい尻もちをついたくらいで済んだだろうけど、たまたま隣にいたその男子は片手で背中を支えてくれたのだ。
しっかりと支えられて、最初壁があったような錯覚がした。でも振り向くとそれは一本の腕だった。
感謝をしながらも、こんなにも違うのかとその差をはっきりと実感してしまった。
それがきっかけだったのかは分からないけれど、しばらくしてその男子に告白された。
だけどIS学園を受験するつもりだから付き合うのは無理だと断った。
正直に言えば嬉しかった。でもそれは男子から告白をされたという事実に対してであって、その男子に対しては特に何の感情もなかった。
それに、あの頃の自分は自分は選ぶ側であって選ばれる側じゃないと思っていた。
ところが、その男子が告白して振られたことがあっという間に学校に広まった。
誰にもしゃべっていないのに、なぜだかみんなが知っていた。
それからその男子は卒業まで肩身を狭くしていたようだ。そして自分は男子から声をかけられることがほとんどなくなった。
クラスの女子は当然だとその男子を笑っていたけれど、周りで起こった変化によってある事実を知った。男子は女子を二種類に分けていると。
もちろんほとんどは男子を下に見ている人達だ。それは言動や態度ですぐ分かる。だから男子もあまり近づこうとしていない。
そして一方数は少ないけれど、男子と普通に接している女子もいる。大多数は違うからおおっぴらにというわけではなかったけれど、話しかければ普通に返すし、必要があれば自分からも話しかけていた。
それまでは後者だった。でもその時を境に男子からは大多数の女子と同じ括りにされてしまっていた。
理不尽だ、と最初は思った。
その男子のことは一言もしゃべっていない。当たり前だ。
それなのに、クラスどころか学年の男子達はこっちがやったと決めつけているようだった。
それは違うと言おうにも、向こうからは話しかけてきてくれない。こちらから言おうとしても、完全に警戒されてよそよそしくなってしまっている。
もうどうすることもできなかった。
真実は卒業前に分かった。
IS学園の合格を先生が教えてくれて、教室で喜んでいた時だった。
クラスメイト達も一緒に喜んでいてくれたのだけれど、その中の一人がポロッと漏らした一言だ。
「やっぱり男子なんかに構わなくなったおかげだね」
何か違和感を覚えてどういうことかと聞いたら、告白した男子のことを広めたのはクラスの女子だったという話だ。
一瞬、この人達にも嫉妬されていたのかと思った。三年間学年一位を守り続けたこともあって、そういう人がいるのは知っていた。
でも目の前のクラスメイト達は心の底から合格を喜んでくれていたようで、嫉妬のような悔しさなんて全然見えなかった。
「えっ、そんなにひどかったかって? そりゃそうだよ。相手にすることないのにわざわざ話まで聞いてあげて、ほんとムダなことしてるなあってみんな思ってたよ」
目眩がした。
クラスメイト達はよかれと思ってやっていた。
その場で怒りの感情を撒き散らし、そのまま家に帰った。そして以後卒業式まで学校には行かなかった。
卒業式の日も答辞だけ笑顔でやって、クラスメイト達は全員無視した。もう何を言われようが気にならなかった。
確かに、そういうことを言う人達がいるのは知っていた。
テレビで、新聞で、ネットで、過激なことを言う人がいるのも知っていたけれど、きっと目立ちたくてわざと言っているんだろうと思っていた。
でも目の前で当たり前のように口にされて、そうじゃなかったことが思い知らされた。そういう空気に乗せられてではなく、周りに合わせてでもなく、心の底からそう思っている。
今まで自分はそこまで言わなくてもと思ったし、実際そう言ってきたけれど、その人達にとっては当然のことだったのだ。
でもそれは絶対に違う。
だからこそIS学園から届いたアンケートにはっきりと書いた。
ちょうどその頃織斑君に続いて甲斐田君の存在が明らかになり、世の中はどこを見ても男性IS操縦者の話題で持ちきりだった。
男子生徒がIS学園に入学することについてのアンケートに対して、自分の意見をこれでもかとしっかり書いた。
男子だからって女子とは全く別の存在として扱うべきではない。もちろん女子と違う部分は考慮しなければならないけれど、同じことを学ぶのだから可能な限り同じように扱うべきだ。男だ女だというのは全く関係ない、などなど。
しばらくしてIS学園から入学案内が届き、自分の寮の部屋の番号や相方の名前と共に、クラスの名簿まで入っていた。
そこには一年一組相川清香と、織斑君甲斐田君と同じクラスになった自分の名前が書かれていた。
ところが、あれほどまでに決意してIS学園に入学したつもりだったのに、入学式が終わった頃には中学時代に思ったことなんて綺麗さっぱり消し飛んでいた。
理由はもちろん織斑君だ。
入学式で初めて見たその姿はどこの誰よりも存在感を発揮していて、誰よりも輝いて見えた。
もちろんテレビでその顔は知っていたけれど、実物は全然違った。よく芸能人を見た時に言われるようなオーラとはこういうものだったのかと感心してしまったくらいだ。
相川という苗字のおかげで女子の一番前にして最前列に立つ織斑君の後ろだったこともあり、あたしは式の間中ひたすら織斑君の背中を見続けていた。
挨拶のために織斑君が壇上へ上がった時もただただ織斑君に見とれていた。隣に立っていたであろう甲斐田君なんて目にも入っていなかった。
おそらくこの先織斑君以上の男の人に出会うことはないだろう、とあたしは根拠もなく確信を抱いて、織斑君を未来の夫とするべきだと強く決意した。
最初の授業で、織斑君はあまり頭がよくないことが分かった。
ISに対する知識が皆無で、しかも勉強した形跡さえなかった。織斑君の隣に座る甲斐田君はそれなりにやっていたようで、しばしば織斑君をフォローしていた。
それを見てクラスメイトの何人かは失望していたようだった。きっと頭のよくない男子が好みではなかったんだろう。
でもあたしにとっては全然問題のあることじゃなかった。そんなものは織斑君の隣に立つあたしが全部引き受ければいい。
大事なのは性格であって、気持ちであって、小賢しいくらいの頭脳ならない方がいい。むしろ織斑君に足りない部分を自分が補えるのだから、あたしは織斑君にとってふさわしい相手だとさえ思っていた。
その後休み時間になって、さっそくオルコットさんが織斑君につっかかった。
やっぱり来たか、と思った。
男子というだけで理不尽に織斑君をけなす生徒は絶対に出てくるだろうと最初から思っていたのだ。
ようやく中学時代を思い出して、絶対にあんな環境にはさせないと意気込んだものの、二人の会話で織斑君は入試で教官を倒せるほどの腕前であることを知った。
そういえば織斑君はあの織斑千冬先生の弟だったのだ。
一応遺伝は関係ないということになっているけれど、そうは言っても対象はあの織斑千冬先生だ。
ごく自然に納得させられ、未来の夫はそんなにすごいのかと、あたしは勝手に誇らしくなってしまった。
ならば人前に出たって全然問題ないしむしろふさわしいと思って、あたしはすぐクラス代表に織斑君を推薦した。ついでに周りの様子を窺ってみると、やはり大多数はあたしと同じ気持ちになっているようだ。分かっていたことだけれど、ライバルは多い。
間髪入れず休み時間の続きだとばかりにオルコットさんが入ってきて、投票では二人が綺麗に並んでしまった。
そしてどうすれば織斑君をクラス代表にできるかと悩んでいたのだけれど、そこであたしは初めて甲斐田君の存在を意識した。
二人目の男性IS操縦者、甲斐田智希。
最初にテレビで二人目の男性操縦者現るというニュースを見た時、これは怪しいにも程があると唖然としてしまった。
孤児で、織斑君と一緒の施設で過ごしていただなんて、絶対に仕組まれていると誰もが思った。
すぐにその施設はかつてあの織斑千冬先生もいたところだということが分かり、間違いなく織斑千冬先生はこのことを知っていて甲斐田君をそこに保護していたんだろうと噂された。本人は否定していたけれど。
でもそれは考えてみればごく当然の話で、身寄りのない男子にISが動かせたとなればその人は今後どうなってしまうか分からない。
だからこそ織斑千冬先生は自分のいた施設に送って織斑君と一緒にし、自分が後ろ盾になることを世界中の人に示したかったんだろうと思った。
テレビや新聞でもそういう結論に落ち着いたようだ。ぎりぎりまで隠して、二人の高校入学直前でばらす。そしてそのままIS学園に放り込む。そうすれば二人はIS学園に隔離されて身の安全を保証できる。
よくできたシナリオだと、誰もが言っていた。
以後甲斐田君のことはそこまで話題にはならなくなった。
当時は次々と男性操縦者が出てくるだろうと思われていたし、織斑君程のインパクトもなかったから。
そして何よりIS適正がDランクだったと発表された時点で、世間の興味が急速に失われていったような感じがした。適正DランクとはIS学園の受験資格さえない。
つまり、ただISを動かせるだけでしかないとはっきりしたのだ。
日本政府は次を必死に探していて話題にもしなくなったし、あたしなどはできない人ができる人の中で三年間過ごすのは大変だろうなと勝手に同情していた。
また、だからと言っていじめなんて絶対にさせないと一人心に誓っていたりもした。
でも実際の甲斐田君は想像していた姿とは全然違った。
弱々しそうとか卑屈そうといったあたしの予想は的外れもいいところで、何を考えているのか分からないという感じで、どこか超然としていた。
そして二人の性格などお見通しだとばかりに織斑君とオルコットさんを煽って、クラス代表を決める勝負をISでの模擬戦に持ち込んでしまった。
あたしはその様子をぽかんと見ていたのだけれど、すぐにそれは無茶だと思った。何しろオルコットさんはイギリスの代表候補生、しかも専用機持ち。
どう考えても織斑君に勝ち目はない。
どうしてわざわざ負ける勝負を挑むのかと、甲斐田君の意図が全く理解できなかった。
手伝おうかとそれとなく言ってみても何とかするから大丈夫だと断られて、もしかしてこの人は何も分かっていないのだろうかと疑ってさえいた。
もちろん甲斐田君は全部分かってやっていたのだ。
三年生のところにたった一人で乗り込んで、なんと三年生百人全員を味方につけてしまった。
どうやって説得したのかは分からない。織斑君を連れて行ったら一発だと思うのに、なぜか一人だけで行ったそうだ。三年生にとって甲斐田君そのものに価値があるとは思えないから、その後の甲斐田君を考えてみるにきっと口先一つだけでやったんだろう。
それでもたった数日ではさすがに無理だろうと思っていたら、当日量産機の織斑君は専用機のオルコットさんに対して無傷で完勝してしまった。
あの時あたしは興奮して大声で歓声を送っていたのだけれど、終わった後でその時の作戦を聞いて寒気がした。
それは作戦に対してではなく、それを考えた三年生に対してではなく、この事態を一人で作り上げた甲斐田君に対してだ。
織斑君と一緒になるには、まず何より甲斐田君を突破しなければならないと理解した。
織斑君がクラス代表になって、あたしは本格的にアピールを始めることにした。
ライバルとして何より警戒すべきは当然篠ノ之箒さんだ。あの天才篠ノ之束博士の妹だということでクラスの中では頭一つどころではなく飛び抜けている。その上織斑君の幼馴染。普通だったらまず勝ち目のないと思える相手だ。
でもあたしの目からはその立場がなければ話にもならないと思える程度でしかなかった。
感情表現が幼稚、すぐに怒ってごまかす、説教しては織斑君にうざがられる。女としても見てもらえていないし、これは絶対に勝てると思った。
じゃあ何が問題かと言えば甲斐田君の存在だ。甲斐田君は織斑君と篠ノ之さんの間に入ってフォローしていた。つまり篠ノ之さんのことを認めていたのだ。
元々知り合いというわけでもなさそうだったし、あんな態度の人間にどうして肩入れをするのかさっぱり分からなかったけれど、事実は事実だ。
きっと篠ノ之さんを貶めるような行動は甲斐田君にとってマイナスになる。そういう感情を見せ始めていた他の女子を見て、あたしは自分がライバル達よりも先に行けていると感じた。
そして考え出したのが部活見学ツアーだ。
篠ノ之さんを貶めるわけにはいかないけれど、かといって後押しなんてしたくもない。
うまく篠ノ之さんを引き離せないかと考えてひねり出したのが部活見学ツアーだった。
何しろ篠ノ之さんは既に剣道部に入っている。だからわざわざ部活を見学する必要なんてない。
篠ノ之さんは悔しそうにはしていても文句を言わなかった。もしかして感情を爆発させたりするかなと思っていたけれど、さすがに自重したようだ。そこまで子供じゃなかった。
織斑君はすごく乗り気だったし、肝心の甲斐田君も何も言わずに傍観していた。横目で見た感じでは感心しているようだったし、合格だったのだろうと思う。
それを裏付けるかようにその後、甲斐田君の篠ノ之さんに対するフォローが明らかに減った。見捨てたわけではなさそうだったけれど、それぐらい自分で何とかしろと言わんばかりに無視していたりした。
また一方で、甲斐田君はあたし達のやることに対しても何も言ってこなかった。むしろどこまでやれるかやってみろ的な余裕さえ感じられた。じゃあやってやろうじゃんとあたしは俄然やる気になった。
でも今ならそうなってしまったのはよく分かる。甲斐田君の最大の特徴はモチベーターであることだ。とにかく人をその気にさせるのがうまい。
きっと三年生もそうだったろうし、あたし達もリーグマッチではそうだった。甲斐田君は広い視野で周囲を見ているから、全てが見えるんだろう。
自分でどうにかするのではなく、そういう状況を作る。リーグマッチで起こったことは大抵のことが織り込み済みだったろうし、どうにもならないとなったら自分でどうにかしてしまっていた。
だけれども、部活見学ツアーはあたしにとって順風満帆にはいかなかった。
今度の問題はオルコットさんだ。
この人は入学式初日の態度はいったい何だったのかというくらい、織斑君べったりになってしまった。
最初はもしかして織斑君を油断させてどこかで寝首でもかくつもりかと思ったのだけれど、誰が見ても織斑君に対してべた惚れな姿だった。
そしてさすがは外国の人らしく、スキンシップがうまい。自然な形で織斑君の手を取ったり腕を掴んだり、あたし達が唖然としている間に織斑君との距離を近づけてしまった。
日本人のあたし達がやろうにもやれなかったことをいとも簡単にやってしまっていたのだ。あたしは慌てて反対側の腕に取り付こうとしたけど、二番煎じのへっぴり腰では効果もない。
リーグマッチの準備が始まって篠ノ之さんが戻ってきたら、あっという間にその場所を奪われてしまった。
とはいえ部活見学ツアーで収穫もあった。
何より一緒にいて織斑君のことがよく分かった。
彼は主夫としての適正が半端なく高かった。炊事洗濯は言うに及ばず、一通りのことは何でも高いレベルでできるという感じだ。
その上かっこいいし、夫としてある意味理想的な存在だ。
だからISを動かせる必要なんて全然なかっただろう。織斑君はどこへ行っても引っ張りだこになるのは間違いない。しかもあの織斑千冬先生の弟なのだから、どこかの国王の娘とか大統領の娘に求婚されたっておかしくないくらいだ。
つまり一般人のあたしにとってはIS学園にいる間が勝負だと心に誓った。
そしてリーグマッチ。
当然ながらあたしは織斑君を全力で助けるつもりだった。織斑君に好意を持っているクラスの女子は半分くらいいたし、全員でなくてもそれだけいれば十分だろうと思っていた。
ところが甲斐田君はあっさりクラスの全員を巻き込んでしまった。
確かに優勝の特典はすごく魅力的なものだったけれど、甲斐田君は自分でそれを探してきて披露して、あたし達をやる気にまでさせてくれた。
そんなことしなくても手伝ったのにと言ったら、たくさんの人に手伝ってもらえればそれだけいい準備ができるからと軽く笑って、確かに実際そうだった。指揮班の二人がいなければああは纏まらなかっただろうし、イグニッション・ブーストを見つけてきたのは整備班の岸原さんだ。
きっと入学初日に織斑君をクラス代表に推した時から、甲斐田君は先を見て計画していたんだと思う。
さらに甲斐田君は本気で優勝するつもりのようだった。
みんなを巻き込んだその日のうちに、なんと一週間分の訓練機の予約を確保していた。しかもIS学園にある三種類の訓練機全部を揃えて。織斑君には既に専用機があったので、つまり訓練の相手役となるあたし達のためのものだ。
それは自分が乗りたいからではなく、全て織斑君のためだった。
口だけではなかったその真剣な姿勢に、これはあたし達も全力でやらなければならないと心を一つにした。
そしてあたし達はそれぞれ班に分かれて、自分にできることは何だと考えながら織斑君を優勝させるべくリーグマッチに向けての準備を始めた。
それから一ヶ月間、正直すごく楽しかった。
これはあたしだけじゃなくて、みんながそう言っていた。
一つの目標に向かってみんなで全力でやるというのは、とても楽しいことだ。
それまで学校の行事なんてやる気のある人はせいぜいが半分くらいだった。だから教室の中でも温度差があったりしたのだけれど、この一年一組はみんながやる気になっていた。
自分の口にしたことに対してみんなが真剣に答えてくれる。他の人が言ったことに意見してもきちんと反応が返ってくる。斜に構えて冷めたことを言う人なんて誰もいない。
この一ヶ月でみんな仲良くなって、お互いがお互いのことを知ったと思う。
あたしは特に篠ノ之さんオルコットさんと仲良くなった。
それまではまさかこの人達とこんなに普通に話すことはないだろうと思っていたので、正直びっくりだ。
篠ノ之さんのことは子供だと思っていたけれど、それは織斑君が絡んだ場合に限る話で、普段はとても分別があって織斑先生を学生にしたような人だった。
姉であるIS開発者篠ノ之束博士のことは一切口にしようとはしなかったけれど、話しづらいようなことは全くなく、織斑君が絡まなければ非常に理性的だ。
ただ何かにつけて説教したがるのが玉に瑕かなとは思った。
オルコットさんはその見た目通り、貴族っぽい感じで何をしても仕草が優雅で上品だ。
性格は基本的には穏やかで落ち着いている。時々取り乱すこともあったけれど。
入学初日に織斑君につっかかっていったのはどうしてかと聞いたら、頭を抱えて悶えてしまった。どうやらオルコットさんの中では黒歴史化してしまっているみたいだ。
若気の至りです、と消え入りそうな声がかろうじて聞こえた。
いつも一緒にいて、仲良くなればいろんなことを話す。
そのうち自然と織斑君のことも話すようになった。
もちろんお互いがライバルなんだけれど、あまりの織斑君の脈なさっぷりに、いつしか同じ悩みを抱える同士のような感覚が生まれていた。
その結果他のみんなとも一緒に織斑君についてあれこれ攻略方法を相談するようになった。
そして甲斐田君はそんなあたし達の姿を呆れた顔して見ていた。
もちろんリーグマッチの準備についてもみんな全力だ。
ただみんなが仲良くなるにつれて、意見の衝突が起こるようになっていった。
一言で言えばみんな遠慮しなくなったのだ。
パイロット班整備班指揮班と、立場が違えばやりたいことも違ってくる。決まった正解があるわけでもないし、自分が最善を尽くそうと思ったらどうしてもぶつかってしまうことは出てくる。
でも自分からは譲りたくないと言い合いをしていると、すぐに甲斐田君が飛んできた。
またかという顔をしながら、相手を説得したかったら言い方を考えろと文句を言いつつ、都度都度裁定を下していった。
最初あたし達は途中で切られるのが不満だったけれど、そのうち慣れた。そしてむしろ甲斐田君がやって来るまでが勝負だ的なゲーム感覚になっていった。
あたしは特に整備班を纏めていた鏡さんとやり合った。整備班は訓練機で改造をしたくてたまらないらしく、しょっちゅう訓練機を使わせろとあたし達に文句を言ってきた。でもあたし達パイロット班からすれば織斑君の相手をするのが何より第一だ。そんなことは受け入れられないと突っぱねて、毎回ああだこうだと言い合った。
その度に甲斐田君はやってきて、裁定をしながらもいい加減仲良くしてくれと言ってきた。あたしと鏡さんは肩を組んで、仲良しでーすと笑って見せた。カチンときたらしき甲斐田君は次の日あたしと鏡さんに罰だとばかりに仕事を言いつけた。
鏡さんと一緒に甲斐田君の文句を言いながらも、楽しかった。
一方甲斐田君は甲斐田君で自由自在に動き回っていた。
新聞部の先輩を呼んできて食堂で取材の形を取った他クラスへの心理戦を始めたり、一人で歩き回って三組五組に入り込んでスパイ活動をしていたりした。
本当に好き放題やっているなという感じで、怖いものなんて何もないように見えた。
男子一人で学園内を歩き回るとか、あたしが甲斐田君の立場だったら怖くて絶対にできない。
きっとリーグマッチは甲斐田君の思い通りに進んでいるんだろうなと思った。
ただ他のクラスから甲斐田君に対するぼっち疑惑が出ているのはさすがに予想外だったようで、あたし達は大爆笑してしまい甲斐田君はすごく嫌そうな顔をしていた。
もちろん次の日に笑った罰だとばかりに仕事が言い渡され、この人は本当に負けず嫌いというか仕返しせずにはいられない人だと思った。
でも甲斐田君でさえも順風満帆とはいかず、誰も想定していなかった事態が起きた。
織斑君甲斐田君の中学時代の友達、凰さんの出現だ。
この人は台風のような人で、あっという間に一組をかき回して、挙句の果ては敵になってしまった。
またその際にオルコットさんとISで喧嘩して気絶にまで追い込んで、あたしは絶対に許せないと怒った。みんなも同じ気持ちになったみたいで、いっそうクラスの団結が強まった。
でも篠ノ之さんだけは浮かない顔になっていて、どうしたのかと聞いたら凰さんの気持ちが分かってしまったのでそこまで怒れないと言う。
怒り心頭だったあたしがどういうことかと問い詰めると、凰さんはきっと織斑君に対して嫉妬していると答えを返してきた。
その時あたしの胸に少しざわつきが起こったけれど、それはすぐに怒りでかき消されてしまった。
篠ノ之さんに対して、でもだからってやったことは許されることじゃない、と言ったら、そうだな、と珍しく力のない返事をした。
そして甲斐田君は珍しく頭を抱えていた。
織斑君も凰さんに対して怒っていて、絶対に勝つと意気込んでいたのだけれど、甲斐田君だけは温度が違った。
最初は友達のことだから悩んでいるのかなと思ったけれど、それは主にリーグマッチに対してだった。
続いて指揮班の人達の顔も曇ってきて、相談を持ちかけられて理解した。凰さんはイギリスの代表候補生であるオルコットさんを倒してしまうほどの腕前の持ち主だという事実に。
織斑君は凰さんに教えてもらってようやくイグニッション・ブーストを使えるようになっていた。教え方も手馴れていたし、明らかに織斑君よりも上の位置にいる。
強敵出現どころの話じゃなかった。
みんな凰さんだけには負けたくないという気持ちもあって、必死に考えた。でも考えれば考えるほど凰さんの強大さだけが見えてきて、これと言ったものは出てこなかった。
ただ甲斐田君だけは平然としていたので、みんな何とかなるだろうという気持ちにはなっていたと思う。
今だから言えるけど、きっと甲斐田君は既に答えを見つけていて、いざとなったら自分が出ればいいと思っていたのだ。あたし達が答えを出せるか見ていたのだ。本当に性格が悪いと思う。
でも結局あたし達はその答えを出せなかったのだから誰も何も言えないけれど。
リーグマッチが始まった。
初戦の織斑君はすごかった。
たった一撃で五組の代表を倒してしまったのだ。
あたしは興奮して待機室で大騒ぎした。篠ノ之さんもオルコットさんも同じようにはしゃいでいた。
そして戻ってきた織斑君はものすごいエネルギーに溢れていて、あたしはこのまま織斑君に取り込まれてしまうんじゃないかと思えるような錯覚を抱いたりした。
でも甲斐田君や指揮班の人達はなぜか冷静で、むしろ難しい顔をしていた。あたしはどうして素直に喜ばないのかと不思議だったけれど、今考えればこの人達は次以降の苦戦を分かっていたんだろう。
実際に次の試合で織斑君は危うく負けるところだった。
四組代表との試合では完全に裏をかかれて、一時はこれはもう負けるとさえ思った。
勝ったのは半分偶然みたいな部分もあった。
でもそんな中甲斐田君だけは一人試合を読み切っていた。四組代表の心理状態を完全に当てていて、そこまで分かっていたのならどうしてこんなことになったのかと思ったけど、終わった後鷹月さんの悔しそうな顔を見て理解した。
そういえば、四組に対しては一番楽に勝てそうだからと甲斐田君は関与していなかったのだ。
正確には、鷹月さんがこの相手については自分達が考えると言っていた。
もちろん甲斐田君には三君や五組に凰さんのことがあったけれど、こうなってしまっては差がはっきり見えてしまう。
最初から甲斐田君に頼ればよかったんじゃ、とパイロット班のみんなは言っていた。
そして次の三組戦、鷹月さんは挽回しようと必死だったようだ。
整備班から出された作戦を急遽採用して、やり方をまるっきり変えた。
でもあたしもこの作戦はすごいと思った。こんなのは絶対に読めないと。
そして当の三組代表も完全に混乱していて、終盤までは順調でこれならいけると思っていた。
だけど今度は三組代表が追い詰められ過ぎて、最後開き直ってしまったのが大きな誤算だった。それで思わず冷や汗をかいたけれど、そこは織斑君の機転で何とかなって勝利できた。
鷹月さんの気持ちに配慮したのか甲斐田君はまたしても口を出さなかったみたいで、でもまたしても試合中に一人読み切っていた。
それで負けていたらどうするつもりなのかと思ったけど、きっと織斑君に対して絶対的な信頼があるんだろう。織斑君の行動を完璧に分かっていたし、形はどうあれ最終的に織斑君が勝つことは確信していたに違いない。
「やっぱり落とし穴っていうのはただ掘って誘導するだけじゃダメで、きちんと蹴落とさないといけないな」
と、終わった後甲斐田君は一人怖いことを言っていた。
そしてこの結果を受けて、鷹月さんが白旗を上げた。
クラスの女子を集めて、このままじゃ凰さんに勝てないからもう甲斐田君に任せようと言い出した。
もちろんみんな異存はない。整備班の人達も仕方ないという顔をしていた。
そもそも凰さんのことは甲斐田君がよく知っているのだから、むしろ甲斐田君に任せるべきことだろう。
あたしがそう言うと、四十院さんが頷いて、でも甲斐田君が素直に引き受けてくれるとは思わない、と返事をしてきた。
確かに、甲斐田君は相当なひねくれ者だ。あたし達が言ったことを素直に受け取らないで、勝手に変な方向に解釈し始めて怒り出すとかよくある。
任せたなんて言ったら責任放棄だとか言って怒りそうだ。
「ですから、甲斐田さんの言いそうなことを予め予想して先に反論を潰してしまいましょう」
そう四十院さんは真剣な顔で言った。
そこであたしは気づいた。これは今まで散々やられたことへの仕返しができると。
もはやこのクラスの人達は口では誰も甲斐田君に勝てない。例えばあたし含めたパイロット班のみんなは、反対していたはずなのにいつの間にか言いくるめられ、むしろ甲斐田君の望む方向に対してやる気にさせられたりしていた。
だから時々悪態をついてせめてもの抵抗をしたりするのだけれど、甲斐田君はそれに対しても容赦なくあたし達に罰の仕事を言いつけてさえいた。
これは仕返しするチャンスだ、とあたしが言うと、みんなは口々に賛同してくれた。特に鏡さんは甲斐田君に対して鬱憤が溜まっていたらしい。ものすごくやる気になって目が輝いていた。いったい甲斐田君は鏡さんに何をしたのかとちょっと引いた。
四十院さんはそのつもりではなかったらしくてすごく慌てていたけれど、あたし達は一泡吹かせてやるとばかりに意気込んで話し合いを始めた。
そしてその努力は実り、甲斐田君は完全に不意を付かれたという感じで、最初は怒っていたけれど段々困ったという顔になっていく。
逃げ道を塞がれて、思いつかなかったらどうするんだなどと弱気な言葉で抵抗していたけれど、そのうち諦めて受け入れざるをえなかったようだった。
あたし達は久しぶりに甲斐田君に勝ったと喜んだ。甲斐田君が何も案を持っていないだなんて誰も信じていない。どうせあたし達が何も出せなかった以上は何かしら用意しているだろうし、もしなかったとしてもその場で適当に作ってしまうくらいはやってしまう人だ。
案の定、二時間後に甲斐田君はとんでもない案を出してきた。
こんなものを隠していただなんて本当に性格が悪いと、その後みんなで言い合った。
次の日の鳳さんとの試合は当然のように織斑君が勝った。
前の日に織斑君が凰さんのためにと言い出さなければ、きっと完璧な形で勝っていたと思う。
でも織斑君のものすごくかっこいい姿が見られたのであたしは満足だ。
ついでに優勝も決まり、よかったよかったと待機室でみんなと喜んだ。
だけど、それで終わりじゃなかった。
その後は、あたしの中であっという間の出来事だった。
変なISが飛んで来て、甲斐田君が叫んで、隣の部屋で打鉄に乗って、アリーナでそのISと戦って、やられて、銃で攻撃して、気がついたら終わっていた。
体の検査が終わってクラスメイト達に囲まれて心配されて、ようやく我に返ったと思う。
それから客席にいたクラスメイト達に今のはどういうことだったのかと聞かれて、説明しているうちに気づいてしまった。
この集団での模擬戦、あたしは一番の役立たずだった。
途端に情けなさで涙が溢れてきた。あたしがやられてしまったことで甲斐田君の作戦は完全に狂ってしまっている。耐えるべき前線の一角が崩れてしまったせいでぎりぎりの勝負になってしまい、甲斐田君は自分自身を囮にする必要さえあったのだ。
他の人達はきちんと自分の役割をこなしていたというのに、あたしだけができていなかった。
あたしは今までの人生で自分だけができたことはあっても、自分だけができなかったなんてことなんて一度もなかった。甲斐田君のことをIS適正が低いからできない人などと思って同情していたどころではない。IS学園であたしはできない方にいたのだ。
あたしは生まれて初めて劣等感という感情を知った。
だけど、そんなことも甲斐田君はお見通しだったようだ。
顔を合わせるのも怖くて仕方なかったあたしに対して、平然とした顔で全部織り込み済みだし全然役立たずなんかじゃないと言ってくれた。
もちろん慰めてくれているのは分かっていたけど、今できることを最大限にやった、という言葉に救われた気がした。
その後騒ぎ過ぎて甲斐田君のいた医務室から追い出されて、誰かがさっきの集団模擬戦をみんなで見ようと言い出した。
どういうことかと聞けば夜竹さんが自分の映像機材で撮っていてくれたらしい。
気持ちも落ち着いたし、反省するためにも見たいとあたしも賛成して、みんなと寮の会議室で見ることにした。
音が外に届いていなかったので解説を鷹月さんがやっていたのだけれど、あたしはもちろん自分の姿だけを見ていた。
それでなぜやられてしまったかを考えていたら、鏡さんがぽつりと口にした。
「相川さんはさ、避けよう避けようって無理してたね。打鉄なんだから別に無理に避けようとしなくてよくて、ブレードで受けてればもうちょっといけたんじゃない?」
あたしはできることさえやっていなかった。
そうだ、打鉄は回避がメインの機体じゃない。ブレードや盾で受けて、耐える機体だ。
それなのに、あたしはひたすら逃げ回っている。織斑君がやっていたように。
まさかと思って谷本さんの動きを見る。なんかクネクネしててこれはどう考えても打鉄の動きじゃないと思った。
でも谷本さんは衛生班だしまともに訓練をしていないからと気を取り直して、篠ノ之さんを見るとそれは基本に忠実な打鉄の動きだった。
篠ノ之さんはブレード一本で盾は持っていなかったけれど、誰もがイメージする打鉄の動き方をしていた。
常に相手の正面にいて攻撃対象となり、間違っても相手の意識を周囲に飛ばさせないようにしている。両腕を振り回す攻撃に対しては片方は避け、もう片方をブレードで弾き返すという基本形で防御し、省エネに徹して全く無理をしようとしていない。
自分への救援は最後になると分かっていたこともあるだろうけれど、無理に回避しようとしないで両方を弾き返したりして動きを最小限にして、体力の温存に努めている。そしてとうとう最後まで一人だけでやりきってしまった。
一方のあたしは鷹月さんにフォローをもらって、危ない時は鷹月さんに相手を引きつけてもらっていたというのに。
ふと、攻撃役だったオルコットさんを見る。
するとオルコットさんは自身のレーザー銃に加えて、ビット五つで攻撃していた。五つ。
織斑君とやったとき、オルコットさんはビットを四つしか出せなかったはずだ。だけど一ヶ月経ってビットを五つ使いこなせるようになっている。
慌てて、篠ノ之さんの方を見直す。思い出してみると、一ヶ月前の篠ノ之さんは攻撃が最大の防御的な人だった。打鉄のくせにやたらと動き回って攻撃的だったことを覚えている。
でも映像の向こうの篠ノ之さんは、これでもかというくらいに防御主体な打鉄だった。つまり篠ノ之さんは打鉄の動き方を身に付けていた。
二人ともリーグマッチのための仕事をこなしながら、自分のやるべきこともしっかりとやっていた。
専用機なんて関係ない。同じだけあった時間をどう使ってきたかだ。
あたしはこの一ヶ月間自分のためにいったい何を努力したか。
スタート地点が違う上に今ではその差を引き離されてしまっている。
そして織斑君のことについてまで、この二人はあたしのはるか先を走っていた。
二人と仲良くなって今自分は三番目だとか喜んでいる場合じゃない。何もかも負けてしまっている。
自分の中に強烈な焦りの感情が浮かび上がってきた。
それから部屋に戻って考えた。あたしは今後どうすべきか。
このままでいいなんてことは絶対にない。
今の状態じゃ何もかもが中途半端なことになってしまう。
これから何をすべきかきちんと考えようと思った。
そしてそう思った途端、答えはすぐに出た。
あたしはISパイロットになりたくてここまで来たのだ。
そのために他の同級生達とは違う道を歩んできたのだ。遊ぶのを最小限にして、恋もせず、勉強をしてきたんだった。
ようやくIS学園に入学できたというのに、道半ばにして何寄り道をしてしまっているのか。
入学はゴールなんかじゃ全然ない。
織斑君の顔が浮かんだ。
もし万が一織斑君を恋人にすることができたら、あたしはきっとそれで満足してしまうだろう。
織斑君にはそれくらいの価値が十分にある。
でも、その場合あたしは織斑君のための人生を選ぶことになってしまうと思う。主役は織斑君だ。
もちろんそれはそれで幸せな人生かもしれないけれど、あたしはそのためにここまで努力してきたのかと言うと、多分違う。
あたしはあたしのためにここまでやってきたのだ。
ならばこれからやっていくことなんて決まっている。
まずは今までのけじめをつけよう、と思った。
織斑君に振ってもらって、そっちの方向を遮断する。
甲斐田君は言っていた。織斑君は綺麗に振ってくれると。
ならばそうさせてもらおう。
面と向かい合った織斑君は今まで見たこともないような真剣な表情だった。
こんな顔もできるんだ、と思った。
本当に惜しいなと思いつつあたしは告白し、織斑君はたった一言ごめんと頭を下げた。
あたしは振ってくれてありがとうとだけ言って背を向けたら、織斑君は、がんばれよ、と優しい声をかけてくれた。
ほとんど振り返りそうになって、ぎりぎりで踏みとどまった。
織斑君は分かっていたのだ。あたしがこうやってけじめをつけて歩き出そうとしていることを。
十分だ。最後にあたしの気持ちは織斑君に正しく伝わった。
振られたというのに、あたしの胸は暖かい気持ちでいっぱいになった。
教室に戻ったら、甲斐田君はひと目で全てを理解したようだ。
どうしてだろうとは思わなかった。やっぱり甲斐田君には何もかも見えるんだろう。
そして次の休み時間、甲斐田君に対してあたしは思いっきり見栄を張り、精一杯かっこつけた。
甲斐田君は感心した顔をしてくれたけど、全部分かっているのかもしれない。
昨日まで恋愛脳だったくせにと内心笑っているかもしれない。
それでもいい。大事なのは甲斐田君に対して宣言したということだ。
口に出してしまった以上、もうあたしは引き返せない。
宣言した通りに努力し続けなければならない。
入学初日のように感情に振り回されないよう、これからあたしは甲斐田君が見ていると意識して行動するのだ。
甲斐田君はあたしのことなんてこれっぽっちも興味を持ってないけど、それでもみんなのことを見ている。
その目がある限り、きっとあたしは自分を見失わない。
ふと、どれくらいになれば甲斐田君のチームに入れるかなと思った時、そういえば甲斐田君は自分自身の未来については何も考えてなかったと思い出した。
クラスの誰もが甲斐田君は指揮科に進むと思っているけれど、当の本人は自分のことを何も考えていないみたいだ。
あんなにも先を見て広い視野を持って行動できるのに、自分のことには五里霧中だなんて本当におかしな話だ。
篠ノ之さんによれば甲斐田君は男性の地位を向上させようとしているらしくて、そのために自分の人生を織斑君に捧げるつもりだろう、なんて大げさなことを言っていた。でも案外それに近いことを考えていたりするのかもしれない。
だってここまで甲斐田君は何もかも織斑君のためだけに行動しているのだから。
だけど今一年一組の中心にいるのは甲斐田君だ。織斑君じゃあない。
外から見れば間違いなく織斑君のクラスに見えるんだろうけど、内側では何かあるとクラスのみんなはまず甲斐田君を見る。
ここまでクラスを引っ張ってきたのは他の誰でもなく甲斐田君だからだ。
この一ヶ月半で甲斐田君はそれくらいの信頼を得ている。
だから甲斐田君に何か目的があったとして、それを言ってくれればクラスのみんなはきっと喜んで協力してくれると思う。
でも残念なことに、甲斐田君はまだあたし達のことを信じてくれていないみたいだ。
織斑君以外は、いや時には織斑君さえも信じていないような気さえする。
前に織斑君に甲斐田君のことを聞いた時、あいつにもきっといろいろあるんだよ、と返ってきた。織斑君でさえも知らないことがあるらしい。
甲斐田君は織斑君のいた施設に中一の時入ってきたそうだ。つまりそれまでは家族がいたという話で、施設に入ったというのはきっとそういうことだ。
さすがにそれはあたしには重過ぎる。でも織斑君は話してくれる日をいつまでも待っていると言っていた。
こういうのが男の友情と言うんだろうか。
果たして甲斐田君の心を溶かすのは織斑君なのか、それともまた別の誰かなのか。
案外クラスの誰かなのかもしれない。
織斑君と違って甲斐田君は暗黙のうちに恋愛対象外にされているけれど、甲斐田君に対して特別な感情を持っていそうな人はいる。
その中の誰かが甲斐田君の心の中に踏み込んで、凍ってしまった甲斐田君の心を暖かく溶かす。
そうなったらとても素敵だな、とあたしは一人夢を見ている。