IS 喜んで引き立て役となりましょう!   作:ゆ~き

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17.酢豚とサンドイッチ

 

 

 一人になって楽になったかと思えば、意外とそうではないかもしれない。

 

 

 ふと気づいて、俺一人のものとなった部屋を眺める。

 二人部屋を一人で使っているだけなので、当然何もかも二つずつ揃っている。ベッドも机もそのまま置いてある。

 思うのはスペースが増えた、ではなく、一人で掃除する範囲が増えた、だ。

 よく考えたら、いや考えるまでもなくこの部屋を管理するのは俺である。つまり俺が何もしなければ何も変わらない。

 一般的には当たり前だが、俺にとっては当たり前の話ではなかった。何しろ今までは一夏が全部やっていてくれたのだから。片付けも掃除も洗濯も、俺が何も言わずともやってくれていた。その上余力まであるようで、もらったとはいえこの前から植物まで育て始めているほどだ。見渡してもないのでそれは一夏が持って行ったのだろうけれど。

 だが、もしかしてこれから俺は自分でやらなければならないのか。

 

 しばし考える。

 そして一つの案を思いつき、実行してみることにした。

 

「よし、掃除とかしないでだらしないふりをしてたら一夏が見かねてやってくれるかもしれない」

「いやいやいや、それは普通に自分でやろうよ!」

 

 誰に言ったわけでもないのに突っ込みが入る。

 合わせて映像が俺の目の前に出てきた。

 

「あれ博士、いたんですか? 出てこないからいないのかと」

「深刻そうな顔で考え込んでたから邪魔しないように待ってたんだよ! それなのに出てきた結論はそれ!? 思わず突っ込んじゃったじゃないか!」

「そんなの知りませんよ。それに僕にとっては大事なことですから」

「智希君にヒモとしての才能を感じてしまった……」

「失礼な」

「いっくんに養われて何もしないで過ごす日々とかやめてよ……」

「そこに魅力を感じないわけじゃないですけどさすがにやりませんよ」

「魅力を感じちゃってるんだ……」

「ついに分かりました! お兄様に合っているのは世話を焼いてくれる母性愛に溢れた女性だったのです!」

 

 興奮気味なクロエが画面外から飛び出してきた。この前といい最近自己主張が激しくなっているような気がする。

 

「クロエはちょっと黙ってようか」

「ひどいです!」

「博士と話をしなきゃいけないから、ね?」

「それなら……」

「一応クロエにも関係ある話だから聞いておいて」

「はい」

「あれねえ……」

 

 クロエを宥めて、俺と博士はため息を吐きそうな顔で向き合う。

 議題は言うまでもない。

 

「考えるまでもなく、目的は普通にいっくんだね」

「ドイツでしたからね。それはそうでしょう。僕らは慌てすぎでした」

 

 思いもよらない存在がいきなり飛び出してきたとはいえ、俺は冷静ではなかった。博士も俺につられてしまい二人してクロエにたしなめられたほどである。

 

「まあ、あのテンションは仕方ない。で、今後の話なんだけど」

「あの様子じゃ向こうは僕には絡んでこないんじゃないですか? どう見ても一夏の方に興味ありありでしたよ」

 

 俺と一夏に対する挨拶での差だ。

 奴はどうやら織斑千冬信者であるらしく、実の弟である一夏に会えてそれなりに感情が高ぶっているようだった、

 俺については失礼な発言をしたこともあってか距離は遠めで、一方一夏に対しては相手が照れるくらいまじまじと見て観察していた。

 それは別に俺でなくとも分かるレベルだったようで、周囲もそう見たらしい。態度に差があることに対して文句を言っているのもいた。

 ちなみにデュノアとは既に面識があるようで、顔を合わせるのは二回目とのことである。一言二言言葉を交わすだけだった。こちらに興味はあるのかないのか。

 

「個人的な感情はあるにせよ普通に任務を抱えてやってきたっぽい。だけど奴にはちょっと問題があって」

「問題ですか」

「ぶっちゃけちーちゃんが絡んでる可能性が高い」

「えー」

「そいつね、ちーちゃんがドイツにいた頃の教え子なんだ」

「は?」

 

 奴はそんな公の存在なのか。

 それはあり得ることなのか。

 

「ちょっと待ってください。どうしてそれを博士が知らないんですか?」

「う……それは……そのへん、その後のドイツ関係はくーちゃんに全部任せてたから……」

「へー」

「いや、データはちゃんとあるよ。映像にも撮ってたし、どういうISに乗ってたとかどういう訓練をしてたとか、引っ張り出したら記録は全部あったよ?」

「じゃあ博士が認識してないのは……」

「くーちゃんに気づけってそれは無理な話だよね」

「ああ」

「すみません……」

「クロエは何も悪くないよ。だって気づくための材料を何も持ってないんだから」

 

 今のクロエに気づけというのは完全に無理だ。

 だって今は知識として後から知っただけで、何もかも全部吹っ飛んでしまったのだから。

 

「それでもすみません……」

「いや、銀髪眼帯だけじゃ僕でも分からない。その奥まで見られれば別だけど、あとはISでの動きを分析するしかないかな。まあ博士が直接見たらすぐに分かったんだろうけどね」

「嫌味たらしいなあ。でもくーちゃんは訓練の様子とか見て纏めてくれてたんだし、それで違和感を覚えなかったんだからもうどうにもならない」

「それこそ絶対に無理ですよ。今のクロエには何も残ってないんだからそもそも感じようがないんだし」

「そうだね。それにあのVTシステムがまさかちーちゃんの側にあるとか誰が思うかって話なんだし」

 

 VTシステム。

 正式名称はValkyrie Trace System(ヴァルキリー・トレース・システム)。

 一言で言えば、織斑千冬の動きを完全コピーすれば世界最強になれるんじゃないか、と考えたどこかの馬鹿によって作られたISに搭載するプログラムである。

 しかしそれは世界中から総スカンを喰らい、現在は名指しで開発が禁止されている。

 ところがドイツという国は諦められなかったらしく、その後もこっそりと研究を続けたらしい。

 そしてそれは当時逃亡中だった篠ノ之束の知るところとなり、その極秘施設は徹底的に破壊されたとのことである。博士が言いたがらないのでそこは想像するしかないが、自分ではできない以上おそらく当時の協力者にやらせたのだろう。

 それから博士はしばらく残党や同じような連中の捜索と排除を行い、その過程でアメリカに来て俺やクロエと出会うことになるわけだ。

 

「いやー、本家本元を見れば本物に近づけるとか考えたんじゃないですか?」

「そうだったら話はすーごい楽なんだけど、問題はそいつをちーちゃん自身が引っ張りだしたんじゃないかって感じで」

「千冬さんが自分から? どうして?」

「そんなのちーちゃんじゃないから知らないよ。同情したとかそういうことなんだろうけど」

「同情する要素があの連中にあるんですか?」

「いやほら、そいつは実験に使われた被害者なんだ的な」

「あー」

 

 それを言われるとさすがに否定できない。

 国が違うとはいえクロエがまさにそうだったのだから。

 VTシステムは搭乗者と直の連携が必要になるそうで、そのためにはっきり言って人体改造同然の投薬や手術やその他もろもろが行われたらしい。そしてその対象となった被験者はなんとこれまた違法実験、男を人工的に作ることができないかとあれこれやって失敗してできた女だそうで、もはや役満をぶっちぎっている。

 もうやばすぎて真相を知った世界の首脳は満場一致で闇に葬ってしまったとのことだ。運良く何者かが証拠ごと勝手に潰してくれたというのもあって。

 ただそれ以来IS委員会におけるドイツの立場はその国の規模とはかけ離れて極めて低くなっているようだ。もはや発言権はないに等しいらしい。

 一方のドイツ国内ではまことしやかに囁かれる噂の一つで済んでいるのがせめてもの救いと言うべきか。今はもう加害者も被害者もいないのだから。いないはずだったのだが。

 

「でもあんなのが残ってちゃいくらなんでも危ないでしょ? それとも千冬さんは操縦者の体の中にあるVTシステムを消す方法を見つけた?」

「それはムリ。ちーちゃんでもむり。たとえ資料を持ってて子分の研究者にやらせたとしても無理」

「言い切りますね」

「今世界でそこまで進んでいる研究者はいないんだ。あれってISの構造と密接に関わってるから、操縦者から切り離すにはそれ相応の知識が必要。そして現状はよくてその三段階ぐらい前にいるかな」

「だから作った側の知識を使えば?」

「あのクズどもは本当に闇雲にやってただけだよ。だから変なとこまで触っちゃってて暴走すると大変なことになるんだ。しかもそれで出せた成果はちーちゃんに瞬殺されるレベルなんだから、もう話にもならないよ」

「でも……」

「うん、クロニクル博士は闇雲の中から一等の宝くじを引き当てただけなんだ。燃えかけの研究ノートをちらっと見たけど、『あれ』はたまたまうまくいっただけ。それも不完全なままだったのは智希君も知ってることだよね? 全くケアできてない部分があって、その結果くーちゃんは生まれてからの記憶まで全部消えてしまった」

 

 正確には、消したのは俺である。俺はそうなる可能性まで聞かされた上でそうした。

 

「やっぱり無理だったんだよね」

「お兄様、何度でも言いますよ。私は今幸せです」

 

 と、クロエが入ってきた。しまった。久しぶりに気を遣わせてしまった。

 クロエはその黒になった両目で真っ直ぐに俺を見据える。

 

「クロニクル博士、いえお父様の記憶は私の中にはありません。ですがその愛情についてはお兄様から十分なほど教えていただいています。私を救ってくれたことに心から感謝していますし、愛情について疑うことなどありません。だから私は甲斐田ではなくクロニクルを名乗っているんです」

「知ってる」

「でしたらもう昔のことを思い悩むのはやめてください。今私は幸せで、お兄様は自由に好きなことができる。そこに何か問題はありますか?」

「なんにもないね」

「そうです! お兄様は今のように自由に思いきりやればいいんです!」

「束さんとしてはもうちょっ」

「はいはい分かりました。同じことを繰り返すのはもうやめましょう。で、今後については?」

「あ、ちょっと照れてる。まあそれはいいとして、これからちょっとドイツ行って来るね。さすがに情報が足りないんだ。特にここ一年については放置気味だったから、一度洗い直しておきたいし」

「なるほど」

 

 今はどこにいるのか知らないが、出向く必要まであるのか。

 それはいったい何をするためだろう。

 

「知識のある智希君がいて暴走するのはないと思うけど、万一暴走したとしてもちーちゃんいるからね。あのゴミどもみたいに取り込まれるとかないように、その時は智希君が人が近づかないようにしておいて」

「あんなのに好んで近づいていく馬鹿はさすがにいないですよ」

「それもそうか」

「とりあえずは了解です。まあ奴も僕に興味ないだろうから問題はないでしょう。あ、そうだ、クロエも一緒に行くの?」

「もちろんです! 終わったら変装して束さまとショッピングをするんです!」

「また服を買うのか。そんなにいるとは思えないけどね」

「何を言うんですか! 女は日々努力をしているからこそ女なんです!」

 

 さてクラスメイト連中はその区分によると何人が女なのかと考えてしまうが、思い浮かぶ感じでは意外とみんな努力しているなと思った。

 もちろん一夏という存在もあるのだろうが、制服社会の中ちょっとしたお洒落に余念のない女子は多い。

 制服に何かを足していたりするし、鈴などは完全にいじって変えてしまっている。

 たまに俺が気づいて指摘すると得意そうな顔になるので、やはり連中も意識してやっているのだろう。

 このあたりを我らが一夏に期待するのはまず無理だが、デュノアは目ざといどころか褒め方まで知っていそうな感じだ。

 俺も得意ではないので、デュノアから一夏が学べばいろいろよさそうである。

 

 とそんな感じで、クロエが自分の買い物について目を輝かせてあれこれ語っている中、俺は聞き流しつつもぼんやりと考えていた。

 

 

 

 

 

 六月に入ったとはいえまだ梅雨に突入というほどではない。

 屋上から見上げる先は未だ綺麗な青空だ。

 

「よし、じゃあみんな揃ったし始めるとするか」

「う、うん。でも本当にいいの?」

「ついでだついで。元々いつかやろうって話はしてて、それがたまたま今日になったってだけだ。だからシャルルはたまたま居合わせてラッキーでいいと思うぞ」

「そうそう。気になるなら次は自分もやってみればいいんじゃない? あ、シャルルは料理できるの?」

「簡単なものなら……」

「じゃあ何も問題ない。まあ僕は食べるだけだけどね」

「甲斐田の面の皮の厚さは本当にどうにかならんものか」

 

 何か言っているのもいるが、そんなものはやりたい奴がやればいいのだ。

 俺はやる気もないのでその場に居合わせたら喜んで食べる、それだけだ。

 

「まさかここにいる人達はみんな作ってきたの?」

「さすがに全員が全員というわけではなかろう。人には得手不得手があるのだからな」

「と言いましてもせっかく一夏さんが試食をしてくれるのですもの。この際と思う方はそれなりにいるようですわ。かく言うわたくしも準備させていただきました」

「それは楽しみだな。セシリアは何を作ってきたんだ?」

「開けてのお楽しみということで。すぐですわ」

 

 一夏が機嫌よくオルコットに笑いかけ、オルコットも笑顔で持っていたバスケットを持ち上げる。

 要するに、試食と称して一夏に自分の手作り料理を食べてもらおうの会である。

 一夏が超料理上手なのは周知の事実で、俺としては一夏の舌を満足させるのは無理だと連中は引いてしまうのかと思っていた。

 だがさすがにそのあたりはしたたかで、逆にそれを利用して一夏にアドバイスを貰うと理由をでっち上げ、そして一夏は喜んで当然のように乗ってしまっている。

 

「でも昨日はそのデュノア君のおかげで食堂がすごいことになってたから、今日ここで弁当というのは正解だったわね。今頃食堂に行った奴は歯ぎしりしてるんじゃない?」

「迷惑かけてごめんね」

「別に責めてるわけじゃないわよ。ちょうどよかったってだけ。しばらくは物珍しさで大変だろうけど、そのうち慣れるし落ち着くから。一夏や智希の時もすごかったらしいけど、今じゃこいつらは何食わぬ顔で行き来してるんだし」

「ふふっ、それはとても心強い言葉だね」

 

 そして鈴までいる。

 こいつはてっきり知らずに置いて行かれると思っていたのだが、きちんと情報収集をしていたらしい。ちゃっかり弁当片手について来ていた。

 中身はどうせ一夏の好物にして十八番の酢豚だろうが、まあそれは俺にとっても懐かしい味なのでいい。

 問題は、ハミルトンまでが弁当を抱えていることだ。鈴に付き合わされたのだろうが、俺に食べさせるではそもそも趣旨が違うとは考えなかったのか。それに何を作ったのか正直不安である。一応は鈴が見ていただろうから、そこまで恐ろしい物ではないだろうが。

 ちなみに四十院さんは料理ができないようで、潔くなのかこの場にはいない。鷹月さんがいるのは意外だった。単純に料理の批評が欲しいのだろうけれど。

 

「まあ話はそのへんにして早く食べようぜ。俺も腹空いたし。で、誰が最初に食べさせてくれるんだ?」

 

 一夏の言葉と共に、時が止まる。

 一番打者、先鋒、ファーストアタッカー。その役割は重要だ。何しろそれがこの場の一夏にとって基準となってしまうのだから。

 自信があるのであれば思い切って出るのもいい。だがそれ以降に自分よりも上の人間がいた場合、自分の印象はあっという間にかき消されてしまうかもしれない。

 ならばできるだけ後に回すか。それはそれで難しい。遅くなってしまうと一夏の食欲が満たされてしまうかもしれないのだ。満腹になってしまっては味わってもらうどころではない。

 一瞬で連中はそのことを感じ取ったのだろう。じりじりとあたりを牽制する様子が伺える。篠ノ之さんはやはり迷っている。一方オルコットは余裕そうな表情だ。どうやらいつでも問題ないほど自信があるらしい。鈴に至っては最初から動く気配がない。酢豚のような濃い味は後の方がいいとでも判断したか。

 

「みんなそんなに怖がることないぞ。別に酷評とかするつもりなんてないし」

 

 一夏が笑顔で見回すも、それでも踏ん切りを付けられた人間はいない。

 おそらく連中にとっては永遠にも等しい数秒の時間が流れる。

 

「あれ、誰も行かないの? じゃあ私が」

 

 ついに手を挙げた勇者は誰だと視線が集中する。

 

「お、谷本さんか。なんかそのバスケットは懐かしいな」

「毎日お世話になりましたねえ」

 

 なるほど、この場において利害関係のない谷本さんならトップバッターとして適任だ。

 その上リーグマッチの際は衛生班として一夏にサンドイッチを作っていた。だから一夏も既にその味を理解している。

 これ以上ない適役だ。

 

「それで、何を作ってきたんだ?」

「じゃじゃーん! たまごサンドでーす!」

 

 時が止まった。俺と一夏だけの。

 バスケットの中には所狭しとあの、どこまでも味の変わらないサンドイッチがひしめいている。

 

「え、あれ?」

「そうでーす!」

「あの、それって俺はもう散々食べたんだけど」

「いやー、甲斐田君もそうだったけどあのがっつきぶりはよっぽどこれを気に入ってくれたんだなあって」

「え、いやそれは……」

「さあどうぞ! なんなら全部食べちゃってもいいよ!」

 

 同室の布仏さんに学んだのだろうか。今の谷本さんに全く邪念は見られない。本気で俺達がそれらを好んで食べていたと思っている。

 違う、そうじゃない。味が平坦過ぎて一気にかき込むしかなかっただけなのだ。

 

「じゃ、じゃあ……」

「どうぞどうぞ~!」

 

 一夏は一つ手に取り、口に入れる。それからああこの味は久しぶりだなーという顔になった。

 そう、別にまずくはないのだ。あえて言うなら普通。たまごサンドと聞いて思い浮かぶ味そのままである。ただその量が尋常ではないだけで。

 

「えっと、そうだ、味なんだけど」

「ああ、別にそんなのはいいよ。おいしく食べてくれてるのはもう知ってるから。それよりも遠慮しないでどんどんどうぞ!」

 

 どうしよう、という目で一夏は俺を見る。もちろん俺は笑顔で拳を握ってがんばれと返す。当たり前だ。一夏の残した分が俺に回ってくるのは分かりきっている。だからできるだけ一夏に消費させるのだ。

 だが一夏の方もそんな俺の思惑を感じ取ったらしい。信じていたのに裏切られたという悲壮な顔になり、周囲を見渡して助けを求める。

 

「ま、まあ谷本、今日のところはそのへんにしておいてくれないか? 何しろこの後には私達の作った料理も一夏に食べて貰う予定だ。その前に満腹になってしまってはさすがにな」

「おっと、それはそうでした! これは失礼!」

「谷本さんごめんな。せっかく作ってもらって悪いんだけど、まだみんなの分があるんだ」

「いやいや、全然お気になさらずに」

 

 利害が一致した。

 確かに篠ノ之さん達としても一夏に満腹になられては困るのだ。フォローに出るのも当然の話である。

 しかし谷本さんもどうしてそういう時に限って空気を読む。いつもの傍若無人さはどうした。そこは周りの目など気にせず一夏の口に押し込むべきではないのか。

 そして一夏はざまあみろという目で上から俺を見る。自身の危機を乗り越えたことにより強気になってしまったようだ。

 おのれ一夏、だが俺がこの程度で終わりだと思うな。

 

「じゃあ甲斐田君もどうぞー!」

「どうもありがとう。いただくよ」

「どんどん食べてねー!」

「そうだ谷本さん、せっかくだからみんなにも配ってみたら? これだけあるんだしみんなにも食べてもらった方がいいよ」

「あれ? 私は別に構わないけど甲斐田君はいいの? 自分の分は何も用意してないんだよね?」

「そうだけど僕も一夏のついでに食べさせてもらうつもりだから大丈夫。谷本さんもそれをあげて代わりに自分ももらえばいいんじゃないかな?」

「なるほどそれはグッドアイデアです! ではさっそく!」

 

 手を叩いて喜び、谷本さんは近くにいる順番待ち状態の連中にサンドイッチを配り始めた。

 ミッションコンプリート。危機回避成功。

 量が多いだけなのだから周囲に分散させてしまえばいい話である。

 一夏を見ると二番手は篠ノ之さんのようだ。唐揚げを食べている。同時に俺を観察していたらしく、俺の危機回避能力に驚いたのか目を丸くしている。そしてすぐ何事かに気づいたようで、俺を睨みつけてきた。

 それはもちろん最初からそうしろよという抗議である。

 

「あんた達はいつもいつも何バカやってんのよ」

「いてっ!」

 

 一部始終を見ていたらしき鈴が俺の頭を叩いた。

 

 

 

 

 

 試食会は概ね順調だ。

 まだ準備した全員が一夏に食べてもらったわけではないが、あれからずっといい雰囲気で進んでいる。

 篠ノ之さんは一夏の好物である唐揚げを用意していた。味付けについても一夏の好みをリサーチしていたようで、一夏は大喜びで頬張っていた。

 そしてその後の一夏のべた褒めぶりにはさすがの篠ノ之さんも相好を崩してしまい、今も人前で顔が緩んでいるのに気づかないようだ。ご機嫌な顔をして幸せいっぱいである。

 さらにこの事実は他の連中に希望を与える。篠ノ之さんの料理はまあいいところ普通であり、出したものも基本の唐揚げである。それで一夏がここまで喜んでくれるのだから、多少なりとも自信のある者は力が入ったようだ。実際、次から次と美味しいものを出されて一夏は味の指摘やダメ出しをするどころではない。いいところを取り上げては褒めるばかりで、またその褒め方も料理ができる人間の言葉であるため説得力はある。

 結果、製造工場のように頬の緩んだ女生徒が生産され、場の空気はピンク色が次第に濃くなっていった。

 

「ふん、どいつもこいつもその程度で一夏を喜ばせようとか甘いわね」

 

 そんな空気を打ち破ったのは鈴だった。

 今こそ真打ち登場だとばかりに立ち上がり、弁当箱を両手に持って一夏の前へと進む。

 一夏も理解したようだ。今までの緩んだ顔から一転、気を引き締めて膝を正す。

 そう、一年ぶりに鈴の酢豚が食べられるのだ。

 

 酢豚は一夏の好物の中でも上位に入る。正確には本職の中華料理人である鈴の父親の酢豚が一夏にとって最高の酢豚なのだが、娘はその事実を知ってから数年、父親の元研鑽を重ねてきた。

 その結果鈴は一夏好みに味付けをアレンジすることによって、父親には及ばないものの、一夏が何も言葉を発せず一心不乱に食べ続ける酢豚を作り上げることに成功する。

 そして鈴が賢いのは、そのレシピを一夏に教えなかったことだ。

 料理のできる一夏は自分で作りたいから当然のように鈴に教えを請おうとする。だが鈴は企業秘密を大義名分に掲げて首を縦に振ることがなかった。つまり、鈴に作ってもらわなければその酢豚を食べられないようにしたのだ。胃袋による囲い込みという古典的手法である。

 しかし一夏も負けてはいない。自らその酢豚を作り上げるべく独自に研究を行う。その時の一夏は酢豚ばかり作るようになってしまい、同時期俺は酢豚の匂いを嗅ぐだけでうんざりしたものだ。鈴も意地を張っていたが一夏は一夏で対抗意識を燃やしていた。

 だが悲しいかな所詮は素人、本職に独学で勝とうなど無謀が過ぎる。ほどなく諦めて一夏は鈴の前に膝を屈することとなった。俺や施設の仲間が総出でいいかげんにしろとやめさせたとも言う。

 ここまでは鳳鈴音大勝利である。だが運命の女神は鈴に微笑まなかった。

 中華料理禁止令を俺によって施行された一夏は気づく。そうだ、中華料理は別に自分で作らなくても鈴の店で食べればいいじゃないか、と。

 それからの一夏は中華関係に手を出すのをやめ、日本料理にその興味の矛先を向けていく。そして今や様々な料理を会得するに至る。

 その後梯子を外された鈴が俺のせいだと八つ当たりで襲いかかってきたが、俺も対策に余念はない。予め用意していたDとK(諸事情により匿名)という名のサンドバッグを差し出すことにより、何とか事なきを得た。

 酢豚、中華料理という点で一夏の中に確固たる地位を占めることができたのだから、それはそれで一つの成果だろう、と俺は鈴に対して説得を行う。ひとしきり暴れて頭の冷えた鈴も八つ当たりでしかないことに気づき、幾多の犠牲を生みながら二週間という長きに渡って続いた戦乱はようやく終結の時を迎えることとなった。

 

「鈴、一年ぶりだな。まさか腕は落ちてないだろうな?」

「あたしがいたのは本場よ。上がることはあっても下がるだなんてとてもあり得ないわ。一夏の方こそ舌は衰えてないでしょうね?」

「ふっ、それはこれから分かることだ。鈴、食べさせてもらうぞ」

「どうぞ。感想はしっかり聞かせてもらうわよ」

 

 先程まであった緩んだ空気はどこへやら、今は緊迫した空気が場に広がっている。

 誰もが固唾を呑んで見守り、声を発することさえない。

 そんな中一夏は鈴から弁当箱を受け取り、床において手を合わせ一礼する。それから弁当箱の蓋をゆっくりと開けていく。

 鈴はここに来る前に食堂まで行って電子レンジを使って温めたのだろう。弁当箱が開いた途端に酢豚の香りが一気に広がる。その匂いは確かに俺の記憶にあるものと同じだった。

 一夏は目を閉じて鼻からその香りを吸い込む。その顔には懐かしさが見える。きっと俺と同じ感覚に入っているに違いない。

 それから一夏は満足したかのように笑みを浮かべながら目を開ける。そして箸に手を伸ばし、左手で弁当箱を持ち上げた。

 誰かが喉を鳴らしたのが分かった。今この場は一夏の一挙一動に視線が注がれている。

 もちろん一夏は周囲のことなんて一切気にしていない。一夏の目に映っているのは目の前にある箱の中身だけだ。

 箸はそのまま箱の中へと入っていき、やがて赤い塊が飛び出てくる。塊はそのまま一夏の口の中へと吸い込まれて行った。

 二度、三度、一夏の顎が動く。一度止まり、またゆっくりと、噛みしめるように一夏は顎を動かしていく。やがて飲み込んだようだ。喉が動いたのが分かった。

 そして一夏はまた同じ動作を繰り返すのだろう、と俺は思っていた。皆もそうだったに違いない。だが一夏はその予想を大きく裏切る。

 なんと一夏は箸を置き、弁当箱の蓋を閉めた。そしてそのまま弁当箱を脇に寄せ、膝を立てて前に動き鈴との距離を詰める。

 鈴の顔が驚愕に彩られる。俺も同じ気持ちだ。何か問題でもあったのか。いや、鈴の酢豚に限ってそんなことなどあるわけがない。俺だって鈴の酢豚は何度も食べている。一度足りともまずかったりするようなことはなかった。まして今は一年ぶりの場。鈴が何か手落ちをするようなことなど絶対にあり得ないと言い切れる。なのに一夏はいったい何を考えている?

 

 一夏は大きく両手を広げる。何が始まるのか。当然鈴は身構える。そして一夏はそのまま鈴を抱き締めた。

 

「えっ?」

「これだ、これなんだよ! 俺が食べたかった酢豚はこれなんだ!」

 

 まったく理解が追いつかない。

 今一夏は何をしているのか。

 

「ちょ、ちょっと一夏!?」

「ああ思い出した! これが俺の求めていた味なんだ! 今ならできるんじゃないかと思って何度も挑戦して出せなかったこの味、それは確かにここにあった!」

 

 いったい何が起こっているのだろう。一夏が鈴を抱き締めて興奮している。

 まるで離れ離れになっていた恋人に出会えたかのような喜びだ。人ではなく酢豚だが。

 と、俺は異変に気づく。

 

「一夏! その手を離して!」

「何を言ってるんだ智希! 酢豚だぞ酢豚! ほら、俺達の中学時代はここにあったんだよ!」

「こっちこそ何言ってるか分かんないよ! いいからその両腕を広げて!」

「は? だから何言ってんだお前?」

 

 好ましい反応をしない俺に不満そうだが、一夏はしぶしぶ両腕を緩める。

 するとその中にあった鈴の体がゆっくりと倒れた。

 

「あ、鈴!」

「あーあ」

 

 鈴はのぼせてゆでダコになっていた。目も回している。

 もちろん一夏に強く抱き締められたせいだ。加減の問題ではなく、他ならぬ一夏に抱き締められたというのが主な要因である。

 

「すまん鈴! 大丈夫か!?」

「あーあー、そんな揺すっちゃ駄目だって」

「ど、どうすれば……」

「そのへんに寝かせとけばいいよ。すぐに回復するから」

「わ、分かった……」

 

 俺に言われるがまま一夏は鈴の体を横たえる。

 一夏はやってしまったと不安そうだが、別に心配するほどではない。

 だって鈴の顔はこれ以上なく幸せそうなのだから。

 目を閉じたままなだけで明らかに意識も戻っている。今は幸せを噛みしめているだけだ。

 というかちょっとニヤニヤし過ぎで気持ち悪い。

 

「えーと……」

 

 一夏が頭をかく。

 どうしたものかと困っているようだ。

 鈴の弁当箱をチラ見しているあたり、酢豚を食べたいのだが横たわっている鈴の手前やりづらいというところだろうか。

 

「つ、次はわたくしの番ですわ!」

 

 と、立ち上がったオルコットが左腕を広げ声を張り上げる。

 確かにあんな場面を見せられては心穏やかでいられないだろう。

 

「おお、次はとうとうセシリアか」

「今の余韻など全て消し飛ばしてみせますわ!」

「そりゃあ楽しみだ」

 

 大した自信である。

 一夏もこれ幸いとばかりに乗っかった。

 一方俺はその隙に鈴の弁当箱に手を伸ばそうとし、すぐ鈴の視線に捕まって引っ込めざるをえなくなってしまっていた。

 

 

 

 

 

 さて最終挑戦者、セシリア・オルコットである。

 もしかしたら挑戦者自体はまだいたりするかもしれないが、見ていた感じ残っている中で大物と言えるのはオルコットくらいだろう。鷹月さんなどは純粋に料理指導目的のようだし、整備班連中に至っては一夏よりもデュノア目当てだ。まだ残っていて鈴に対抗できるような存在と言えばもうオルコットしかいない。

 

「なかなかに楽しい見世物でした。つい高みの見物に興じてしまいましたわ」

「は?」

 

 血の気の多い鈴が反応して起き上がる。

 だがオルコットはまるで視界に入れていないという風情で、意にも介さない。

 

「ですがそれもここまで。これまでの全ては前座に過ぎなかったのですわ」

「これは相当な自信だ」

「セシリアはいったい何を作ってきたんだ?」

「失礼をば致しました。少々勿体振り過ぎましたわね。では参ります」

 

 そう言うとオルコットは満面の笑みを浮かべ、自分のバスケットを持って一夏の元へと歩み始める。その優雅な姿は周囲を圧倒していた。貴族、いやこれはもう女王と言っていいかもしれない。

 

「くっ」

 

 その存在感に気圧されたのか、鈴が歯を軋ませる。

 鈴とオルコット。同じく一夏を想えどその姿は実に対照的だ。庶民の鈴に対して上流階級たるオルコット。世が世なら非支配者と支配者の関係ですらある。

 その上オルコットはぽっと出の成金などではない。伝統の重みを背負った筋金入りの貴族だ。それは今のこの姿が身を持って証明している。圧倒的なその存在感。これは個人の力だけで出せるような代物ではない。代々積み重ねてきた祖先の力がオルコットの体には纏われているのだ。

 

「セシリア」

「お待たせ致しました一夏さん、さあどうぞ!」

 

 そしてオルコットはバスケットを開けて中身を一夏に見せる。

 すると、一夏の目が点になった。

 

「へ?」

「どうぞ、遠慮などなさらずに!」

「いや……え?」

 

 どうしたのだろうか。生憎こちらからバスケットの中身は見えない。

 一夏の表情は肩すかしを食らったような、意表を突かれたような感じだ。

 やがて一夏は困惑した顔になり、俺の方を向いた。

 俺も気になるので二人の側へと向かう。

 

「どうしたの一夏……え?」

 

 横からバスケットの中身を覗き込んで、俺も一夏と全く同じ感覚に襲われた。

 この感情を何と言っていいか、確かに俺も分からない。

 

「何やってんのよ二人とも……サンドイッチ?」

 

 見かねたのか鈴まで入って来た。近くにいた連中もわらわらと寄って来ている。

 そう、オルコットのバスケットの中に入っていたのは、ぱっと見何の変哲もないサンドイッチだった。

 

「皆様方、何か?」

「いや、別に何かってわけじゃなくて……」

 

 そうだ、別に何か問題があるわけではない。

 バスケットの中にサンドイッチ。それ自体はごく普通のことで、おかしいことは何もない。

 だがなんだろうこの感じは。

 俺だけでなく、オルコットの周囲には疑問符が満ち溢れる。

 

「一夏さん?」

「いや、別に悪いとかそういうことじゃないんだけど、サンドイッチなのかと思って」

「それがどうかしましたか?」

 

 一夏が曖昧な言葉を口にするも、オルコット本人は何も気にしていない様子だ。

 はっきり言って拍子抜けである。あれだけもったいぶって出て来たのに、蓋を開けてみればただのサンドイッチでは。

 いや待て、これはもしかして味に秘密があるのかもしれない。

 

「そうか、なるほど。これは見た目で判断をするなということなんだな。そうなんだろセシリア?」

「はい? ええまあ、口に入れるものですから味も大事だと思いますわ」

「うん……うん?」

 

 一夏が俺と同じ思考に至るも、オルコットの返事は要領を得ない。

 特に何かを意識して仕掛けてきたと言うことではないのか。

 いや、さっきから俺達とオルコットとの間にはどこか噛み合わなさ、意識のズレを感じてしまう。

 ただの思い過ごしなのだろうか。それとも致命的な何かがあるのか。

 

「いいから一夏はさっさと食べなさいよ。それで分かるでしょ?」

「確かにそうだった。そういう話だよな。セシリア、一つもらうぞ?」

「どうぞ、ご賞味くださいませ!」

 

 鈴の言う通りだ。謎に対する回答はすぐ目の前にある。

 一夏は目の前のバスケットに手を伸ばし、中にあるサンドイッチを一つ取り出した。

 うん、見た目はごく普通のサンドイッチだ。

 

「じゃあ、いただきます」

「……」

 

 さすがにオルコットもこの瞬間は息を呑んで見守る。

 一夏は手に持ったサンドイッチをそのまま口の中に入れた。

 と、いきなり一夏の目が大きく見開かれる。擬音でも聞こえてきそうな勢いだ。

 

「一夏?」

「一夏さん?」

 

 だが一夏は周囲の声には何も答えず、あぐらをかいてそのままサンドイッチの残りを食べ始めた。

 目を閉じて、黙々と食べ続けている。がっつくという感じでもなく、ゆっくりと。

 どういうことだろう。単純にそのままで言葉も出ないということなのだろうか。

 やがて一夏は手にしたサンドイッチの全てを飲み込んで井の中に収めてしまった。

 

「一夏さん、どうでしたか?」

「一夏?」

 

 一夏は目を瞑ったままで、問いに答えることはない。

 場に新たな疑問符が生じてしまった。一夏の態度の意味は何なのか。

 いや、やはりその答えは目の前にあるのだろう。

 

「これはもう食べてみるしかないか。オルコットさん、ひとつちょうだい」

「は、はい……」

 

 俺はバスケットに手を伸ばし、中のサンドイッチを取り出した。

 やはり見た目では特に何の特徴もないサンドイッチである。

 

「じゃあいただきま、ぶっ!」

「ええっ!?」

「うわ!」

「吐いた!」

 

 今俺の口の中にものすごい衝撃が走った。

 舌が食べることを拒否した。脳ではない。脳がうまいまずいを判断する前に、舌がこれは人間の食するものではないと全力で否定した。

 にがいとかまずいとかそういう次元の話ではない。今俺は命の危機さえ感じてしまった。遅れて冷や汗がどっと湧いてくる。いったい俺の身に何があったのだろう。気がつけば俺は膝を地につけていた。

 

「甲斐田さん!」

 

 目の前にいるオルコットが自分のハンカチを差し出してくる。

 受け取って顔の汗を拭く。自分の中の衝撃は次第に収まっていき、呼吸も落ち着いてくる。

 大きく息を吐いて、ようやく俺を自分を取り戻した。

 

「か、甲斐田さん。い、一体何が……?」

 

 オルコットがおそるおそる聞いてくる。つまりこれは意図したことではないのか。

 そんなこと言われてもオルコットが知らないのに俺に分かるわけないだろう。

 

「このバカ!」

「あいたっ!」

 

 頭にものすごい衝撃と痛みが響き渡る。

 反射的に声のした方を見上げるとそれは鈴だった。怒っている。その上拳まで握っている。さっきはパーだったのに、今はグーだ。痛みも倍以上違う。

 

「鈴、一体何を……」

 

 鈴は俺の問いかけに答えない。黙ったまま右手をあっち向けホイをするかのように俺の左側へと動かす。俺もその動きに合わせて左を向くと、鈴の言わんとすることが理解できた。

 そこにはハミルトンがいる。俺の吐き出したサンドイッチの直撃を受けて、涙目になったハミルトンがいる。

 

「あ……」

「あんたねえ、よりによって女の子に向かって吐くとか何考えてるの! いい大人が酔っ払ってやりましたじゃないのよ! とっさのことにしてもわざわざ横向くとかそれはないでしょ!」

「いや、それは……」

 

 確かに一瞬の出来事ではある。

 想像だがおそらく俺には目の前にいた一夏とオルコットのことが念頭にあって、とっさに横を向いてしまったのかもしれない。

 正直言って衝撃が強過ぎて自分が何をしたかも覚えていない。正解は密集しているので飛び散るのを覚悟で下に向かって吐くだったのだろうか。だが俺は吐く方向の訓練などしたこともないので、とっさに正しい行動を行うなどとても無理な話である。

 とはいえ、やってしまったことは隠しようもない事実だ。

 

「あの、ハミルトンさん、ごめん……」

「う、ううん。気にしないで……」

 

 サンドイッチの欠片が当たっただけなので、物理的なダメージなどないに等しいだろう。

 もちろん問題は精神的なダメージだ。

 どう見てもお互い気にしないで流せるような空気ではない。やってしまったのはこちらなのだし、これはもうさっさと全面降伏するが吉である。

 

「えっと、染みになっちゃうから早く拭いた方がいいと思うんだけど、手伝おうか?」

「ええっ!? いや大丈夫! 自分でやれるから!」

「じゃあ……せめて手洗い場まで付き添った方がいいかな?」

「それも大丈夫! 歩けないわけじゃないし!」

「それなら……他に何かやってほしいことはある? 何でもするけど?」

「ん? 今なんでもするって言ったわね?」

 

 しまった。鈴に言葉尻を取られてしまった。

 どうせハミルトンなら大丈夫だと断ってくるだろうと思って口にしていたのに、実際そうだったのに、横に余計なのがいるのを失念していた。

 勝ち誇った顔の鈴がそのまま俺とハミルトンの間に入ってくる。

 

「智希の言う通りさっさと拭いた方がいいのは事実だから、急いで手洗い場まで行くわよ。お詫びについてはまた改めてってことで」

「待った。だからそれは僕が」

「女の子の体に触るとかそれもうご褒美じゃない。そんなに心配しなくてもまた改めて言わせてもらうわよ」

「いやいや、言うのはハミルトンさんであって鈴じゃないよね?」

「そんなの当たり前じゃない。ええ、あたしじゃなくてティナよ」

「だからさ、これは僕とハミルトンさんの問題であって、鈴は関係ないよね? 鈴が横から口を出して嫌がらせで僕にはできないようなことを要求されても困るんだけど」

「ああ、確かにティナが智希にはとても無理なことを言い出したら智希も困るわね。じゃあ安心しなさい。あたしがティナにアドバイスして智希でもやれるような範囲で収めてあげるから」

「何それ!?」

 

 なんということだ。鈴のくせにどうしてそういう返しができる。自分のことには碌に頭が動かないくせに、他人のこととなるとなぜ途端に頭も口も回るのか。

 しかも今できることという話をしていたのに、お詫びという方向に話をすり替えている。

 鈴に何があった。何がそこまで鈴の脳をフル回転させている。

 いや、今まさにあったではないか。一夏に抱きしめてもらうという、鈴の人生でベスト三にも入るような出来事が。それだ。今の鈴は全身が活力に満ち溢れているのだ。

 

 まったく、一夏も余計なことをしてくれる。

 そう思って一夏のいる方を向くと、一夏は床の上であぐらをかいていて、まだ目を瞑ったままだった。さっきから一夏はいったい何がしたいのか。

 

「一夏、もういい加減目を開けたら?」

「そういえばずっと静かね」

「一夏さん?」

 

 だが一夏の反応がない。どうしたのだろうか。

 

「ほら一夏、まだオルコットさんへの感想が残ってるでしょ? さっさと引導を渡してあげなよ」

「な、何ですのその言い方は!?」

「あーもうそっちは勝手にやってて。ティナごめん、行くわよ」

 

 しかしそれでも一夏は動かない。何を意地になっているのだろう。みんなに放置されたのがそんなに悔しいのか。

 こちらはそれどころではなかったというのに。

 

「ちょっと待て皆。先程から一夏の様子がおかしい」

「篠ノ之さん?」

「かれこれ数分ではあるが、一夏が全く動かない」

 

 会話に全く加わっていなかった篠ノ之さんが声を出す。

 こういう時でさえ一夏再優先なのか。

 

「ねえ、こういうこと言うのは何なんだけどさ」

「シャルル? 何か気になることでも?」

「一夏って食べたんだよね?」

「うん、さっきからみんなの作ったのを食べてたよね。もう全員分行ったのかな?」

「そうじゃなくて、その、あれを……」

 

 デュノアが気まずそうに視線を動かす。その先には、オルコットのバスケットがあった。

 

「あ」

「つまり……」

「一夏は……」

「皆様どうかしましたか?」

 

 誰もが気づいた。ただ一人元凶を残して。

 そう、俺が即座に吐いたサンドイッチを、一夏は全部食べてしまっていたのだ。

 

「一夏!」

「一夏! しっかりしろ!」

「これって気を失ってるんじゃない!」

「一夏さんが!? なぜですの!?」

「オルコットさんはちょっと黙ってて」

「保健室保健室!」

「違う違う! ここは医務室だから!」

「じゃあ医務室まで運ぶの!?」

「この状況なら先生呼んでくるべきでしょ!」

 

 場は一転、騒然となる。

 

「急いで呼んでくる」

「篠ノ之さんお願い」

「あ、織斑君はそのまま寝かせて。完全に飲み込んでたし詰まってるわけじゃないと思う」

「一応気道確保はしておくね」

「え? え?」

「いいからオルコットさんは座ってて」

 

 俺も含めて、事態に気づいたクラスメイト達はもう大騒ぎだ。

 数分とはいえ一夏が失神したまま放置など大失態にも程がある。

 

「このバカはもう! なんで全部食べたのよ!」

「何であろうとわざわざ作ってもらったものを吐くなんてできなかったんだろうね」

「それにも限度があるでしょ!」

 

 それが織斑一夏であるのも事実だが、鈴の言う通り限度はあるべきだ。

 一夏が即吐いてくれれば俺も口にすることはなかったはずなのに、ある意味俺にまでとばっちりが飛んできている。

 

 

 

 そんな一夏はこの後すぐ目を覚まし、何事もなかったかのように脳天気に笑っていた。

 そして駆けてきた医務の先生に雷を落とされることになるのはごく当然の話である。

 

 


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