三体系のエントロピー   作:朝雲

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作者は似非理系でありますので、物理的内容についてのツッコミはなしの方向で。


Hypothesis
1 伯父


 かなり前の話になる。今からおよそ六年前の八月、僕が十一歳だった時の話だ。そのとき、僕はちょうど宮城にある父の実家に帰省をしていて、仙台のはずれにあるボロ臭い家に五日間ほど滞在することになっていた。

 

 僕の生まれは仙台ではなく横浜だ。もちろん仙台市内、たとえば青葉区などはかなり発展していることを今までの経験から僕は知っていたのだが、生粋のシティーボーイである僕には東北の片田舎で過ごす時間は苦痛で、いつも早く横浜に帰りたいと思わずにはいられなかった。

 

 でも、この時は少しだけ事情が違っていた。ちょうど実家には父の兄、つまり僕にとって伯父にあたる人が来ていたからだ。伯父の名前は礼治といった。銀縁の眼鏡を掛けた痩せ形の人で、背はかなり高い。優に一八〇センチは越えていただろう。余り覇気のない人で、賑やかな人というよりは寡黙な人だった。

 

 伯父は某旧帝國大學の物理学の准教授であったと聞いている。ただ、僕が十一歳のときは准教授がどの様な地位の人間で、また物理学がいかなる学問なのかなど、よく知らなかったから、僕の伯父に対する認識は眼鏡を掛けた物知りな伯父さんという素朴なものでしかなかった。

 

 確かに、今思えば伯父は天体や物体の運動を語るときはもの凄く饒舌になるきらいがあった。伯父の専門は後になって知ったのだが、物理学の中でも物性をメインにしていて、たしか極低温量子物理という分野を研究していた気がするが、あいにく理系を挫折した僕には余りにも難しくてよく分からなかった。

 

 伯父は簡単に話をするのが下手くそだった。たとえばこんな話がある。

 

 小学校二年生の時、僕はレンズについて伯父に説明してもらったのだが、彼は小学校低学年を相手にフェルマーの原理から説明をしようとしてきたのだ。後になって知ったのだが、これは高校の範囲の事柄だったらしい。そのことを伯父に抗議すると、彼は「本当に頭のいい人は難しい話を小学生にでもわかるくらい簡単に話せる人だ」と言って、そのあとすぐに「私は馬鹿だからね」と口にしながら自虐的な笑いを浮かべていたことをよく覚えている。実際、伯父は研究者としてはあまり優秀な部類ではなかったらしい。

 

 ただ、そんな伯父のちんぷんかんぷんな話の中でもこの話だけは今でもよく覚えている。何が琴線に触れたのかはわからないが、とても印象的な話だった。

 

 それは、僕が仙台の家から伯父につれられて近くのコンビニにアイスを買いに行こうとしていた道中のことだ。僕は側溝の脇に一匹の風化しつつある蛾の死骸を見つけた。余り関東では見たことのない種だったので、つい物珍しさから僕は道端に立ち止まると、その場でしゃがみ込んでそれを観察した。

 

「どうした、慎也」

 

 伯父は急に立ち止まった僕を怪訝な瞳で見てきた。慎也とは僕の名前である。

 

「めずらしい蛾の死がいがあったから」

「そうか、割とよく見かけるやつだと思うが関東では余りいないのかな」

 

 伯父は東方に住んでいたから、この蛾を見慣れていたようで、つまらないものを見たかのように一瞥すると、「日が暮れるから早く行かないか」と気怠げに僕に言ってきた。

 

「おじさん。何で蛾の死がいはボロボロになるんだろうね」

 

 単純な好奇心から僕はそう質問していた。別に誰かに踏まれたわけでも、虫に食われたわけでもなく自然と死体は風化し壊れていってしまう。そのことが何とも不思議だった。

 

「それは、…」

 

 この時、伯父は珍しくなるべく難しい言葉を使わないように僕に説明しようとしているようだった。恐らく、前日に僕の父に兄貴の説明は分かりづらいと名指しで非難されたことを気にしていたのだと思う。

 

「まあ、簡単に行ってしまえばその個体と外の世界とのやりとり。たとえば虫だとしたら、それはほかの虫を食べたり植物を食べたりしてある種エネルギーの遣り取りをするわけだが、死ぬとそれができなくなってしまう」

 

 そこまでは分かるなと伯父は念を押してきた。僕は首肯して話しの続きを促した。

 

「そのような系。まぁ、系とはつまり観測対象とするものを含む空間みたいなもののことだが、これを孤立系と我々は呼んでいる。一般に孤立系についてはエントロピーと呼ばれる物理量、平たく言えば虫を構成する原子配列の乱雑さが不可逆的に増加していくから蛾の死骸は崩壊していく」

 

「つまり、孤立系の中では形あるものは必ず壊れてくってこと?」

 

「まぁ、素人理解としてはそれでいい。詳しく知りたければ勉強して熱力や統計力学をやるんだな」

 

 結局分かったような分からないような、そんな話だった。でも、形あるものは必ず崩壊していくという伯父が語ったそれが、ある種の物理的宿命としてこの世を支配していることはどこか神秘的で美しく感じた。やがてこの宇宙という一つの系も熱力的な死を迎えるのだろうか。なんだか、壮大すぎて実感がわかない。

 

「人間関係も一緒さ」

 

 伯父は僕に聞こえるぎりぎりの大きさの声でぼそっと付け足すように呟いた。それは伯父なりのジョークだったのか、いまだに判然としない。

 

 伯父が亡くなったという報せが僕の耳に入ったのはこれから半年後のことである。死因は自殺だった。

 

 

 

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