三体系のエントロピー 作:朝雲
『由紀と付き合うことになった』
直接会うのが気まずくて、僕はメッセージアプリを使って弥生に今日起こった出来事を伝えた。由紀から告白され、そして僕がそれを受け入れたその日の夜のことだった。
由紀と交際することになったことをわざわざ弥生に言う必要も無い気がするが、隠していてもいずれバレる事ではあったし、その時にいろいろと根掘り葉掘り訊かれるのも煩わしい。弥生に対する気持ちへの決別も兼ねて、僕は敢えて弥生にその事実を告げることにしたのだ。
しばらくして、ベッドの上で横になりながらネットニュースを読んでいると、突然携帯が震えてメッセージが届いたことを伝えてくる。差出人を見るとそれは弥生だった。画面の端に表示された時計を見ても、メッセージを送ってからまだ五分も経っていない。酷い時は一日以上メッセージを放置する弥生にしては、信じられないほどに早い返信であった。
『本当?』
弥生から送られてきたメッセージは修飾語も顔文字も無い名詞一語だけの簡素なもので、だからこそ彼女の驚きが画面から伝わってくる。
『こんな嘘を言うほど落ちぶれちゃいないよ』
僕がそう返信をすると、また直ぐに弥生から反応があった。
『おめでとう。いきなりのことで驚いたよ。いろいろ詳細を聞きたいから今度会えるかな』
『ありがとう。じゃあ、明日にでもいつものカフェで待ち合わせようか?』
『分かった。14時に集合で大丈夫かな』
『大丈夫だよ』
『じゃあその時間で。おやすみ、慎也』
まるで会話をしているかのように円滑にメッセージのやり取りをしていた。弥生との伝達がこんなにもスムーズにいくのは珍しくて、僕は画面の向こう側にいるのは別人なのではないかという錯覚に陥った。
弥生はネットやSNSに時間を割かれるのをひどく嫌う人だったので、メッセージをしっかりとした文章で送ってくる事は稀だ。たいてい弥生が送ってくるのは「了解」だとか「無理」といった予測変換で上に来るような味気ない単語ばかりで、何かを伝えようという意志をそこからは感じない。基本的に、弥生はコミュニケーションに関しては受動的なスタイルを貫いている。だからこそ、この遣り取りは僕に奇妙な印象を与えた。はたして画面の向こう側に居る弥生はどんな表情で、今何を考えているのだろうか。
携帯の電源を切ると、僕は目を閉じてメッセージを送っていた時の弥生の表情を想像した。けれど、僕の想像の中の弥生の表情はどれもしっくりこなかった。
驚嘆、憤怒、当惑。それらは弥生から最も離れた言葉のように聞こえる。やはり弥生といったら無愛想なあの顔で、きっと彼女はあまり感情を表に出すことなくこのメッセージを送ってきたのだろうなと勝手に想像して納得した。
これ以上何かを考えても無駄かと思い、僕は部屋の電気を消すと掛け布団をかけてベッドの上に横になる。壁にかかった掛け時計はまだ十時を指していたけれど、いろいろとあり過ぎて疲れたから今日はもう寝てしまいたい。目を閉じると疲労のせいか、十分もしない内に僕は意識を失ってしまった。
◇
翌日、弥生は少しだけ約束の時間に遅れてカフェに現れた。ちりん、という引き戸に付けられたレトロな鈴の音が鳴ったのが聞こえ、入り口の方へと視線を向けると、そこには弥生がいた。
弥生は店員と二、三言話して店の中に入ると、店中をキョロキョロと見回して僕を探しているように見えた。そういえば、僕の座っている席は奥の方にあって、入り口からは見つけにくくなっていたのだっけ。
なかなか僕を見つけらずに当惑するその姿が、いつもすましている弥生にしてはやけに子供らしくて、もう少し彼女のそんな姿を見ていたい意地悪な衝動に駆られた。しかし、結局僕は自分の良心には勝てず、弥生に向かって声をかけると手招きをして彼女を呼んだ。
弥生はやっと僕の居場所が分かって安堵としたのか、僕の座っている席につくと開口一番に「普通、人と待ち合わせをしている時に、そんな死角になる席に座るかな」と軽く不満を漏らしてきた。
二人掛けのテーブル席に腰を下ろすと、メニューに軽く目を通した弥生は、まずブラックコーヒーを頼んだ。僕は、いつの間にか弥生がブラックコーヒーを飲めるようになっていた事に驚くとともに、そこに微妙な月日の流れを感じて、弥生のことをまじまじと見つめてしまった。そんな僕の変化に気が付いたのか、弥生は「私だって成長してる」と言って、ほんの少しだけムスッとして僕の方を見返してきた。
「弥生、寝不足かい」
弥生の顔をよく見ると、薄く目元に隈が浮かんでいるのが見えた。
「…まあ、そんなところかな。興味深い問題があって昨日は寝れなかったから」
「はは、弥生らしい理由で安心したよ」
弥生は集中をすると周りが見えなくなる悪癖があったけれど、それは今でも改善されていないようだ。弥生はあまりそのことに深く突っ込まれたくないのか、軽く咳払いをすると、前触れもなくいきなり本題をついてきた。
「それで、昨日慎也が言ってた由紀と付き合うことになったと言う話なのだけれど、あれ、どういうこと。どういう経緯でそうなったの」
弥生は平素と変わらぬ無表情を貫いていたが、普段とは違って声が少し震えていた。
「まあ、文字通りの意味だよ。由紀が僕に告白して、僕はそれを受け入れた。ただ、それだけの話さ」
「てことは、慎也は由紀のことが好きだったの」
それを言われると弱る。僕は由紀のことを大事に思ってはいるが、それは恋愛的な意味ではない。でも、それを弥生に告げるのは憚られたし、曲がりなりにも僕は由紀の彼氏なのだから、由紀のことが好きじゃないなどと口に出せるはずもなかった。
「小学生の時から、由紀は僕の大切な人だったよ」
嘘は言っていない。ただ、真実でもない。「大切」の意味の取りようによっては、いくらでも解釈できる曖昧な言葉であった。
「そう…。『大切』ねえ…。それってどういう意味の『大切』なのかな」
恋愛的?友愛的?それとも他の何か?
そう言って弥生は嗜虐邸な笑みを浮かべた。僕の小手先のレトリックは全て彼女に見破られていた。彼女の漆黒の瞳が僕を捕らえて離さない。僕は何もしていないのに、まるで尋問を受けているかのような錯覚に陥り、気分が落ち着かなかった。
「いや、それはあれだよ。もちろん恋愛的な意味に決まっているだろ」
「へぇ、そうなんだ」
「当たり前だろ。でなければ交際を受け入れたりしないさ。それより、本当に大丈夫かい?弥生が目の下に隈を作ったのなんて、余り見たことがない気がするけど」
嘘を言った。それは本来、大したことではないのだけれど、弥生を前にすると自然と罪悪感が湧いてくる。これ以上突っ込まれたらいろいろとボロがでそうで、僕は早くこの話を切り上げようと無理に話を変えた。
ところが、弥生は僕の質問に答えることなく、ますますその冷たい笑みを深めるばかりで、僕のことをまるで罠に引っかかった哀れな小動物を見るかのような目でひたすら見つめていた。
「ねえ、慎也。少し長話をしようか」
それは、弥生の口癖だった。弥生がふふ、と嗤った。
「人は嘘をつく時、いくつかの特徴的な動作をすると心理学では言われている。一つ。嘘をつくとき、人は利き腕と反対方向に目を向ける。二つ。手を隠そうとする。三つ。話題を変えようとする。四つ。曖昧な返事をするようになる。五つ。早口になる。六つ。これは嘘をつく時ではないけれど、居心地が悪くなると人は足を自然と入り口側に向ける」
「さて問題です、慎也クンは何個当てはまるでしょうか」そう弥生はクイズ番組の司会者のようにおちゃらけて言ったが、目がまったく笑っていない。そのアンバランスさがとてつもなく気持ち悪かった。
「心理学は眉唾物だと思ってたんだけどねぇ。こんなに当てはまってるとつい疑っちゃうよ」
クスリと笑って「それで、本当はどうなの」と僕を問い詰めた。
「はは、まいったな。そんなに疑われても事実なんだから、どうしようもないだろ」
「あくまで、しらばっくれるんだね」
「しらばっくれるも何も、もとから僕は事実しか言ってないよ」
認めるわけにはいかなかった。もし認めたら弥生は何故嘘をついたのか全力で問い詰めてくるだろう。そしたら僕が由紀を好きでないことがばれてしまう。それは由紀にとっても不誠実極まりないことに感じたし、何より弥生は僕を好きでもない女と付き合う軽薄な男と軽蔑するだろう。それが、怖くてたまらない。弥生のことは諦めたはずなのに、嫌われたくなかった。
「そうだね。これは仮説なんだけど…」
そう言って、弥生はどこか遠い目をしてひとりでに語りだした。彼女の纏う雰囲気が、言外に口を挟むなと僕に言っている気がした。
「慎也は由紀のことが好きではないでしょ。おそらく由紀に泣き落としでもされたかな。それとも、色落としかな。
違う?
弥生の瞳はどこまでも真っ直ぐで、僕の嘘などとうの昔に喝破してると言いたげだった。
「慎也は本当に優しいね。でも、もう少し自分というものを持っても良いと思うよ。私は慎也のそこだけが少し嫌いかな。別に無理に由紀に合わせる必要はどこにもないんだよ。たとえそれで由紀が傷ついても、それは所詮彼女自身の責任で慎也が負い目を感じなくてもいいんだ。でも、そういっても慎也は優しいから由紀を傷つたくないと思っちゃうんだよね。うん、分かるよ。ずっと慎也を見てきたから。小学生の時も中学生の時も慎也の傍にいたのは他の誰よりも私だったから知ってる」
「いや、違う…」
「はは、否定しなくても分かってるから。優しい慎也はきっとここで嘘をついたと認めたら、由紀に対して不誠実だとでも思ってるんでしょ。笑っちゃうよね。好きでもないのに付き合う方が不誠実なのにさ。でも、そんな不誠実な慎也でも、私は否定しないよ。それは慎也のもつ優しさ故の結果なのだから。私は君の事を肯定するよ。だから、ほら。真実を言ってごらん」
弥生はひとしきり喋り終えると、僕の手を優しく掴んできた。それはまるで、母が子をあやすような手つきのようにも感じたし、また悪い子を窘めているようにも感じられた。
「僕は、由紀のことが好きだよ…。それは嘘じゃない」
「…」
強情な僕はそれでも認めない。弥生とは決別したのだ。ここで、弥生の優しさに甘えるわけにないかなかった。これは昨日、自分自身で選んだ道なのだから。
「そうか…。可哀相な慎也」
「は?」
唐突に弥生が僕を哀れんできて困惑する。彼女が何を思っているのか分からなかった。
「ああ、慎也は
「いや、全然ちが…」
「分かってるから。みなまで言わなくて分かってる。私はずっと慎也のことを見てきたから…。安心して慎也、今はまだ何もできないけれど、いずれ
ふふ、と弥生は暗い目をして笑った。何かよからぬ事をたくらんでいるような、そんな顔だった。
目の前の女は誰だ?
こんなの、僕の知ってる弥生ではない。弥生はこんな偏執的な妄想に囚われる女ではない。僕の知ってる弥生は…どこにいった?
僕は得も言われぬ寒気に襲われて、今すぐにでもカフェから逃げ出したい衝動に駆られた。
「ごめん、弥生。これから用事があるから先に帰るよ。代金はここに置いておくから」
財布から千円を出して机に叩きつけた。明らかに僕が頼んだアイスティーの金額を越えていたが、今はとにかく逃げ出して、どこか独りで頭を冷やしたい。
「慎也…、私を信じてね」
去り際、弥生がそう呟いた気がした。
hypothesis(名)仮説