三体系のエントロピー   作:朝雲

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i:(アイ)虚数単位を表す。


閑話 i

 いきなり多くを喋りすぎてしまったか…。

 

 去って行く慎也の背中を目で追いながら私は先ほどの自らの言動を反省した。

 

 慎也がカフェからいなくなるのとほぼ同時に、店員がブラックコーヒーをもってきて「どうかしましたか」とばかりに私の方をじろじろと見てくる。大方、痴話喧嘩でもしたと思われたのだろう。

 

 私は「お気になさらず」と言って愛想笑いをすると、その店員も客の私情を詮索するのは気が引けたのか、素直にその場から立ち去った。

 

 まったく…。反吐が出る。

 

 愛想笑いなど私の柄じゃない。

 愛想をふりまくとしたらそれは慎也にだけと、昔の自分はそう心に決めていたのだが、文明人としてこの社会で上手く生きて行く為には、その矜持を曲げなければならない事も多くあるとこの十余年で学んでいた。

 

 愚者は経験から学ばないが、生憎私は愚者ではない。愛想笑いなどもう慣れたものだ。もっとも、それが上手くできているかどうかは私には分からないし、たとえできていなくても知ったことではないのだが。

 

 ふぅ、と一息着くと、ブラックコーヒーを軽く喉に流し込んで先ほどの会話について考えを巡らせた。コーヒー特有の苦みと酸味は思考を冴えさせるのにちょうどよい。昔、社会科の授業で聞いた、コーヒーが石油の次に取引が多い財であるという話も、今となっては納得できる事のように感じられた。

 

 

 いきなり真実を暴かれると人は動揺して取り乱してしまうことが多いと聞いたことがある。それはもっともな話に聞こえるが、残念ながらこの話のソースを私は見たことがない。ソースが無い話など本来ならば一考にも値しないが、なるほど。あながち間違いではないように思えた。

 

「もう少し、真綿で絞め殺すように問い詰めたほうがよかったかもね」

 

 なんでもそうだ。物理でも小さい力で運動量を変化させたいのならば、外力を作用させる時間を長くすればよい。つまり、今回は急ぎすぎたのだろう。平均の力が大きくなりすぎてしまった。そうなると、それは自然と撃力になってしまう。

 

「ふふ、面倒な子…。でも、そこもいい」

 

 まるで野生動物の雌みたいだと苦笑する。追い詰めすぎると逃げられるけれど、こちらから向かって行かなければ相手にもされない。受動的な姿勢では何も成果を掴むことはできない。求めよ、さらば与えられん。

 

「それにしても、由紀がねぇ。まさかここで打って出て来るとは」

 

 もう一度、思考を整理するためにコーヒーに口を付けながら、事の発端となった由紀の姿を思い浮かべてみた。

 

 あの女、ずいぶんと舐めたまねをしてくれたものだ。もともと仮面を被っているとは思っていたが、まさかここまで悪辣な内面をもっていたとは。

 今日慎也から話を聞いて、昨日メッセージが届いた時からずっと感じていた違和感が氷解した。その違和感の正体をずっと考えていたせいで、昨日はよく寝付けなかった。

 そのせいで目に隈を作ってしまい、余計な心配を慎也に掛けさせてしまった事が少し心苦しい。

 

「慎也が由紀を好きになるはずがない…」

 

 だから、由紀は慎也の優しさを利用したに違いない。あるいは、慎也が逆らえない何か大きな弱みを握っているのだろうか。

 由紀が慎也に惹かれていることは薄々察していたが、だからと言って私の慎也を奪うとはいい度胸をしている。

 

 喧嘩は逃げるが最上の勝ち?逃げるは恥だが役に立つ?

…そんな訳あるか。

 

 売られた喧嘩は買ってやる。その上で、完膚なきまでに相手を叩きのめす。二度と私に刃向かわないように、由紀を壊してしまうのが一番だろう。

 

 残念だったね由紀。貴女は今私に勝って愉悦に浸っているのかな。

 せいぜい短い春を楽しんでね。それが、貴女の最後の春になるかもしれないから。

 

 ククッ、と忍び笑いが漏れてしまう。

 こんなはしたない姿、慎也の前では見せられない。でも、あの女が何も知らずに浮かれている姿を想像すると面白くてたまらなかった。

 もともと、ああいう女らしい女は嫌いだったから、なおさらそのことが滑稽で堪らない。慎也がいなければあの女とも一生関わらなくて済んだだろうに。

 

-由紀、無駄だよ-

 

 だって、慎也は私と約束したから。

 

 忘れたとは言わせないよ?慎也。

 

 慎也の姿を想像して彼に語りかける。あれは中学二年生の時の話。私と慎也で交わした大事な約束。あの日から、私はずっと君の返事を待っている。

 

「慎也も大変だね…、こんな美人二人から求愛されるなんて」

 

 自分で言っておきながら、可笑しくて噴飯した。きっと由紀の愛だって、私のと同じくらい真剣なものなのだという事は察せられる。

 私は観測が得意なのだ。物理をやる人間は些細な事に気が付かねばならない。

 

 でも…。

 

 私は白磁のソーサーを指で撫で回しながら、頬杖をついて、当てもなく呟いた。

 

「iの二乗は-1なんだよ、由紀」

 

 愛は、二つもいらない。

 

 

 

 

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