三体系のエントロピー   作:朝雲

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11 God said,Let Newton be! and all was light.

「さて、与太話はこれくらいにしておこうか」

 

 弥生はひとしきり話すと満足したのか、街灯から視線を外し、自宅へと繋がる道へと目線を移した。弥生は何が可笑しかったのか、まだ忍び笑いをしている。ダイオードの人工的な光に照らされた弥生の黒髪は綺麗な天使の輪を描くが、同時に彼女の病的に白い肌はその白色光のせいか、まるで死人のよう冷たい印象を与えた。

 笑う死体。

 そんな気味悪さが弥生にはあって、僕は彼女を死の世界から引きずり出そうとして声を掛けた。

 

「弥生?何がそんなに面白いの」

「ああ、慎也。これは失敬。ただ自分で言ったことが妙にツボに嵌まってしまっただけだよ。本当…、人は光のように二重性を持っている」

 

 弥生は余人とどこかズレていた。それは彼女が中学生にしては異様に頭が切れるからなのか、或いはただ単にそれが生来の気質だからなのは分からない。少なくとも、弥生はそのズレのせいか、友人が一人も居ないのは事実だった。いや、そうはいっても僕と由紀は友人のはずだ。

 ただ、僕たちを除くと彼女が孤独を極めているのは、ひとえにこの彼女のもつ不気味さともいえる、異様なまでの物理への関心のせいなのだろう。

 

「そんなに面白いかな。人が二重性を持っていることは否定しないけど」

 

 凡夫には分からない。分からないなら訊くしかない。

 

「まぁね。分かりにくい例えなのかもしれない。人間は光のように神秘的存在でもなければ、普遍的でもない。人は一人一人が違う性質を持っているから、一概にはそう言えないのも分かる。ただ、やっぱ私は人は光に似ていると思うな。取り分け、私と由紀はね」

 

「弥生と由紀が?一体どういう事さ」

 

「私と彼女はインコヒーレントな光なんだよ。きっと、彼女とは干渉できない。そして、私も彼女もいたって理性的なのだけれど、余人からみれば不条理な判断しかできていないように見えるんだ」

 

「意味が分からないな、…由紀はともかく弥生が理性的でないなんて、思ったことも無いけどね」

 

 およそ、弥生は理性の極致にいるように思える。

 弥生は僕の方をその漆黒の双眸でじっと見ると「別に分からなくてもいいさ」と言って、今度は間違いなく前を見据えてスタスタと歩き出してしまった。

 

 傍若無人な振る舞い。それでも彼女に惹かれていた僕はそんな彼女の振る舞いですら気にならない。盲目ともいっていい。あるいは彼女の知性に心酔していたのかもしれない。

 彼女は僕の想い人であると同時に、越えられない恩師であった。

 

 それから弥生は自宅に着くまで何も語らなかった。僕も先程の弥生の発言の真意が気にはなっていたが、大したことは言っていないだろうと思い、何も尋ねなかった。

 

 弥生は意味もない言葉遊びや、比喩を使って僕を混乱させて楽しんでいる節があったから、今回もその手の話だろうと納得して僕は弥生の後ろに付いて歩く。

 

 弥生の家に着く頃には夜の七時半過ぎになろうとしていた。

 

「ありがとう、慎也。いつも送ってくれて」

 

 弥生は玄関に手を掛ける前に振り向いて僕に礼を言ってきた。改めて畏まって礼を言われると何だかこそばゆい。

 

「別になんて事ないさ。女の子を夜道に一人にさせておく訳にはいかないからね。それに皐月さんにも頼まれているから、娘をよろしくって」

「あぁ、お母さんが…。それでもお礼は言っておくよ」

「はは、どうしたんだよ。急に改まって。何か僕に要求でもしてくるのか?」

 

 下手に出る弥生が妙に珍しくて、僕は当惑した。僕たちの三人の中では弥生がいろいろな意味で飛び抜けていたから、自然とヒエラルキーは弥生が頂点になる。

 

 彼女は容姿、教養、そして帰宅部としては無駄なことに運動神経までも優れていたから、僕と由紀にとって弥生は雲の上の存在であった。まぁ、スタイルに関しては由紀の勝ちだが。

 そして、その類い希な優秀さが、弥生の孤立を加速せしめていた事実は否めない。

 

「要求か…。そうだね、慎也。だったら一つ、私と約束をしてくれないかな」

「本当に要求してくるのかよ。まあ、できる範囲ならなんなりと」

 

 「そういう素直なところ嫌いじゃないよ」と言って弥生は朗らかに笑う。それは長年一緒にいなければ分からないほど微少な変化なのだけれど、彼女の眉がぴくっと上がり、頬が少し弛むのが見えた。

 顔が火照るのが分かる。彼女の心の底からの笑顔は滅多に見れないからこそ、その破壊力はすさまじい。まして想い人の笑顔だ。なおさら心が騒いだ。

 

「じゃあ慎也。私と約束して」

 

 弥生は小指を出して指切りを迫る。弥生は迷信を鼻で笑いそうなイメージがあるが、意外と信心深いところがあった。

 そういえば、かつて弥生から科学者や宇宙飛行士はその自然の美しさと偶然性に魅せられ、逆に神秘主義的になってしまう者がいると聞いたことがある。真偽はともあれ、弥生もその類の人なのだろうか。

 

「慎也、指」

「ああ、ごめん」 

 

 考え事に気を取られて弥生の指が既に僕の前に出されていたことに気が付かなかった。弥生はムスッとした顔をして、しっかりしろと言いたげである。

 

「指切りなんて、小学生以来だなぁ」

「指切りは一説には昔、遊女が心中立する時に小指を切って渡した事に由来すると言われているんだよ」

「心中立って?」

 

 さあ、知らない。そういって弥生は蠱惑的に笑った。

 

「帰ったら調べてごらん」

「まぁ、時間があったらね」

 

 どうせ、弥生の言葉遊びだろう。そう思って僕は深く考えなかった。

 それじゃあ、と言って弥生は祈るように目を閉じて僕と指を絡める。その姿はどこか神秘的で、まるで教会で祈りを捧げる修道女のように僕の瞳に映った。

 

ー慎也…、ずっと私の傍に居てねー

 

「それだけ?」

「それだけって…。意外とこの約束を守るのは難しいと思うよ」

 

 弥生はそう言うと、ケラケラと笑おうとして、失敗していた。やはり、弥生は笑うのが下手だ。

 

「まあ、善処するよ」

「…約束だよ」

 

 「ずっと」と言っても言葉の綾だ。四六時中弥生と一緒にいられる訳ではないし、そんなナンセンスなことを弥生が言うとも思えない。きっと、弥生はずっと友達として、あるいは幼馴染として僕と一緒にいて欲しいということを言いたかったのだろう。

 弥生はコミュニケーションが下手だから、少し舌足らずなところがあった。だから僕はそうやって脳内で修飾語を付け足して解釈する。

 

 

「月が綺麗だね」

「そうだね」

 

 弥生は晩夏の夜空を見上げそう言った。

 

 その日はちょうど十五夜までまと少しという日だった。旧暦ではもう既に秋である。秋月は夜に映えるなと、柄にもなく風流心に浸りながら弥生が見ているのと同じ月をみて考えた。

 いつか、弥生とつき合えたらこうやって、ゆっくりと月を見るのもいいかもしれない。

 

 でも、それはまだずっと先のこと。まだ、僕は彼女に告白する勇気など持っていない。

 

「慎也、ずっと待ってるから」

 

 弥生が玄関を閉める前にそう呟いた気がした。

 なにを待つのか、と訊く前に扉は閉められる。弥生の姿はもうここにはない。僕は月下に独り取り残されて、宛もない疑問を胸にくすぶらせた。

 

「今日はいろいろと変な日だったな…」

 

 弥生の物理特講と約束。

 まあ、たまにはそんな日もあってよい。そう納得して僕は弥生の家をあとにする。

 

「あっ、この蛾。関東にもいたのか」

 

 帰り道、数年前に東北で伯父と一緒に見たのと同じ種類の蛾が、アスファルトの上に這っていた。でも、その蛾は弱っているようで、羽を弱々しく羽ばたかせるとコロッと仰向けになって死んでしまった。

 

 蛾の死骸はインコヒーレントなダイオードの白色光に照らされ動かない。やがて、この蛾のエントロピーは増加し、その肢体は朽ちて行くのだろうか。

 

 S=KlogW

 

 不意にそんな式が脳裡に浮かんだ。それは伯父が言っていたエントロピーを表す式。エントロピーSは対数関数的にゆっくりと、でも確実に増加して行く。対数関数の極限は発散するのだとこの前、本で読んだ。

 

 夜風が冷たい。僕は蛾の死体を一瞥すると、身を震わせて家路を急いだ。

 ただひたすら、風が冷たかった。

 

 

 

 

 これは過ぎし日の記憶。

 もう戻れない過去の記憶。

 

 誰が気がつけただろうか。この時から既に歯車は狂っていたのだと。エントロピーの増大は誰にも止められない。

 

『神は言った。ニュートンあれかしと。すると全てが輝き出して白日の下へ晒された』

 

 でも、かつて真実を暴いたニュートンは、ここにはいなかった。

  

 

 

 

 




脚注
○インコヒーレント
干渉性が無い位相が乱雑な波のこと。基本的に日常で見る光はこれ。レーザー光など干渉性の高い波は「コヒーレントな波」と言う。
○心中立
男女が愛情を守り通すこと。後に永久の相愛を示す証として相手に髪などを送ることも指すようになった。
○月が綺麗ですね
言わずもがな。夏目漱石がI love youの和訳として採用したとか(俗説で信憑性は低いらしい)
○S=KlogW
ボルツマンの式とも。(当たり前だけど底はe)
Kはボルツマン定数。Wは微視的状態数。
要するに、世の中乱雑な方向に向かうよっ!て式。
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