三体系のエントロピー   作:朝雲

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12 潜熱

 夏休みが終わった。

 

 あれから僕は弥生と会っていない。単純に時間がなかったというのもある。僕は来年大学受験を控えており、あまり瞬発力のない僕は二年生の夏から受験勉強を始めなければ、間に合いそうになかった。たまに由紀と出かけたりもしたが、夏休みの後半は基本勉強をして過ごした気がする。

 ただ、そんなことよりも、弥生に会うのが怖かったというのが本音だ。こんな気持ちは初めてだが、今の弥生には会わない方がいいと直感が告げていた。

 

 ワイシャツを着て、歯を磨く。鏡を見ると前髪が少し跳ねていた。僕は洗面所に置いてある櫛を使って髪を整える。

 

 今日は始業の日。

 夏休みの間は避けられたとしても、今日は弥生に会わざるをえない。僕と弥生と由紀はいつも三人で登校していたから、いきなりそれを変えるのも不自然に思われるだろう。

 

「はぁ、…やっぱ、弥生の家に行かないといけないのか」

 

 それはかつてなら、何とも思わない日常的なことだった。むしろ役得とすらいえただろう。

 ただ、いまとなってはそのルーチンが重い。

 

 弥生と由紀が会った時にいったい何が起こるか分からなくて、僕は不安のあまり、また深くため息を付いた。もう、これで本日三回目のため息だった。

 

 念のため胃薬を鞄に詰めて、玄関の扉を開ける。その瞬間、残暑の熱波が僕を襲った。

 

 まばゆい太陽の光に一瞬、目が眩んだが直ぐに慣れ始める。そして、次第に外の景色が明瞭になったとき、僕は信じられないものを目にした。いや、正確にはまず信じられない声を聴いたのだった。

 

「あ、おはよう。慎也」

「弥生…、なんで」

「えへっ、今日から私の方から慎也の家に行こうかなって思って」

 

 あの弥生が笑みを浮かべていた…。それですら、異常な事なのに、さらに弥生の声は彼女らしからぬ猫なで声で気持ち悪い。本人は至って気にしていないようだったが、僕にはまるで弥生が別人になってしまったかのような印象を受けた。

 

 しばらくの間僕が呆然としていると「やっぱこれは私のキャラじゃないか」と弥生はボソッと呟いて反省をする。するとまるでスイッチが切り替わるかのようにスッとまたいつもの無表情に戻った。その変わりようが、あまりにも彼女の異質さを際だたせていた。

 

「弥生、なんで。…何で僕の家にきた」

「え、むしろ何で来たらダメなの?どうせ慎也は私の家に来るのだから私が慎也の家に行っても同じことでしょ」

「それは、そうだけれど」

 

 そうじゃない。問題の本質は何故弥生がわざわざ僕が弥生の家を訪ねるというルーチンを変えてまで、僕のところに来たのかと言う話なのだ。

 

 …分かっている。

 

 きっと僕と由紀が付き合い始めたことが原因だ。彼女はまだ、僕が由紀と無理矢理付き合っていると信じて、僕の様子を見に来たのかもしれない。

 

「弥生、この際はっきりというが僕は…」

「ふふ、まだそんな戯言を言ってる」

「いや、話を聞いて…」

 

 そう言いかけて僕は言葉に詰まった。というより、目の前の事実に放心して、何を言うべきか忘れた。

 

 唇が…、暖かい?

 弥生の顔が何故こんなにも近い?

 

 漆黒の弥生の双眸が僕をとらえた。その暗闇はまるで底なし沼のように真っ暗で、たとえるならブラックホールのように全てを呑み込んでしまいそうだった。

 

 僕の逡巡も、困惑も、躊躇も、そして由紀への気持ちも、何もかも彼女の瞳は呑み込んでしまいそうで、僕は慌てて弥生を突き放そうとする。

 

 事象の地平面を越えてしまっては光すらも抜け出せない。

 

 でも、そんな僕の手を遮るように弥生は僕の頭に手を回してきた。それは洋画で見るような情熱的な接吻。色気も何もないはずなのに、どうしようもなく彼女が淫靡に見える。一瞬何もかもがどうでもよくなって、このまま彼女の舌と僕の舌を絡まらせたい衝動に駆られる。だが、直ぐにそれを押さえつけた。それは僅かばかり残った僕の理性と、由紀への誠実さ。

 

 ダメだ。…これではダメだ。

 

 弥生は従妹なのだ。だから、キスなんてもってのほか。

 改めてその事実を確認すると、少し心が落ち着く。冷静になった僕はいきなりこんな不躾なことをした弥生を叱ろうと彼女の手をほどこうとした。そして僕を押さえつける彼女の手を掴もうとした時、ガチャと玄関が開く音が聞こえて僕は視線をそちらに向けた。

 

「慎也、弁当忘れて…。あら、ごめんなさい。お取り込み中だったのね」

 

 母がそこにはいた。五十にしては若い見た目をしている人だった。

 

 他人に、この痴態を見られただと。

 

 母には恥ずかしくて、由紀と付き合い始めたことは伝えていない。いつか伝えなければならないと思ったが、茶化される未来が容易に見えて、僕はなかなか踏み出せずにいたのだ。

 

 そんな母が今の僕たちを見たらどう思うだろうか。朝から情熱的に互いの唇を愛撫する幼馴染?…そんなわけがない。母は僕たちを男女の仲だと思うはずだ。母じゃなくてもそう思うだろう。

 

「ええと。それじゃあ、弁当はここに置いておくから後はごゆっくり~」

 

 ニヤニヤと笑顔を浮かべながら母は僕を見てくると、親指を立てて「よくやった」とでも言いたげな表情をして去っていった。

 

 そういえば、母は弥生のことを気に入っていたのだっけ。お人形さんみたいで可愛いとよく言っていた。弥生も褒められて満更ではなかったのか、母の前ではやけに愛想が良かった。

 あと、母は僕に浮いた話がないことを気にしていたようでもあった。だから、あんなに嬉しそうな顔をしたのだろう。

 

 終わった…。いろいろな意味で。

 

 焦燥や羞恥。そして恐怖といった感情が渦を巻いて、僕の頭の中は真っ白になった。唯一、最後に残ったのはただの諦念だけ。

 

 呆然とする僕をよそに弥生はひとしきり僕の唇を味わい尽くしたのか、満足げな顔を浮かべながら僕のことを解放した。

 

「さて、由紀の家に行こうか。慎也」

「…」

 

 まるで何もなかったかのように弥生は平素と変わらぬ顔をする。どの口が、由紀の家に行こうなど言えるのか。彼女は僕と由紀が付き合ってるのを知っているのだぞ。

 

 目の前の女は狂ってる。

 

 そう、確信した。

 

「慎也、中学二年生の時にした約束を覚えてる?」

 

 弥生は僕の返事など、はなから期待していないようだった。僕が答える間もなく話を続ける。

 

「ずっと一緒にいるんだよね、慎也と私は」

 

 クス、と嗤った。

 

「嘘付いたら針千本飲ます。…指切った」

 

 弥生は自らの小指をひけらかすと、もう一度僕を見て嗤った。

 

 


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