三体系のエントロピー   作:朝雲

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13 弾性衝突

「ふ…、ふざけるなよ。弥生」

 

 僕は怒りというよりも、ある種の喪失感を胸に秘めながらそう言った。僕の初めてのキスは予期せぬ形で弥生の手により強引に奪われてしまった。脳裏に由紀の顔が浮かぶ。僕は由紀に謝罪をしながらも、どこかキスの余韻に浸っている自分自身がいることを自覚し、そのことを恥じた。

 

 初めてのキスは情熱的で、舌こそ絡めることはなかったが、それに近しい淫欲の萌芽が感じ取れた。まだ心臓の動悸が収まらない。情けないことに、僕はこのキスが、…恐ろしいほどに心地よかった。

 

 弥生はそんな理性と快楽の揺曳(ようえい)を見透かしたかのように僕の瞳を覗き込むと、意味ありげに笑う。言葉にせずとも、お前が快楽を感じていたことを知っているぞ、と訴えているようだった。

 

「嫌なら、もっと早く拒めばよかったのにね」

 

 「私がキスをしてから、それなりに時間はあったよね」と言って弥生は笑った。言葉に詰まる僕を見て弥生はますます笑みを深める。それは彼女が滅多に見せない表情なのだけれど、時と場合によってここまで印象が変わるのかと僕は驚愕した。少なくとも今は、弥生の笑みが空恐ろしい何かに感じられた。

 

「まだ、由紀ともしたことなかったんだぞ」

「やった。ということは一番乗りだったんだ。てっきりあの売女(由紀)に襲われた後だと思ったんだけど、まだきれいな体のままなんだね」

 

 言い方が妙に癪に障ったが、弥生の言ったことは事実であった。僕と由紀はまだキスすらしていない。互いに初めての恋人だったから、僕たちは距離感が掴めていなかったのたというのもあるが、何よりも僕は由紀を好きになってからそういうことをしたかった。

 

 別に僕はファーストキスにこだわりがあった訳ではない。ただ、弥生が僕に同意を得ることなく強引にキスを迫ったことが、いままで僕が彼女に抱いていた信頼やら何やらを全て壊したような気がして、僕は初めて弥生に嫌悪感というものを覚えた。何より、弥生との美しい思い出が弥生自身の手によって汚される様を僕は見たくなかった。

 

「…今回だけは見逃してやる」

 

 僕は語気を強めてそう言った。弥生は僕を舐めている節がある。勉強も運動神経も確かに弥生のほうが上かもしれないが、僕とて男だ。僕よりも小柄で細身の女の子に舐められるのは少し癪だった。

 

「ふふ、強がっちゃって可愛い。…そうだね。まだ早いか」

「いつまでたっても、僕が弥生になびく事はないぞ」

 

 まるで彼女は僕と由紀が破局することを前提にしているかのように話を進める。たとえ破局に至ったとしても、そもそも弥生は従妹である以上その後釜になることはありえない。

 

 ところで、弥生は、弥生と僕が従兄妹同士だと知っているのだろうか。もし知らずにそう言っているのならば、それは滑稽であると同時に、少し哀れなことに感じられた。

 

「まあ、仕方ないね。今はそれで納得しといてあげる」

 

 しょうがない子だ、とばかりに弥生はわざとらしく肩を竦めると、腕時計に視線を移し「そろそろ行かないと遅れるよ?」と言った。僕は弥生の発言の裏を取るため携帯の電源を付けて時間を確認すると、確かにそろそろ由紀の家に行かないと拙い頃合いであった。

 

「…、行くか」

「由紀に合うのは久しぶりだねぇ」

 

 結局、問題を曖昧にしたまま僕たちは家を出る。弥生は仄暗い笑みを浮かべてそう言ったが、僕はそれを気にする余裕はなかった。

 

 どの面を下げて由紀に会えばいいんだ。

 

 ずっと、そのことで頭が一杯だった。

 

 

 七、八分ほど歩くと由紀の家が見えてきた。相変わらず由紀の家は何度見ても大きいと感じる。由紀の父は大手精密機器メーカーでそこそこの地位にいると聞いたことがある。母は確か県議会議員だったか。白川家はこの辺の中でもかなり裕福な部類の家庭であった。

 

 僕の家庭もそこまで困窮しているわけではないが、由紀と比べるとどうしても見劣りしてしまう。弥生の家庭などは話にもならない。弥生は典型的な苦学生で、大学生になったらバイトをしなければ学費で家計が破綻するとよく僕に不満を垂らしていた。

 

「相変わらず、由紀のところは金持ちだね」

 

 僅かばかりの嫉妬と皮肉を込めて弥生は呟いた。弥生はある意味では能力主義の権化で、自分より能力が下の人間がのうのうと暮らしている様をひどく嫌っているようだった。

 とはいえ、不満や怨嗟を吐き出すのはみっともないことに彼女自身も気が付いたのか、直ぐに「何でもないよ」と誤魔化すように言った。

 

 僕は由紀の家のインターホンを押す。

 

 先ほどの弥生とのキスが脳裏を掠め、僕はそれを振り払おうと小さく首を横に振った。これから由紀に。僕の彼女に会うのに別の女のことを考えるのは不誠実なことに思えたのだ。

 

 インターホンを押すと、直ぐに由紀が出てきた。由紀はところどころ改造された小洒落た夏服の制服に身を包み、その綺麗な黒髪をポニーテールに結っていた。

 ポニーテールは僕が二番目に好きな髪型である。何もせずにストレートに髪を降ろしているのが一番のお気に入りではあったが、由紀のポニーテールはそれに匹敵するほどよく似合っていた。

 

「おはよう。慎也」

「おはよう。由紀。ポニーテール、よく似合ってるよ」

「へへ、ありがとう」

 

 由紀は付き合ってから、会う度に僕に何かしら彼女を褒めるように要求した。正確には、由紀が直接的にそう言ったわけではないのだが、会う度にどこか期待を帯びた目線で僕を見て、そわそわしている姿を見れば、察せられないほど僕自身も愚かではなかった。

 

「由紀、おはよう」

「ああ、弥生。いたんだ」

「最初からいたよ。夏の暑さにやられて目が腐ったのかな。タンパク質は熱で変性しやすいから気を付けてね」

 

 クスッ、と由紀も弥生も目は一切動かすことなく相手を見て、口だけで笑った。ありきたりな表現だが、目に見えずとも、火花が散っているように見えた。

 

 弥生は恐らく僕のことが好きだ。

 でなければいきなりキスなどしてこない。それは昔の自分なら狂喜乱舞する事実であったのだが、弥生が従妹であると知り、さらには由紀と交際している今となっては厄介なことに感じられた。

 

 無論嬉しくはある。

 朝の行為はいただけないが、好きだった人にキスをされ、それとなく好意を示されたことが嬉しくない男などいない。でも、嬉しいのだけれど、虚しい。

 

 一度由紀と付き合うのとを決めた以上それを曲げる訳にはいかなかった。何より、全体を俯瞰して見れば僕が由紀の告白を受け入れた形ではあるのだが、由紀に「付き合ってくれ」と言葉にして言ったのは他ならぬ僕自身である。

 

 二言はない。僕は僕の矜持を貫くと決めていた。

 

 それは浮気をしないという当たり前のことなのだが、世間を見るとどうも難しいことのように思えた。

 

 僕は浮気や不倫という行為が大嫌いであった。肉欲に溺れ信義を忘れる。獣にも劣る行為だとすら思う。人は理性で己を律し、社会規範に従属せねばならない。少なくとも、人が社会的動物である以上そうせねばならないと僕は信じていた。

 だから、誰よりも理性的と思っていた伯父が離婚間際の女だったとはいえ、弥生の母と不倫したことは衝撃的だった。

 好感度や期待値が高いほど、裏切られた時の失望と嫌悪は大きい。いつの間にか、僕の中で伯父の評価は底割れしていた。

 

「あら、酷い」

 

 由紀は弥生の暴言ともとれる発言を聞いてわざとらしくショックを受けている振りをした。そして、軽くカウンターを繰り出す。

 

「弥生こそ、人の彼氏にちょっかい出していないでしょうね。数分とはいえ慎也と二人きりになれたことに感謝しなさい」

「はは、由紀は面白いことを言うね。私が慎也の為にならない事をする訳ないじゃない。それと、いくら二人が付き合ったからといって私を除け者にしようとするのはどうかと思うよ」

 

 人としてね、と弥生はそれらしい一般論で由紀を丸め込もうとしていた。

 由紀は反論できなかったのか、ただ黙って僕の腕を掴むと「学校に行きましょう。遅れるわ」と言って歩き出した。弥生が元々孤立気味であることを知っている身としては、確かに弥生の除け者にしないで、という言葉は重く感じられた。

 

 僕と由紀は隣り合って歩く。弥生がその数歩後を付いてくる音が聞こえた。由紀はピッタリと僕の腕に密着して僕をはなさない。途中由紀は「ふふ」と笑って「私、幸せよ」と僕の耳元でささやいてきた。それは艶美で、脳が溶けそうな声だった。

 

 僕はよからぬ妄想に駆られる前に、別のことを考えて誤魔化そうとする。さし当たり、先ほどの由紀と弥生の会話について考えを巡らせた。

 

 弥生は僕の為にならない事はしないと言った。それは逆に僕の為になる事ならば何でもするとも解釈できる。そして、弥生は僕と由紀が付き合うことを認めておらず、むしろ僕が由紀に脅されて彼女と付き合ってるのではと思っている節すらあった。

 

 なるほど。よくできたレトリックだと感心する。弥生は、彼女自身の発言については全く嘘を言っていない。

 

 つまるところ、弥生が僕を由紀から奪い取ることは、弥生からしてみれば僕の為になる行為であり、故に弥生は由紀に隠れて僕にキスをしても、ここまで堂々としていられる。

 

 弥生は嘘を付いてはいない。

 

 ただ、真実を話さないだけ。

 

 頭が切れる厄介な女が僕を狙っているという事実が重くのしかかり、これから来るであろう日常を想像して僕は遠い目をした。

 

 胃薬を、もう一箱買っておこう。

 

 そう、心に決めた。

 

 

 

 

 

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