三体系のエントロピー 作:朝雲
殺したい相手がいても、殺せない時はどうするのが一番なのか。
私は布団の上に横になって考えた。
「殺すのは下策。犯罪者には成りたくない」
由紀を慎也に隠れて殺して、悲嘆に暮れる慎也を私が慰める。そして私に絆された慎也は私と結ばれる。
そんなくだらない妄想を何度もした。でもそれは所詮妄想でしかなくて、実際にそれをやることはない。まず、バレた時のリスクが高すぎた。私が由紀を殺したと慎也にバレたら、いくら付き合いが長いとはいえ嫌われる確信があったし、そもそも前科が付いてしまっては今後生きていくのが大変だ。
「でも、どうする?」
現状は拙い。何とかしてはやく慎也を由紀から解放しなければならない。今こうして私が寝ている瞬間にも、由紀は慎也を襲って嫌がる彼と肌を重ねているのではないかと想像して、吐き気に襲われた。
悔しいが、あの女の肉体は私よりも優れている。バスト、ヒップ、ウエスト。どれをとっても男受けするような体型で、私ほどではないにせよ整った顔立ちをしていた。由紀が慎也に拘っていなかったら、今頃彼氏の一人や二人は簡単に出来たであろう。
「あのビッチが…」
そう言って鼻で笑った。むしろ本当に由紀がビッチならばどれほど良かっただろうか。何人もの男と盛るような低俗な人間ならば、優しい慎也といえども明確に拒むに違いない。あれはあれで堅物で潔癖な人間だ。
問題はあの男を惑わす誘蛾灯のような女が、実のところ一途な純情乙女で、初めては一生を添い遂げる人とが良いと言うような処女を拗らせた人間だということだった。それでは困る。もっと由紀には低俗でいてもらわねばならない。
万一にも慎也と寝たならば、由紀はもっと慎也に執着するだろう。もしかしたら、子供という既成事実すら作ってしまうかもしれない。
働き口もない高校生にして子を宿すなど愚劣極まりないが、恐ろしいことに由紀の家は子供の一人や二人を養えるだけの財力があった。然らばすなわち、その愚劣な行為の果てに子を宿そうと何ら心配はない。
最悪、彼らが働き出すまで親に支援をしてもらえばよいのである。表には出さないが娘を溺愛している白川家の両親ならばそれくらいするだろう。まあ、その場合慎也は間違いなく由紀の父親に殴られるが。
「くそったれ。やっぱり世の中金か」
生憎私の家は貧乏だ。由紀と比べると社会的に誇れるところは何も無い。唯一誇れるとすれば、それは母譲りの容姿と、この頭だけだった。でも、それは論理的な問題を処理する頭であって、人の機微にはやはり疎い。多少ましになったとはいえ、いわゆるコミュ力とやらは由紀の方が圧倒的に上だ。
だから、由紀のことは嫌いなのだ。
あの女は私にないものを全てもっていた。金、スタイル、女らしさ、コミュニケーションの力、そして純粋さ。
そう、何よりも私を苛立たせるのは彼女の純粋さなのだ。
今でこそ多少その純粋さはくすんだが、彼女の根はまるで澄んだ水のように清らかなもので、そのたびに私はその水面に映った自らの濁った影を見なければならない。そのことが、たまらなく不快だった。
「あー、殺したい。殺してしまいたい」
イライラして私は髪をかきむしった。私の世界に由紀のような純粋な人間はいらない。ビニールハウスでぬくぬくと育った生やさしい女は嫌いだ。
「でも、…大丈夫。きっと慎也は私を選んでくれる。今は由紀に囚われて身動きがとれないだけ…」
彼は約束した。私とずっと一緒にいてくれると。そう指切りをしたのだ。
「待っててね。慎也。今、由紀を社会的に殺してみせるから」
それと同時に、慎也の心もしっかりと捕獲せねばならない。あの男は未だに私を身内か何かと勘違いしてそうだ。しっかりと、私も一人の女なのだという楔を彼に打たねばならない。
あれやこれやと考えを巡らせて一つの計画を思案した。まず、上手く行くかどうかを手始めに実験しなければ。ちょうど明日は始業式だ。慎也は由紀に束縛されているのか、夏休みの間なかなか会えなかったが、明日は嫌でも会わざるを得ない。
そう思うと「くふっ」という気持ち悪い笑い声がでてしまい、私は自分自身を嫌悪した。本当に私は醜い。
でも、仕方がないだろう。彼女と違って家柄も金も何もない私が賭けられる
頭を使え。それが唯一の武器だから。
泥臭くなれ。それが私の慣れ親しんできた道だから。
良心を捨てろ。恋は戦争なのだから。
求めよ、さらば与えられん。何も努力をしない者は何も掴むことが出来ない。唯一の希望へと続く道はこれしかない。
さあ、実験を始めようか。
かつてファインマンが「量子力学の精髄」とまで言った二重スリット実験のように美しい実験を始めよう。
光子がどこにあるかは、観測するまで分からない。
決定論の時代はもう終わったのだ。
しからば、私にも勝機はある。
experiment:実験