三体系のエントロピー   作:朝雲

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閑話 Experiment〈下〉

 いつもより一時間早く起きて私は準備をする。

 

 普段ならばしない薄紅色の、軽くラメの入った口紅を付けた。簡単だけれど化粧をしてみた。あまり女らしい格好は得意ではないが、何か少しでも自分を可愛く偽ろうとして、努力をしてみた。

 

 化粧やファッションが苦手なのは由紀とキャラが被るというのもあったが、単純に慣れていなかったという面が大きい。

 

 女の化粧やファッションというのは、とかく金がかかる。貧乏な私は数着の安い量産品の服と、学校の制服だけでやりくりするしかなかった。しかし、人というのは不思議と上手く環境に適合するもので、どんな境遇や物であれ次第に慣れて行くものだ。学校指定のジャージや制服は意外と物持ちがよく、それに慣れた私はファッションやおしゃれというものに無頓着となっていた。

 

 それを見かねた母が私に服を買えと言ってお金をくれたことが過去に何度かあったが、すべて物理の専門書に溶かしてしまい、それから母は私におしゃれをさせるのを諦めたのか、それ以上何かを言ってくることはなかった。

 

「あれ、弥生。どうしたの。急に化粧なんてして」

 

 寝室から出てきた寝ぼけ眼の母が、私が姿見の前で髪を弄くっているのに気が付き、珍しい物をみたかのようにそう言った。そして直ぐに何かに思い至ったのか、にやけ顔になる。

 

「あ、もしかして…、恋?あの弥生ちゃんが化粧をするなんてそれくらいしかないもんね。いやぁ~、やっとこの朴念仁な物理バカ娘にも春が来たのかぁ」

「…うるさい」

「照れない、照れない。それで相手は誰なのさ」

 

 母は思い出話をする時、昔の自分は無愛想な娘だったとよく言っていたのだけれど、今の姿を見る限りその話は信じられない事のように感じられた。いい年なのにみっともなく恋バナに興味津々なその姿は、私よりも幾分か幼く感じられた。

 

「慎也。知ってるでしょ。幼馴染の」

「あぁ、………あの子か」

 

 しつこく訊いてくる母が煩わしくては私はぶっきらぼうにそう答えた。その答えを聞いた母は珍しく当惑した顔をした。

 

「どうしたの?お母さん」

「いや、別に弥生が気にする事じゃないよ」

 

 母は煮え切らない返事をして、その動揺を悟られまいと特別上手くもない笑みを浮かべた。そのことが、私に隠し事をしていることを如実に表していて、いったい何を私に隠しているのかと、妙に癪にさわった私は母を問いつめた。

 

「慎也のこと、気に入らないの」

「いや、そう言う訳じゃないんだけどね。ただ…」

「ただ…?」

 

 母は言うべきか否かを逡巡しているようだった。私に似た端正な顔が歪む。まるで罪を犯した咎人が、自らの罪業を告白するのを躊躇っているような顔だった。じっと私は母の瞳を見つめて圧をかける。

 母はそんな私の瞳を見て根負けしたのか、大きくため息を吐くと「これ以上は隠し通せないか。因果なものね」と小さく呟いて、全てを諦めたかのような表情を浮かべてどこか虚空を見つめた。

 

「…、弥生が今日家に帰ったら真実を話すよ」

「真実って何」 

「それはまだ言えない。というか知らない方が良いと思うんだけどね。それでも弥生は知りたいの」

「そんなに焦らされたら逆に気になるよ」

 

 曖昧な返事をする母が珍しくて、私はこれは聞かないほうが良い類の話なのではないかと察したが、好奇心に勝てずにそう言った。母はもう一度私に「いいんだね」と確認すると、それじゃあ今夜話そうと言って、洗面所の方へと去っていった。

 

「変なお母さん」

 

 一瞬、私は何か大きな過ちを犯してしまったのではという不安に駆られたが、そんな不確実なことよりも目の前の事に集中した方が建設的だと思い、私は再び姿見に視線を移して髪を弄った。

 

「ふふ、慎也は褒めてくれるかな」

 

 柄にもなく、変な猫なで声がでた。慎也は私が女の子らしく振る舞ったらどう思うだろうか。可愛いと思ってくれるだろうか。それとも、キャラに合わなくて気持ち悪いと思うだろうか。

 どちらでも良い。取り敢えず何か変化が必要なのだ。凝り固まった私の印象を何であれ変えねばならない。

 

「さあ、実験の始まりだ」

 

 クスッと笑って私は家を出て慎也のところへと向かった。

 

 

 本来ならば私の家に慎也が来るはずなのだが、今日は私の方から慎也の家へと赴く。

 それは、慎也と二人きりの時間をなるべく多く確保したいという欲もあったが、何よりも早く慎也の姿を確認したかったからだ。

 

 由紀に酷いことをされていないか。もし、されていたら私が早く慰めてあげなければならない。慎也は気の弱いところがあったから、心配でしょうがなかった。

 

 慎也の家に付くと、私は玄関の前に立って慎也を待つ。腕時計を見るとちょうど慎也が家を出る時間帯であったから、わざわざインターホンを押して急かす必要もないかと思い、私は彼の家の前で一人所在なく立っていた。

 

 玄関が開く音が聞こえて私はその音が聞こえた方へ視線を向けた。

 

ー慎也!慎也がいるー

 

 それは当たり前のことなのだけれど、彼の姿を久しぶりに見た私は興奮する。やっぱり、生身の彼が一番良い。

 

「弥生…なんで」

 

 彼が驚きのあまり放心していた。そんなに私から出向いて来たことが嬉しかったのかしら。

 

「えへ、今日から私の方から慎也の家に行こうかなって思って」

 

 媚びるような猫なで声がでた。我ながら気持ち悪くて反吐がでそうだ。ここまでじゃないにせよ、男に媚びるような声を出せる由紀は大したものだと思う。それを天然で出しているのだから質が悪い。あの女、前世は娼婦だったに違いない。

 

 慎也の反応を見てみる。どうやらこの私の猫なで声は不評ようだ。それもそうだろう。明らかに私のキャラクターではない。不評ならばわざわざ取り繕って媚びる必要もないのだから、いつも通りにしていればよいか。

 

「弥生、なんで。…何で僕の家に来た」

 

 慎也がおかしなことを言う。むしろ何で来てはダメなのだろうか。私と慎也はずっと一緒にいると約束したろうに。四六時中は無理でも、なるべく早く慎也に会いたいと思うことに、何かおかしなところはない。

 

 それでも慎也は御託をだらだらと並べている。その姿に私は苛立ちを覚え、慎也を黙らせる為に口を塞いだ。

 

 キス。

 

 それは私のファーストキス。ずっと前から慎也に捧げることを決めていたキス。なにより、彼に私を女として意識させる実験。

 

 ずっとタイミングを見計らっていた。何か大きなインパクトを与えなければ、彼は私を女として見てくれないような気がしたから。また、由紀に囚われた彼の心を解放する第一歩でもあった。

 

 慎也は咄嗟のことで困惑して私を突き放そうとする。大方、由紀に悪いとでも反射的に思ったのだろう。そういう誠実さは嫌いじゃない。

 

 でも、だからこそムカつく。

 

 その誠実さを向ける相手が私ではなかったという事実に。そしてその苛立ちをぶつけるかのように私は彼の唇を貪った。

 

ー私色に染まれ。由紀の記憶を私で塗り替えろ。君は私だけを見てればいいー

 

 精一杯の色気を出して、彼を誘惑する。ディープキスをしたいが、彼は乗り気ではなかったから出来なかった。仕方がないから私は一方的に舌で、唇で、唾液で、彼の口唇を蹂躙する。征服欲が満たされる。存外私はサディストだったらしい。

 

 やっと平静を取り戻した慎也が私が絡めた手を振り払おうとしたその時、彼の母が家から出てきた。

 

ーああ、なんて良いタイミングなんだ。やはりツキは私に来ているー

 

 これで、私と慎也がただならぬ関係であることが彼の親に認知された。彼の親は私のことを気に入っているようだったから、実に都合がいい。

 

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。

 

 由紀は私と違って馬鹿だから慎也の好感度を上げることばかりを考えていて、そこまで頭が回っていなかったようだった。ただ、小中学生にそれを求めるも酷な話だとは思う。これは私だからこそ持てたアドバンテージ。

 

 結婚まで見据えたら、親の好感度は高ければ高いほど良い。私は彼の外堀を埋めるべく恋心を自覚したその日から、ずっと彼の母に媚びを売っていた。

 

 これで、彼の母は私の味方。

 

 

 慎也、確かに今はまだ君を由紀から解放することは難しいかもしれない。敵は金持ちで、社会的地位があり、権力をもっている。それに比して私は何もない。

 

 でも、魔王に立ち向かう勇者は私だけじゃないんだよ。物語の勇者はパーティーを組む。民衆を味方に付ける。勇者一人じゃ立ち向かえない。畢竟、戦は数の暴力だ。

 

 ふふ、慎也。あと少しでずっと一緒にいられるね。

 

 

 

 これは私という楔を慎也の深層心理に打ち込むための実験。

 そしてなにより、由紀への宣戦布告。

 

 気が付いているかい?慎也。

 

 君の唇にまだ薄く私の口紅のラメが残っていることに。そして、それを見た由紀が何を考えるかに。

 

 …本当に気が付いているかい?

 

 

 

 

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