三体系のエントロピー   作:朝雲

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※若干の性描写あり


閑話 蠢動

 夢を見ているかのような日々だった。慎也と私が付き合うだなんて、昔の私ならば想像もできなかっただろう。毎日慎也とやり取りをしたメッセージを見ては、ふわふわとした気分になる。

 初恋が報われた。そんな幸運に恵まれた人間など、この世にどれほどいるだろうか。私はそんな希有な存在になれたのだ。

 

「あぁ慎也。…大好き」

 

 隠し撮りをした慎也の写真を見て、私は一人妄想に耽る。携帯のギャラリーの中は慎也の隠し撮り写真で一杯だ。小学校から高校までの彼の成長が一つに纏まっている私の特別なアルバム。小さい頃の彼の写真はデジタル化をして取り込んだ。

 

 一番最近の慎也の写真を見ながら、私はそっと下半身へと手を伸ばした。吐息が熱くなるのが分かる。少しくぐもった嬌声が漏れた。私は慎也とそろそろそういった行為をしたかったのだ。

 別にいきなり体を重ねるところまで行かなくてもいいから、せめてキス。それもディープなキスがしたい。

 

 告白した時には、私の身体で慎也を骨抜きにしてしまおうと考えていたが、よくよく考えれば私はそういった経験が皆無だった。いきなり彼に身体を求められても困惑して痴態を晒すだけに思えて、私は慌ててそういった類の勉強をし始めた。

 

 でも、それはある意味では成功したのだけれど、ある意味では失敗だった。

 確かに知識は付けられたと思う。ゴムの使い方だとかピルの用法だとか、あと前戯の仕方などもそうだ。

 でも、そういった知識を付けるたびに欲求不満になる。慎也とそういうことをしたい…。そう思うと全身が熱を帯て火照った。

 

 存外、私は性欲が強い方だったらしく、思春期の肉体を持て余しては自らその欲望を処理をする必要に迫られた。でも、一人きりでの行為はどこか虚しさがつきまとい、私は快楽と空虚感の間で揺れ動いては次第に精神をすり減らせていった。

 

「また、洗い物が増えてしまったわ」

 

 愛液で濡れた下着を隠すようにして私は洗面所へと向かった。深くため息を吐きながら階段を下りる。毎度のことながら、一度始め出すと理性で押さえつけようとしてもなかなか止まらない。やめろ、といっているのに手が勝手に動いてしまうのだ。

 

 一人で致す度に自分で下着を洗わなければならないことが煩わしいのだが、さすがに洗濯機の中にこんな猥褻物を放っておく訳にもいかなかった。万が一にでも、母や父がそれを見つけたらどう思うだろうか。とにかく、親にだけはバレたくなかった。

 

 水道の水を流して、手洗いで下着を洗いながら私は考え事に耽る。

 明日は始業式の日だ。久しぶりに生身の慎也に触れることが出来る。まず、慎也に会ったら何をしようかな。抱きつこうか、それとも手をつなごうか。何でもいい。とにかく彼の素肌に触れてその体温を感じたい。

 

 私は自分に自信がない。それはずっと弥生というチートな存在を間近で見なければならなかったことからくる劣等感。

 色白の肌に漆黒の美しい瞳。均整のとれた顔立ちと、それに恥じない知性。スレンダーな身体は性的な魅力には欠けるが、それ故に抜群の運動神経を持っている。弥生はどこまでも超人的だった。

 

「天は人の上に人を造らずか…、バカみたい」

 

 探せばいくらでも上はいる。上を見れば限りなし。かといって下を見ても限りなし。畢竟、私はただの凡人。弥生は私の上に居座る人間の卑近な例だった。

 

 だから、彼には直接的に私を愛して欲しい。分からないことはとてつもなく怖いから。魅力のない私など捨てて、影で弥生と浮気をしているのではと不安になってしまうから。彼は弥生とは従兄妹だから、そんなことにはならないと言っていたけれど、十年近く燻っていた恋心がそう簡単に消えるとは思えなかった。

 

 彼に逃げられないように。そして弥生に奪われないように。私を全身全霊で愛して傷物にしてしまって、その責任を感じて欲しい。

 

 あわよくば彼との子が欲しかった。それは何よりも強固な絆の証であり、私と慎也をつなぎ止める楔だから。

 高校生にして母になることは愚かな選択だとは思うけれど、リスクが大きい分リターンも大きい。

 

 仮にそうなったら養育費については、みっともないけど親に頼ろう。幸いにも私の両親は一人娘の私にとても甘い。道を踏み外しても、馬鹿娘と言われて罵倒されるだけで、縁を切られることはまずないだろう。お金についてはおそらく事足りる。あまり自覚はないけれど、私の家庭は金持ちの部類らしいから。

 

「でも、慎也は私のことを好きになってくれたのかな…」

 

 夏休みの間、何回かデートに行ったけれど、慎也は私にキスすら求めなかった。最初の何回かは事情が事情だからあまり不満を感じなかったが回数を重ねれば不満も出る。

 

 結局、私も慎也もお互いを利用して付き合い始めたのだから仕方がないといえばそうなのだが、そろそろ何か変化が欲しい。私は慎也そのものが欲くて、慎也は弥生への気持ちと決別するために私の恋心を利用した。それは利己的な二人の利害が一致しただけのこと。

 

 でも、だからと言って今の彼に愛を求めてはいけない理由にはならないし、これから二人で愛を育めない理由にもならない。

 

「よし、決めた」

 

 明日彼に会ったら何かアクションを起こそう。キスをしようか。ボディータッチを増やそうか。何もしなければ変化は起こせない。

 

「慎也、待っててね。… いつか私と」

 

 そこまで言って苦笑した。

 

 

 

 翌日の朝。私は自分の黒髪をポニーテールに結って家を出た。ポニーテールは彼の一番のお気に入りではなかったけれど、髪形を変えて何か変化をつけたかったのだ。

 

 玄関を開けると慎也の顔が目に入った。

 

―相変わらず優しそうなのだけれど、どこか男らしい顔つきをしている―

 

 慎也は知らないだろうけれど、彼は弥生とよく似て整った顔立ちをしている。確かに、言われてみれば従兄妹という話も納得できた。

 慎也はクラスの中では一番とは言わないまでも、十位以内に入るくらいには均整の取れた顔立ちだ。それでいて弥生の影響かどこか大人びた雰囲気を帯びていたから、それなりに女子に人気があった。

 

 でも、私と弥生がずっと慎也にまとわりついているから、彼は告白をされたことが一度もない。だから、彼は自分を平凡な顔立ちをした凡夫と思っていたようだが、その方が都合がいいのでその勘違いを正すことはなかった。変に自分がモテていると勘違いをして女遊びに走られたくはなかったのだ。

 

「ポニーテール、よく似合ってるよ」

 

 慎也に褒められると心が温まる。彼は私の気持ちを慮って、会うたびに私の変化に気づいてはそのことをほめてくれた。そういうマメなところが、女心をどうしようもなくくすぐる。

 

「へへ、ありがとう」

 

 だらしない声が出た。もう、このまま彼の胸に飛び込んでしまいたい。彼に抱擁されてその体温に包まれたい。でも、それを実行へと移す前に、そんな甘美な雰囲気を台無しにする声が私の耳に飛び込んできた。

 

「由紀、おはよう」

「あぁ、弥生。いたんだ」

 

 この女狐が。どこまで私の邪魔をすれば気が済む。お前はその類まれな才能だけでは満足できず、私の想い人すらも奪おうというのか。殺してしまいたい。でも、殺してしまうともう慎也には会えなくなる。それでは本末転倒だ。だから、せめて嫌味ったらしく言葉を返す。

 

 ひたすら弥生と見つめあって、お互いに乾いた笑みを浮かべた。

 不俱戴天の仇。やはり、弥生とは対立せざるを得ない。

 

 

「弥生こそ、人の彼氏にちょっかい出していないでしょうね。数分とはいえ慎也と二人きりになれたことに感謝しなさい」

 

 自分でも驚くほど高圧的な言葉が出てきて、驚いた。余り汚い言葉を慎也の前では使いたくなかったが、弥生を前にすると感情が抑えきれない。すると弥生は急に殊勝な態度をとってこう言った。

 

「はは、由紀は面白いことを言うね。私が慎也の為にならない事をする訳ないじゃない。それと、いくら二人が付き合ったからといって私を除け者にしようとするのはどうかと思うよ」

 

 「私を除け者にしようとするのはどうかと思うよ」それを言われると私も弱る。私は小学生の時の弥生が孤立していた様を知っている。まだその時は弥生にあまり敵愾心を持っていなかったから単純にかわいそうだと思ってよく弥生と一緒に遊んだ。そんな、純粋で美しい過去の思い出が頭によぎった。

 

 分かっている。一瞬の情けが命取りになりかねないと。でも、わずかに残った良心が私にこれ以上何か悪態をつくことを思いとどまらせた。結局、私は甘ちゃんのままだ。

 

 ずるい。

 

 彼女は私、『白川由紀』が完全な悪人にはなれないことを知っていて、そう言ったに違いない。私は不快になって慎也の腕をつかんで、弥生を視界に入れないように彼女の数歩前を歩いて学校へと向かった。

 

 

 慎也の腕は暖かくて落ち着く。ずっとこのまま抱き着いていられる。彼の体温を感じていると、次第に先ほどの不快感が浄化されていく気がした。やはり愛は偉大だ。

 

「ふふ、私幸せよ」

 

 この高ぶる気持ちを伝えたくて私は慎也の顔を見上げて耳元でそう言った。そして彼の頬に弥生に見せつけるようにキスをしようとしたその時。

 

 

 

 

 

 

 

 …………………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんで、慎也の唇の周りにラメが?

 

 

 それはほんの僅かな閃光で、近づいてみなければ朝の眩い太陽に照らされていても気が付けないほどの、薄い口紅の残滓。

 

 ふと、最悪の想像が頭によぎった。

 

 恐る恐る後ろを振り返って弥生の方を見ると、彼女の口元は朝日に照らされたラメ入りの口紅で装飾をされていた。

 

 そこから導かれる論理的な帰結は馬鹿な私でもすぐに分かる。そして、その解にたどり着いた時、私は一層慎也の腕を強く掴み、唇を血が出る寸前まで強く噛んだ。

 

 

 

 殺す。

 

 それは純粋な殺意。

 

 殺す。

 

 それは感情の激流。

 

 殺す。

 

 それは崩壊の序曲。

 

 

 弥生を、コロス。

 

 

 ただ研ぎ澄まされた殺意だけが私を支配した。まるで私、『白川由紀』の中の何かが壊れ始め、もう一つの私が蠢き出すような。そんな気配がしたのだ。このままでは『私』が喰い尽くされて『ワタシ』になってしまいそうな気がして、慌ててその殺意を閉じこめようとするが、どうも上手く行かない。

 

「ねぇ、慎也。放課後に時間はあるかしら」

 

 内心の動揺を悟られまいと、努めて平静を装いながら私は慎也を見てそう言った。

 

「あぁ、別に何もないよ」

「そう。じゃあ、私の家に来てね」

 

 

 悪い子にはお仕置きをしないとね…。

 

 

 

 




蠢動:①もぞもぞと動くこと②つまらないもの、取るに足らぬものが騒ぎ動くこと

みんなが(作者が)大好きなドロドロの愛憎劇の始まりだ!!
そろそろ完結に向かってどんどん動き出すよ。

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