三体系のエントロピー 作:朝雲
放課後、由紀に家に来るように誘われた僕は、言われるがままに彼女の家へと向かう。由紀とは日本史と世界史で選択科目が異なっており、少し帰る時間帯がずれていたので、僕は由紀と学校では待ち合わせずに、一人で彼女の家を訪れた。
由紀の家のインターホンを鳴らすと、制服から着替えて、やけに猥らなネグリジェに身を包んだ由紀が出てきた。その姿が余りにも色っぽくて、僕は動揺して彼女から目を反らしたが、それと同時にこの色っぽい女の子を衆目には晒せまいと思い、僕は急いで由紀の方へと向かった。それはいつの間にか僕の中に生まれていた由紀への好感と、恋人としての独占欲の発露だった。
「慎也、…いらっしゃい」
「ああ、お邪魔するよ」
そう言って僕の直ぐ傍まで来た由紀は、上目遣いでそっとこちらを見上げてきた。それは明らかにそういうことを期待している眼差しで、僕はこれから起こるやもしれぬことを想像して怯んだ。
想像通りのことならば、確かに興奮を禁じ得ない。だが実際それが起こるとなると、僕は何をすべきなのか皆目見当も付かなかった。
生憎僕はそういう経験がない。おそらく由紀も無いだろうが、どこか大人の色気を醸し出す彼女は経験が豊富であるような錯覚を覚えさせる。どうしようもなく僕はチェリーだった。
「あの、由紀。今日はどんな用件で僕を呼んだのかな」
「いいから、黙って付いてきて。それと…お風呂が沸いてるから先に入ってきなさい」
「ああ、…」
もしかしたら僕の早とちりかもしれないと思って、僅かな希望を込めて質問をしたが、その希望は完膚なきまでにへし折られた。
高校生なのにそんなことをして良いのだろうかという逡巡が僕を駆け巡る。少なくとも僕の周りにそういう経験がある人はいない。ネットや雑誌ではよく十代で初体験をする人は一定数いると書いてあるけれども、身近なサンプルが無い僕は今更になって怖じ気づいた。
いつか、こうなることは覚悟していた。むしろ、そうなることをどこか期待していた。
でも、実際にそれを前にすると躊躇いを隠せない。
もし、避妊に失敗したら?
ヘマをして、由紀の初体験を台無しにしてしまったら?
そう思うとやはり怖かった。
「大丈夫だよ、慎也。私も初めてだから。ゆっくりと二人で慣れていこう…ね?」
そんな僕の不安と躊躇いを察したのか、由紀は僕の手を握って優しく微笑んできた。熱くてやわらかい。そんな女の子らしい肉感のある肌に包まれ、僕は平静さを取り戻す。
ああ、そうか。きっと彼女のこういう優しさに僕は次第に絆されていったのだろう。弥生とは全く異なる女の子。優しくて、少しばかり自分に自信がなくて、控えめなのだけれど芯はある。今考えれば由紀も弥生と同じか、それ以上に魅力的な女の子に思えてならなかった。
これが性愛的な肉欲の延長にある感情なのか、あるいはプラトニックな愛なのかは僕には分からない。それを判断するのには、僕たちはまだ幼過ぎた。だけれども、十余年に渡る幼馴染としての記憶と、ここ一か月ほどの恋人としての経験を通して、僕はこれだけは断言できる。
「由紀、愛してる」
「やっと、しっかりと言葉にしてくれたね」
性行為を目前にして愛を囁くなど軽薄の極みともいえる行為だが、それでも僕はこのあふれ出す感情の出口を求めてそう吐き出した。
朝の弥生とのキスを思い出す。今思えば、僕はあの時確かに快楽を感じてはいたが、それと同時にどこか恐怖と憤慨も感じていた。きっとその時、僕の中の絡まっていた弥生に対する気持ちの残滓は完全に断ち切れたのだろう。
これから僕は十余年の恋に引導を渡そうと思う。初めてのキスは弥生に奪われてしまったが、こちらの初めては恋人である由紀と迎える事ができそうだ。そして、その行為の果てに有るであろう新たな恋を、僕の内に迎え入れよう。
「由紀。愛してるよ。…本当に」
そう言って感極まって由紀にキスをしようとした時、僕の唇は由紀の唇ではなくて、彼女の手の平に口づけをしていた。一瞬、何が何だか分からなくなる。何故由紀は僕のキスを拒むのだろうか?由紀は僕が好きなのではないのか。
「慎也。確かにあなたの気持ちは嬉しいわ。やっと、私の方を向いてくれた。でも、…貴方が一つの罪を認めるまでキスはできない」
「一つの罪とは」
「これが見えないの」
すると由紀は僕の唇を押さえつけていた手を離して、それを僕の目の前に見せびらかした。そこには僅かに金属箔のように輝くラメが付着していた。
「今日、弥生は珍しくラメ入りの口紅をつけていたわ。まるで何かにマーキングをするためかのように。そして、そのラメがあなたの唇に付着していた」
「ねぇ、弥生とキスしたでしょ」そう言って由紀は嗜虐的に笑った。それは検察がただ冷徹に証拠を積み上げて罪人を断罪するかのように淡々とした物言いだった。
「それは…、その。ごめん」
「いいの、別に。あの子が無理やりキスをしたのなんて容易に想像できるから。でもあの子の痕跡が残った状態で私にキスをしないで。…だから、風呂に入って今すぐその穢れを洗い流しなさい」
由紀はある種の諦念を込めてそう言った。それは僕のファーストキスが弥生に奪われてしまったことへの諦めなのかどうかは分からない。ただ、僕は由紀に赦してもらったことに安堵して、謝罪をしてから風呂場へと向かった。
「本当にごめんね。由紀」
「何度も謝らないで。虚しくなるだけだから」
なんだか急に興奮が冷めてしまって、僕は罪悪感を胸に秘めながら、由紀の前から一旦立ち去った。
◇
「ねえ、慎也。優しくしてね」
ベッドの上で由紀は僕に押し倒される形でそう切なげに呟いた。熱い吐息が僕の耳を掠める。その吐息がどうしようもなく僕を興奮させて、理性がどこかに吹っ飛んでしまいそうになった。僕はバスローブのように簡単に脱がせられる由紀のネグリジェをゆっくりと剥がすと、彼女の彫刻のように均整のとれた肢体を眺めて愛を囁く。
「綺麗だよ、由紀」
「ありがとう…、慎也」
そう言って今度は間違いなく由紀の口唇へ口づけをする。すると由紀は間髪無く僕の口に舌を入れてきた。それは朝の一方的な弥生のキスとは違って、お互いを貪り合うように舌を絡める情熱的なディープキス。ぐちゃぐちゃになった、どちらのものともつかぬ唾液が絡まり細い糸を引く。ただひたすら獣のように互いを求め、よがり合った。
「ねぇ、始めましょう」
そう言うと、由紀は僕の下着をゆっくりと降ろした。
そこから先はあまり覚えていない。興奮のあまり理性が飛んで、僕たちはその思春期の肉欲を持て余した体を互いにぶつけ合った。
気が付いたときには日が暮れて、破瓜の血とぐしゃぐしゃになったシーツ。そして満足げな由紀が全裸で僕の腕の中で眠っていた。
◇
僕の腕の中で由紀は一人語り出す。由紀は今晩、両親がどちらも家に帰ってこないせいか、夜になってもゆっくりとしていた。
「ずっと不安だった。慎也は私と付き合ってる間もどこか弥生と私の間で揺れ動いていたから。ちょっと天秤が傾いただけで、私のもとを離れて弥生のところに行ってしまうのではないかという危うさがあったわ」
「それは、ごめん。心配をかけさせたね」
「ホントよ、まったく…。だから、私は慎也にこうやって直接愛して欲しかったの。私を傷物にしたら慎也は責任を感じて、私のもとから離れられないと思ったから」
由紀は満足げに自らの下腹部をなで回し、先ほどの行為の余韻に浸っていた。
「ねえ、慎也。薄々気づいているとは思うけど、私面倒な女の子なの。表と裏の自分がいて、何より自分に自信がなくて、いつか慎也が浮気をすんじゃないかと不安で仕方がない…。それで…」
「浮気なんて。そんなことは絶対にしないよ。僕は弥生の気持ちとは完璧に決別したんだ。由紀と交わった瞬間に僕は弥生とは袂を分かったんだよ」
「それは、…分かってる。でも不安なの。だから、少しだけ貴方を束縛してしまうかもしれない。それでも私のことを嫌いにならないでいてくれる?」
その由紀の言った束縛がどの程度の物なのか、僕には分からない。しかし由紀はもう僕の大切な女性なのだ。一度関係を持ってしまったからには、責任を取る為にも最後まで添い遂げたい。そんな大切な相手のお願いならば、可能な限り何でも聞き入れてあげよう。
「嫌いなんてならないさ。僕はどんな由紀でも愛してるよ」
「慎也…、大好き」
そう言うと僕たちはまたキスをした。今度は互いに愛を確かめ合うような、控えめな甘いキスだった。
幸せだ。
そうつくづくと思った。昔は弥生とこういう関係になることを夢見ていたけれど、もう由紀で十分だと思った。十分という言い方が失礼ならば、由紀でないといけない。少なくとも僕が愛せるのは由紀か弥生のどちらかで、最後に残ったのが由紀だったというだけの話。
「伯父さんは間違ってなかったなぁ」
「何それ」
クスッと由紀が朗らかに笑った。
伯父は僕が由紀のことを好きだ思って手記にそう記したが、結果的には間違いではなかったようだ。伯父の先見の目には恐れ入る。
これからこの素敵な女性と二人で前を向いて歩いていこう。さしあたり、その障害となりかねない暴走気味の弥生をどうにかしなければ。とはいえ、それはまた後で考えればいい。
初めての行為で慣れていなかったせいもあり、体力を消耗した僕は眠気に襲われてゆっくりと瞳を閉じる。「お休み」そう由紀が母のように僕の髪を撫でながら優しい声音で耳元で囁いたのを聞き遂げると、僕の意識はそこで完全にとぎれた。
幸せだった。
だから、浮かれて気が付かなかった。
幸福の坂道を登り切った先には下り坂しかないのだということに。今がまさに幸福の極大値。関数は極大値を越えると、後は暫くの間単調減少が続く。