三体系のエントロピー   作:朝雲

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2 弥生と由紀

「三体問題は特殊な条件下でしか解析的な解が出せないんだって」

 

  幼馴染の弥生は集中力が切れたのか、そう僕に話しかけてきた。ちょうど伯父の墓参りに行こうとしていた三日前のことだった。

 

 今年は伯父が死んでから六年目になる。伯父の死因は自殺。オーソドックスな首吊りだったらしい。ただ、なぜ伯父が自殺をしたのかという動機はいまだに不明なままだった。伯父には消費者金融からの借金もなければ、鬱病であったわけでもない。人間関係もそれなりに円滑にいっていたはずだと、少なくとも伯父の葬儀に参加した同僚や数少ない旧来の友人は言っていた。

 

  幸か不幸か伯父は独身で子供もいなければ、薄給であり目立った財産もなかったので、相続といった諸々の死後の手続きは淡々としていた。葬儀もこじんまりとしていて、余りにあっさりとしたものだったから、変な話なのだが僕は六年たった今ですら、伯父の死というものが実感できていなかったりする。

 

「三体問題て何?」

 

 僕は弥生が突然語ったことの中に知らない単語が存在するのに気が付き、手元にある漢文の問題集から弥生の方へと視線を移した。

 

「三物体が相互作用する三体系に関する物理問題のこと。たとえば地球と人工衛星の場合は二物体が相互作用するから二体問題という」

 

 シャーペンをすらすらと動かして物理の参考書を読み解きながら、弥生は淡々と答えた。その尊大ともとれる態度には、言外にそんなことも分からないのか、という本音が隠れている気がした。弥生は比較的物静かなタイプであったから、何を考えてるか分かりづらいところがある。基本的に彼女の声音は抑揚に富まず、むしろ外の蝉の鳴き声の方が変化に富んでいるくらいであった。

 

 季節は夏になり高校生の僕たちはちょうど夏休みのただ中にいる。そんな折、弥生と僕は同じく幼馴染であった由紀の部屋で夏の課題を処理していた。

 

「また、難しそうな話をしているの?」

 

 五分前に部屋を出た由紀が三人分の麦茶を一階の台所にある冷蔵庫からもってきて、苦笑しながら扉の前に立って僕たち二人を交互に見た。

 

「いや、別に大したことじゃないよ。ただ、弥生がまた物理のことについて話してきたから質問しただけ」

「へぇ、慎也は文系なのによく弥生と理系の話しばかりしているわね」

「そうかな」

 

 「そうよ」と由紀は力強く肯定してきた。由紀は僕と同じ文系だった。

 

 僕の通っている高校は高校二年生から文系と理系に分かれることになっている。僕と由紀は文系クラスを、弥生は理系クラスを選択していた。弥生は高校に入る前から数理系がめっぽう強かったから、理系に進むだろうということは容易に想像できることだった。

 

 由紀はその反対で、国語や歴史といった文科系のことが他とは抜きん出ていたから、これもまた文系に進むであろうことは容易に想像できることであった。

 

 この二人と比べるぱっとしないのが僕だ。僕は理系も文系もそつなくこなすタイプだったから、最後までどちらに進むか悩んでいた。弥生はひたすら僕に物理の良さを説いて理系に進ませようとしたけれど、結局数学の確率と整数論が全く理解できなかった僕は、これでは理系は無理かなと思って文系に進むことにした。確率と整数論は大学入試の頻出分野であったから。

 また、文系のほうが大学生活が楽にみえたからというのも理由の一つであったりする。進路選択の際に文系に進むと言った時の、あの弥生のがっかりとした表情は今でも忘れられない。逆に由紀はどこか嬉しそうであった。

 

「やっぱり、慎也は理系のほうが合ってる」

「今更だね」

 

 弥生はよく僕が理系に転向すること薦めてくるけど、もう物理や化学は先に進みすぎていて、今から追いつける筈がなかった。

 

「でも、慎也は関数とか解析系の数学は得意だった。ぶっちゃけ、理系大学の入試なら微積分が得意ならどうにかなるよ」

 

 それでも弥生は僕が大して文系科目に魅力を感じていないことを知っていて、理系に来るように執拗に誘ってくる。そういえば、弥生は僕が文理選択をする際に、やりたくない事をするべきでないと言っていた。

 

「でも、理科が間に合いそうにないからさ」

「私が教えてあげようか。私、物理と化学は全国で四位。県内では一位の実力があるから安心していい」

 

 この弥生という僕の幼馴染は理系科目、とりわけ物理に関しては驚くほど天才的によくできる女の子だった。今読んでいる本も大学生向けの『バークレー物理学コース』という本だ。一度見せてもらったことがあるのだけれど、その内容は難し過ぎて僕には意味不明でしかなかった。弥生にもこの本は少し手に余るようだったけれど、彼女はそれでもなお余りある物理に対する情熱と興味からこの本の解読にひたすら勤しんでいる。

 

「さすがに浪人のリスクは犯せないなぁ」

「まあまあ、弥生もあまり慎也をしつこく誘わないの。慎也が迷惑がってるわよ」

 

 ぱんぱん、と手を叩く音が聞こえたかと思うと、いつのまにか僕のそばに来ていた由紀が無駄話はここで終わりといった具合に会話に入り込んで弥生のことを軽くあしらった。これは最近よく見る構図だ。弥生が僕を誘い由紀がそれを阻止する。僕はこのやり取りを夏休みに入るまでもう四、五回は見ている気がした。

 

「そういえば、三日後だっけ。慎也が仙台に行くの」

 

 由紀は誰から見ても明らかなほど強引に話題を変えた。そういえば、由紀は弥生とは違って僕の伯父と面識があったから、僕が墓参りに行くことを知ってどこか懐かしがっていようでもあった。

 

「慎也、お土産は笹かまぼこでいい。牛タンも可」

「おい、僕はまだ一言もお土産を買ってくるなんて言ってないぞ」

「慎也が私にお土産を買ってくることは容易に想像できること。むしろ私に訊く手間が省けたことに感謝するといい」

「はぁ、弥生は相変わらずだな」

 

 冗談で言っていることは分かっているが、如何せん表情の変化が乏しいから、真面目に言っているのかと誤解してしまいそうだ。

 

「弥生は誤解されやすいんだから、言葉には気を付けろよ。僕以外が聞いたら割と失礼だからな、ソレ」

「別に、慎也が分かってくれていれば他の有象無象がどう思っても気にならない」

「有象無象って…、将来苦労しそうだな」

 

 弥生は黙っていれば見た目はいい。それそこ色白で整った顔立ちをしているから、どこかの深窓令嬢に見えなくもない。実際、理系クラスでは彼女のファンが多いと聞くし、誰かが抜け駆けしないように男子の間で紳士協定が結ばれているという眉唾物の噂がでるくらいだ。

 

 ただ、実際に長い年月を一緒に過ごして分かったことは、弥生はかなりコミュニケーションが下手くそで、真正の物理バカということ。頭の中はきっと物理のことしかないに違いない。彼女が物理以外の何か。例えばスポーツや音楽といった趣味に興じている姿は想像し難いものだった。

 

「はは、でも昔よりコミュニケーション能力はましになったよね。弥生」

「まあ、由紀の言うことも一理ある」

「中学の時なんて凄かったもんね。つき合ってくださいって言ってきた男子に『何処にですか』なんてネタじゃなくて本気で答える人本当にいたんだって思った。文脈読めなさすぎでしょ」

「由紀も慎也も余りそのことを弄らないでほしい」

 

 弥生がむすっとした顔をして、由紀と僕に抗議した。

 

「ごめん、ごめん。まぁ、でも少しずつ人間らしさ?みたいなのは出てきてるんじゃない。昔は計算機なんてあだ名で呼ばれてたくらいだし」

 

 弥生の小学生の時のあだ名は計算機。その名の通り計算が速くて正確だから付いた名前。確かに的を射ていたようだけど、それは暗に人間らしくないという意味が込められていたのかもしれない。

 

「まあ、とりあえずお土産は買ってきますよ。弥生は笹かまぼこ。由紀は…」

「じゃあ、萩の月」

「了解」

 

 やや脱線してしまった話を元に戻す。由紀はいかにもいまどきの女子高生っぽい見た目の割にはなかなか渋いチョイスをした気がした。とはいえ、萩の月はお土産としては定番中の定番で、オーソドックスといえばその通りなのだが。

 

「何だかんだ、慎也は優しいね」

「ほっとけ」

 

 したり顔の弥生を横目に、僕は弥生と由紀に頼まれたお土産を忘れないよう携帯を取り出すとメモを書き込んだ。一通り書き終えると携帯をポケットにしまって勉強を再開しようとしたが、結局このあともおしゃべりが好きな由紀と課題をすべて終わらせて暇になっていた弥生が色々と話してしまい、仙台に行く前に全て片づけるはずだった宿題は思ったより進まなかった。

 

 

 

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