三体系のエントロピー 作:朝雲
慎也に楔を打ち終えた私は満足感に浸りながら学校を後にする。理系クラスは文系より数学のコマ数が多いから授業時間が長く、高校二年生になると帰り道は私一人だけになることが多かった。
夕焼けを見つめながら、由紀と慎也は今何をしているのだろうかと考える。
すでに楔は打った。慎也は今、私と由紀という二人の女の間で揺れ動いているはずだ。そうして不安定になった慎也の心をゆっくりと、私の方へと手繰り寄せて行けばいい。よほどのイレギュラーがない限り、それはつつが無く行くだろう。私がキスをした時、彼は間違いなく快楽を感じていたのだから。
まさか私に楔を打たれたのに、いきなり由紀とキスや性行為に及んでいるとも考えがたい。どうせ適当なところでお茶でもしているのだろうと思って、そんな二人のぎこちない姿が容易に浮かべられて軽く笑った。
彼らは本当にウブだ。由紀もそのカラダを使えば慎也を虜に出来る可能性があるのに、恥ずかしがってやらないのだから。慎也の身体がまだ綺麗であったことが何よりの証拠だろう。
やはり豊満な肢体をもってしても、根が処女を拗らせた純情乙女な由紀に色仕掛けはきついか。どうせどこかでぼろが出ると思って躊躇っているに違いない。
「ふふ、その躊躇いが命取りなんだよ。由紀」
私には躊躇いがない。どんな汚い手を使ってでも慎也を手に入れるという気概がある。いざとなったら寝取りも辞さない。それくらい泥臭くならなくては、この戦いに勝つことはできないのだ。
「それにしても、何が慎也を躊躇わせるのだろう」
慎也は私のことが好きなのではないかという確信がつい最近まではあった。ずっと私の我が儘に文句を言わず付き合ってくれていたし、この魅力の少ない肢体に少なからず欲情している節があった。それが、最近はなんだか少し冷たい気がする。
初めは由紀が慎也の心を奪ったせいだと考えた。きっと彼女が彼を脅して無理矢理付き合って、盛って、そして彼に快楽を叩き込んだせいなのではないかと思い由紀を嫌悪した。しかし、慎也はまだ綺麗な身体のままだった。
何かがおかしいと理性的な頭が告げる。慎也がおかしくなったのはいつからだ。…考えろ。私の武器は頭だけだなのだ。
私は一旦歩くのを止めて、道端で脳内の記憶を探ることに集中する。そしてしばらくの間、過去の記憶を遡って細部まで精査してみると、一つの可能性に行き当たった。
「もしかして、仙台に帰ったときに何かあったのかな」
そういえば、あの時を境に慎也はよそよそしくなった気がする。何というか、それまでは私を一人の女として見ていたはずなのに、その日を境に急に私に対して身内にするような簡素な対応になった気がしたのだ。
由紀と付き合い始めたのもその辺りだった。
やはり、あの時に何かあったのではないだろうか。それを知ることができれば、現状を打破する大きな布石となるに違いない。しかし、それを訊いて果たして慎也は素直に答えてくれるだろうか。
「まあ…今度でいいか」
高校生活はまだ折り返し地点を過ぎたばかり。そう焦る必要もないだろうと思い、私は鼻歌を歌って家路を急いだ。なんたって、今日は慎也に初めてキスをした記念日なのだから。
◇
家に着いた私は、まず玄関口の直ぐ近くにあるスイッチを押して部屋の電気を付けた。毎度の事ではあるが、玄関の扉を開けて照明の点いていない暗い部屋を見ると、どこか物悲しい気分にさせられる。その暗さは、私以外誰もこの家に居ないのだという事実を、どうしようもなく突き付けてくる気がした。
母はまだ仕事から帰って来ていないようだった。母は化学系の会社に勤めていて、それなりに忙しい人だったから今日も帰りが遅くなるのだろう。あらかじめそれを見越していた私は、コンビニで買った夕食を電子レンジに詰めて温めた。
私が自然科学に興味を持つようになったのは母の影響が大きい。だから母のことは尊敬しているし、愛してもいる。女手一つで私をここまで育てくれた上に、専門知識をもっているクールビューティーな女性。
それは大変素晴らしいことに聞こえるが、母の仕事の都合で幼い頃から一人きりになることが多かった私はどこか母のぬくもり、というよりも愛に飢えていた。つまるところ、私はカッコイイ母よりも私を愛してくれる優しい母が欲しかったのだ。
でも、その事に文句を言ったところでどうすることもできない。母子家庭の我が家では、母が働かなければ生きてはいけない。変に聡かった昔の自分は、優先順位の問題だと無理に納得をして、直ぐに幼さを捨てて大人になった。
電子レンジで総菜を温めている間、早朝に母と交わした会話を思い出していた。母は何か大事な秘密があると言っていた気がする。たしか「真実」とやらだっけ。それにしても大層な口振りね、と私は苦笑した。
「自然と自然法則は闇夜に隠れていた。神は言った、ニュートンあれかしと。すると全てが輝きだして白日の下に現れた」
電子レンジの作動音に紛れて、私は好きな詩を一つ口ずさむ。私はこの詩のニュートンのように全能にならなければならない。私と慎也と由紀。幼馴染三人の複雑な因果関係を解き明かして真実を、すなわち由紀の蛮行を白日の下にさらし慎也を太陽の下へ連れ出すのだ。
私は何よりも真実を希求している。それは理学の道を目指す者の普遍的な心構えであり、私の人生の基本的なスタンスであった。昔から曖昧さは嫌いなのだ。
さて、母はどんな「真実」を私に告げてくれるのだろうか。量子力学のような不可解な真実か、古典力学のような完結な真実か。
「まあ、どっちでもいいか」
どちらにせよ、私の計画に狂いはない。慎也と結ばれるのは由紀ではなく私なのだ。
片手間にコンビニで買ったアイスコーヒーの香りを嗜みながら私は思索に耽った。
仮に母の告げる「真実」とやらが、どうしようもなく私と慎也の未来に暗い影を落とすのならば…。
そんなはずがないと思って、そのバカげた仮定を鼻で笑った。でも仮にそんなことがあるのだとしたら、その時は私にとって都合の悪い世界になど未練はない。もし最後の手段を用いてもダメだった時は、さっさとこの世から退場してしまおう。
コーヒーを啜りながら、そう決意をした。
◇
母は八時過ぎに帰ってきた。忙しい母としてはずいぶんと早い帰宅である。母は途中コンビニに寄ったのか、缶ビールとビーフジャーキーなどのつまみを買ってきていた。
正直、この母のチョイスはかなりオッサン臭いが、それが母のストレス解消になっているのならば仕方がない。私は人の趣向に文句を出せるほど大それた人間ではなかった。
「酒でも飲まないとやってられないわよ」と言って母は笑った。そうは言っても酒代も馬鹿にならないのだと小言の一つでも言い返してやりたいが、そうするとグチグチと絡まれて面倒なので、私は母の言葉を軽く流して朝の話の続きを促した。
「それで、「真実」ってなによ」
「相変わらず、弥生はド直球に訊いてくるねぇ」
母はそう言いながら洗面所で手を洗い終えると、コンビニの袋から缶ビールを取り出して椅子に座った。立ちっぱなしの私を見て「まあ、座りなよ」と言って腰を下ろすように勧める。これは話が長くなるかもしれないと直感的に理解した。
「どこから話そうかなぁ」
母は困った顔をしながら、昔を懐かしむかのような目で天井を見た。
「これは、まあ。若かった頃の私の愚行が招いた結果なんだけどね…」
「余りはぐらかさないで喋ってよ」
「はは。まぁそんなカリカリしないでよ。そうだね、じゃあ弥生みたいに直球に話そうか」
母は缶ビールを一口飲んで声の調子を整えると、私の方を真っ直ぐ見て「真実」を告げた。
「驚かずに聞いてね。あなたと慎也君は…従兄妹なのよ」
「………は?」
イトコ?糸子?いとこ、…従兄妹。
それは私が知っている意味での「従兄妹」ということでいいのだろうか。
「やっぱ驚くよね」
放心する私をよそに母は「無理もないか」と言って肩をすくめた。その他人事じみた振る舞いが妙に癪に障り、私は久しぶりに母に向かって声を荒らげた。
「どういうことよ!どうして、私と慎也が従兄妹になるの…。お母さんの前夫は『新垣』て苗字じゃなかったでしょ。慎也と何も関係ないじゃない」
「そうだね、普通はそう思うよ。でも弥生は私と前夫の子供じゃなくて、私と礼治さんの子供なんだよ」
「礼治さんって、いったい誰なの」
知らない男の名前が出てきて私は恐怖に震えた。私の血の半分は知らない人間のもので出来ている。そのことがどうしようもなく気持ち悪かった。
「礼治さんはね、慎也君の伯父さんなんだよ。新垣礼治。物性物理学の元准教授。それが弥生の真のお父さんの名前と肩書きだ」
慎也の伯父。物性物理学。
点でしかなかった情報が線を描き、私の脳内で一つの全体像を作りあげる。それは否定したくても否定できない事実。
昔から謎だった。母の前夫は根っからの文系なのに、どうして私はこんなにも物理が得意で、それに惹かれるのだろうかと。それは私の生来の気質や教育環境と言ってしまえばそれまでなのだけれど、遺伝だとしたら妙に納得できる気がした。
私は生物学に詳しくないから何とも言えないが、もし趣向などが遺伝するのならば、それはきっとその『新垣礼治』とかいう男の情報の残滓なのだろう。
「…少し、一人にさせて」
母から与えられた情報量は大したことないのだけれど、その内容のインパクトが強すぎて、私はしばらくの間ひとりで頭を冷やしたかった。
「ごめんね、弥生。まさかこんな事になるだなんて…母親失格だよね」
そう悲し気に母が呟いたが、もうどうでもよかった。何も答えない私を見ると母は「私はしばらく寝室にいるから」と言ってリビングを去っていく。
慎也はこの事を知っているのだろうか。
一人きりになったリビングで窓の外を見ながら考えた。その窓から星を見ようと思っても、都会の空は明るくて一等星すらもよく見えない。ただ月だけが宙に孤独に浮いている。
―そういえば、あの時もそうだった―
慎也と「ずっと一緒にいる」と約束をした中学二年生のあの日。迂遠ながらも私の気持ちを匂わせた日。あの日も月だけが綺麗に見えていたはずだ。
その思い出は単純に美しいと感じた。あの時のように何も「真実」を知らずに、純粋に慎也のことを見ることができたのならば、どれほど良かっただろうか。
慎也はおそらくこの事実を知っている。知っていて隠していた。そのことに気が付いた瞬間、私が帰宅途中に感じていた違和感が一気に氷解して行く気がした。つまるところ、全て偏狭で人の機微に疎い私が招いた勘違いだったのだ。
きっと、何らかの方法で私が従妹だと知った慎也は、私への恋心を断ち切るために由紀と付き合いだしたのだろう。きっとそうだ。そうでなければ、いきなりあんなにもよそよそしくなった理由が説明できない。
それを踏まえて考えると、慎也が由紀脅された訳ではなく、自発的に彼女と付き合い始めたという話も、妙に合理性をもっている事のように感じられた。
私達はもう昔のようには戻れない。戻るには色々と余計なことを知り過ぎてしまった。そして何より、私は彼らに余計なことをし過ぎてしまった。
「それにしても「真実」とは斯くも残酷なものなんだね」
私は常に真実を希求している。それは理学の道を目指す者の普遍的な心構えであり、ずっと変わらぬ私の人生のスタンスであるはずだった。でも世の中には知らない方が幸せな「真実」もあるのだと、今日になって初めて知った。
「こんなことになるのなら、ずっと闇夜に隠れていればよかったのに…」
あるはずがないと思っていた余程のイレギュラーが発生してしまった。どうしようもないエラーが私の行く手を阻んできた。
もはや実験の失敗は目に見えている。そもそも仮説が間違っていては正しい結論が得られるはずがないのに、それにすら気が付けぬほど私は暗愚で幼稚な観測者であったというのか。
「斯くなる上は…」
それはかつての私ならば嫌悪するほどに愚かで、考えることすらも馬鹿らしく感じたであろう最終手段。しかし、もうなりふりかまってはいられない。無実の罪で疑われていた由紀には悪いが、やはり私は慎也を奪った彼女を許すことができなかった。
「ならば、やるしかない。やらなければ私は負けてしまう」
「求めよ、さらば与えられん」そう自嘲気味に呟いた私の顔が窓に反射して映る。その顔は私のものとは思えない程、どこまでも邪悪に歪んでいた。
「待っててね慎也。いますぐ君を由紀のもとから