三体系のエントロピー   作:朝雲

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15 崩壊の序曲


 初めて由紀と交わったあの日から、僕は何回か彼女と体を重ねた。あまり褒められた関係ではないが、有り余る欲望を持った若い僕たち二人は、お互いの体をその欲求の捌け口とするかのように愛し合った。

 

 もちろん、避妊には細心の注意を払って事に及んでいる。少なくとも僕はまだ父親になる覚悟が出来てはいなかったし、安定した収入がない以上子供を作る訳にもいかなかった。

 

「ねえ、慎也。…別につけなくてもいいんだよ」

 

 ベッドの上で半裸になった由紀がそう僕を誘惑してくる。「何を」とは言わないが、話の流れからして明らかであった。

 

「いや、もし妊娠でもしたらどうするのさ」

「別に大丈夫だよ。私は嫌じゃないし、お金だってきっとどうにかなる」

「でも、それは希望的観測だろう」

 

 由紀の家庭は言うまでもなくお金持ちだ。だから由紀が妊娠した際には、彼女の両親は僕達のことを援助をしてくれるのかもしれない。でも僕はそんな寄生虫のような人間にはなりたくなかったし、大学に行ってもう少し勉強を続けたかった。

 

「ダメなものはダメだ」

「ちぇ、つまんないの」

 

 由紀は不満から唇を尖らせると、タオルケットを頭から被って丸まった。毎回僕がこうやって由紀の誘惑を断ると、彼女は十歳あたりの子供のように拗ねる。時折、彼女はやけに幼い面を表に現した。

 

 その事を由紀に言うと「言ったでしょう、私には裏表があるって。『白川由紀』という淑女と『しらかわゆき』という童女が私の中にいるのよ」とどこか比喩的な表現をして、僕のことを困惑させて笑っていた。

 

「ねぇ、本当にダメなの…」

 

 由紀はタオルケットから頭だけをひょこっと出して僕のことを上目遣いで見てくる。ここ最近、彼女は何かと僕との間に明確な繋がりを求めて必死になっているようだった。そして、その最たる例が僕との子供をせがんでくることだ。

 

「ダメって言ってるだろう。というか、一体由紀は何が不安なんだ。今のままでも僕が君を愛していると伝わらないのか」

「そんなことはないわ。そんなことはないのだけれど不安なの。察してよ…」

 

 何故だか分からないが、始業式の日以来弥生は鳴りを潜めたかのように大人しくなった。まるで何か憑き物が落ちたかのように平静を保っているのだ。僕は弥生の暴発が起きなかったことに安堵していたのだが、由紀はそんな弥生の様子に底知れぬ恐怖を抱いているようだった。

 

「弥生の事を心配してるのなら杞憂だよ。彼女は少しおかしな所があったけれど、今は元通りじゃないか」

「それがおかしいのよ。あの子がそんなに簡単に諦める筈がない…。慎也、私と貴方が肉体関係を持ったことを弥生に伝えた?」

「そんな恥ずかしいこと、いくら弥生とはいえ伝えられる訳がないよ」

 

 実際、僕は由紀と関係を持ったことを弥生を含めた誰にも伝えていない。伝える必要はないと思ったし、もし弥生にそれを伝えて逆上でもされたら堪ったものじゃなかった。

 

 弥生とは決別したのだ。今の彼女は恋愛対象ではなくてあくまで一人の友人か、あるいは従妹でしかない。そのことを何度も由紀に伝えているのだけれど、由紀は納得してくれなかった。

 

「どうしたら、由紀は僕を信じてくれるんだ」

「それは…」

 

 由紀はしゅんと落ち込んで被っていたタオルケットを強く抱きしめた。その姿は、答えが分からない質問を先生にされて困惑する生徒のようだった。

 

「分からないわよ。…不安なものは不安なの」

 

 一番困ったことは、由紀自身が不安を解消する方法を知らないということである。それではいくら僕が彼女の為に何かをしようと思っても、根本的な解決策にはならない。

 

「だって、十年近く片思いをしてきた相手をそう簡単に忘れるだなんて、信じられるかしら」

 

 僕がそうやって質問をすると、由紀はいつもこのように反論をしてきた。それは質問に質問で返す何ら生産性のない会話であり、こう何度も同じやり取りをすると流石の僕でも辟易してしまう。

 

「そうはいっても事実なんだから仕方ないだろ。僕は従妹に劣情を抱くような人間じゃない。それに、…決めたんだ。僕は由紀と添い遂げたいと」

「…、それじゃあ。携帯を貸してくれない?」

 

 由紀は僕の説得に絆されたのか、はたまた自分で何かを思いついたのか。唐突にそんなことを言ってきた。僕は由紀のためになるのならばと深く考えず、彼女に携帯を差し出す。

 

 由紀は「ロックを解除して」と言うと僕に携帯を渡して、ホーム画面を開けさせた。そこまで僕が操作すると、彼女は携帯をひょいと取り上げて何かをいじくりだした。

 

「あまり変な風にいじくるなよ」

 

 別に見られて困る物は何も入っていないが、勝手にプライバシーを侵害されるのも不愉快だった。もっとも、自慢ではないが僕は交友関係が狭いので、由紀に詮索されたところで余り影響はないのだが。

 

「分かってるわよ。ええと、…これでいいのかな」

 

 由紀はしばらくの間僕の携帯を操作すると、ベッド脇に置いていた自分の携帯を取り出して何かを確認した。

 

「これでよし」

「何をしたんだよ、由紀」

 

 僕がそう訪ねると由紀はニヤリと笑って僕を見た。それは何か悪巧みをしているような。あるいは悪戯に成功した童女のような顔だった。

 

「GPSを入れてみた。これで慎也が何処にいるか直ぐに分かるね」

「…」

 

 由紀は確かに、僕と初めて寝たときに自分は束縛が強い女だと言った。僕はどんな由紀であれ愛そうと言ってそれを受け入れたが、まさかここまでだったとは。

 

 彼女は既に一日二回、朝夕の定時報告を僕に課している。過去に一度だけ連絡をし忘れて寝てしまったことがあるのだが、次の日にはメッセージが一夜にして五十件以上も溜まっていて、その時はさすがに由紀に文句を言った。しかし、僕が由紀に文句を言うと彼女は謝りながらも、不安だったからと言って泣いてしまい、挙げ句の果てには「見捨てないで」と喚きながら僕の腕に縋ってきたのだ。

 

 それほどまでに彼女の束縛というか、彼女自身に対する自信のなさは病的だった。あるいは彼女の精神は少し子供じみていたのかもしれない。由紀の言った彼女の中に『しらかわゆき』という童女がいるという比喩もあながち間違いではないように思えた。

 

 僕は「その程度で見捨てるわけない」と何度も言ってるにも関わらず、彼女は聞く耳を持たなくて、泣き止ますのに随分と時間がかかったことを覚えている。

 

 だから、僕は彼女の新たな束縛を受け入れることにした。それは決して断ったら面倒事になるように思えたからという理由ではなくて、由紀を安心させるため。

 

 今はまだ無理でも、少しずつ信頼関係を築いて行けば由紀の束縛も軽いものになるだろうと信じて、僕は現状の過剰な束縛を甘んじて受け止めた。こういう手合いに否定から入るのはダメなのだと、昔弥生から聞いたことがある。

 

「ごめんね、面倒な性格で」

「はは、少しずつ直していけばいいんだよ」

 

 申し訳なさそうな顔をする由紀が可愛くて、僕は彼女の額に接吻をする。すると由紀もそれに応じて、僕の肌を軽く撫でてきた。しばらくの間由紀と見つめ合うと、無言の同意が形成され、やがて火の付いた僕たちはまた淫猥な空間へと身を投じた。

 

 

『慎也、今度会えないかな』

 

 由紀と愛し合った数日後、弥生から簡潔なメッセージが来た。弥生とはここ最近、朝の登校の時以外で顔を合わせたことがなかったので、二人きりで会うのはやけに久しぶりに感じられた。

 

『いいけど、変な気は起こすなよ』

『はは、この前はごめんね。つい気持ちが抑えられなくて。でももう色々と吹っ切れたから』

 

 色々と吹っ切れた。それは僕も同じだった。弥生と会うのに抵抗がないと言ったら嘘になる。僕はもう彼女持ちの身であるから、由紀意外の女子と二人きりで合うのは拙い。しかし、弥生とは色々と確認したい事柄が山ほど合ったから、僕は一度だけその申し出を受け入れることにした。

 

『今回だけだぞ。僕は由紀と付き合ってるから弥生とは頻繁に会えない』

『わかってるよ。ありがとう。それじゃあ明日の17時半頃に私の家に来てくれるかな』

 

 やけに物わかりがよくて困惑したが、むしろここ最近の弥生が異常だったのだという事に気が付いた。弥生は本来聞き分けの良い子である。

 

『了解』

 

 妙に時間が遅い事が引っかかったが、準備に時間がかかるものでも用意するだろうかと思い、僕はその疑問を深く考えずに軽く流した。メッセージを見た限り弥生は平静を保っているように見えたから大丈夫だろうと思って、僕は明日弥生に会うことを心に決める。

 

「由紀には、…送らなくていいか」

 

 説明するのが面倒臭かったし、GPSも付いてるから別に心配ないだろと思って、僕は由紀に弥生に会いに行くとメッセージを送らなかった。

 

 

 

 翌日は曇りだった。季節は既に秋に入り始め、秋雨こそ降ってはいなかったが、今にも崩れてしまいそうな不安定な空模様だった。

 僕は外出用の服に着替えると玄関へ向かう。こんな天気の悪い夕べに外に行こうとする僕を不審に思ったのか、母が何処に行くのかを尋ねてきた。

 

「ちょっと、弥生の家にいくよ」

「ああ、もしかして今日は泊まり?」

 

 母がにやけ顔で僕を見て「お熱いですね」と茶化してきた。そう言えば、母はいまだに僕と弥生が付き合っていると勘違いしているのだった。

 

「別に、そういうのじゃないよ」

「またまた、照れなくてもいいのに」

「だから僕と弥生は付き合ってないって言ってるだろう」

 

 煽ってくる母が煩わしくて、僕は若干突き放すような口調でそう言った。説明不足の僕が悪いのだが、由紀と付き合っているのにも関わらず、僕が弥生と付き合っていると勘違いされることが、まるで二股を掛けているかのようで不快だった。

 

 僕は結局、母の顔を見ることなく玄関の扉を乱雑に閉めると、弥生の家へと向かって歩いた。

 

 

 

 僕は弥生に指定された通り、17時半ぴったりに彼女の家に着く。少し古臭い家屋のインターホンを押すと弥生の声が聞こえた。

 

「慎也、久しぶり」

 

 弥生はそう言って微かに笑みを浮かべた。やはりそれは可愛らしいのだけれど、今は昔ほど響かない。あくまで妹のような可愛さで、由紀のように貪り尽くしたくなるような女としての魅力に欠けて見えた。

 

「久しぶり、弥生。今日はどうして僕を呼びつけたんだい」

「そうだね、それも含めて少し中でお茶でもしながらゆっくり話そうよ」

 

 そう言って、弥生は僕を家の中に入るように促した。さすがに家に入るのは彼女持ちの身として拙いのではと躊躇していると、ちょうど雨がポツポツと降ってきて僕の肩を濡らし始める。

 余り乗り気ではなかったが、こうなってしまっては選択の余地がなく、僕は心の中で弥生と密室で二人きりになってしまう事を由紀に謝罪しながら、室内へと足を踏み入れた。

 

「お邪魔するよ、弥生」

「いらっしゃい慎也…。これを言うのも久しぶりだね」

 

 弥生は仄暗い笑みを浮かべると、ガチャリと玄関の戸を閉めて僕を迎え入れた。

 

 

 弥生の家は閑散としていた。もともと弥生と弥生の母である皐月さんは物欲が少ない方であったから、家の中にはテレビと冷蔵庫、洗濯機といった必要最低限の家電しかなかった。

 

 そんな弥生の家の中で一際存在感を放っているものといえば、やはり物理や化学と言った専門書の類で、弥生はお小遣いやお年玉といったお金の殆どをそれか、貯金に費やしていると聞いたことがある。

 

「適当に腰をかけといて」

 

 弥生は台所でお湯を沸かしながらそう言った。台所にいる弥生というのが僕の中のイメージとかけ離れていて、もし弥生と結婚したならばこんな感じなのだろうかと想像して笑った。

 

 でもそれはいけない妄想。それを想像するならば、由紀との生活でなければいけない。

 

「まだ持ってたんだね、この本」

 

 僕は本棚の中に『ファインマン物理学』が丁寧に保管されているのを見つけてそう呟いた。弥生が物理関係の本を処分するとは考え難かったが、実際に保管されている姿を見ると、それを弥生にあげた僕としては嬉しくなる。

 

「まだ熱力学までしか読み終わってないけどね」

 

 ピューとヤカンの中の水が沸騰する音が聞こえたと思うと、弥生は火を止めてそう呟いた。

 

「読めているだけで凄いと思うよ」

「…、そう。ありがとう」

 

 急須にお湯を注いだ弥生は少し照れたような素振りをみせた。そういえば、弥生は余り褒められ慣れていないのかもしれない。

 

 矛盾していることのように聞こえるが、弥生は優秀であったからこそ褒められることが少なかった。できて当たり前。できない時は何故できないのだと失望される。何よりも不幸だったのは、彼女がその期待に応えられるだけの力量を持っていたことであろう。

 

 「もっと上を目指せるんじゃないか」「君の力はそんなものじゃないだろう」と周りの無責任な大人や教師はそう口にして彼女を奮起させようとするが、そのことが逆に彼女を追い詰めた。そして同級生はその優秀さに嫉妬して彼女を除け者にしていた。しかし、弥生は彼らに言い返せるほどコミュニケーションが上手くはないし、言い返したところで無駄だと悟ってしまうだけの分別があった。

 

 故に弥生は褒められ慣れていない。期待のレベルが高すぎて褒められなかった。

 

 それは僕には一切分からない世界だったが、弥生はそんな世界で一人孤独に戦っていたのだと思うと、その小さい背中に並々ならぬ意志の力と数多の傷跡が感じ取れるような気がして、僕は人知れず彼女に憐憫の情を抱いた。

 

「お茶、入ったよ」

「ああ、ありがとう」

 

 弥生は孤独だ。幼い頃から父はおらず、母は毎日仕事で家を留守にしている。今思えば弥生は大人びた子ではなくて、大人にならざるを得なかった子なのだと思い至り、僕は目の前の椅子に腰を掛けようとしている彼女を、そっと慈愛の混じった瞳で見つめていた。

 

「慎也、…私知っちゃったんだ」

「何を知ったんだ」

 

 椅子に座った弥生は俯きながらカップの水面を見つめて、生気のない声で呆然と呟いた。それは目的語もない弥生らしからぬ曖昧な言葉で、僕はその曖昧さに底知れぬ不安を抱きながらも彼女の次の言葉を待つ。

 

「私達ってさ、従兄妹なんだね…」

 

 弥生は震えた声でそう言うと、初めて僕の前で嗚咽を漏らした。

 

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