三体系のエントロピー 作:朝雲
「弥生、…何故それを」
「やっぱり。慎也は知ってたんだ」
弥生はただひたすら溢れ出る涙を、子供のように手で拭っていた。それは僕が初めて見る彼女の年相応な表情であるように思えた。
「ずっと私のことを従妹と分かってて、…私が慎也のためにもがく様を由紀と一緒に嘲笑っていたんだね」
「いや、それは違う」
「だったら何で!…何で早く言ってくれないの。私が従妹だから恋愛対象として見られなくなったんでしょ。慎也が冷たくなったのは由紀と付き合ったからじゃなくて、ただ私が従妹だったから」
「そんなの、努力だけじゃどうにもできない」そう語気を強めて言うと、弥生は椅子の上に体育座りになって、背中を丸めて子供のようにいじけてみせた。
僕は急に弥生が幼くなったような気がして困惑した。彼女はこんなにも感情が豊かな幼子だったのだろうか。いつもの大人びた弥生のイメージと、いま僕の目の前にいる子供じみた弥生との乖離が激しくて、僕は何も声を掛けられずにただ閉口するしかなかった。
重い沈黙が僕と弥生の間に流れる。僕は緊張のあまり乾いた喉を潤すため弥生が淹れたお茶を一口啜ると、目の前にいる少女について少しばかり考えを巡らせた。
弥生は幼少期にこうやっていじけることが滅多に無かったから、その反動が今になって来ているのかもしれない。幼少期の弥生は恐ろしいほどに聞き分けが良くて、誰もが口をそろえて彼女のことを神童と呼ぶ。そんな利口な子であった。小さい頃から今に至るまで、ずっと彼女は大人だった。しかし、それは弥生が歪な精神の成長過程を辿ってここまで来たという他ならない証拠であるようにも思える。
「愛が欲しかった」
弥生はボソッとそう呟いた。
「お母さんは私のことを愛してくれてはいたけれど、それじゃあ全然足りなかった。毎日仕事仕事で家にいない。でも、生きていくためには仕方がないと思って私はずっと我慢してた」
弥生は赤く腫れた目を擦りながら「取り乱してごめん」と言うと、体育座りのまま器用にお茶を啜って話を続けた。僕も弥生につられてもう一度お茶を一口飲むと、椅子に深く腰を下ろして話を聞く姿勢に入った。
「お母さんは研究者だったから、勉強をすると褒めてくれることが多かった。だから私は褒めてもらおうと思って、勉強して良い成績を取ることばかりに夢中になっていた…。最初の方は良い成績を取ると先生も、クラスの皆も、お母さんも褒めてくれたの。でも、勉強をして上に行けば行くほど皆褒めなくなってくる。糸川は満点を取って当たり前。間違えると、みんな寄ってたかって揚げ足ばかり取ろうとしてきた。お母さんも、私が何回も満点を取っているうちに褒め方が雑になった」
それは弥生が小学生の時の話をしているのだと僕は直ぐに察した。当時の弥生はいつもクラスの隅にいて、一人で勉強をしている。そんな孤立した生徒だったと記憶している。
およそ弥生のいたクラスは、彼女の頭脳と美貌に対する嫉妬が渦巻く魔境と化していた。ただ、弥生はそんなことを気にする素振りすら見せず気丈に振る舞い、そのことがさらに同級生の反感を買っていた。そして僕は、弥生に対する同級生の幼いヘイトが彼女に対するイジメへとつかながる前に、嫉妬の炎の消して回る役目を担っていたことを鮮明に覚えている。
「私はただ褒められたかった。褒められて承認欲求を満たしたかったんだと思う…。きっと、それは愛に飢えた私の代償行動だったんだ。でも成長すればするほど皆私のことを褒めなくなった。皆私の敵になった。でもね、慎也だけは違ったんだ。君だけはきっとどこか抜けていて、ある意味その鈍感さが救いだった。私の事をひたすら「凄い」と言って褒めてくれた」
「そりゃ、だって凄いじゃないか弥生は」
彼女は勉学に関しては天才的だ。おそらく僕の通っているレベルの高校では手に余るほどの逸材だと確信している。
「そういうところなんだよ…。君は素直で、馬鹿みたいなほどに純朴だ。大抵の人間は自分より能力の高い人間を視界に入れたがらない。それは、由紀だってそうさ。あの女は演技が巧くて表には出さないけれど、私の才能に少なからず嫉妬していた。誰だって有能な競争者がいれば、蹴落としたくなる。私だってそうだ。でも、慎也だけはただそれを「凄い」と言って、ありのままに褒めてくれる」
弥生は体育座りを崩すと、手に持っていたカップを机の上に置いた。そしてあの物理を語る時のような饒舌さを次第に取り戻して行く。弥生は恍惚とした表情をすると、その赤く腫れた目であらぬ方向を見ながら、一人語りを続けた。
「その時私は思ったんだよ。慎也ならきっと私の事を愛してくれる。私のことを一生褒めてくれる。慎也、君は私の
弥生は椅子から立ち上がると、まるで自己陶酔するかのように手を大きく振りながら演説を始めた。僕の方ではないどこか遠くを見て、弥生はかつていた独裁者のように演説を続ける。
「従兄妹?…確かに忌避感はあるがそれが何だっていうのだろうか。愛に越えられない壁なんてないんだよ。愛はまるでトンネル効果のようにポテンシャルの障壁を超えて見せるんだ」
弥生は狂信的にそう言いのけると、勢いよく体を僕の方へ向け直して、バンッと手の平で机を叩いた。僕はそんな弥生の狂気に気圧されて後へ下がろうとするのだが、これ以上椅子には深く腰を掛けられない。
そんな僕を見て、弥生はまるで獲物を追い詰めた肉食獣のような鋭い眼光を向けると、その端正な顔を吐息がかかる距離まで近づけて僕の瞳を覗き込んだ。そして、その柔らく可憐な手で僕の頬を撫でながらうっとりと呟く。
「私には君しかいないんだ。君じゃなきゃダメなんだよ。たとえ従兄だとしても私は君が欲しい」
「私を独りきりにさせないでよ」そう言って、弥生はその涙で赤く腫れた目で僕を真っすぐと見つめてくる。その瞳はまさに漆黒の深淵そのもの。全てを呑み込んでしまうブラックホールのような瞳だった。
ふと脳裏にこんな話が浮かんだ。
ブラックホールは昔、
かつて宇宙で一際明るく輝いていた大質量恒星が、その自らの重さのあまりに重力崩壊をした末路。その星は自らの強力な引力で宇宙に漂う何もかもを飲み込み、この世で一番逃げ足の速い光すらも、一度捕まってしまっては抜け出すことができない。
弥生は
そのことに気が付いた瞬間、首筋に一筋の汗が垂れてきた。それは冷や汗といわれるもの。今すぐこの家から逃げ出さなければ、色々な意味で僕の身が危ないということを察した。
でも、何処から逃げる?
玄関側は弥生が陣取ってしまっている。後ろにある窓の外側は浅い川になっていて、地面とはかなり高低差があり危険だ。それ以外の出入が可能な窓とはそれなりに距離があり、弥生に取り押さえられる可能性が高かった。
八方塞がりここに極まれり。…ならば、力ずくしかあるまい。
その選択は多少僕の良心を痛めつけたが、他に良い方法が見つからない以上選択の余地はなかった。罪悪感を感じつつも、僕が弥生を押し倒して脱出しようと椅子から立ち上がった瞬間、唐突な目眩に襲われて床へと倒れ込んだ。
身体が、動かない?
身体がしびれる。意識が遠退いて行く。
「や、…弥生。僕に、な、何をした…」
僕は床に倒れ込みながら、近づいてくる弥生を見上げた。僕の目に映った彼女は、恐ろしいほどに清々しい笑みを浮かべて此方へと近づいてくる。
「よかった。やっと薬が効いてきたみたい」
クスッと嗜虐的な笑いを浮かべると、弥生は僕が動けないのをいいことに、僕の頭を遠慮なく撫で回してきた。
弥生の手を何とかして払いのけようと、彼女の方へ体を向けた時、僕の目に彼女の顔が映った。その顔は弥生のものとは思えないほど歪で、涙の痕はもはやどこにも見受けられない。
そこで僕は先ほど弥生が流した涙が、僕の全身に薬が回るまでの時間を稼ぐ嘘だったのだという事を察して愕然とした。
いや、多少は事実だったのかもしれない。「愛が欲しい」と言った彼女はとても嘘を付いているようには見えなかった。
そういえば弥生は中学生の時、もっとも説得力のある嘘とは真実と嘘を程良く混ぜ込んだものだと言っていた気がする。
「私と君と由紀、まるで三体問題みたいだね」
弥生は僕の耳元でそう囁く。こそばゆい吐息が耳を撫でた。
三体問題は基本的に解くことができない。それは数学的に証明された覆しようのない真実。
「でも知ってるかい、慎也。二体問題は簡単に解けるんだよ」
一系内の質点を一つ減らしましょう―
弥生は僕という愚かな生徒に簡単な問題を教える先生のように、優しい声音でそう言った。