三体系のエントロピー 作:朝雲
勉強にひと段落がついた私は、いつものように携帯の電源を付けて慎也の居場所を確認した。罪悪感を感じながらも携帯のロックを解除する
正直これは慎也のプライバシーを侵害しているし、さすがの彼もこれには辟易しているだろうという確信があった。でも、精神的に幼いワタシは彼の居場所を常に確認していないと不安でたまらなかったのだ。
それは相手の気持ちを顧みない行為で、慎也をモノのように扱っているのではないかと私は抗議するが、精神の均衡を保つためにも差し当たり自分の欲求を優先させてしまった。どうしようもなくワタシは独善的で重い女であった。
「ええと。慎也は…」
位置情報を確認した瞬間、私は言葉に詰まって画面を凝視する。
「これは…弥生の家かしら」
携帯が示す情報を信じる限り、慎也は今弥生の家にいるようだった。弥生の家…。その言葉は私に最悪の想像をさせる。
―浮気—
それに思い至った瞬間、仄暗い感情がワタシの内から湧き出てきたが、すぐに私がそれを否定した。そもそも浮気をするならば携帯は家に置いていくだろう、と。
慎也は携帯にGPSが入っていることを知っているのだから、浮気をするならば私にバレないように携帯を家に置きっぱなしにするはず。浮気をしているのに携帯を持ち歩くなど「どうぞ、浮気現場に突入してください」と言っているのと同じようなものだ。慎也がそこまで馬鹿な人間だとは私には思えなかった。
「まぁ、一回くらいは許してあげよっか」
浮気の可能性が限りなく低いことを納得したワタシは、少し精神に余裕が出てそう独り言を呟いた。もっとも、許すのは今回だけ。彼女持ちの身なのに、弥生の家に行くなど言語道断に決まってる。
とはいえ、あまり束縛しすぎるのも彼に嫌われる可能性が高まるだけで良い手とはいえない。
少し前にメッセージのやり取りで彼と揉めた件を思い出して、私は恐怖に身を震わせた。あの時は本当に慎也に捨てられるのではないかと恐怖した。最終的には上手いこと収まったけれど、もう二度とあんな恐怖を感じるのはごめんだ。そのためにも、たまには寛容な態度を示さなければ。
「あっ、慎也が外に出た」
弥生の家から慎也が出てきたのを確認して、ほっと安堵のため息を吐く。慎也の場所を最後に確認したのが一時間ほど前で、その時彼は自宅にいた。往復の時間を含めれば、弥生の家に居たのはせいぜい三十分かそこら。彼との平均的な行為の時間を考えても、そんな短時間で弥生と過ちが起きたとは思えなかった。
「それに、…慎也の初めては私がもらったし」
それは私が持つ絶対的な優位性。いまだに慎也の中に眠っているかもしれない弥生への気持ちを掻き消す程に鮮烈な記憶。いまや慎也は私の身体の虜だ。私を傷物にした罪悪感と責任感も相伴って、そう簡単に慎也が弥生に靡くとは思えなかった。
もっとも弥生が強引に関係を迫れば別だが、あれはあれで分別があり、恐ろしいほどに理性的な女だ。よほど追いつめられない限り、愚かな強硬手段に走るとは考え難い。
「ワタシだったら監禁しちゃうかも…」
そんな有り得ないイフを想像して笑った。もう慎也は私の彼氏で、将来の夫候補。そんなことをする必要もなくなった。
「弥生はなんだかんだで小心者だからね。それが弥生の命取りだよ」
弥生は本当にウブだ。いくら私と比べて貧相な体つきであるとはいえ、人並みに魅力的であることに気が付いていない。弥生は自信がなくて自分の女として魅力を活かせていないのだ。それに、弥生の白くて柔らかい肌は私が嫉妬するほどに美しいが、彼女はそれが大して魅力的ではないと思っている。
机の上に置いてあるスタンドを見て、昔の記憶を思い出す。中学生の時、私は弥生に「私と由紀はインコヒーレント光に似ている」と言われたことがあった。インコヒーレントとは干渉性がないという意味らしい。同じ光なのに、位相や振幅がでたらめで干渉することができない。
なるほど。分かり易く言い直せば、弥生は私とは相容れないとでも言いたかったのだろう。確かに、弥生と私はあの時から慎也を取り合って水面下で勝負を繰り広げていたから、お互いに嫌悪感をもっていた。相容れないというのも間違いではない。
「でもまぁ、もう勝負は決まっちゃったけどね」
本当に運命に感謝する。弥生と慎也が従兄妹でなければ、私は確実に負けていただろう。それ程までに天秤は弥生側に傾いていた。いまだに信じられないが、私はそんな不利な状況から、あの超人とも言える女に勝ったのだ。
後は慎也を奪ってくるであろう弥生を潰しつつ、慎也をもっと私に惚れ込ませればいい。
「ふふ。悪い子にはお仕置きしなきゃね。今度やる時は徹底的に搾り取ってあげる」
慎也が知る女の味は私だけでいい。むしろ、他の女とやった後の慎也なんて、汚らわしくて触りたくもない。彼は私の色だけに染まっていればいいのだ。
私が、今度慎也と寝るときは何をしてあげようかと想像していると、突然に携帯が震えた。時計を見ると、そろそろ慎也からメッセージが届く時間だったから、彼からのメッセージだろうと画面を見るまでもなく察する。
「体調が悪い…?」
外は雨が降っているから、身体が濡れてしまったのだろうか。慎也からの連絡がこないのは不安だが、文句ばかり言っていては彼に嫌われてしまうので、私はぐっと我が儘な気持ちを抑えつけた。
少しずつだけれど、束縛を軽くして行かなければならない。まだ完璧には無理だけれど、私を優しく愛してくれる慎也の誠意に応えるため、彼を信じることも覚えなければと思った。
それはさておき、慎也のメッセージは相変わらずつまらない文面で、もう少し遊び心があっても良いのにと思ってしまう。彼はメッセージアプリが苦手と言っていたが、そろそろ慣れて欲しかった。
『体調に気をつけてね!無理してメッセージを送らなくてもいいよ~』
「とは言っても、私も大概ね」
自分で書いたメッセージを見て、現役の女子高生にしてはつまらない文章だと自嘲する。服装やアクセサリーは流行りに合わせられても、文体というものはなかなか変えられないのだと気が付いた。
『愛してるよ、慎也』
そう入力したが、思い直してそれを消した。そう何度も送ると「愛してる」という言葉が軽薄な意味になってしまう気がしたのだ。
「愛してるよ、慎也」
電波を使って伝えなくても、彼とは心で繋がっているから呟くだけで十分。画面の向こうの彼も、こうして私への愛を呟いてくれているのだろうか。呟いてくれているといいな。