三体系のエントロピー 作:朝雲
弥生との姦淫は一晩中にも渡った。僕が弥生に呼び出されたのが金曜日の午後であったから、彼女は次の土曜の午前中までひたすら僕を犯して、自らの独占欲と肉欲をぶつけてきたのである。
明らかに弥生は平静を失っていた。しかし、弥生は同時にどんな時であれ理性的な面を残している女でもあった。二日間にも渡り僕を拘束するのは流石に怪しまれると思ったのか、土曜の午後には僕を解放した。
「結局、慎也は私を警察に突き出すのかな」
弥生は別れ際、僕が何と答えるのか知っていて、敢えてそう質問してきた。
「…、今回だけは見逃してやるよ」
「慎也はこの前もそう言って私を許してくれたよね」
「一体慎也は
「調子に乗りやがって、この強姦魔が」
「ふふ、可愛い強姦魔でしょ」
弥生はそう言うと、滅多に着ないフェミニンな白色のスカートの裾を手で持って、淑女的な挨拶をする。妖艶に口角を上げ、舌を小さく出して自らの唇を薄く舐める姿は、さながら淫魔のような錯覚を受けた。僕は再び自分の内からイケナイ欲望が湧いて出てくるのを察知して、その場から急いで立ち去ることにした。
「…じゃあな。弥生」
「またね」
その「またね」という言葉にはどこか「お前はまた私の所にくるよ」という他意が含まれている気がして、僕は首を横に振ってそれを否定する。
何があろうとも、弥生と寝るのは今回限り。
それがボロ雑巾のようになった僕の誠実さ。もはや手遅れのようにも思えるが、少なくもまだ傷を浅くすることは出来ると信じていた。
「疲れた…」
肉体的にも精神的にも疲れた。僕は帰り道、雨が上がった夕焼けの空を見上げてそう呟いた。かつて弥生とした会話を思い出す。弥生は僕の伯父とは違うと言った。僕の伯父と違って自殺などしないと。それは確かだろう。だって弥生は伯父ではなかったのだから。
「伯父は、どちらかというと僕か…」
肉欲に我を忘れて過ちを犯す。そして、そのことをどうしようもなく後悔する。僕と伯父はやはり親族なのだなと、嫌な共通点を見つけて自嘲した。
◇
弥生は一線を越えてからもしばらくの間、平然と早朝に僕の家を尋ねてきた。母は僕が弥生に拘束されて帰れなかった日から、明らかに僕と弥生の関係が一歩進んだ事を確信して、まるで弥生のことを将来のお嫁さんであるかのように扱いだした。僕は完璧に、母に由紀との関係を告げるタイミングを失ってしまったのである。
もっとも、母を失望させる覚悟で真実を告げれば済む話なのだが、僕の幼さからくる恐怖心と、浮かれる母を失望させたくないという感情に動かされて、僕はさし当たりこの問題を棚上げしていた。もちろんそれが何の解決策にもならないことは十二分に理解していたが、それ以外の方法を僕の頭では考えだすことができなかったのだ。あくまで平静を取り繕って現状を維持することに僕は腐心していた。
ただ、そんな僕のくだらない努力が功を奏したのか、しばらくの間は僕と由紀と弥生の関係を含めて、今まで通りの日常がつつがなく維持されていた。唯一今までの日常とは大きく変わったこといえば、由紀の僕に対する束縛が軽くなったということだろうか。
そう。弥生と一線を越えた日以来、なぜか由紀の束縛は少しずつ軽くなっていたのだ。
僕がそのことを不思議に思い理由を尋ねると、由紀は「私も少しは慎也のことを信じないといけないと思ったの」といって微笑む。その何も知らない彼女の無垢な笑顔が、僕の心を容赦なく抉った。由紀は僕のことを信じようと努力をしているのに、僕はそんな彼女の信頼と努力を裏切ってしまったのだと思うと、罪悪感が酷かった。
そういう理由もあり、僕はしばらく由紀と体を重ねる気にはなれなかったのだが、僕の事情など知らない由紀は何度も誘惑をしてきた。その誘いを断ると、由紀はいつも捨てられた子犬のような目をしてきて、優柔不断な僕は流されるがままに彼女とコトを致してしまう。
しかし、由紀と寝る度に弥生の痴態が脳裏に浮かび、僕のことを惑わすのだ。目の前の彼女に集中しなければと思うのだが、そう思えば思うほど弥生の事ばかりを考えてしまった。
凄まじい自己嫌悪に陥りながらも、いつの間にか僕は由紀と致す度に彼女を弥生の姿に見立てて、一人その背徳的な快楽に酔っていた。それは人として最低の行いであると理解はしていても、僕はその現実では消化できない弥生への想いを解消するカタルシスに取り憑かれていたのである。弥生に犯された事実が由紀にバレなかったのをいいことに、僕は彼女に不誠実を貫いていた。
しかし、そんな歪さは長く続かないのだと今日になって気が付かされる。マーフィーの法則よろしく、崩壊する余地のあるものは、いずれ必ず崩壊するのだと。
十一月も終わりに差し掛かったある日、弥生はいつものように僕の家を訪ねてきた。その日はちょうど僕と弥生が一線を越えてから二ヶ月程が経とうとしていた日だった。その日、弥生は妙に神妙な顔つきで僕のことを見てこう言った。
「慎也、生理がこない」
「えっ、…」
それは端的な事実で、文字にしてしまえば僅か六文字しかない情報なのだけれど、それの持つ破壊のエネルギーは核分裂以上であるように僕には感じられた。
「赤ちゃん、出来ちゃった」
弥生はあくまで冷静に、でもどこか喜色を含んだ声で、まだ現実を理解し切れていない僕にそう告げた。
「それは、…本当なのか」
「嘘をついてどうするのさ。その…責任よろしくね」
弥生は僕の手に妊娠検査薬を押しつけると「見てごらん」と言って、色好い返事を期待するかのように僕の顔を覗き込んでくる。弥生が僕に手渡した妊娠検査薬は陽性を示していて、僕はあまりの衝撃にそれを道路に落としてしまった。
たった一夜の過ちでそんなに上手く行くものかと、現実を受け入れらない僕は、道路に落ちた妊娠検査薬を拾い上げてもう一度それを見つめた。しかし、何度見直しても結果が変わるはずもなく、相変わらず検査薬は陽性を示していた。
それは間違いなく破滅への引き金だった。
かつては夢見たこと。でも今は悪夢のようなこと。
弥生と一生を添い遂げねばならない。その事実が僕に重くのしかかる。弥生が無理矢理襲ったとはいえ、自らの下腹部を慈愛の籠もった手つきで撫で回す弥生を見ると「堕ろせ」などとは到底言えるはずがなかった。弥生はすでに母となる決意を固めているように僕の目には映った。一人の男として、初恋の君を孕ませたことに本能的な歓喜を覚える。
だがそれと同時にこれから来るであろう困難と、その真実を知った由紀が何をしでかすか分からなくて、僕は文字通り震えた。恐怖と後悔と愚かな自分に対する怒りで震えたのだ。
最悪、由紀に殺されるのではないかと思い、僕は嫉妬と恨みに駆られて僕達を殺しにくる彼女の姿が易々と思い浮かべられた事実に驚愕した。それほどまでに、由紀もどこか歪な女だった。
「大丈夫だよ慎也」
そう言って弥生は震える僕の背をさすりながら、優しくあやしてくる。弥生は母であるのと同時に、妻であるかのようにも振る舞った。
「従兄妹は結婚できるんだよ」
そう言って、弥生はまた耳元で囁いた。それは事情を何も知らぬ幼女が、この世の真理を端的に告げるかのような声音。
「そろそろ慎也も決めないと、由紀を選ぶのか私を選ぶのか」
「答えは分かり切っているけど」と言って弥生は笑う。その問題は、今では遠い過去に思える夏休みの後半に既に解決していたはずなのに、弥生が強引に再提起したモノ。
─いくら三体問題を解こうとしても無駄だよ。系内の質点を一個減らして二体問題にしないと─
弥生は残酷な真実を僕に突き付けた。
◇
弥生の妊娠が発覚したその日の午後、僕は由紀を自宅に呼びつけた。少なくとも僕の家ならば、地の利というか、たとえ由紀が激高しても凶器の類を持ち出せないと踏んだからである。念には念を入れないと、僕の身が危ない気がした。
「なんで、弥生がいるのよ」
僕の部屋に来た由紀は、弥生の顔を見るや否や不快感に顔をしかめた。それは僕という恋人のパーソナルスペースに、かつての恋敵がいるという事実がたまらなく彼女にとって腹立たしいことに感じられたからであろう。
一方の弥生といえば、僕のベッドの上に我が物顔で腰を掛け、どこか勝利を確信しているような余裕のある笑みを薄く浮かべていた。それはかつて弥生と将棋をした際に、彼女が僕の詰みを確信した時の表情と重なって見えた。
「由紀、大事な話がある」
そう言って僕は彼女の瞳をまっすぐ見た。由紀の瞳が好奇心と不安に揺れる。それは一体これから何が始まるというのか、と言いたげな顔だった。
「本当にすまないが、僕と…別れてくれないか」
「えっ…」
僕は由紀の目の前で土下座をした。土下座だけで済む話ではないと分かっていても、それ以外の方法を僕は知らなかった。僕の唐突な土下座を見た由紀は困惑し、何を言われたのか分からないとでも言いたげな声を上げた。
ただひたすらの放心。そして僕が顔を上げると、直ぐに僕の目を見て言外に訴えてきた。どういうことだ。私と添い遂げると約束したのは嘘だったのか、と。少なくとも今の由紀の表情は、僕にはそんな風に感じられた。
「どういうことなのよ」
由紀は怒りと困惑が混じった震える声でそう言った。そして直ぐにこの部屋に弥生がいるという事実に合点がいったのか、彼女の怒りの矛先は僕ではなく弥生へと向かった。
「弥生…、あんた慎也に何をしたァ!」
由紀は弥生の胸倉をつかんで彼女をベッドの上から引きずり下ろした。僕は由紀を制止しようと立ち上がったが、激昂する由紀に気圧されて、弥生が恫喝される様をただ見ていることしかできなかった。
「痛いよ。由紀」
弥生はあくまで平静さを保ってそう言う。その言い方がまた由紀の癪に障ったのか、由紀は弥生をそのまま壁に押し付けるとドスの利いた声で問いただした。
「いいから、慎也に何をしたのよ。この女狐」
「うーん。まぁ慎也とセックスして妊娠しちゃった」
その瞬間、まるで時が止まったかのような錯覚を僕は受けた。僕も由紀も、弥生のその明け透けで見方によっては挑発的ともとれる言い方に固まったのである。ただ一人、弥生だけは勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「ふ、ふ、…ふざけるなぁぁ!」
由紀は弥生の頬を勢いよく叩く。パチンッという風船が破裂したかのような甲高い音が部屋に響いた。
「に、妊娠した?私が誘った時は断ったのに弥生とするときは…、避妊せずにしたの」
絶叫した由紀はぜぇぜぇと息を切らしながら僕の方を信じられないといった具合に見てきた。
「嘘だと言ってよ、ねぇ」
黙り込む僕を見て由紀が縋るようにそう言う。
「ねぇ、嘘だと言ってよ。慎也」
どこまでも懇願するような声音だった。
「ねぇ、慎也。うそだ…」
「確かに、僕は弥生とやった」
由紀の言葉が聞くに耐えなくて、僕は彼女の発言を遮って、怒鳴るようにそう言った。その怒号は由紀に対してというよりも、僕自身の愚かさに対して発せられたものだった。
決して僕から進んでやったわけではない。あれは不可抗力だったのだと言い訳をしたくなるが、由紀が求めている答えは弥生とやったのか、やっていないのか。中に出したか、出していないのか。つまるところそんな0か1かの二進法的な答えなのだ。つまらない言い訳は余計に事態をややこしくさせる可能性があった。
「なっ…。この…、この嘘つきがァ!結局、弥生のことがまだ好きだったのね。あの時、私と添い遂げると誓ったのは嘘だったんだ…。どうせ愛を囁かれると、喜んで股を開くチョロい女だと思ってたんでしょ。慎也の愛は愛じゃなくて性愛だった。それなのに、愛されてると浮かれている私を見て、弥生と一緒に嘲笑ってたんでしょ!」
「いや、そんなこと…」
「そうだよ」
その言葉に僕は再び固まった。それは弥生の声だった。
「弥生、お前何を言って…」
「いいから慎也は黙ってて」
弥生はそう言うと僕の手をつかんで、由紀に見せつけるようにその体を押し付けた。それはかつての勉強会の帰り際に、弥生が僕の腕をつまんだ時に重なって見えた気がした。
「ねぇ、由紀。少し長話をしようか」
弥生は床に呆然と崩れ落ちた由紀を、ただ見下したような目で見てそう言った。