三体系のエントロピー 作:朝雲
「昔から由紀のことは嫌いだった」
弥生は由紀から視線を逸らすことなく、いきなり彼女のことを罵倒した。それは僕が知る限り、初めて弥生が由紀に向ける嫌悪の眼差しだった。
「はっ、何よいきなり。私だってアンタのことなんか大嫌いよ」
「そうだね。私たちはお互いにお互いのことを嫌悪している」
僕は弥生と由紀はずっと仲が良いと思っていたから、今の彼女達の発言に少なからず衝撃を受けていた。
もちろん、弥生が妊娠してしまった以上、僕達と由紀の関係は修復不可能なまでに悪化してしまうのだろうという事は予想していた。だが、元から二人の仲が悪いなど、考えたこともなかったのだ。
「昔から金を持っている由紀が嫌いだった。親から十分に愛されているのに、寂しいと不満がる由紀が贅沢で嫌いだった。十分他人よりも優れているのに自信がなくて、あまつさえ密かに私に嫉妬している由紀が大嫌いだった。なにより、私の慎也を奪おうとする由紀のことが大大大嫌いだった」
それは僕が初めて聞く弥生の本音だったのかもしれない。弥生はこの三人の中では一番大人に見られていて、よく僕と由紀の統率役を押しつけられていた。だから、弥生はいつも自身の本音を殺して僕たちの面倒を見ていたのだ。本当は弥生の精神年齢こそ一番幼いのにもかかわらずである。そのことが弥生にとってどれほどのストレスであったのか、僕には想像し難い。
「私だって…。私だって弥生のことは大嫌いよ!いつも慎也と一緒に私が分からない物理の話ばかりして、二人だけの世界を私に見せつけてくる。弥生は顔も良いし、頭も良いし、運動神経も良い。それに比べて私は何もない…。何より、慎也の心を独り占めしていた弥生が憎くてたまらなかった。そんなに色々と才能を持っているなら、慎也くらい私にくれたっていいじゃないの」
そう言って由紀は絶叫すると嗚咽をもらした。僕はどの面さげてと思いながらも、由紀を慰めるために彼女のもとへ近寄ろうとするが、それは叶わない。弥生はぎゅっと僕の腕を拘束して離そうとはしなかったのだ。
「哀れだね」
弥生は泣いている由紀を見てただひたすら冷酷にそう告げた。
「由紀の敗因を一つ教えてあげる。それは由紀がどこまでも正当なやり方に拘っていたところだよ。私より早くの告白、私よりは早くの性行為、そして束縛。どれもありきたりで王道だ」
そこで、弥生は一息ついた。
「それは確かに素晴らしいフェア精神だと思うし、ある意味では由紀の「純粋さ」や「幼さ」を表しているようでもある。恋は戦争だよ。戦争はもっと泥臭くて汚い手が横行する。戦時国際法なんてバレないところで皆やぶっているものさ。それでも勝てば問題ない。畢竟、勝てば官軍なんだよ」
「残念だったね、哀れな賊軍さん」そう言って弥生は由紀を煽った。なぜ弥生がここまで由紀に敵愾心を持つのか僕には分からなくて困惑する。普段の弥生は怒ったとしても、こんなにも相手を挑発することなどしない。だからこそ、今の弥生の行動は少しおかしく思えた。
「弥生、その辺しておけ」
「分かったよ、慎也。この辺でやめとく」
弥生は由紀の方を見て何かを確認すると、小さく微笑んで僕の諫言に従った。
「…、私、もう帰る」
由紀はどこか自暴自棄になった感じで、生気のない声でそう呟いた。自分の荷物を持って僕の部屋から出ようとした時、由紀は虚ろな目をして僕たち二人を見ると小さな声でこう言った。
「なんだ…、やっぱ初めから私の居場所なんてなかったんだ」
僕が何か返事をする前に由紀はバタンと乱雑に扉を閉めて去っていた。
由紀が去ってからしばらくの間、僕は呆然とさっきまで彼女がいた所を見つめていた。それは二度と戻らない、幼馴染であり恋人であった女性への哀愁からきた行動なのかもしれない。
恐らく、由紀がこの部屋に来ることは二度と無いだろう。それ程のことをしでかしたという自覚はある。
ただ最低なことに、僕の胸の内の大半は、由紀と決別してしまった虚しさや寂寥感よりも、安堵で占められていた。
意外とあっさり身を引いてくれた。それが僕の正直な感想だった。殴り合いの修羅場を覚悟していた僕としては、この淡々とした展開に少し拍子抜けな印象を受ける。
「弥生、なんであんなに由紀を煽った」
先程の弥生の言葉を思い出し、僕は彼女のことを問いただした。抗議の意味を込めて、少し語気を強めてそう言った。
「それは簡単だよ。私に由紀のヘイトを集めるためさ。もしかしたら、由紀は激昂して慎也に危害を加えてきたかもしれないから」
「つまり、僕の為ってことか」
「そうだよ。言ったでしょ。私は慎也の為にならないことはしないって。もっとも、由紀も馬鹿じゃないから殺しはしないだろうけど」
それはあの日の朝に、弥生が由紀と交わした言葉だった。なるほど。弥生の話は確かに一理あるかもしれない。由紀は裏切り者である僕を間違いなく恨んでいるだろう。ただ、やはり疑問は尽きない。
「でも、そうなると弥生の身が危険じゃないか」
「さあね。もとから私も由紀もお互いの事が嫌いだったからどうでもいいや。今更何か言ったところでそう簡単に相手への好感度は変わらないよ」
それはある種の歪な信頼関係のように僕には聞こえた。きっと彼女達はお互いに相手の好感度が何をしたところで変わらないことを確信しているのだろう。だからこそ弥生はあそこまで挑発的な事を言えたのだ。そもそも、もとから失う好感度などお互いになかったのだから。
「終わったな、色んな意味で」
「違うよ、慎也。終わりじゃなくて始まりだよ」
「はは…それもそうか」
これから様々な困難が待っているだろう。不本意とはいえ僕は父親になってしまった。高校は退学処分になるのだろうか。働き口を見つけた方がいいのだろうか。今は分からないことが多すぎる。
僕がこれから来るであろう茨の道を想像して遠い目をしていると、弥生はそっと僕の手に彼女の小さな手を重ねてこう言った。
「大丈夫だよ。これから二人で歩いていけばどうにかなる。だって、…私は天才だから」
「それにしては随分と幼稚な天才だな」
僕と弥生はお互いを見ると、おかしな気分になって久しぶりに心から笑った。
僕達は救いようのないクズだ。
それは認めなければならない。僕と弥生は由紀という一人の女の子をどうしようもなく傷つけた罪人だ。でも、いくら過去を悔やんだところで、犯してしまった過ちはもう正せない。であるならば、せめて次に活かすために復習をして、同じミスをしないようにするしかない。
「これからよろしく。慎也」
「ああ、こちらこそ。弥生」
初恋は、紆余曲折を経て最悪の形で結ばれた。
◇
由紀が僕の家を去ってから、僕と弥生は二人の将来のことについて色々と取り決めをした。
やはり弥生は子供を堕ろすつもりはないらしい。そして、十八歳になったら入籍することを迫ってきた。もちろん、こうなってしまった以上は責任を取るつもりであったから、僕は弥生のプロポーズを快諾した。
いわゆる逆プロポーズと言われるもので、僕は最後まで男としての格好良さを弥生に見せられなかった自分自身の情けなさに辟易した。
「じゃあね、あなた」
弥生は新妻ぶってそう言うと、去り際にキスをしようとしてきた。玄関は一段低くなっているので、弥生との身長差がかなり出来てしまっている。そのため、僕は少し屈んで弥生のキスを頬に受け入れた。
「ふふ、これから毎日こんな日々が送れると思うと興奮するね」
「そうだね。…もっとも困難も多いだろうけど」
まず金。なによりも金が問題だ。
幸いにも僕の家は由紀ほどお金を持ってはいないが、それでも多少の余裕はある。だから、土下座をしてでも両親に援助を頼もう。
おそらく僕の両親は弥生と、これから産まれてくる新しい命を、暖かく迎えてくれるだろう。それは母の弥生に対する気に入り具合からも容易に想像できた。
しかし、僕については殴られて罵声を浴びせられる未来しか想像できなくて苦笑した。昔から、そういう事をするなとは言わないが、避妊は必ずしろと父には口酸っぱく言われていた。しかし、結果的に僕はその忠告に背いてしまった訳だから、父が激昂したとしても仕方がない。これから来るであろう第二の修羅場を想像して、僕は憂鬱な気分になる。
とはいえ、つべこべ言ったところでそれ以外に方法がある訳でもなく、僕は両親に殴られることを甘んじて受け入れることを心に決めた。僕が殴られるだけで弥生との生活に活路が見出せるのならば安いものだろう。そして何より、それは自己満足的な由紀へのケジメと、父親になるための禊ぎなのだと思った。
「じゃあ、明後日は休日だから、その時にでも僕の両親を一緒に説得してくれ」
「分かってるよ。…かなり荒れるだろうね」
僕と弥生は改めて事の困難さに顔をしかめた。しかし、一度産むと決めた以上は仕方がない。僕と弥生の未来の為にも、僕は何とかして両親を説得しなければならないのだ。それが僕に可能な、せめてもの男としてのプライドの発露だった。
「じゃあ、体に気をつけろよ。…、一応妊婦なんだから」
「はは、改めて言われると何だか変な感じだね。…うん、ありがとう。体を冷やさないようにするね」
少し恥ずかしげに顔を赤らめながらも、弥生は「バイバイ」と言って僕に別れを告げる。そして、弥生が玄関の扉を開けて夕日に染まる黄昏時の世界に消えていこうとしたその時だった。
「由紀、どうして…」
玄関を開けると由紀がいた。僕と弥生はただ唖然として彼女を見つめる。
由紀は、雨が降っていないのにもかかわらず、レインコートに身を包んで僕たち二人を虚ろな目で見つめていた。その手には夕日に照らされて鈍色に光る鋭利なナイフが見て取れた。
その瞬間、僕は何故由紀がレインコートを着ているのか、そしてこれから何をしようとしているのかを察して恐怖した。
レインコートは返り血を直接浴びないためのもの。彼女は僕か弥生。あるいはその両方をそのナイフをもって刺そうとしているのだ。
三文小説みたいな展開だと、危機感も忘れて苦笑してしまう。それほどまでに現実離れした光景だった。由紀がゆらりと体を揺らして僕達の方へと近付いて来る。
逃げなければ。
そう直感的に生存本能が告げる。
逃げなければ。
まだ玄関を閉めれば間に合うかもしれない。
逃げなければ。
でも、足がすくんで…、動けない。
それは明確な殺意。研ぎ澄まされた殺意。
由紀から発せられるその威圧に僕と弥生は一切動けなくなってしまった。由紀との距離はあと四メートル。あと、二メートル。あと…。
「捕まえた」
由紀がそう言った瞬間、鮮血が宙に迸った。