三体系のエントロピー   作:朝雲

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終話 三体系のエントロピー

 血が舞っていた。

 

 それは僕ではなくて弥生の血。生臭くて、暖かい。そんな血。

 

「ゆ、…由紀。なんで…」

 

 弥生は自分の刺された個所を見ると、小さな声で由紀の名前を呟いた。彼女の刺された箇所。それはちょうど下腹部の子宮があると思われる位置だった。由紀は弥生の命はおろか、新しく生まれてくる命すらも(ほふ)ろうとしていたのだ。

 

「もう、どうでもよくなっちゃった」

 

 由紀は嗤いながら泣いていた。それは自分でもよく分からない感情に突き動かされて取り返しのつかないことをしてしまったことへの後悔と、それと同時に来る達成感の表れ。由紀はもはや壊れていた。

 

 由紀はあえて弥生からナイフを抜かなかった。抜くと血管に空気が入り、すぐに死んでしまうと知っていたからであろう。この期に及んで、由紀はどこか理性的な面を残していた。それが弥生を殺したくないという僅かな逡巡から来るものなのか、あるいはなるべく長く苦しめていたいという残忍さから来るものなのかまでは分からない。

 

 由紀はその滴り落ちる涙を拭おうともせず、ただ何の感慨もないといった無表情で、弥生の下腹部から流れ出る血を見ながら悶絶する彼女の声を聴いていた。

 

「きゅ、救急車を呼ばないと…」

 

 僕はやっとのことで恐怖に打ち勝ち、携帯で救急車を呼ぶ。由紀はこのままでは殺人、ないし殺人未遂で捕まるにもかかわらず、一切その場から逃げようとはせずに、ただ僕と弥生を見つめていた。

 

「ねぇ、ねぇ、慎也。最期にお話をしようよ」

 

 由紀は自身の血に濡れた右手をハンカチで拭いて綺麗にすると、そう言った。

 

「由紀…、お前、なんて馬鹿なことをしたんだ」

「はは、確かにバカだね。できることなら殺したくなかった。私だって犯罪者にはなりたくないわよ。でも、…もうどうでもいいの」

 

 そう言って、由紀は地面に屈み込んでまた子供のようにいじけながら沈みゆく夕日を見た。

 

 この住宅街は人通りが少ないうえ、今日に限って僕の母はPTAの集まりに行っているせいで帰りが遅い。そのためこんな凄惨な事件が起こっても騒ぎだす人はおらず、ただ僕と由紀と血を流す弥生だけが道路の上に佇んでいた。

 三人だけの孤立系。孤立系のエントロピーは不可逆的に増加する。

 

「慎也が弥生のものになるくらいなら、殺してしまいたいと思った。弥生と寝て汚れた慎也の身体なんていらないと思った」

 

 由紀は地面をじっと見つめながらそう言った。由紀の視線の先には一匹の小さな蛾の死骸が転がっていた。それはおそらく街灯の光に惑わされて、その熱で死んだ哀れで愚かな蛾。由紀はその蛾を見ながら話を続けた。

 

「でも、こんな酷いことをされても私はまだ慎也のことを愛していた。私はどうしようもなく愚かな女だった。こんなクズみたいな男が、いまだに好きだった」

 

──だから、慎也にナイフは刺さない──

 

 由紀は僕の方を向くと「私の恩情に感謝しなさい」とどこか可笑し気に笑った。もう全てを諦めて、吹っ切れてしまった後の清々しい笑みだった。

 

 僕は焼け石に水とは思いながらもハンカチで弥生の傷口を止血する。ナイフはなるべく触らないように。だけど血は止めるように細心の注意を払ってハンカチを傷口に当てた。

 

「清潔じゃないなら、ハンカチを当てない方が良いんじゃない」

「うるさい、黙ってろよ」

 

 そもそもお前がナイフで弥生を刺したからこんなことになったんだろ、と心の中で悪態をつく。由紀の指摘が的を射ていたことも妙に癪に障った。

 

「ちぇ、つまんないの」

 

 由紀は弥生の応急処置に集中する僕の方を見て面白くなさそうにそう言う。それはまるで一緒に遊んで欲しいのにも拘わらず、両親に構ってもらえなくて拗ねた子供のような態度だった。

 

「まあ、いいや。かってにしゃべるから」

 

 そう言うと由紀は「よいしょ」と言って立ち上がり、所在なく僕たちの周りを歩き回って、ひとりでに語り始めた。

 

「私は慎也が好きよ。こんな事になった今でもね。でも慎也は弥生を選んでしまった」

 

 そう言って言葉を区切る。

 

「なにがダメだったんだろう。なんで弥生を選んだのだろうとさっきまでずっと考えてた。そして、分かったのよ。弥生が妊娠したからだって。弥生が妊娠しなければ慎也は最終的に私を選んでくれたはず。浮気は良くないことだけれど、一回くらいは許してあげる。でも妊娠はいただけない」

 

「だから、お腹の子諸共に殺してしまおうと思ったわ」と由紀は何が面白かったのか、ふふっと忍び笑いをした。

 

「お腹の中の子に罪はないだろ」

「あるわよ。だって貴方と弥生の愛の結晶なんて見たくもないわ。弥生が貴方の子を宿した時点で、その罪はお腹の中の子のものでもある」

 

 だから私は断罪したのよ。と由紀は言った。

 

「弥生が子を成した時点で私には負けしか残されていなかった。身を引いたら慎也とは結ばれない。かといって恨みに任せて弥生を殺したら警察行き。どちらにせよ詰んでいた、…だから、どうせなら私が気持ちよくなる方を選んでみたの」

 

 由紀は何処までも利己的な理由で罪を犯した。

 

「そのまま身を引いて新しい恋を探した方が建設的だろう」

 

 どの口がそれを言うかと思いながらも、由紀の説明に納得がいかなかった僕はそう反論する。すると由紀は「新しい恋だなんて、酷い人」といって少し寂しそうに笑った。

 

「理屈じゃないのよ、恋は。どこまでも中毒性があってもう抜け出せないところまで私は来てしまった」

 

「だったら!…尚更新しい恋を探して、そこに依存すれば良かったじゃないか。こんなことをしなくても…」

 

 幼馴染が。元恋人が犯罪者になる様を僕は見たくない。

 

 たとえ僕と由紀が結ばれる未来はあり得なくても、誰かこんなクズ僕よりも遙かに良い人と出会って、僕たちが傷つけた分、幸せになって欲しいという細やかな願いは、他ならぬ由紀自身の手によって潰された。

 

 どこまでも、愚かな選択を由紀はした。

 

 気が付くと、僕は嗚咽を漏らしていた。

 

 何でこんなことになってしまったのだろうか。

 

 何で由紀を犯罪者にしてしまうほど僕は彼女を追いつめてしまったのだろうか。

 

 何で弥生はこんなにも虫の息なのだろうか。

 

 何で、何で、何で、…。

 

 何でこんなにも世の中上手くいかないのだろう。

 

 

 僕が涙を流すと、血に濡れた弥生の手がそっと僕の手を掴んだ。そこでふと気が付いた。結局全ては僕自身が招いた結果なのだと。

 

 初めから従妹だからとかいう変な御託を並べずに、弥生に告白していればこんなふうに拗れなかった。あの時しっかりと由紀の告白を断っていれば、こんなことにはならなかった。弥生に襲われた時、彼女を蹴り飛ばしてでも抵抗していればこんな事にはならなかった。でも、その全てのターニングポイントで最悪の選択をしたのが僕だった。

 

 誰も傷つけない最適解など端から存在しなかったのに、僕は愚かにもその解を探し求めて、最悪の解をたたき出してしまったのだ。

 

 もし僕が由紀の告白を断ったのなら、失恋をした由紀は傷つきながらも、新しい恋を見つけて幸せになれたかもしれない。そしたら、僕と弥生の結婚式に呼ばれた由紀は僕たちを祝福してくれたかもしれない。

 

 でもそれはもう有り得ない未来。僕があの日、由紀の告白を受け入れてしまった時点で潰えてしまった未来。

 

 結局、僕が幼馴染という枠組みを壊したくなかったからこうなってしまった。

 結局、僕が由紀を傷つけるだけの勇気と誠実さを持っていなかったからこうなってしまった。

 

 由紀と弥生と僕自身。そして幼馴染という関係を含めた全てを守ろうとして、全てを失ってしまった。二兎追うものは一兎も得ずという言葉の意味を今になって痛感する。

 

 

「しんや、…、どうして、ないてるの」

 

 焦点の合わない目で弥生が小さく呟いた。遠くから救急車が来る音が聞こえた。

 

「何でもないから。もう喋るなよ、弥生」

 

 漫画やドラマでは死に際ほど良く喋る。だから喋るな。僕に最悪の想像をさせるな。弥生は黙って治療をされて、人知れずケロッと復活して僕の前に現れればいい。変なお涙頂戴な台詞や、哀愁は要らない。

 

「しんや、…ずっと、あいしてるから。なかないれよ…」

「分かったから。僕も弥生を愛しているから…、弥生が居てくれればそれだけで十分だから…。だからそんな今生のお別れみたいな事を言うなよ、馬鹿」

 

 弥生の手が心なしか冷たくなって行くのが分かる。それは確実に彼女の血液が体内から抜けていることの証左であった。弥生の呂律が上手く回わらなくなってきている。

 

 気が付いた時には、救急車がもうすぐそこまで来ていた。

 

「もうすぐ、すべてが終わるね…」

 

 僕達のやり取りを傍で見ていた殺人鬼(しらかわゆき)がそう呟いた。その汚い口を閉じろと言いたい。

 

「ねぇ、慎也。ワタシが一番恐れていることは何だと思う。つかまる事じゃないんだよ」

 

 その子供のように無邪気で残酷な小鬼(しらかわゆき)は、ケラケラと嗤って僕を見る。小鬼(しらかわゆき)はすでに『白川由紀』の殆どを喰い尽くしてしまっていた。

 

「それはシンヤがワタシを忘れること。忘れて弥生だけの思い出に塗り替えられること。この世でアナタと添い遂げられないのなら、せめてワタシはアナタの思い出の中で生きていたい」

 

 小鬼(しらかわゆき)はレインコートの内側隠していたもう一つのナイフを持つと、恍惚とした表情をしてそう言った。太陽がまさに沈もうとしていた。辺りが闇夜に包まれ始める。それは逢魔が時と呼ばれる、人ならざる者が闊歩する時間帯。

 

「これからアナタに忘れられない記憶を植え付けてあげる…。決して『白川由紀』を忘れられないように」

 

 そう言うと、小鬼(しらかわゆき)は清々しいほどの笑みを浮かべながら『白川由紀』の首を掻き切った。

 

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