三体系のエントロピー 作:朝雲
弥生と由紀との勉強会は午後五時過ぎにお開きになった。もともと四時にはやめるつもりだったのだが、無駄話が過ぎてしまったようで予定よりも一時間ほど伸びてしまったのは誤算だった。僕と弥生は持ってきた参考書や問題集といった荷物を鞄に詰め込むと、二階にある由紀の部屋から一階に降りて玄関へと向かった。
「弥生も慎也も昔はよく家に泊まっていってたんだけどね」
帰り際、玄関先まで僕たちを見送りに来た由紀がどこか名残惜しそうにそう呟く。確かに由紀の家は三人の中で一番大きかったから、僕と弥生はよく由紀の家でお泊りをしていたのだが、それはもう随分と前の話であった。
「いったい何年前の話だよ」
「さあ。確か小学校五年生までは泊っていってたと思うのだけど…。あぁ、そうだ」
―ねえ、慎也。久しぶりに泊っていく?-
由紀はクスッと笑いながら、そう茶化すように僕に向かって言ってきた。それはいかにも艶めかしい口調で、弥生とは違ってどこか大人の女性らしさがあったせいか、僕は一瞬気後れしてしまう。
由紀は弥生ほど美人ではないけれど、人並みかそれ以上には可愛らしい。また物理にリソースを割き切っている弥生とは違って女性らしさというものを感じる女の子であった。これは完全に想像なのだが、もしかしたら由紀は顔では弥生とは張り合えないから、敢えて女性らしさというものを演じて弥生に勝とうとしているのかもしれない。昔から、由紀は少しプライドが高い女の子だった。もっとも、それがただ単に由紀の性分だという可能性も否定はできないし、僕もそういうふうに納得している。少なくとも僕が今、何かしら断言できることは、由紀はその性格のおかげで弥生より遥かに男子受けが良いということだけだった。
「まったく、揶揄うなよ。僕と弥生はもう気軽に三人で家に泊まれるよう年じゃないんだからさ」
「はは、そんな本気にならないでよ。…というか、私は慎也にだけ泊って、て言ったんだけどね」
「えっ?…」
「あれ、なに?期待しちゃった?」
この妙に距離感が近い幼馴染はニヤニヤとしながら僕を見てくる。そんな訳ない、と言い切れればいいのだが、そう言えないのが年頃の男子の
「今日ね、お父さんもお母さんも仕事で遅くまで帰ってこないの」
上目づかいで由紀が僕を見てきながらそうたたみかけるように言った。由紀の両親は共働きであまり家に帰ってはこない。それは小学生の時から今までずっと変わらない事実で、僕たちがよく由紀の家に三人で泊まったのも由紀に寂しい思いをさせないためだったりする。由紀は一人で過ごしたくないときに、大抵この台詞を言って迂遠ながら僕たちに泊っていって欲しいと伝えてきたのだった。でも、それは小学生の時だから許された芸当で、さすがに今の文脈でその台詞は他意があるように聞こえてならない。
「あのな、由紀」
「…慎也。話が長い」
「っ、あぁ。ごめん弥生」
僕をからかってくる由紀を軽く窘めようとしたとき、ずっとほったらかしにされてた弥生が面白くないと言いたげな表情をして僕の袖を強くを引っ張った。一緒に腕の肉もつままれていて少し痛い。弥生の表情の変化はわずかだったけれど、彼女は不機嫌な時と機嫌がいい時はどちらかといえば顔に出やすいので、僕は機嫌が悪くなっていることをすぐに察した。少し眉が上へ吊り上がっているときは大抵機嫌が悪いのだ。
「ごめん、由紀。そろそろ僕たちはいくよ」
「そう…。もう少し話したかったけど仕方ないわね…。じゃあね、慎也。それと…弥生」
「うん、また今度」
「それと仙台のお土産、忘れないでよ」
由紀はそう言うと僕に手を振って玄関の戸を閉めた。バタン、という音を立てる扉のしめ方は由紀にしてはやや乱雑な気がして、僕はしばらくそのことに呆気に取られていたが、ふと弥生がいまだに自分の袖を握っていることに気が付いて慌てて意識を現実に戻した。この体勢、傍から見ると弥生が腕を絡ませてきているようにも見えなくないだろうか。僕は誰も僕たちのことを見ていないのだけれど、何となく気恥しくてそっと袖口をつかんでいた弥生の手を払った。
「ええと、それじゃあそろそろ行こうか」
「…由紀、機嫌悪い?」
弥生は僕に手を払われた時また少し眉を上げてきたが、それよりも乱暴に戸を閉めた由紀に何かを感じているようだった。
「さぁね。僕に女心なんて全く分からないから。でも別に機嫌を悪くするようなことなんて何もなかったと思うんだけど」
「確かに、何もなかったと思う…。でも慎也は色々と鈍感だから心配。何かやらかした」
「いや、とくに何も。というか弥生だって鈍感だろう。さすがに弥生にそれを言われるのは納得できないな」
弥生は興味のない事にはとことんドライな性格をしていたから、他人の気持ちになんて全く配慮しない。幸いにも僕たちのことはそれなりに気にかけてくれているようだったので普段はあまりそのことを意識していないけれど、基本的に弥生はそういう奴なのだ。
「そう?私は意外と他人のことを見てるよ。観測はすべての基本」
「観測って…。やっぱ弥生は物理バカだな」
「人も所詮は多粒子系だからね。…まぁ冗談だけど。でもそれなりに見ている自信はあるよ」
「うーん、そうかなぁ」
そう言われてもいまいち実感が湧かなかった。こればっかりは偏見といわれても仕方がないけれど、あまり表情の変化がない弥生は、大概冷たい印象を受ける。かなり長く幼馴染として付き合ってきた自負はあるけれど、彼女の考えは読み取り辛く、いまだに僕は弥生という人間を完全には測れていなかった。
由紀の家を出てからしばらくの間、僕と弥生はただ無言で歩き続けた。弥生はもちろん、僕もどちらかといえば口数が多いタイプではなかったので、あまり沈黙を苦だとは思わなかった。この辺は伯父と似ているのかもしれない。
「そういえば、夕焼けが赤く見えるのは何故かって昔、伯父に聞いたな」
「亡くなった伯父さん?理論物理学者だったんだっけ」
「そう。まぁ理論物理か実験物理かは分からないけど物性の専門だったはず」
沈黙と目の前の夕焼けの空が僕に伯父のことを思い出させた。弥生は僕に伯父がいたことを知っていたけれど、由紀と違って面識もなかったのであまり詳しく彼のことを知らない。
「物性っていっても幅広いよ…」
「詳しくは僕もよく分からないさ。でも、いっぺん弥生に合わせてみたかったな。弥生と話が合いそうだから」
「さぁ、それは分からない。私が一番興味があるのは熱力学で少し物性とは違うから。…あと、夕日が赤く見えるのは散乱のせいだよ。帰ったらレイリー散乱で調べてみるといい。光は奥が深いから」
「…多分、伯父とは話があっただろうね。今確信したよ。伯父もそういえばレイリー散乱が云々とか言っていた気がするなぁ…。伯父と弥生はよく似ている」
自分から言ったことなのだけれど、弥生と伯父は確かに似ていると妙に納得してしまう。コミュニケーションが下手なところとか、自分の好きなこと以外に興味がないところとか。あと、意外と私生活がだらしないところもそうかもしれない。それとも物理をやる人間は基本こういうものなのだろうか。
「それにしても、…なんで死んだんだろうなぁ。伯父さんは」
「動機、まだ分からないんだ」
「あと数年したら、教授になれるかもってところで自殺なんて普通するかな?」
「さぁ、…別に知らないし興味もない。あと、慎也。一つ訂正させて。伯父さんと私はあまり似てないよ。私は自殺なんてしないし、仮に自殺してしまうくらい誰かに追い詰められたなら相手を殺してしまうと思う」
「はは、それは怖いね」
相手を殺す。最初は冗談だろうと思ったが、そう言った弥生は平素と変わらぬ淡々とした様子で、それが逆に弥生は真剣にそう考えているのだということを僕に教えてくれていた。また一つ弥生の人物像が不鮮明になる。その底冷えする漆黒の瞳の奥で彼女は今、何を考えているのだろか。やはりこれだけ長く一緒に過ごしてきていても、僕は未だに弥生という人物を完全にはつかめてはいないのだと悟った瞬間だった。