三体系のエントロピー   作:朝雲

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4 実家

 弥生と由紀との勉強会から三日後、僕は横浜を出て仙台にいた。父は仕事の都合で一日遅れで仙台に来るらしく、母は海外出張中でそもそも日本にはいなかったので、僕は初めて一人旅をすることになったのである。

 

 一人旅とはいっても、新横浜から東海道新幹線で東京まで出て、後は東北新幹線に乗るだけの簡単な旅であったが、何だかんだで家を出る前の僕はこの旅を楽しみにしていた。しかし、実際には期待していたほど何か面白いことも無かったので、所詮一人旅なんてこんなものなのかなと納得すると、僕は気持ちを切り替えて仙山線に乗り父の実家の最寄りの駅へと向かった。

 

 父の実家を訪れるのは二年ぶりである。昨年の夏は風邪をこじらしてしまい僕だけが家で留守番をしていて、一昨年は高校受験が忙しくてとても帰省できる状況ではなかった。僕の家庭は父も母も多忙だから、帰省する機会は夏の盆休みのあたりと年末しかない。ただ、年末は年によって行ったり行かなかったりすることがあり、去年はたまたま行かない年だった。例外なのは伯父の葬式の時で、その時は二月末の年末も盆休みもとくに関係ない時季だったと記憶している。

 

 電車に二十分ほど揺られて実家の最寄り駅に着く。仙台の中心から外れたそこは記憶の中の姿から少しだけ違っていて、例えば昔はあった自販機が撤去されていたり、高齢のおばあさんがやっていた個人商店が無くなってたりしていた。

 

 僕はそんな記憶との相違を探しながら父の実家のへと歩みを進める。その作業は単純だけれど面白かった。成長とともに価値観が変わることはよくあることだけれど、僕はいつの間にかこの都会とも田舎ともいえぬ土地に愛着がわいていたらしい。東京や横浜とは違って過密でなく静かなこの土地は、都会の喧騒に慣れてしまった僕にはやけ物珍しく新鮮なものに感じられた。

 

 そうして十分ほど歩くと築五十年ほどの年季のある木造の家が見えてきた。平屋建てのそれはところどころは修繕の跡が見え、どこかちぐはぐな印象を受ける。僕の父の実家はやはり二年経っても変わらずにボロ臭いままで、それに妙に安心してしまう自分がいた。

 

 インターホンを押してしばらくすると、中からゆっくりとした足音が聞こえてくる。玄関を開けて僕を出迎えてくれたのは祖父であった。

 

「やぁ、慎也。よく来たね」

「お久しぶりです、お祖父さん。三日間だけですがお世話になります」

「はは、そんなかしこまらなくてもいいんだけどねぇ」

 

 そう言って祖父は柔和な表情を浮かべると、「まぁ、お入り」といって僕を玄関から中に入るように促した。僕は軽く会釈をして中に入ると、靴を脱いで二年ぶりとなる祖父母の家へと足を踏み入れた。

 

 軋んでで音が出る床板や染みのついた壁などの一つ一つが昔の姿のままで、僕は柄にもなく郷愁の念に近い何かに駆られる。その一つ一つをゆっくりと見て回りたい気もしたけれど、前を歩く祖父はそれらを気にも留めずさっさと奥へと向かって行ってしまい、僕は慌てて祖父の後ろに付いていった。

 

「孝一は元気にしているか」

「えぇ。まぁそれなりに。ただ最近は腰や関節にだいぶガタが来ているようですが」

「まぁ、あいつも歳だからな」

 

 孝一とは僕の父のことである。五十歳を超えた父はだいぶ体が衰えてきたようで、最近はもう若い時みたいに無茶はできないなというのが口癖になりつつあった。

 

「礼治も生きていれば五十二歳か…」

 

 しばらく無言で歩いていた祖父が唐突にそう呟いた。突然伯父の名前が出てきて僕は戸惑ったが、ここに来た本来の目的は伯父の墓参りだから、祖父はすでに僕が心の準備ができているものだと思ったのかもしれない。ただそう言われても何と返すべきか。そもそも何かを返すべきことなのか分からなくて、僕はただ無言を貫いた。

 

「いや、すまないね。いきなりこんなことを言っても反応に困るだけか」

 

 祖父は余計なことを口にしてしまったと思ったのか、苦虫を嚙み潰したような、そんな表情を浮かべた。やはり、先ほどの発言はただ思いがけずに出てきてしまっただけの言葉のようで、僕は変に返事をしなくて正解だったと安堵のため息を小さく吐いた。

 

「まぁ、礼治の話はとりあえず置いておこう…。あぁ、そういえば昔、礼治に慎也が高校生になってから渡すように頼まれていたものがあったんだった」

「何です?」

「大したものじゃないさ。何だっけな、たしか『ファインマン物理学』の全巻だったかな」

 

―ファインマン物理学―

 

 そういえば弥生が欲しがっていたなと、僕は弥生と先月した話を思い出した。ファインマン物理学は六十年代にカルテク、つまりカリフォルニア工科大学で物理学者のファインマンが行った講義を編纂した物理学の本であるらしい。講義調の文章や日常生活に根ざした物理現象などを扱っているのが特徴的で、非常に本質的かつ明快な説明を施してある名著だと、弥生は興奮気味に話していた気がする。

 

 弥生はこの本にとても心を惹かれていたようだが、如何せん専門書というのは値が張る。実際、弥生はかつて翻訳版を全巻揃えようと思うと数万円にのぼるだろうと愚痴を漏らしていた。

 

 弥生の家は母子家庭であまり裕福とは言えず、弥生の持っている専門書はほとんどが古本屋でそろえたものだった。弥生は欲しがっていたもう一つの『バークレー物理学コース』は何とか見つけたようだけれど、『ファインマン物理学』には出会えずにいたのだ。

 

「でも慎也は礼治の予想に反して文系に行ったと孝一から聞いたし、全巻になるとかなり重いから持ち帰る気がなかったらこっちで処分しておく。書斎においてあるから適当に持っていってくれ」

「ありがとうございます。物理に詳しい友人が欲しがっていたので持って帰りますよ」

「はは、それはなにより」

 

 そう言うと、祖父は一通り話し切ったのか特に喋ることなく黙々と歩いていった。しばらく歩いていると小さな部屋の前にたどり着いた。そこは確か昔父が自分の部屋だった言っていた場所ではなかろうか。

 

「ここの部屋をとりあえず使ってくれ。孝一が高校生の時に使っていた部屋だ。もっとも中は整理してあるから当時のものはほとんどないがね」

 

 祖父はそう告げると、六時頃に夕飯ができるからそれまでには居間に来るようにと言って去っていた。

 

 腕時計を見るとすでに午後の五時すぎで、夕食まで一時間もない。何をするにも中途半端な時間で、僕は父が使っていた部屋の扉を開けると持ってきた荷物を壁際において畳の上に横になることにした。日焼けした畳は少し黄ばんで藺草(いぐさ)の匂いはすっかり消えていたが、僕は家のフローリングとは異なる柔らかさを背に感じると長旅の疲労から自然と意識を手放した。

 

 六時五分前に目が覚めた僕は慌てて居間へと向かい、夕食を食べた。夕食は特に郷土料理とかそういったものではなかったが、久しぶりに食べた祖母の料理の味は記憶よりも美味しくなっている気がした。

 

 その後、僕は風呂に入ったあと書斎へと向かった。書斎は今使っている部屋のすぐ近くにあったので、案外簡単に見つかった。僕はドアノブをひねり扉を開けると、灯りをつけて書斎の中へと入った。

 

 書斎には様々な本が置いてあった。よく分からないが恐らくドイツ語の本や、シェイクスピアや老子といった西洋と東洋の古典文学など、主に思想や文学のものがメインであるようだ。

 

 しばらく部屋全体を物色をしているとある異質な一角を見つける。そこだけ理学の本ばかりが置いてあった。

 

 ユークリッド原論をはじめとする数学の本や、ポーリングの『一般化学』など様々な分野の専門所が並んでいる。その中でも一際目立つ分厚い白い背表紙の本が『ファインマン物理学』であった。

 

 僕はそれの「力学」書かれた一巻を手に取ると、パラパラとページをめくって中身を確認してみる。相対性理論や調和振動、回転運動方程式…。弥生から聞いたことのある言葉が何個もそこには並んでいたが、その内容については詳しく知らない。弥生は大抵僕にも分かるように触りしか説明していなかった。

 

 しかしざっと見たところ、確かにこれは弥生のお眼鏡にはかないそうな本だなと直感的に理解する。間違いなく弥生には笹かまぼこよりも、こちらのほうがお土産として最適だろうと思い、僕はこの本を貰って喜ぶ弥生を想像して、自然と笑みをこぼした。

 

「全部で五冊か…。重そうだな」

 

 まぁ、大切な幼馴染の為だ。

 そう思い僕は他の「熱と波動」、「量子力学」と書かれた巻を手に取ると、自分の部屋に持ち帰ろうとする。そして熱力学の巻を取ったとき、ページの隙間からはらりと一枚のルーズリーフが落ちてきた。それはだいぶくたびれてしまっていたけれど、少なくともここ数年で書かれたと分かるくらいの新しさはあった。

 

「なんだ、これ」

 

 僕はそのルーズリーフを手に取ると内容を確認する。表面はただの計算式が並んでいた。ここで恐らくこれは伯父のものだろうと察する。書かれている内容はよく分からないが、少なくとも高度な数学が使われていることは理解できた。

 

 続いて僕は裏面をみる。そこには何重にも大きなバツの印がそれなりの長さの文章の上に描かれていた。その異質さが少し気味悪かったが、僕はある種の好奇心からその内容を読み始めることにした。

 

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