三体系のエントロピー   作:朝雲

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5 手記

『このような話をルーズリーフにするのは似つかないが、手元にある紙がこれしかなかったので許して欲しい。さて、これから私は少し昔の話をしようと思う。これはただの自己満足であるのと同時に懺悔であって、言わばただの自慰行為のようなものだが、こうでもしないと私の気が収まらないので書かせてもらう。

 

 私には四歳年下の幼馴染がいた。名前を■■(濃いバツ印の下にあり読めない)といい、彼女はすこし無愛想だけれど可愛らしい女性であった。実に彼女とは十余年の付き合いではあったのだが、私と■■は■■が東京の大学に進学したのを機に疎遠になってしまった。当時私は大学院生で、研究に忙しく連絡をとる余裕もあまりなかったので(当時は今のような携帯などなかった)■■と疎遠になるのにはそう時間がかからなかったと記憶している。それから、ずっと■■の消息は不明なままだった。

 

 それから十年近くが経ち、私が三十過ぎになったある日、私の研究室はとある素材メーカーと協同研究をすることになった。そして、しばらくして相手側と顔合わせをしたとき、私はメーカーから出向してきた社員数名の中に当時としては珍しく女性の技術者がいることに気がついたのだ。しばらく彼女と話をしていると、私はしだいに既視感を感じるようになったのだが、果たせるかな。それが■■だったのである。

 

 もっとも、姓は■■から□□に変わっていたのだけれど、顔立ちや雰囲気、なによりどこか無愛想な表情が昔のままで、私は懐かしさとずっと内に秘めていた愛おしさがこみ上げてくるのを感じていた。■■は私にとって初恋の女性であった。

 

 その後、■■も私の存在に気がついたらしく、驚嘆の表情を浮かべると、すぐに無愛想な彼女らしからぬ柔和な笑みで私を見てきた。そのことに、単純な私は僅かな喜びを感じていた。

 

 あらかた仕事が終わってから、私と■■は二人で飲みに行くことになった。■■は既婚者であったので私は遠慮していたのだが、再会にやや興奮気味であった■■に流される形で私たちは飲みに行ってしまったのである。

 

 私は余り酒に強くないのだが、再会に浮かれた私は自らのキャパシティを越える量の酒を飲んでしまい、重度の酩酊状態に陥っていた。一方■■は私と違って酒にめっぽう強いらしく、ずっと素面のままで酔っ払った私を苦笑しながら介抱してくれた。

 

 会話の中で、■■はこれから離婚するつもりなのだと私に言ってきた。話を聞けば、■■の夫はあまりできた人ではないようで、私も早くそんな男とは別れてしまえと思った。そこに、私の初恋の人である■■を射止めた■■の夫に対する嫉妬と敵愾心がなかったといえば嘘になるが、どちらかといえばただ純粋に■■の為を思って応援していた気持ちのほうが強かったことは、ここで弁明しておく。

 

 きっと、この時はきっと酔いすぎていたのだろう。あるいは再会に浮かれすぎていたのかもしれない。

 

 つい、私は■■に、■■が私の初恋の相手だとうっかり漏らしてしまった。■■はそれを聞くと驚いた表情を浮かべながら『もう十数年早く言って欲しかった』と、どこか切なげに笑いながら言った。

 

 そう、私たちは実は両思い(というより両片思い)であって、勇気のなかったかつての私たちは、ついぞそのことを互いに打ち明けることができなかったのである。

 

 その事実を知った私と■■はもはやいてもたってもいられなかった。たまたま離婚騒動で傷心中であった■■と、初恋の人に会い浮かれていた私は、互いに傷を舐め合うかのようにその夜、雰囲気に流されて体を重ねてしまった。

 

 ■■は離婚するのがほぼ確実だったからこれはぎりぎり不倫ではないという私の身勝手な言い訳が、社会に遍く広がっていた倫理、あるいは道徳に反する行いを犯すハードルを下げてしまったのだろう。■■も、満更ではなかったと思う。というより、肉体関係を迫ったのは■■からだった。

 

 結局、私たちは■■が東北の支社から東京の本社に帰る二週間ほどの間、仕事が終わると何回も情事に耽った。それはずっと学者としてあるまじきと私が押さえつけていた性のリビドーをぶちまけるかのように情熱的なものだったことを記憶している。

 

 それでも、私と■■の関係は傍から見れば所詮はただの不倫関係にすぎない。当時取り組んでいた仕事もたけなわになると、多忙に追われた私と■■はまた少しずつ疎遠になり、気が付いたときにはプツリと連絡が途絶えてしまった。

 

 結局、それから私は■■が夫と離婚をしたのか、それとも関係を修復できたかすら分からずに、ただ悶々と日々を過ごすことしかできなかった。実の所、当時の私は■■が離婚をして私の元に来てくれるのではという、やや偏執的な妄想にとらわれていたのだが、何時なっても連絡はとれず、■■にとって私との関係はただの火遊びでしかなかったのだという事実を痛感し、悲嘆に暮れた。

 

 そろそろ、話も終わりになるからもう少し付き合って欲しい。

 

 さて、それと時をほぼ同じくして私の弟の孝一のところに子供が産まれた。男の子で、名前は慎也と言うらしい。とても、可愛らしい子だったことを覚えている。

 

 初めて抱いた子供の感触は暖かく新鮮なもので、私にも子供がいたらと、この時ばかりは思わずにはいられなかった。色々と過去のことを引きずりやすい性格であった私は■■のことが忘れられず、新しい恋を見つけることができなかったのだ。そのため、いい歳になっても独身のままだった。

 

 結婚を諦めた私は研究に没頭する傍ら、たまに東北に遊びに来る甥の慎也によく構った。私にできることは彼の遊びにつき合うことと、専門である物理の話を伝えることくらいしかない。もっとも私は説明が下手くそで、物理のおもしろさを彼に上手く伝えられた気は全くしないが、それでもできるだけ自然科学に関する彼の質問にはなるべく答えるようにした。

 

 そうしている内に、やがて慎也も小学校高学年になった。

 それはちょうど慎也が東北の実家に帰って来ていた夏のことである。私は孝一が持って来た慎也のアルバムの中に、二人の女の子(彼の幼馴染であるらしい)が映っているのを見かけた。片方は由紀と言う慎也の友人であることは、昔横浜を尋ねた時に偶然彼女が孝一の家に居合わせていたから知っていたのだが、もう一人の女の子は知らない子だった。私は孝一に断りを入れて、その写真を手に取りまじまじと見る。そして、驚愕した。

 

 その時の衝撃は今でも忘れられない。何故ならば、その写真の中に昔の■■とそっくりの娘がいたのだからである。余りに唐突な出来事に私は動揺して、問い詰めるかのように孝一に彼女の名前を訊ねた。

 

-糸川弥生-

 

 そう、孝一は言った。嗚呼、なんたる偶然か。私の幼馴染の姓も糸川だった。糸川■■。これが■■の名前である。

 

 その後も色々と話を聞くと、何から何まで私の知っている彼女の情報と一致した。曰く、彼女は出産とほぼ同時期に離婚をして今はシングルマザーだとか。曰く東北出身であるらしいとか。その他諸々。

 

 なにより、情報を精査すればするほどあの弥生という子は私の子ではないのか?という疑念に駆られるようになった。慎也からそれとなく聞き出した弥生という少女の誕生日から逆算をしてみても、ちょうど私と■■が情事を致した日に限りなく一致したのである。

 

 やがて、疑惑は確信へと変化していった。もちろんDNAなどの確信的証拠があった訳ではないが、あらゆる状況証拠が、それは真実であると物語っていたのである。そして、それに気がついたとき、私は得体の知れぬ罪悪感と重圧に押しつぶされそうになった。

 

 それは■■に独りきりで子供を育てをさせていた後ろめたさと、離婚の間近だったとはいえ、曲がりなりにも人妻を孕ませてしまった事に対する元夫への罪悪感であったのだと思う。

 

 せめて養育費でも払うべきかと思案するが、生憎私は■■の住所を知らない。何故、彼女は私に連絡をよこさないのかと苛立ちを感じたが、そう思ったところでどうしようもない。嫡出推定の規定で、弥生の戸籍が元夫との間の子になる事も妙にもどかしく感じた。

 

 とかく罪悪感が凄まじかった。そして、今まで何も知らずに過ごしてきたことと、今のところ何も■■の為にできることがないというもどかしさが、私にとってたまらなく苦痛なのだ。

 

 一体、私は何時までこの重圧と罪悪感に苦しまなければならないのだろうか。自分で蒔いた種とはいえ、この数奇な運命を呪わずにはいられない。

 

 これは、私の懺悔と回顧の記録。

 今のところこの手記は破棄するつもりだけれど、気が変わったら残しておくかもしれない。その場合は慎也にでも託そうか。将来譲るつもりである何かしらの本。そうだな、ファインマン物理学の間にでも挟んでおこう。

 

 洒落を込めて熱力学第二法則、エントロピーの章にでも挟んでおくことにする。幼馴染という純朴な私と■■の関係は、もはや不可逆的に複雑な因果が絡み合う無秩序な方向へと進んでしまっていた。

 

 もし、慎也がこの手紙を見たなら、アドバイスとして最後にこのことを言っておく。

 

 幼馴染という関係を壊してしまう事を恐れてはならない。時には破壊も厭わずに踏み出すことも大切だ。慎也は(少なくともこの手記を書いた時には)白川由紀という女の子に気があるのだろう?私のように初恋を拗らせて、身を滅ぼしてしまわないことを祈っているよ。』

 

二〇一三年 十月三日 記す

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