三体系のエントロピー   作:朝雲

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6 従兄妹

 どのくらい時間が経っただろうか。一時間以上のようにも感じたし、はたまた僅か数分のことのようにも感じられた。つまるところ、時間の感覚を失ってしまうほどこの手記は衝撃的なものであったのだ。

 

 伯父の話が正しければ僕と弥生は従兄妹ということになってしまう。それはなんとも受け入れがたい事実なのではあったが、同時にどこか腑に落ちてしまう自分もいた。

 

 なるほど、あの弥生の冷めきったような性格も、物理に対する並々ならぬ執着もすべて伯父からの遺伝だとしたら、僕が時折弥生と伯父の姿を重ねてしまったことも納得できよう。

 

 ただ、やはりそうはいってもすぐに受け入れられるようなことではない。いや、むしろ弥生とは付き合いが長いからこそ自分の身内のように見ろというのは土台無理な話であった。畢竟(ひっきょう)、幼馴染とは単なる幼馴染であって、身内というわけではないのだから。いくら互いの家を行き来したり、お互いの距離が近くとも、それは親戚でもなければ家族でもない。それは変えられぬ事実だった。

 

 知らぬが仏とはよく言ったものだと、この時ばかりは感心せざるを得ない。世の中には知らない方がいいこともあって、きっとこれはその類の事柄だったのだろう。まったく伯父は迷惑なことをしてくれる。

 

 僕は悪態をつきながら、手に持ったルーズリーフを四つ折りにしてポケットにしまうと、急に興が冷めたかのように五冊の専門書をもって書斎を後にした。

 

 もう二度とこの書斎には来たくない。そんな八つ当たりじみた感想が出てきたのは、きっと僕の中で伯父の人物像が大きく揺らいでいたからだろう。いつも飄々としていて浮世離れした学者であった伯父の姿は、恋に踊らされ背徳に酔った俗人へと変貌していた。それがまた、思い出を汚されたようでたまらなく不快になる。廊下の窓から見える月はそんな僕の心を知らぬかのように遠くで涼しく照っていて、それすらも今の僕には妙に癪に障った。

 

 

 そこから語るべきことは特にない。伯父の秘密を知った翌日、父が仙台入りをしてそのまま祖父母を連れて墓参りへと向かった。故人を悪くは言いたくないが、それでも文句の一つは言いたくて僕は伯父の墓の前で手を合わせると、心の中で「よくもまぁ面倒な遺産を残してくれましたね」と聞いているかもわからぬ伯父に向かって悪口を浴びせた。

 

 結局、父と祖父には伯父の手記を見せなかった。祖父の心をこれ以上掻き回したくはなかったし、父もただでさえ忙しいのに、そこに新しい頭痛のタネを持ち込むのは気が引けたのだ。事件は認知されなければ存在しないことと同じだと誰かが言っていた。しからば、僕が何も言わなければこの事実はなかったも同然だろう。それは何も根本的な解決にはなっていないけれど、精神衛生上は極めて素晴らしい思考法であった。幾分か平静さを取り戻した僕はその後も父と祖父母とともに他愛のない話をして一日を過ごした。

 

 やがて横浜に帰る日になると、僕は五冊の専門書で重くなった荷物を片手に父と祖父母の家を後にした。来たときは幾分か愛着をもっていたこの家も、今ではくすんで見える。僕は伯父の手記が与えた影響の大きさに辟易するとともに、身勝手な感想を持つ自分に落胆した。

 

 つまるところ、伯父もただの欲望に逆らえない人間であったというだけなのに、そのことをかたくなに認めたくない自分がやけに滑稽に感じられたのだ。僕のなかの伯父は「物理学者」であって、きっと一人の男ではなかったのだろう。十七年目にして気が付いた事実だった。

 

 

「はい、これが萩の月」

 

 横浜に帰って三日も経たぬうちに僕と弥生と由紀はまた前回と同じように由紀の家に集っていた。建前上は僕が終わらせられなかった宿題を片付けるための勉強会だが、実際はただ僕がお土産を配ってだべるだけの会となっていた。

 

「ありがとう、慎也。これいくらしたの?」

「別にお金はいらないよ。というか、お金を貰ったらお土産じゃないだろう」

「はは、それもそうね。そうだ、せっかくだから三人で食べましょうか」

 

 煎茶を淹れてくるわ、そう言うと由紀は上機嫌で部屋を出て一階のキッチンへと向かっていった。由紀が居なくなった部屋は急に静かになった気がした。

 

 部屋に弥生と二人きりで取り残される。弥生はいつも通り物理の参考書を涼しい顔をして読み解いていた。それが、妙に昔見た伯父の姿に重なり複雑な気分になる。

 

 やはり、弥生は伯父の子なのだろうか。いわれてみれば目元や鼻の形が似ている気がするけれど、確証はない。DNA鑑定でもすれば分かるのかもしれないが、生憎僕はそれをどうやってやるのかを知らなかったし、その費用を捻出するのもバカらしく感じた。

 

「どうしたの…。じろじろと見て」

「いや、別に」

 

 弥生の顔を凝視していると視線に気がついた弥生が僕を不審に思ったのかそう訊ねてきた。ここで馬鹿正直に「弥生と僕の伯父は親子らしいから、特徴がないか探してた」などと言わない位には分別をもっている。僕は適当に笑いながらはぐらかすと、弥生も興味を失ったのかそれ以上訊ねてくる事はなかった。

 

「あぁ、そういえば弥生には笹かまぼこ以外にももう一つお土産があるんだ」

「へぇ、何?」

「ちょっとまって」

 

 僕は厚手の紙袋から伯父の生家からもってきたファインマン物理学を出すと弥生の前に並べた。

 

「じゃじゃん!弥生が欲しがってたやつの全巻セット」

「えっ…、こんな高いもの本当に貰っていいの?」

 

 弥生にも遠慮するという事があるらしい。てっきり物理関係のものなら躊躇いなく飛びつくと思っていたのだが、案外可愛らしい一面もあるのだなと微笑ましい気持ちになった。弥生はシャーペンを離すと、まるで新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせて、一冊ずつ手にとってパラパラとページをめくった。

 

「へぇ、これが噂に聞くファインマンの…」

「相変わらず物理のことになると目の色を変えるねぇ」

「へへ、それほどでも」

 

 別に褒めてはいないのだが、弥生はその言葉が嬉しかったのか頬を緩めた。もっとも、単にファインマン物理学に興奮していただけかもしれないが。

 

「それにしても、物理なんてそんなに面白いかね」

 

 弥生の肩がピクッと上下した。それを見て僕はしまったなと後悔する。僕のお土産に対する弥生の反応が少しオーバーに思えて、つい疑問を口にしてしまったが、浅慮であった。こうなった弥生の話は長い。僕は覚悟をしてクッションの位置を直すと、これから来るであろう長期戦に備えた。

 

「面白いよ…。そうだね、少し長話をしようか」

 

 弥生は物理が面白くないと言われると、毎回何らかのトピックを選んでその面白さを布教してこようとする。さて、今回はどんな長話なのだろうか。

 

「物理、というか自然哲学はもともと神の意志を知るために研究されてきた側面があってね。意外と勘違いしている人がいるけれど科学は神を否定するためではなくて、理性的な神の意志を知るために生まれたのものなの」

 

「へぇ。まぁ、ニュートンも敬虔なキリスト教徒だったらしいしね。それで?」

 

「アリストテレスの影響で自然哲学では数学を適用することが邪道だと思われてたんだけど、ニュートンが数学を適用して現代の科学の雛形を作ったんだ。でもさ、ここで凄いと思わない?何で数学という抽象概念が現実の因果を語りうる言語となり得るのか。たしかに運動方程式を時間や変位で積分すると保存量が導ける。でも、それはただの数式的な弄くりでしかないのに、現実でもエネルギーや運動量が保存されて見えるのは不思議じゃない?」

 

 言われてみれば確かに変な話だなとは思う。数学的秩序が自然の秩序に当てはまる必要など全くないのだ。

 

「たとえば量子力学や交流理論では複素数が出て来るけど複素数は私たちの直感に当てはまらない数。つまり純粋な数学概念でしかないのにそれがなければ電子一つの動きですら説明できない…。つまり、なにが言いたいのかというとね、自然が余りにも理性的すぎるんだよ。人間の理性にあう形で自然の因果が成り立っている。それはまさに神がそうあれかしとしたように、…だから私は諸法則が演繹的に導かれる様に感動を禁じ得ない。そして、それが理論物理の醍醐味の一つだと思う」

 

 「もっとも、数学的に正しくても実験結果が違っていたら机上の空論だけど」と言って弥生はクスリと笑った。その様子は本当に伯父に似ている。この長ったらしく話す癖だとか、興奮すると一気に話すところとか。その一つ一つの動作が、僕に伯父の面影を彷彿させた。

 

「そうか…、ただ僕にはやっぱり分からないな」

「まぁ、私はただ物理が好きで頭がいいという訳ではないから、説明が下手なのかも」

「その言い訳、僕の伯父も言ってたよ」

「奇遇だね…」

 

 認めよう。認めざるを得ない。きっと、伯父は真実を書いたのだろう。でなければ、こんなにもデジャヴを感じることがあるだろうか。きっと伯父と弥生は親子で、僕と弥生は従兄妹。そう思うと、目の前の幼馴染が途端に別人のように見えた。

 

 ねえ、弥生。君は僕が従兄だと知ったら、幼馴染のままでいられるかい?…少なくとも僕には難しそうだ。

 

 伯父は一つ大きな勘違いをしている。僕が好きなのは由紀ではない。僕が好きなのは小学生の時からずっと弥生だった。由紀のほうが気軽に遊びに誘えて仲が良さそうに見えたから伯父はそう思ったのかもしれないが、そうではない。

 

 僕はこの無愛想で、物理バカで、時折可愛らしい反応を見せるこの幼馴染が好きなのだ。

 

 でも…、それが身内だとしたら?

 

 従妹とは結婚できるけれど、やはり世間では白い目で見られがちだ。なにより、僕自身、弥生が従妹と分かってしまったら、恋愛対象として見ることに抵抗がある。所詮その程度の愛だったのかと思われるかもしれないが、こればかりは生理的に受け付けないのだ。あるいは、この感情は恋愛ではなくて、家族愛のような親愛の延長線上にあったものなのではないかという錯覚すら覚える。

 

 もう何がなんだか分からない。しかし一つだけはっきりとしていることは、僕は弥生に告白することすらもなく、人知れず失恋したのだということだけだった。

 




導入が長かった…。そろそろドロドロしてくるかな。多分。
(追記)
2020/3/27 
「複素数は現実には存在しない数」を「複素数は私たちの直感に当てはまらない数」に修正。
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