三体系のエントロピー   作:朝雲

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7 球面波

 それは僕にとって初めての失恋だった。もっとも、これを失恋と言うのには少し語弊があるのかもしれない。

 何故なら僕は弥生に告白をして返事を貰ったわけではないし、弥生を慕う気持ちが薄れたというわけでもない。ただ、僕が勝手に躊躇(ためら)って勝手に諦めただけのこと。僕は弥生と付き合うという明確なビジョンを見通すことができなかった。

 

 従妹と付き合う?

 

 冗談はよしてくれ。確かに弥生が僕の従妹でない可能性もまだあるが、それは限りなくゼロに近い。常識的に考えて、離婚間近の夫婦がそういうことをするとは考え難い。そして、ちょうどその時に弥生の母とまぐわったのは僕の伯父しかいない。しからば、そこから導き出される論理的な帰結は弥生は間違いなく伯父の子だということだった。

 

 一応、勉強会が終わった後、家に帰ってDNA検査について調べてみたが、従兄妹との血縁を生物学的に断定するのは難しいそうだ。だから、伯父のDNAが分からない限り弥生との血縁はグレーのまま。釈然としなかったが、科学の限界がそこにあるのならば仕方があるまい。でもDNA検査ができなくても、状況証拠から限りなく黒に近いグレーであることは誰の目からしても明らかだった。

 

「はぁ。ホント、伯父はなんて事をしてくれやがる」

 

 何度目か分からぬ悪態をベッドの上で仰向けになりながらついた。

 思わぬ所から僕の恋路が邪魔をされた。僕は弥生と付き合うことができないのに、もめごとの原因をつくった伯父はちゃっかりと初恋の相手と身体だけとはいえ結ばれたことが妬ましかった。不倫をした伯父の血を引いた人、ましてそれが従妹ともなれば、男女の付き合いをしたり、また将来を添い遂げるのも気が引ける。存外僕は人間関係に関しては潔癖症なのだなと初めて自覚して、苦笑した。

 

 時計を見るとちょうど八時五分前だった。そろそろベッドから起きて朝食を食べようかとしたときに、携帯がピロンと鳴ってメッセージが来たことを僕に告げてきた。弥生か、由紀か。僕は交友関係が狭いから、夏休みのこんな時間にメッセージを送ってくる人など、このあたりに限られるだろう。携帯を寝ぼけ眼で探して手に取ると、電源をいれてメッセージアプリを開いた。

 

『ねえ、慎也。これから時間あるかしら?見たい映画があるから一緒に見に行かない?』

 

 案の定、それは由紀からだった。由紀とは夏休みに入ってから余り遊ぶ機会が無かったから、こういう誘いのメッセージはやけに久々に感じる。僕は失恋の気晴らしもかねて、特に深く考えることなく二つ返事でその提案を了承した。

 

『ありがとう。それじゃあ九時頃に私の家の前に待ち合わせね』

『わかった』

 

 手短な文章を入力して由紀に送信する。僕は由紀や弥生と遣り取りをするときにメッセージアプリをよく使うが、僕はメッセージアプリというものがあまり好きではなかった。適切な分量や文体がよく分からないのだ。短い文は味気ないし、長い文は重いと思われてしまう。丁寧語を使うのは堅すぎる気がするが、かといって砕けた口調は相手を不快にされるのではと不安だった。…曖昧さは嫌いだ。

 

 僕はベッドから起き上がると、顔を洗ってリビングへと向かい机の上においてあるパンを無造作に(かじ)った。いつものことながら、共働き家庭の朝ご飯は適当だ。僕はテレビを付けて、政治家の誰々が失言しただのといったくだらないニュースを聞きながら連動データで天気予報を確認する。予報によれば今日はずっと快晴。熱中症に注意とのこと。

 

 自分で淹れたインスタントコーヒーをすすりながら時計を見る。ゆっくりと食べていたパンも最後の一切れとなる頃にはちょうどいい時間になっていた。使い終えた食器を片付けると、僕は自分の部屋に戻り適当に服を選んで出掛けに行く準備をする。一通り準備を終える頃には待ち合わせ時間の十分ほど前になっていて、僕は慌てて家を後にした。外は夏の蒸し暑さと日差しで不快だったが、じめじめとした自分の部屋で失恋を嘆くことよりはずっと気分が良かった。

 

 

 由紀の家に着いてインターホンを鳴らすと、一分もしない内に由紀が出てきた。

 

「ごめん、待った?」

「…いや、別に」

 

 玄関から出てきた由紀は白いワンピースに身を包み、メイクをしていた。メイクとはいっても元の造形が良いから、そこまで派手なものではない。淡紅色の口紅と薄くファンデーションを塗った位だろうか。メイクは詳しくないから分からないが、これがいわゆるナチュラルメイクというものなのだろう。

 

 もともと大人らしい由紀がメイクにより一層大人の女性に見える。別に僕は由紀を恋愛的な意味で好きなわけではないが、男の(さが)として今の彼女を見るとドキドキが止まらなかった。

 

「へへ、どうかしら。初めてしっかりとメイクしてみたんだけど」

「いや、本当に…よく似合ってるよ」

「そう?嬉しいな」

 

 そうやってはにかんだ由紀はやはり魅力的な女の子で、弥生とは正反対なのだなとつくづく思う。例えるなら、由紀は太陽で弥生は月だ。ただ、僕は宵闇に独り涼しく輝く月のほうが好みだった。

 

「映画、十時半からだからそろそろ行こうか。慎也」

「そういえば映画っていっても何を見るんだい。この時期にやってるめぼしい映画なんかあったかな」

「それは着いてからの秘密」

 

 ふふ、と由紀が年相応の笑みを浮かべて僕の腕を引っ張る。それは十余年幼馴染として付き合ってきたことから出た自然な動作なのかもしれないが、色っぽい由紀の手が絡まると僕の心臓はますますと高鳴った。

 

「あの…手つないでいくの」

「ああ、今日一日カップルという設定でいくから、そこのところ宜しくね」

「えっ」

「この映画、カップルだと料金が割引になるらしいから」

 

 まぁ、そういうことなら仕方がないかと納得する。僕だってなるべく金は節約したい。

 とはいえ、映画館に着く前から恋人の振りをするのは意味があるのだろうかとも疑問に思ったが、それについては深く考えないことにした。久しぶりに握った由紀の手は昔とは違う柔らさと暖かさであふれていて、傷心した今の僕にはその感触がやけに心地よかった。

 

 

 

 映画館には市営地下鉄を使って二十分ほどで着いた。考えてみれば最後に映画を見たのは何時だっただろうか。最近はレンタルやダウンロードでしか見ていなかったから、こうやって映画館のスクリーンで見るのは新鮮だ。

 向こうからポップコーンとコーラを持った由紀がやってくる。僕はいらないと言ったのだが、由紀は映画館といったらこれ、と譲らなかった。

 

「そんなに食べれるかな」

「慎也は心配しすぎよ。ポップコーンなんて見た目の割に大して量なんて無いから」

 

 由紀と僕が見ることになったのは、ここ最近ヒットした小説が原作の恋愛モノだった。なるほど、だから恋人割りなんてやっていたのだろうと勝手に納得する。

 

「そういえば、慎也は恋愛モノでよかったの?」

 

 由紀は自分で誘ったとはいえ、男子を恋愛映画に誘ったことに若干不安を感じているようであった。

 

「なんでも大丈夫だよ。基本的に僕は雑食だからね。恋愛モノでもSFでもドキュメンタリーでも楽しめれば何でもいい」

「慎也って変なところでずぼらというか、適当よね」

 

 「でも、そこが一緒にいて気楽で良いわ」と言って由紀は僕を見て微笑んだ。そうして談笑している内にアナウンスが流れ、僕たちはスクリーンへと向かう。スクリーンに向かう途中で、僕はふと最後に見た映画の記憶を思い出した。それは中学一年生の時に弥生とみた極地に住む動物のドキュメンタリー映画。僕がこんな堅苦しい映画を選ぶはずがないから、この時はおそらく弥生の付き添いで行ったのだろう。

 

 本当に弥生と由紀は対照的な女の子だとつくづく思う。席に着いた僕は本編が始まる前の広告が流れている間、暗闇に紛れて由紀の横顔をちらりと見ながら考えた。

 

 弥生は孤高の学者といった堅苦しいイメージで、由紀は少し夢見がちな乙女といったところだろうか。どちらが良いとかはないが、由紀のほうが年相応で好ましく思える気がして僕は心の中で笑った。

 

 本当に、何で僕は弥生を好きになったしまったのだろうか。よく考えれば考えるほど弥生の魅力が何だったのか分からなくなる。きっとそれは説明しろと言われても説明できる類のことではないのだろうと一人納得をして、これ以上考えるのはドツボに嵌まる気がしたから僕は差し当たり目の前の映画に集中することに決めた。

 

 広告もそろそろ終わりに差し掛かったところで、不意に手に温かい感触がしたと思うと、いつの間にか由紀の手が僕の手の上に重ねられていた。まるで本当の恋人みたいだな、と苦笑しながら、まあ減るものでもないしいいか、と僕はその手を振り払わずにそのままにしておいた。結局、映画が終わるまで由紀の手はそこから離れることはなかった。

 

 

 

 映画はそこそこの面白さだった。ストーリーはありきたりといえばありきたりだが、伏線の回収や役者の演技には目を見張るところがあったと思う。由紀は僕よりずっと本を読んだり映画を見たりするから、中盤あたりで既にオチが読めてしまったらしい。それでも楽しめたのだから、この映画は当たりだったのだろう。

 

 僕と由紀は近くのカフェで軽く昼食をとって感想を語り合った後、近くの繁華街で適当にウィンドウショッピングをして回った。一通り店を回ってから由紀が急に山下公園に行きたいといったので、彼女のわがままに連れられて僕たち二人は山下公園へと向かった。

 

 山下公園につく頃には午後の五時過ぎになっていて空はすでに青から黄色く染まっていた。そこから見える夕日と海のコントラストは確かに美しいが、由紀はこれを見るためだけにここに来たのだろか?

 

「よし…」

 

 ベンチに座った由紀がなにやら決心をする。僕が不思議に思い由紀の顔を見ると、不意に合ったその視線は今までに見たこともないほどに純粋で、真っ直ぐなものだった。それはまるで弥生が物理に捧げるような瞳。その瞳を由紀は僕に向けていたのだ。

 

「慎也、腰掛けたら?」

「あぁ、隣失礼するよ」

 

 由紀はベンチの空いている空間を手でたたいて僕に座るように促した。そして、僕が座ったのを確認するとゆっくりと語り出す。

 

「私ね、文理選択が終わるまでずっと考えてたの。小中高と慎也と弥生と一緒に居たけれど、大学までは一緒になれそうもない。そしたら、私たちもきっと今みたいに頻繁に会えなくなるんだろうって」

 

「まあ、そりゃそうだろうね。弥生は国立理系で僕と由紀は私文だから一緒にはなれないさ」

 

「うん…。分かってる。でもさ、私は欲張りだからいつまでもずっと大切な人と一緒にいたいの。だから、慎也。貴方が理系を諦めて文系に来てくれたとき本当に嬉かったのよ。中学までは弥生と一緒に理系にいくものだと思ってたから…。でも、貴方は私と同じ文系に来てくれた。だから、これで慎也と志望校が一緒になれば私はまたずっと貴方と一緒にいられるんだって、そう思ったの」

 

 でも、と由紀は矢継ぎ早にこう続ける。

 

「でも、それと同時に気がついたのよ。私は貴方を誰にも取られたくないんだって。たとえそれが弥生であっても、貴方を私のもとから取り去っていくのなら許さない。貴方が私以外の他の女と知らないところで戯れる姿を想像するだけで身の毛がよだった。…それくらい、貴方が大切な人だと改めて気が付かされたの」

 

 ふぅ、と由紀は深呼吸をして息を整えると、おもむろに立ち上がり僕の顔を真っ直ぐ見てその柔らかな唇でこう紡いだ。

 

「慎也。いえ、新垣慎也さん。私、白川由紀は貴方のことが大好きです。小学生の時からずっと、好きです………だから、どうか私と付き合ってくれませんか」

 

 由紀は頬を紅潮させうっとりと僕を見てきた。

 

 何故このタイミングで由紀がそんなことを言うのか僕には理解できなかったが、たしかに思い返せば由紀はそれとなくその兆候を見せていたことに気が付く。彼女はただ距離感が近いだけの幼馴染ではなかったのだということに、今になって気が付かされた。きっと映画館のそれだって、彼女なりのアピールだったのだろう。

 

 ただそんな由紀の告白よりも僕を驚愕させたのは、彼女の告白により僕と由紀と弥生という幼馴染三人組の関係が、今この瞬間から完全に瓦解し始めたという事実だった。ふと、伯父の書いた手記に書かれた一文を思い出す。

 

『幼馴染という関係を壊すことを恐れてはならない』

 

 その助言は僕に向けられたものだったけれど、僕が壊すまでもなく勝手にそれは壊れていったよと、天国、あるいは地獄にいるであろう伯父に向かって心の中で語りかけた。

 

 今ここで由紀が起こした変化は、まるで静寂な水面に球面波が広がっていくように静かなのだけれど、同時に急激なもの。そして、その水面に石を投げ込んだのは、僕でも弥生でもなくて他ならぬ由紀自身だ。

 

「返事は………どうなんですか」

 

 由紀はただひたすら恍惚とした表情でそう言った。

 静寂のさなか、遠くでウミネコの鳴き声が聞こえた気がした。

 

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