三体系のエントロピー 作:朝雲
目の前にいる由紀に何か返事をしなければならない。そんな焦燥感が僕を支配していた。でも、一体何を言うのが正解なのだろうか。
正直な話、僕は由紀を一人の女性として見ることができない。かといって、それを由紀を傷つけることなく伝える都合のいい方法など存在するわけがなく、僕はただ言葉に詰まって虚空を見つめることしかできなかった。
「その…由紀の気持ちはとても嬉しいよ」
そう言いながら、これでは全く意味がないな、と
「やっぱり、いい言葉なんてそう直ぐには浮かばないものだね」
「慎也…」
僕のわずかな
「正直に言うと僕は由紀を一人の女性として見ることができない。由紀は僕にとって大事な友人で、そういった目で見たことがあまりないんだ。それにね…、僕が好きなのは由紀じゃなくて弥生だったんだよ」
「…やっぱり慎也が好きなのは
「そうか、気づいていたんだね」
そう嘯きながらも、僕は心の中で由紀の観察眼に敬服していた。それなりにうまく取り繕えていた自信はあったし、由紀も弥生も僕の気持に気が付いているような素振りを今まで全くみせていなかったから、てっきりばれていないものだと思っていた。この、由紀の人の機微に対する敏感さは弥生にも見習ってほしいものだったが、期待するだけ無駄だろう。
「でもね、由紀。僕は弥生のこと
「それは、どういうことなの」
由紀が心底意味が分からないといった具合に眉を顰めた。不安と期待がない交ぜになった瞳で僕を見て、言外に続きを促す。
「少し長くなるけどね、それでもいいかい」
「別に構わないわ」
「そうか、じゃあまず結論から先に言わせてもらうよ。僕と弥生はね、どうやら従兄妹らしいんだ」
「え、……どういうことよ、それ」
「まあ、落ち着けって。だから長くなるっていっただろう」
動揺を隠せずに、落ち着きがなくなった由紀をたしなめて、僕は彼女にベンチに座るように促した。先ほどとは正反対の構図になっているのも、何とも皮肉なことだ。由紀は一瞬、躊躇うそぶりを見せたが、すぐに促されるままにベンチへと腰をかけた。そして僕のことを「早く説明してちょうだい」と言って急してきた。
「僕の伯父さんのことを知ってるだろ。六年前に亡くなったあの伯父さんだ。この前墓参りに仙台に行ったときにたまたま伯父の手記を見つけてね、そこに僕と弥生が従兄妹だと書いてあったんだよ。どうも、弥生は僕の伯父と弥生の母が不倫してできた子らしい」
「それ、本当なの」
にわかには信じられないと、由紀は怪訝な目を僕に向けた。僕がこんな嘘を言っても、何の得にもならないことは理解しているようであったが、それでも信じられないといった感じであった。
それもそうだろう。僕だって、弥生と由紀が実は従姉妹でしたなんて言われても、すぐに信じられる気がしない。それでも、何とか由紀はその信じがたい話を呑み込んで、自分自身を納得してみせた。
「取りあえず、その話を信じてみることにするわ。そうでもしないと話が進まないもの」
「ありがとう。信じがたいことだけどね、やっぱりそれは事実なのだと思う。間接的な証拠がたくさんあったから信じざるを得ない」
「そう…。でも、従妹だったとしても民法上は問題ないんじゃないの」
「そうなんだけど、僕には従妹と付き合うなんて考えられないんだ。理性じゃないんだよ、いわゆる生理的にムリってやつだ。それに、伯父の不倫相手の子なんて、下世話な話だけど抱けない」
付き合うことが、そういうことに直結しないことは充分に理解している。ただ、仮に高校、大学、社会人と付き合いが長くなれば、いずれどこかでそういう時が来る。そのときに、弥生を心の底から違和感なく愛せるだろうか。少なくとも、今の僕には無理そうだった。どこかで、きっと彼女は従妹なのだと冷めた目で見てしまう未来が易々と想像できてしまい、僕は震えた。一度知ってしまったからには、弥生と僕はつき合えない。いや、付き合ってもいずれ破綻する。
「意外ね、慎也ってわりと潔癖症なのかしら」
「さあね、自分でも分からないよ。ただ由紀も分かるだろう。君の従兄と付き合ってる姿を想像してごらんよ」
僕がそう言うと、由紀は本当に彼女の従兄と付き合っている自分自身を想像したのか、顔を顰めて「ないわね」としみじみと言った。
「だろう。やっぱり身内は所詮身内なのさ。男女の仲にはなれやしない」
「でも、それだけで慎也は弥生を諦められるの」
「分からない。今でも弥生のことは好きなのだとは思うけど、弥生とは付き合いたくない」
アンビバレンスという前に現代文で習った単語をしみじみと実感する時がこようとは。日本語にすれば両面価値。好きなのだけれど付き合いたくないという相反した感情が僕の中に存在していた。そんな僕を見て由紀は僕の耳元で語り掛けてくる。
「慎也と弥生にいろいろと複雑な事情があるのは分かったわ。貴方が弥生と当座、付き合うつもりがないことも。でも、一つだけいいかしら」
僕が首肯すると、由紀はこう続けた。
「私の告白を断ったのは、本当に私を女して見れないからという理由だけなの」
由紀は納得いかないと言いたげに、苛立ちからかベンチの表面をコツコツと叩いていた。僕は苛立つ由紀に慣れていなくて、引き気味になる。
「ええと、確かに由紀はいろいろと女性らしいとは思うよ。でも、いきなり付き合ってと言われても僕のなかで由紀はずっと従姉みたいなものだったから、その…」
「でも、私は弥生とはちがって本当の従姉じゃないでしょ」
由紀は僕の発言を遮って食い気味でそう告げた。そして僕の手を掴んで、それを彼女の胸元に無理矢理押しつけて懇願するかのような上目遣いで見てきた。ワンピース越しに柔らかな感触が伝わって、僕は由紀のことを直視できずに目をそらす。気恥ずかしさで、心臓が破裂しそうなくらい鼓動していた。
「ねぇ、慎也。これでも私を女として見れないの」
その声は艶めかしかったが、同時に不安や怒気といった感情が混ざって聞こえた。
「私、それだけの理由で断られるなんて納得できないわ。いったい、私の何が不満なの。言ってみてよ。そしたら貴方の好みに合わせて私を変えてみせてあげる。貴方の理想の女になってみせるわ」
困惑する僕のことなんて気にせずに、由紀は何かに取りつかれたかのように喋り続ける。
「ほら、ここにいるのは貴方の好きにできる都合のいい女。私は慎也のためならいくらでも尽くすことを厭わないし、醜い欲望だってすべて受けとめてあげる。だって、それくらい貴方のことが好きだから。愛しているから」
「それなのに…。それくらい貴方のことを愛しているというのに、貴方はたったそれだけの理由で私を振ろうとしているの」そう何かに縋るように言うと、由紀は僕の手を離して唐突に涙を流した。彼女の泣き顔を見たのは小学校以来のことだった。僕はどうしたらいいのか分からずに、とりあえず昔やっていたように由紀の背中をさすりながら、持っていた手拭いを由紀に渡そうとした。
「なんで、なんで振っておいて…優しくするのよ」
「いや、だって…」
「言い訳なんていらない!」
とっさの勢いに任せて、由紀は背を摩る僕の手を払いのけた。由紀は一瞬そのことを後悔したように見えたが、すぐに僕のことをその湿った瞳でキッと睨んできた。
「慎也はいつもそうだった。ことあるごとに弥生、弥生、弥生。いつもあの女の話ばかり。私だって弥生と同じ長さの時間を共にしたはずなのに、慎也がまず口にするのは弥生の話から。だから、ああ、慎也は弥生が好きなんだなってすぐに分かったわ。それなのに、慎也はいつまで経っても弥生とくっつかない」
意識したことがなかったがなかったが、僕は無自覚に由紀を苦しめていたのだとたった今、気が付かされる。由紀はまるで今までためていた不満を吐き出すかのごとく、途切れることなく恨み言を言った。
「さっさと付き合ってくれれば諦めがついた。きっと、無理にでも自分を納得させて、慎也と弥生を祝福できたと思う。でも、…何よ。なんで、高校生になっても、ただ私に二人の仲を見せつけてくるばかりで、告白もなにもしないの。この前だって、弥生のお土産に色を付けてたでしょ。私、知ってるんだから。挙げ句の果てに弥生とは従妹だから付き合う気がない?…ふざけないで。人の気も知らないで。いったい何年間私が二人のために気持ちを抑えつけてたと思ってるのよッ」
ゼェゼェと息を乱れさせながら一通り文句を言いきると、由紀はハッと我に返って、自分が何を言ってしまったのかに気が付いたのか顔面を蒼白させた。彼女は僕に暴言を吐いたことを酷く後悔しているようだった。震える手を口元に当てて、
「あっ、あの。そんなつもりじゃ…」
ただひたすら由紀は困惑しているように見えた。言葉を失い、
「ごめんなさい、慎也。取り乱して。…そうよね。分かってる。こんな女じゃ弥生に勝てっこないよ。ごめんね慎也。私、もういらない子だよね。こんなに喚きちらして、暴言を吐いて…。うん、消えるから。そのほうが貴方たちにとって都合がいいもんね」
そう言って「ハハ」と力なく嗤うと、由紀は拗ねた子供のように顔を俯かせて自分の指を弄った。僕も由紀もそれ以上なにも言葉を発せなくて、静寂が僕と由紀の間に流れる。それはお互いに気を使っているのに、居心地の悪い奇妙な沈黙だった。
しかし、その静寂はそう長くは続かない。夕日が水平線の向こう側に沈み、辺りが暗くなると「そろそろ帰ろうか」と由紀はやけに清々しい顔をして僕に言ってきた。でも、そう言った由紀の目の焦点は僕ではないどこか虚空を見つめていて、これは危ういと直感的に察する。由紀はベンチから立ち上がる前にもう一度、何か感じるところがあったのか、暗闇に染まる海を見ながらひとり呟いた。
「結局、はじめから私に入り込める余地なんて無かったんだね…。勝手に期待して、勝手に自爆しただけ。いやー、慎也が弥生と袂を分かって文系に来てくれたときから、もしかしたらと思ったんだけど、本当に私ってバカだなー」
それは、明らかな空元気で、僕はあまりの痛々しさに由紀のことを見ていられなかった。
「由紀。その、話を聞いてくれ」
「うん?何、慎也。まだ私を傷つけたりないの。困った子だねぇ」
由紀はクツクツと嗤う。こんな由紀は今まで見たことがなくて不気味だったが、僕は意を決して彼女の手を強引に引っ張って由紀を抱きしめた。
「えっ…」
由紀の困惑した声が聞こえた。何が起きたのかわからない。そんな彼女の気持ちが易々と想像できるような、そんな間の抜けた声だった。
「ごめん、由紀。僕がそんなに君を傷つけていたなんて知らなかった。本当にごめんね。たしかに僕はまだ、由紀を恋愛対象として見ることができない」
「だから、何よ」
由紀が僕の腕の中で不満を垂れたが、それを無視して僕は話を続ける。
「でもね、僕も分かってるんだ。いい加減、弥生に対する気持ちも整理しなければいけない。はっきり言うよ、僕は弥生とは付き合わない。そして、最低だとは思うけど、…僕と付き合ってくれないか、由紀」
「…どういうこと」
「いきなり言われても困ることは十分承知している。でも、僕は由紀のことが嫌いなわけではないんだ。ただ、そういう風に見たことがなかったから戸惑っただけ。今はまだそういった対象に見られないけど、由紀も僕の大切な人なんだよ。だから、…そんな君が傷つくのを僕は見たくない」
「サイテーね、……」
由紀は「貴方、自分がとんでもなく下種なことを言っていると理解してる?」と言いながら僕の胸に顔をうずめた。しばらくの間、由紀は僕の告白を受け入れることを躊躇っていたが、そっと僕の服を掴むと弱く抱き返してきた。それは控えめな同意だった。
最低な方法だという自覚がある。僕は恋愛的に好きではない由紀に告白をした。でも、そうでもしないと由紀は伯父のように自殺をしてしまうのではないかという危うさがあったのだ。死の臭いとでも言おうか。自殺前の伯父と同じような諦念が由紀の中に見て取れた。
あるいは、単純に長年由紀を苦しめてきたことへの贖罪なのかもしれない。弥生に対する感情のけじめの意味もあった。
また、由紀と疎遠になりたくないという僕のエゴも少なからずそこにはある。幼馴染としての関係が崩壊したのならせめて、恋人という関係になって、彼女を僕と弥生との歪なトライアングルに閉じこめていたかったのだ。
双方ともに利がある落としどころがこれくらいしか見つからない。由紀のことはこれから少しずつ好きになっていけばいい。別に嫌いじゃないのだから、すぐに好きになれる。なに、簡単なことさ。
「これからよろしくね、…サイテ―な慎也さん」
「はは、こちらこそよろしく、由紀」
最適解は、これしかない。そう何度も一人で納得しても、何か間違ってしまった気がして、僕は不安から由紀を一層強く抱きしめた。勘違いしたのか、由紀が「ふふ」と笑って僕を抱きしめ返してきた。
脳裏に昔、弥生が言った言葉が反響する。
『三体問題は基本的に解けないんだよ。それは数学的に証明されていることで、どうあがいても解は見つけられない』
そもそも、最適解なんて存在するのだろうか。そんな不安がずっと、頭から離れなかった。
○メンヘラの特徴
①寂しがり屋
②優しい人に甘えがち
③前触れなくヒステリーを起こす
④虚言癖がある
⑤嫉妬深い
⑥ネガティブで依存心が強い
⑦異常な愛情表現をもとめる