三体系のエントロピー   作:朝雲

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閑話 共役解

 いつからだろうか。気が付いたときは彼の後ろ姿をそれとなく追うようになっていた。彼とはずっと幼馴染のままだと思っていたのに、年を重ねるにつれて彼のことを見ると心臓がバクバクするようになった。

 

 決して何か劇的な変化があったわけではない。ただ普通に日常を過ごしていたはずなのに、時折見せる彼の優しさに、その温かな微笑みに、私はしだいに惹かれていった。

 

 彼の手が触れるだけで全身が熱くなる。私を見て朗らかに笑う姿をみると、温かな気持ちにさせられる。これがきっと恋なのだと自覚するまでには、そう時間はかからなかった。物語みたいにドラマチックな展開は無かったけれど、きっと恋に落ちるときは皆そんな感じなのだと思う。

 

 好きだった。

 でも、一歩を踏み出す勇気がなくて、私はその恋心を心の奥底に閉じこめて寝かし続けた。やがて醸造されていったその気持ちは、純度を増してゆき愛になっていた。私は、彼をどうしようもなく愛していた。

 

 でも、彼の瞳に映っていたのは私ではなくてもう一人の女の子。もちろん彼が私のことも大切な人だと思っていることは理解できたけれど、それは友人としてであって、決して私が望んでいた「特別」ではない。

 

 なんで彼は振り向いてくれないのだろう。私に魅力がないのだろうか。そう思っては、いつも私は不安に襲われて、そんな不安を少しでも解消しようと、それとなく聞き出した彼の好みに合わせて自分を変えてみたりもした。

 

 髪を長くした。昔の私はショートカットで、男の子みたいだったから私は女らしくなろうとした。

 

 言葉遣いを直した。昔の私は少し舌足らずで馬鹿っぽかったから、なるべく賢そうな丁寧な言葉遣いを心がけてみた。

 

 ずっと彼に振り向いてほしくて、彼好みの淑女を演じていた。いままでの幼くて愚かな『しらかわゆき』という童女から、大人の『白川由紀』に成ろうと必死に努力をしたのだ。

 

 それはあの子に負けないための私の切実な努力の証。顔も頭も彼女には到底敵わなかったから、劣等生の私には愚直に努力する以外に残された道はなかった。でも、いくら凡人の私が取り繕ったとしても、本当の天才には敵わないのだということを嫌というほど思い知らさせられる。

 

 彼は親戚に科学者がいたらしく、昔から自然科学系のことに興味を抱いていたようだった。私は彼に話を合わせようといろいろと勉強をしてみるのだけれど、どうやら私の数理的センスは絶望的らしい。読書は好きだったから国語とか社会科は得意だったのだけれど、理科と数学は、私には手にあまる教科だった。

 

 でも、そんな私をよそに、あの子は颯爽と数学や理科の問題を解いてみせる。彼の質問に難なく答えてみせる。そんな彼女を彼はまるで先生のように慕っていて、そこには尊敬と思慕の念が垣間見られた。彼と彼女は特別な絆で繋がっているように見えて、私はそのことがどうしようもなく悔しかった。

 

 少しでもそこに食い込もうと私は苦手な理科や数学を頑張ってみるのだけれど、そう現実は上手く行かない。中学を卒業する頃には、私とあの子の差は、誰が見ても絶望的なまでに広がっていた。

 

 カルノーサイクル?デュロン-プティの法則?零点エネルギー?

 

 あの子が嬉々と語る言葉が全く理解できない。彼もよくは理解できていないようだったけれど、そんな彼を見ると彼女は優しくその概要を教えてあげていて、そしてそんな彼女の話を理解しようと彼は必死に話に聞き入っていた。それはまるで、相手の趣味を理解しようとしているカップルを見ているようで、私はそうなると居場所が無くなってしまった気がして、よく二人のもとから立ち去った。

 

 何で、あの子なの。

 

 脳裡に暗い感情が迸る。何であんな無愛想で、理科にしか興味がない色気も何も無い女を彼は追いかけるのか理解できない。

 

 私はこんなにも努力しているのに、何で彼は私のほうに振り向いてくれないの…。

 

 そう悶々としながら、私はしだいにこの恋を諦めていった。諦めないと、あまりにも私が惨めで滑稽でいたたまれなかった。それはある種の自己防衛のようなもので、私は心の奥底に恋心を無理矢理閉じこめると、彼と彼女がくっつくように尽力した。

 二人が恋人になって、さっさと私にとどめを刺してほしかった。

 

 

 高校二年生になって彼は私と同じ文系にやってきた。彼女を追って理系に行くものだと思っていたから、私は彼が同じクラスにいることに困惑した。

 

 諦めるとしたのに、なんで神様はこんな残酷な仕打ちをするのだろう。

 

 彼は友達が少なかったから、よく私に話しかけていた。

 その度に、性懲りもなくどぎまぎする。心臓が高鳴る。

 

 理系クラスとは棟が違ったから、私はあの子の姿を目に入れることもなく、安心して彼と話すことができた。そして、閉じこめていた恋心がマグマのように内から湧いて出てきた。

 

 もう、いいよね。遠慮なんてしなくていいよね。

 

 告白をしない彼女、あるいは彼が悪い。二人は鈍感だから、幼馴染という言い訳に終始して、互いに惹かれあっていることに無自覚なようだった。

 

 恋は戦争だ。もたついているなら、彼女がその気持ちを自覚する前に私が彼をかっさらう。

 

 正直、分が悪い戦いだったが、勝機がない訳ではなかった。私だって、彼女に劣るとはいえ彼に大事に思われているという自負がある。決戦の日は夏休み。それまで、私はいつも通りに彼と親睦を深めればいい。そう思って、私は独りほくそ笑んだ。

 

 夏休みに入って私は彼を映画に誘った。それはずっと片思いをしていた女の子が意中の男の子と結ばれる様を描いた恋愛映画。まるで私の境遇のようで、私は彼が察してくれるかなと思いながらも、すぐにそれを否定した。そんな気の利いた人ならここまで苦労はしない。

 

 私は買ったばかりの白のワンピースに身を包み、気合いを入れる意味も込めて本格的なメイクをしてみた。彼はけばけばしいメイクを好まないので、抑え気味ではあったが。

 

 やがて、約束した時間になるとインターホンがなった。意を決してドアを開ける。

 

 彼は褒めてくれるかな。私に見とれてくれるかな。

 

 期待と不安を胸に、私は戸を開けた

 結果は上々だった。

 

 

 

 映画はありきたりだったけれど、なかなか面白かった。でも、余りにご都合主義が強すぎて、片思いのプロである私からしたら、鼻で笑ってしまうような展開も多々あった。

 

 

 私と彼はカフェで軽く談笑をすると、ウィンドウショッピングをして時間をつぶした。告白をするなら、夕方が良い。できれば見晴らしのいい場所でしたい。私のお気に入りの小説に掛けて、そう決めていた。その小説はハッピーエンドで終わっていたから、私のこの恋物語もどうかハッピーエンドで終わってほしい。私は意地悪な神に、そう祈った。

 

 

 山下公園につく頃には午後の五時を回っていた。いきなりだだをこねた私に彼は当惑しているようだったけれど、私は強引に彼をつれてここまできた。

 

 ベンチに腰を掛け、息を整える。

 

 一世一代の大勝負。この言葉を言ってしまったらもう後戻りはできない。私と彼と彼女の関係はいずれにしても崩壊してしまう。私と彼が付き合えば彼女は私の敵になるだろう。逆に私が彼に振られたらそのときはさっさと邪魔にならないように消えてしまおう。

 

 そう思考を整理すると私は彼に告白をした。告白の言葉はいろいろ考えていたけれど、すべて吹っ飛んだ。私はただ純朴に好きだと伝えた。

 

 

 私の告白を聞いた彼は、明らかにうろたえているようだった。目が泳ぎ、言葉に詰まる。そこで私は察した。

 

ーああ、ダメかー

 

 そう思って私は絶望した。彼は私を傷つけまいといろいろと言い訳を並べているのだけれど、何一つ私の心には響かない。

 

 覚悟をしていたとはいえ、私はあまりのショックで彼の言葉が頭に入ってこなかった。

 

 消えてしまいたい。手に入れられないのなら、目の前の彼を彼女に取られる前に殺してしまいたい。そんな衝動を押さえつけて彼の話を聞く。でも、彼の話し出したことは私の予想の範疇を越えていて、悲しみと怒り、そして諦念すらも忘れてただ呆気に取られることしかできなかった。

 

 彼と彼女がいとこ…?

 

 彼は彼女と付き合う気はない?

 

 は?

 

 じゃあ、今まで私が自分の気持ちを殺して二人の仲を取り持ってきたのはすべて無駄だったということなのか。私の苦しみはすべて無駄だったのか。

 

 ふつふつと怒りが湧いてきた。それは彼からしたら理不尽なものなのだけれど、長年くすぶり屈折した恋心を源泉とするその感情の奔流は止められそうになかった。

 

 頭が真っ白になって私は彼を罵倒した。彼女を罵倒した。不思議と彼を罵倒したときは心が痛むのに、彼女を罵倒した時は何も感じなかった。

 

 一通り悪態を付き終えると、私は自分のしでかしたことの大きさに気が付き恐怖する。今まで付けてきた淑女の仮面の化けの皮がはがれてしまった。彼に、嫌われた。

 

 彼の反応が怖くて私はただ恐怖に打ち振るえた。そして心の中で言い訳をする。

 

私の気持ちに気がつかない彼が悪い。

 

私に恋を覚えさせた彼が悪い。

 

私を苦しめた彼と彼女が悪い。

 

私の気遣いに気が付かない彼女が憎い。

 

私の想い人の心を奪った彼女が憎い。

 

私の想い人と従兄妹であった彼女が憎い。

 

私の恋敵を産んだ彼の伯父と彼女の母が憎い。

 

私の…、私の思い通りにいかないこの世界が憎い。

 

でも、なによりも…私は私が憎たらしい。

 

 呪詛、怨嗟、責任転嫁。そんな事ばかりを考える私自身に辟易とする。でも、それは仕方がないこと。それは私の性分で、ずっと隠してきたけれど本当の私の姿。

 

ーねぇ、ここで私が弱ってみせたら貴方は私を心配してくれるかなー

 

ーねぇ、ほら。はやく私を引き留めてよ。じゃないと死んじゃうよー

 

 そう考える自分が可笑しくて、クツクツと嗤った。そうして弱った姿を演じていると案の定、優しくて少し気の弱い彼は私の心配をしてくる。長年取り繕ってきた私の演技はやはり一流だ。

 

 後一押し。そうすれば彼は罪悪感から私の事をつかみ止めてくれる。そう確信した。

 

 例えそれで彼をつなぎ止めたとしても、それは愛故では無いのだけれど、ひとまず彼を私の掌中に収められれば後はどうにでもなると思った。

 

 逃れられない快楽の地獄に落としてしまえばこっちのものだ。女の武器は最大限使わせてもらおう。だって、私が彼女より秀でているところはそこしかないのだから。

 

 ごめんね。前言撤回するよ。私、やっぱり彼のことを諦められない。

 そう、聞いてもいない彼女にそっと謝った。

 

 一瞬彼女の綺麗な顔が頭によぎったけれど、もうあんな女がどうなろうと、どうでもいいや。彼が奪われたことをせいぜい恨むがいい。それはずっと私が感じてきた気持ちなのだから。

 

 

 彼が私に告白をしてくる。

 本当に可哀相なほど優しくて、哀れな人だこと。

 そう思いながらも、心は歓喜に震える。

 

 やった、やった。やった…、私は賭に勝ったんだ。あの女に、…勝ったんだ!

 

 ざまあみろ、あの物理女。ざまあみろ!

 

 初めて奴に敗北の味を覚えさせてやれる。そう思って私は「ふふ」と嗤った。そんな姿に勘違いをしたのか、彼が私を強く抱きしめてきた気がした。抱きしめられるのは嬉しいのだけれど、きっと私の顔は酷く歪んでしまっているから彼には見せられない。

 

 私は彼の胸に顔を埋めてもう一度、誰にも聞こえぬ大きさの声で呟いた。

 

「ざまあみろ、弥生」 

 

 

 

 

 

 




共役[きょうやく]:二つのものが対(ペア)となって結びついていること
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