鬼殺し   作:からくりから

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※注意:呼吸を捏造しました、許して(土下座)※


第三話

 最終選別から二週間と少しが経った。

 その間、師匠の元に戻っていた俺に、特筆するようなことは特には無かったといえるだろう。

 精々師匠にボロカスになるまでイジメられる日々が続いていたくらいである。

 お陰で身体は痛いわゆっくり休めないわで寝不足気味だったがそんな日々もようやく終わりを告げた。

 刀が届いたのである。

 そう、刀。

 俺が鬼を殺すために必要な、唯一の武器。 

 そんな大切なものを持ってきたのはひょっとこのような仮面を付けた男の人だった。

 いや、正確には男女どちらかは仮面のせいで判別はつかなかったが、声音や声の低さといった要素でそう判断した。

 男は己を鉄斎と名乗った。

 俺の刀を打った鍛冶師らしい。

 鍛冶師、という言葉に心のどこかが震えたがそれをおくびにも出さずに内側で捻り潰す。

 もう、関係のないことだ、今の俺は、一人の剣士なのだから。

 そう思いながら師匠の立ち会いのもと、俺は刀を貰い受けた。

 真っ黒な鞘に入ったその刀は、正式名称を"日輪刀"というらしい。

 この刀の特徴は二つ。

 壱、頸を斬ることで鬼を殺すことが出来る。

 弐、持ち主によって刀身の色を変える。

 まあ二つ目に関しては深い意味は無いそうだ、ただ黒だと出世はしないと言われているらしい。

 何色になるんだろうな、なんて話し合いながら俺に注目する二人に見向きをもせずに刀を抜き放つ。

 抜いている最中だった時、銀色に輝いていた刀身は、抜いた瞬間手元から真黒に染まり上がった。

 いや、正確にはそれは黒ではなかった、黒でありながら、黒とは言えない。

 何というか、とても気味の悪い──言うなれば、色々な絵の具を混ぜ合わせて作ったような、そういう淀みきった黒。

 えぇ……汚い……思わずそう呟いた瞬間鉄斎さんに殴られた。

 刀には人一倍こだわりがあるらしい、滅茶苦茶キレられて大変だった──いやいい加減殴るのをやめろ! ごめんて!

 まあそんなこんなで鉄斎さんを落ち着かせてホッと一息漏らしながらもう一度刀を見つめる。

 濁りきった刀身は俺そのものを映し出しているようで、何となくおあつらえ向きだな、と思った。

 俺のこの感情は、どう見ても綺麗なものではない、それこそ、この刀の色のように澱みきっている。

 鉄斎さんに向かい、有難う御座います、と深く頭を下げれば鉄斎さんは満足したように鼻息をふかした。

 同時、帰ってきてから今の今まで一言も発さずただ行儀よく過ごしていた鴉が突然奇声じみた声で人の言葉を発した。

 西の町へ向かえ、西の町では夜な夜な多くの人の頭が消えて見つかっている、とそう叫び始めたのだ。

 控えめに言ってもうるさすぎる。

 うるせぇなと嘴を掴んで強制的に黙らせたら頗る悲しそうな眼をされてしまった。

 えぇ……何かごめんな……という気持ちになったがそれはそれ。

 何か仕事っぽいんで行ってきます、と鬼殺隊の制服に着替え鴉の案内の元、西の町へと歩を向けた。

 

 未だ陽が上っている内に辿り着いた、鴉の言う西の町は酷く見覚えのある町だった。

 いや、控えめな発言は止そう、西の町は俺の良く知った町だった。

 もっと分かりやすく言うのであれば、あの時の女将さんがいる町。

 あの日からもう数年の年月が流れているが、町自体は大きく変わることなく、そこそこに栄えていた。

 だが、町を行き交う人達の顔で、明るいものは少ない。

 見知った顔のところに話を聞きに行けば、鴉の言ったとおり、ここ数週間連続で頭のない死体が見つかっているらしい。

 被害者は少ないときで二人、多いときは五人以上にも及んでいるそうだ。

 しかも老若男女は関係なく、誰も下手人を見てすらいないらしい。

 間違いなく鬼の仕業──だが、犯行の糸口が掴めない、どういった基準で狙っているのかすら分からない。

 参ったな、完全にお手上げだ、俺は探偵の真似事なんか出来ないぞ。

 取り敢えず情報集めついでに女将さんに挨拶でも行くか、と宿に顔を出せば女将さんは居なかった。

 すっかり顔馴染みになっていた従業員との再会の挨拶もそこそこに、女将さんは? と尋ねれば彼女はここにはいない、とそう言った。

 書き置きを一つだけ残して、一年以上も前に姿を晦ましたらしい。

 お陰で当時はてんてんこまいで、最近やっと落ち着いたのだとか。

 マジか、そう思うと同時に嫌な予感が背中を這いずり回る。

 もしかしたら鬼に喰われてしまったのではないかと、悪寒が心をそっと撫で上げる。

 不安を顕にすれば、彼女はそれを晴らすように、噂では駆け落ちしたって話ですよ、とニヤけながらそういった。

 噂ではそういう仲の人がいたらしい、何だか拍子抜けやら残念やら、取り敢えずそういうことなら安心っちゃ安心だな、そう笑って俺は一晩この宿で明かした。

 そして翌朝、従業員のお嬢さんの、頭のない死体が見つかった。

 

 見つかった死体は計四つ、どれも頭が欠けていて、他に傷という傷は見当たらなかった。

 昨日の今日でこれか、町まで来ておいて気付くことすら出来なかった……いや、警戒心が足りていなかった。

 寝るべきではなかった、五感を研ぎ澄ませて、見つけるまで一瞬たりとも意識を落とすべきではなかった。

 油断していた──いや、俺の考えが甘かった、判断が甘かった、全てにおいて、甘すぎた。

 今日の四人の死の責任は、俺にある。

 罪悪感を感じながら、処理されていく死体に近づき断面に眼を走らせて、あぁ、そりゃ目撃者がいない訳だ、と納得する。

 頸の断面は、あまりにも滑らかだった、腕の良い剣士が、上質な剣で斬りとばしたかのような、断面。

 一撃で殺られたであろうことは想像に難くなくて、その事実に身体が震えた。

 力任せにできる芸当ではない、明らかに相当な場数を踏んできている、あるいは斬ることに特化している。

 厄介だな、そう思うと同時に必ず殺す、とそう思う。

 この先死ぬのは鬼だけで良い、俺が必ず、頸をとる。

 そう、四つの死体に誓った。

 

 

 その日の夜は雲ひとつ無くて、まん丸の月が顔を見せていた。

 何時もの夜より町は明るく照らし出されていて、裏道や細道でない限りはよく見える。

 今夜は誰も殺させない、傷一つ、つけさせやしない。

 町の高台、その天辺に座り、静かに目を閉じる。

 視覚を意図的に封じることで、他の四つを鋭敏に研ぎ澄まさせた。

 微かな吐息、物音、声、殺気、そして、鬼特有の邪気、それら全てを余すところ無く拾い集める。

 異常なし、異常なし、異常なし、異常なし───物音。

 只人とは思えないほど熟練された、地を踏む音を限界まで殺した足音───!

 全集中・炎の呼吸───

 高台をぶち抜くほどの勢いで、弾けるように跳び出した。

 瓦の屋根を全力で踏み切って、細い裏路地へと躍り出る。

 澱んだ黒の刀が歪に月光を反射して、直後宙を焼き払った。

 ───壱ノ型:不知火

 瞬間、金属音が響き渡った。

 激しい衝撃と重みが刀に伸し掛かり、それを力尽くで薙ぎ払う。

 女物の着物を纏い、笠を深く被った人──いや、鬼が素早く後ろに下がり、俺の後ろで妙齢の女性がヘナヘナと座り込んだ。

 女性の泣きそうな顔を見て一瞬言葉に詰まり、絞り出すようにもう大丈夫です、とだけ伝えて早く家に帰るように言う。

 というかさっさとここから離れてくれ、衝撃で痺れた手を見ながらそう思う。

 守っている余裕はない、殺すことに全てを懸けなければ、俺が狩られる。

 直感的にそう思い、急かすように女性を逃がす。

 ゆっくりと走り去っていく女性に気を使いながらも、鬼への警戒を緩めない。

 近寄らせない、動かせない、それ以上、一歩でも近寄ったら斬り飛ばす。

 分厚い刃そのものと化した腕を見ながら、その思いを殺意に乗せる、プレッシャーをぶつけあわせて拮抗を図る。

 全集中・炎の呼吸───

 意識を研ぎ澄ます、鬼だけに総てを向けて、それ以外の全てを感覚から排斥していく。

 下手には打ち合わない、最小限の動きと、最短の行動だけで頸を飛ばす。

 心臓を直接鼓膜に当てているのかと錯覚するくらい己の鼓動が頭に響く、血流が今までにないくらいの速さになっているのが解る。

 ジリ、と鬼の歩が数尺進んだ音がした、刹那、鬼が消えた。

 否、空をぶち抜くほどの速さで眼前に現れた。

 早すぎる──だが間に合う、間に合わせる!

 ───弐ノ型:昇り炎天

 焔を纏った刃を振り上げて、既のところで甲高い音が響いて鳴った。

 巻き起こった衝撃で笠が吹き飛んでそいつの顔が露見────は?

 

 「女将、さん?」

 

 

 ぽろりと俺が零した言葉に、女将さんはふふ、と笑ってからえぇ、そうよ、久し振りね、とそう言った。

 ゆるりと刃を人の腕へと戻して、何も無かったかのように。

 笠の落ちたその額からは、あの日見た鬼のような角は無い。

 見た目だけであれば、普通の人とは変わらなかった。

 が、先程まで彼女の腕は刃そのものだった、そんなことが出来るのは、鬼くらいなものだ。

 つまり、女将さんは、鬼。

 認めたくない事実が眼前に突きつけられて、しかしそれを無理矢理呑み込んで、女将さんを見る。

 何時からだ、何時から彼女は鬼に───そう思った所で昨日の会話を思い出す。

 一年前、駆け落ちして消えたって噂……あれは、つまり間違いで、正確には一年前鬼になって、出ていかざるを得なかった……?

 震える声でそう聞けば彼女は正解、と肯定した後に成り行きみたいなものだったと、自嘲するように笑った。

 駆け落ちってのもそう大きな間違いじゃない、私に想い人は確かにいて、その人とこの町を出ていく気すらあった。

 けれども、その人は鬼だった、言い逃れようもないほどの鬼で、そのことに気付いた時に、襲われた。

 襲われて意識を失い、気付けば自分が鬼になっていた。

 ただ、それだけのこと。

 日の下に出ることができなくなって、夜闇を好むようになり、そして、そしてそしてそして──人が、餌に見え始めた。

 心の奥底で、人を食べたいと、そう思うようになった。

 そうして何時だったか、衝動には抗いきれず人を喰ってしまい、怖くなって町を出て、けれども何故だかまた戻ってきてしまった。

 一人でいることに耐えきれず、知人に会いたかった、話したかった。

 ただ、それだけだったのに、ふとしたことから、この町の人間はあまりにも喰いやすいことに気付いてしまった。

 己の姿を見れば警戒心など持つことすら無かったから、襲うことがあまりにも容易くて、つい居座ってしまった。

 あれだけこの町の人を襲うのが怖かったのに、今ではそんな感情が霞も湧いて出ない。

 悪いことだとは分かっている、間違っていることは理解っている、私が、生きているべきではないということくらい、わかりきっている。

 でも、死ぬような勇気はでなかった、衝動に抗えるような胆力は持ち得なかった。

 私は弱い、弱すぎるくらいに弱い、だから、今夜も人を喰う、喰わねば私は、もう生きていけないの。

 ごめんなさい、と彼女はそう言った、そう言ってから、泣きそうな顔で笑った。

 

 ──決意が揺らぐ音がした。

 彼女の存在や、彼女がくれた言葉は間違いなく今の俺を形成している大きく重い、大切なパーツで、それがそのまま憎むべき悪鬼と成り果てたことを認めたがらない己がいることに葛藤した。

 鬼は一匹残らず殺すと、そう己に誓い、また此度の鬼も必ず頸をとると彼らに誓ったというのに、彼女を前にしてそれらは大きく揺らいでいた。

 見なかったことにしてしまいたい、知らなかったことにしてしまいたい、けれども、それは出来ない。

 刀を握りしめた手が震える、呼吸は大きく乱れ、動悸が激しい。

 彼女は既に多くの人間を手にかけている、数多の人を喰らっている、濃く広がる血の匂いがそれを物語っていた。

 赦しては、いけない。

 赦すべきでは、ない。

 だというのに、心は定まらない。

 ごめん、ごめんね、ごめんなさいと謝りながらも肉厚な刃へと腕を変貌させる彼女を見て、あれは鬼、憎むべき悪鬼なのだと何度も思い込む。

 振りかぶられた刃に、大幅に遅れて刀を差し込み重い衝撃が身体を伝い、弾け飛ぶ。

 あまりに重い、あまりに早い、あまりに鋭い。

 集中を乱していては勝てないことは解っている、だけど、集中しきれない。

 くそ、くそ、くそ!

 何で、何で貴方が鬼なんだ、畜生、なんでなんだよ。

 振り抜かれた刃と刀をぶつけ合わせ、流れるように威力を逃がす、幾度も幾度も受け止めて、女将さんの眼を見た。

 純黒の、美しかった眼は血走り、血のように赤黒く染まっている。 

 そしてその眦からは、ポロポロと涙が、絶え間なくこぼれ落ちていた。

 鍔迫り合ったまま、彼女が口を開く。

 どうか、わがままを言わせて、と震える声で彼女は言って、俺は纏まりきらない思考をそのままに無言で頷いた。

 貴方がどうしてここにいるのかは分からない、どうして貴方が剣士になっているのかは分からない、だけど、今はそんなことはどうでもいい。

 お願い、私を止めて、私はもう、自分では止まれない、止められない。

 今だって貴方を傷つけたくはないのに、貴方を殺せという声が心の奥底から響き渡るの、私の本能は、魂は、もうずっと人の血に、肉に飢えて仕方がない!

 こうしている間も刻一刻と、私の私と言える部分がすり減って、無くなっていく。

 だから、止めて。

 私が弱いが為に起こってしまっていることを、他人に止めてほしいだなんて、酷い言い分だとは解っている、だからこれは、我儘。

 聞いてくれる?

 か細く彼女はそう言った、血のような涙を流し、酷く苦しそうに言ったのだ。

 それを聞いた瞬間、ぞわりと全身を何かが駆け巡る。

 怯んでいた魂の種火が強烈に燃え上がり、刀を握る力が増した。

 酷く雑になっていた呼吸がすっと落ち着いて、意識が洗練されていく。

 同時に、あぁ、これが鬼狩りになるということか、と思う。

 こうして突然人から鬼に堕とされた人がいる、したくない悪事に、手を染めてしまった人がいる。

 そういう鬼も、俺は殺さなくてはならないんだ、その鬼の性根が本当はどれだけ清くても、それを喰い潰すくらい鬼の衝動は激しいもので、それに従わざるを得なかった鬼に殺された人も多くいる。

 分かった、あぁ、理解ったよ。

 貴方の頸を斬ろう、俺が、この手で貴方を殺そう。

 覚悟は決まった、もうこの芯は、揺れることはないだろう。

 グッと刀を握り直し、彼女の眼を強く見据えて笑った。

 

 「あぁ、勿論だ。俺に任せろ」

 

 ぽろりと、眼の端から涙が伝った。

 

 

 すっと息を吸い込み肺を膨らませる、未だに力強く軋み合う刀を力づくで押し込んだ。

 擦れた金属音が響き渡って、反動で後退しながらも直ぐ様鋭く地を蹴りつけて迫る彼女を前に、更に深く意識を落としこむ。

 全集中・炎の呼吸───参ノ型:陽炎の渦

 頭を下げて、そっと一歩踏み込んで、絶え間なく彼女の周りを駆ける。

 時に早く激しく、時には緩慢に、己の姿を、宙に残すように。

 そして振り下ろされる刃は、俺に当たることが無くなった。

 幾度も高速で振られるそれは、しかし掠ることすらせずに、紙一重で通り過ぎていく。

 当たらない、当たらない、当たらない当たらない当たらない当たらない!

 地を踏みしめながら、構えをとる。

 一撃で決める、痛みは与えず、ただ死を贈る。

 全集中・炎の呼吸───

 瞬間、風が吹いた。

 そよ風とか、そういったような自然発生した風ではない。

 叩きつけるような、殴りつけるような、そういった意図的な暴力性を含んだ風が、全身を貫いた。

 身体が宙に浮く、まともに受けた衝撃が身体をぶち抜いて勢いよく吹っ飛んだ。

 なん、だ、あれ。

 ゴボリと血を吐き出しながら彼女をにらめば、彼女の周りは暴風が吹き荒れていた。

 師匠に、聞いたことがある。

 鬼というのは人を喰えば喰うほど強くなり、そうして遂には血鬼術という異能を扱うようになるらしい。

 あれが、正しくそうなのだろう。

 初めてみた、けれども怯まない、竦まない。

 これ以上、彼女に人は傷つけさせない。

 走り出す、刹那、彼女は虚空で腕を振り上げて、直後に吹き荒れていた暴風が指向性を持った。

 巻き上がった砂が、風の刃を映し出す、が、問題ない。

 全集中・炎の呼吸───肆ノ型:盛炎のうねり

 螺旋状に刀を振るう、追ってくるように軌跡に炎が残り、迫ってきた幾筋もの風の刃を全て打ち消した。

 歩を止めることはない、勢いは殺さず、地を蹴った。

 風の槍が脇腹を抉りとばして血を撒き散らす、だが、止まりはしない。

 全集中・炎の呼吸───

 ただひたすらに、己の意識を深く深く落とし込み、全身の機能を、全ての感覚を限界まで研ぎ澄ます。

 彼女が叫びを上げた、それは人のもののようでありながら、やはり鬼だった。

 それを見て、魂が大きく燃え広がる。

 赦さない、あぁ、赦さない。

 彼女をこうした鬼を、俺は絶対に赦さない。

 怒りを全身へと張り巡らせる、溢れ出る感情を、洗練させて、力に変えて、刃に乗せる。

 

 奥義──玖の型:煉獄

 

 浄化の炎が全てを焼き尽くし、彼女の頸へと刀を差し込んだ。

 血飛沫を浴びながら、そっと、しかし疾く斬り払う。

 月光の下に、頭がとんだ。

 

 

 ごとり、と女将さんの頭は地に落ちた。

 既に体の方はボロボロと崩れ始めていて、直に頭も消えるだろう。

 刀を仕舞い、頭を持ち上げる。

 抑え込んでいた涙がボロボロと溢れ始めて、上手く喋れない。

 それでも無理矢理口を開いて、言葉を紡ぐ。

 

 「我儘は、ちゃんと聞いたぞ」

 

 情けない声でそう言った俺を見て、女将さんは薄く口を開いた。

 掠れていて、酷く儚げな声だったが、確りとした口調で彼女はただ一言

 

 「ありがとう、ごめんね」

 

 と言って、ゆっくりと、満足げに目を閉じた。

 両手にあった重みは、後を追うようにすぐに消え、髪に差していた簪だけが、ころりと手の平に転がった。

 酷く叫びたい衝動に駆られ、それをグッと抑え込む。

 落ちた着物と、簪を抱え、流れ続ける涙をそのままに、「さようなら」とそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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