鬼殺し 作:からくりから
※もし見つけたらこっそり教えてネ!※
──だから、お眠りなさい。
下弦の弐と刻まれた、吸い込まれそうなくらい深い藍色の瞳を俺に向け、そう言った鬼は、艶やかな──酷く、恐ろしさすら覚えるような艶やかさを振りまくような鬼だった。
その口から紡がれる一音一音がこちらの心を甘く、柔らかく、そして優しく蕩かすようで、この異常な状況にありながら、気持ちがふわつくのを抑えられない。
ほんの少しでも隙を見せれば、それだけで魂を持っていかれる。
確証はなかったが、しかしそう確信できるほどの、言葉だけでは形容しがたい異様な"何か"がこの場を染め上げていた。
ジリリ、と地を擦るように少し下がると同時、直上から何か──否、鬼が現れた。
当然、眼前にいる鬼とは違う、別の鬼!
まだいたのかよ、と吐き捨てながら身を捻り、刃を振るう。
肉厚な頸に刀身が入り込み、斬り捨てると同時に地を蹴りつけた。
いつになく嫌な予感が全身を隈なく走り抜けている、身を焦がすような焦燥感が頭を埋め尽くしていて、早く仕留めなければと頻りに警鐘を鳴らしていた。
故の疾駆、故の剣閃。
だがしかし、そのどれもが届かない、そも、近寄ることすら許されない。
まるで最初からそこにいたと言わんばかりの鬼が波のように押し寄せてくる。
数というのはある意味で最も大きな力だ。
一匹一匹が貧弱でも、束になられると不利も良いところ──だが、それでも俺は止まらなかった。
焦燥感が、何もかもを焼き尽くす。
それに呼応するように炎は激しさを増し、比例するように動きは早くなっていく。
だが足りない、まだ足りていない。
もっとだ、もっともっともっともっともっと──!
いつしか、音は聞こえなくなっていた。
己の息遣いも、肉を裂く音も、直ぐ傍で戦っている筈の真菰達の戦闘音も、蒼髪の鬼の声ですら。
耳に届くことは無かった、けれども不思議とそれに違和感を覚えることは無かった。
ただ視界を埋める鬼の群れを斬って斬って斬って押し通る。
明らかに冷静さを欠いている、己の理性的な部分がそう言うが、それでも構わないと思った。
何故だか霞んでくる視界をそのままに、殺意と本能だけを剥き出しに刀を振るう。
肉を断つ、血が跳ねる。
前へ前へと地を踏みしめる、全てはあの──あの?
あの……なんだ? 俺は今、何をしようとしていたんだっけ?
回っていなかった思考が急に回りだす。
ガラン、と握っていた刀を落とし、それから更に疑問符を浮かべた。
見たことのない刀だ……どうして俺がこんなものを?
何か情報は無いかと下げていた視線を前へと戻し、キョロキョロと見回してみるが何もない。
前も後ろも右も左も、上下すらも何も無い、俺の目は、何も映さない。
そのことに気づき、村の近くにこんな場所あったっけ、とそう思ってから、いや違うだろ、と思い直した。
あるかないかの問題ではない、仮にあったとしても、どうして俺はこんなところにいる?
おかしい、何かが変だ。
何か大切なことが、あったような──。
「にいちゃん」
不意に、声が響いた。
そして同時に、思考がビタリと止む。
全身から汗がぶわりと滝の如く噴き出して、呼吸が浅くなっていく。
激しい心音が耳朶を打っていて、それがどうしてなのかも分からず振り向いた。
そうして視界に入ってきた声の主は──やはり、弟だった。
そのことを完全に認識すると同時に猛烈な吐き気が身を襲う。
チカチカと視界の端が明滅して、その場に倒れこんでしまいたかったのを無理やり抑え込んで「どうして」と呟くように言う。
そうすれば弟はどうしても何も、にいちゃんが急に出ていくから、追いかけてきたんじゃないか、と言った。
それからほら、帰るよ、と俺が落とした刀を取ってから手を差し出してくる。
言葉の意味を理解できないままその手を取って、そうしてようやく思い出す。
俺は、父と喧嘩したのだ。
その原因はもう覚えていなかったが、しかし父と言い争いをした後に衝動的に飛び出した、ということだけ思い出して、父はまだ怒っているのだろう? と聞けば弟は笑って大丈夫だよ、と言った。
それに微かな違和感と、それから大きな安堵が心に落ちる。
帰り道、分かるのか? と尋ねれば弟はそりゃわかるさ、にいちゃんが気付いてないだけで、ここはかなり近いとこだから、と弟は答えた。
それにそうだったのか、何て間抜けな言葉を返し、俺は弟の背中を追うように歩き始めた。
あまりにも暗く、先の見えない闇の中を突き進む。
ともすれば弟の背中すら見失いそうで、不安さに駆られるように早足で追いかければ、ほんの数分程で村には着いた。
見慣れた家々を見て、懐かしいな、という感想を抱き、そう感じた己に何で? と思うが、弟の「早くしてよにいちゃん」という声に振り払われた。
悪い悪い、と返しながら家へと入る。
そうすればそこには、当然と言えば当然だが、父と母がいた。
父は、少し気まずそうに俺を見ていて、母はおかえり、と笑顔で言う。
それにただいま、と何故だか絞り出すようになってしまった声で言い、それから父へと、俺が悪かった、と言う。
意図せず涙声になってしまったそれは、確かに父に届いて、父はいや、俺も悪かった、とか細く言えば、弟がいい加減ことあるごとに家の雰囲気ぶち壊すのやめてくれよな、と笑う。
それに同調するように母が本当にね、と笑ってから、ご飯にしましょうか、と言って、弟がほら、と俺に手を差し出した。
その事実に、薄っすらと涙すら流れた。
目の前に広がる光景はどこにでもあるような、酷く一般的なその光景だ。
だが、それが目を焼き尽くすくらいに美しい。
何もかもが幸せに満ちていて、光が射し込んでいるくらい暖かく、明るくて。
俺にとってこれ以上無いくらい、それこそ夢にまで見るくらい、美しい光景だった。
いつまでも見ていたくて、いつまでも浸っていたい世界だった。
だから──だから、それ故に、不快。
不快だ、あまりにも不快、これ以上無いほどに不愉快。
何故ならこれらは全て、一切合切、何もかもが、俺の手から零れ落ちていったものだから。
父はもう、母はもう、弟はもう、俺に笑いかけることも無ければ、その口を開くこともない。
その命は既に尽きていて、その身は既に朽ちた。
俺は終ぞ父にも母にも謝ることは出来ず、弟とは少しだけ言葉を交わしただけ。
それ以上も以下もない、やり直すことは出来ない、過去を変えることは出来ない。
それが現実だ。
見たくなくても、認めたくなくとも、それが本当で、本物なのだ。
故に──あぁ、それ故に。
「死ね」
刹那、拳を振るった。
差し出された片手を潰すように握り、引き寄せながら拳をめり込ませる。
骨と肉を砕き、それでも止まること無く眼前の弟──否、姿を現した醜悪な化け物を殴り飛ばす。
差し出されていた片手からガラリと鋭利な刃物が落ちるのを横目に力強く、限界まで力を込めて。
驚いたように目を見開く鬼へ、間髪入れずに足を踏み込んだ。
眼前の鬼は先程までいたはずの蒼髪の鬼ではなかった、あれと比べれば随分と弱い──言ってしまえば低級な鬼。
それが他にも後二匹、突然のことに驚き硬直しているが俺を見ている。
なるほどな、と嘆息し、一瞬だけ己の腰元を見てから迷うこと無く蹴り込んだ。
軽い衝撃と共に頸を折り、それでも止まらず蹴り飛ばす。
刀は無かったが、それでも問題はなかった。
別に自暴自棄になったわけでもない、ただ、殺せないだけで対処は楽だ、というだけである。
刀もすぐ近くにあるだろう、なにせこいつらが持っていったのだから。
そう思い、軽々と飛んでいく鬼へと背を向けながらもう一度地を蹴りつける。
とはいえ相手も素人という訳でもないのだろう、直ぐに臨戦態勢へと入っていて、しかしすり抜けるように後ろを取る。
一匹の頭を両手でつかみ、ねじ回す。
色んなものが砕け、潰れていく感触を覚えながらもすぐさまもう一匹へと投げ飛ばす。
直後、血が舞った。
もう一匹の鬼が放った貫手が頸のねじれた鬼を貫いて、その飛び出した手を握りつぶすが如く握りしめる。
そのまま刀を返せ、と言えばそいつは笑い、誰が返すものかと大げさに笑った。
それを聞き、そうか、と一言だけ返す。
瞬間、手首を叩き折った。
響いた悲鳴を聞き流し、飛び出ている肘辺りも同じように折り、そのまま骨をズルリと抜き出しこびりついている肉片を振り捨てる。
仕方がないからこれで代用してやろう。
精々、苦しんでくれ。
そう呟いた俺を見て、鬼が小さく涙を零した。
斬る、刺す、裂く、貫く。
何度も、何度も何度も何度でも。
狂ったように、同じことを繰り返す。
無限に再生し続ける眼前の、三匹の鬼を相手にただ只管に骨を振るった。
流石に何度もそうしていれば骨は砕け、短くなっていったがその度に補充する。
途中でやめる気はなかった、本気でこいつらが死ぬまで続けようと心底から思ったが──不意に、真菰を思い出す。
次いで獅童を思い出し、そこでようやくハッとなった。
この良く分からん幻覚にかかったのが俺だけとは限らない、ましてやこうして解けたのも、俺だけとは限らない。
となれば急がなければ、彼女らが──?
気づくのと、行動に移すのはほとんど同時だった。
顎から頭へと骨を貫き通す、次いで二匹目の頸を蹴り折った後に最後の一匹の頸を潰すように握り、そのまま問いかけた。
これからお前の身体を少しずつ、再生が追いつかない程度の早さで斬り、砕く。
鬼とは言え痛覚はあるだろう、だが、刀を返せば直ぐにでも殺してやる。
どうだ? と言えばそいつは迷うように目を伏せ奥歯を噛みしめる。
それを見ながら、腹へと拳を捩じ込んだ。
ドゴン、と不快な音と衝撃が腕へと走る、同時に足元で蠢く二匹の鬼の背中を潰すように踏めばそいつは分かった、とか細く言った。
真後ろの木の根本に突き刺してある、と続け、ご苦労、と言って鬼をその場に落とす。
それから言葉に従い歩けば刀は確かにそこにあった。
いつもどおりの混濁色の刃が待っていたように俺を見る。
それをグッと引き抜き振り返れば、三匹の鬼は皆頭を垂れていた。
己の頸を差し出すように、無言でそうしていた彼らへと、刀を振るう。
焔が、そっと明るく宙へと舞った。
色濃く放たれる邪気を目指して走る、奔る、疾走る。
呼吸は乱さぬように、されども己に出せる速力を限界まで引き出して、どこまでも地を駆け抜ける。
地を蹴りつけながら──それでも思考を、鋭く早く、静かに回した。
考えるのは当然、あの蒼髪の鬼、その能力のことである。
やつの血鬼術は間違いなく幻覚系だ。
もっと正確に言うのであれば、幻覚と現実の狭間を曖昧にし、またこちらの思考力を低下させる、と言ったところだろうか。
確証は無かったがしかし、確信だけはあった。
何せ山に入ってからこれまでの行動、その全てを思い返してみればおかしなことだらけなのである。
いくら俺でもあれだけの鬼が発生すれば撤退くらいは考えるし、もっと言えば無謀にも突貫なんて真似はしなかっただろう。
俺は別に死にたがりという訳ではないのだから。
だがそれをしなかった、しようとも思わなかった。
ただ思考を停止して鬼を斬る、それだけに専念した。
否、してしまった。
違和感を感じることすら出来ずに幻へと意識を落とされた、けれども問題は
最初の襲撃からなのか、その次に出てきたやつからなのかが分からない。
もっと言えばあの時俺が見たと、そう思った蒼髪の鬼ですら本当に首魁の姿なのかすら判別がつかないのだ。
常に鬼が発する、邪気とでも言うべき特有の気配を感知しながら戦っているにも関わらず気付けなかった上に、今こうして考えてみても分からない。
けれども、遊ばれているということだけは考えずとも理解できた。
そうでなくては、今俺が生きていられるわけがない。
雑魚鬼に命を委ねられ、その鬼は確実に俺を殺せるように味方のいる巣へと導いた。
そんな無駄な過程が無ければ、今頃とうに俺は死んでいたのは間違いなかった。
そのことに気づくと同時、冷や汗が背中を伝って落ちる。
これまで──約半年程度ではあるが──思い返すのも億劫なほど殺してきたというにも関わらず、このザマだ。
それが意味するところは、つまり今まで戦ってきた鬼とは一線を画するということに他ならない。
そのことが分かっていて、それでも逃げ出すわけにはいかなかった。
鬼殺隊としての矜持が、味方──真菰と獅童──を置いて逃げるわけにはいかないと思う心が、そして何よりも鬼だけは赦してはいけないという決意が、その選択だけは赦さない。
逃げ出せ、と弱る心を食いつぶすように殺せ、と己の獣性が高らかにそう叫んでいた。
その感情にゆっくりと身を浸しながら、それでも思考は停めない。
必ず幻覚に落とすまでの何かがあった筈、否、あって然るべきだ。
思い返せ、思い出せ。
これまでの戦場とは何かが違ったはずだ、決定的に、何かが──あ。
思わず言葉を零し、それから思い至った考えに足を止め、意識をもう少しだけ深く落とした。
そうすれば引っかかるのは莫大な……それこそ、いつかの藤襲山の時に味わったような殺気、もしくは邪気──無論、比べるまでもない程の差はあったが、味わわされる感覚が近い──がジリジリと肌を焦がす。
この山に入った時、俺はこのあまりにも濃い邪気を感知することができなかった。
それを俺は、山を満たしている数多の邪気によって邪魔されていると自分を納得させたが、しかし違ったのだ。
あれほど充満していた邪気はあの鬼一人から発せられていたものだったということであり、そしてそれこそが血鬼術の絡繰りだったということだろう。
つまり俺たちはここに踏み込んだその瞬間からやつに捕捉されていて、同時に幻覚を徐々に見せられていたということだ。
恐らく即効性のあるものじゃないのだろう、だがそれ故に範囲が馬鹿げているほどに広い。
それこそ、山を覆ってしまうほどに射程範囲が広いこの、血鬼術とも言えるやつ特有の邪気に当てられたものは、少しずつ時間をかけて冷静さを失い、幻を見始める。
もしかしたら匂い等の他の要素もあったかもしれないがしかし、俺が観測できたことから導き出せるのはこれくらいだ。
そしてそれは、恐らくそう間違ってもいないだろう。
今の俺が正確にやつの邪気を捉えられているのがその確信を強く支えていて、それと同時に更に力を入れて地面を踏み込んだ。
この仮説があっているのであれば、長期戦は圧倒的に不利だ。
時間をかければかけるほど、幻を見せられる可能性が跳ね上がる。
鬼を斬ったと思ったら仲間を斬っていた、だなんて笑い話にもならない。
もしかすれば獅童達が戦った時はそうされていたのかもしれない、なんて思考が頭を過りつつも早さは緩めない。
既に邪気までは直ぐそこのところまで来ていた。
それを察しながら柄に手を添えて、呼吸をゆるりと整える。
最初に狙うのは隙を狙った一撃だ、それで済めば万々歳。
と言ってもまず上手くはいかないだろう、それを踏まえた上で次の行動を組み立てる。
冷たく、静かに、されど素早く。
足音を限界まで消して、己から溢れそうになる殺気も抑え。
邪気へと躙り寄る。
漏れ出た呼気から気炎が生まれて宙を融かし、視界にそれが映るより先にそっと刀を引き抜き──そして俺は
その光景を──今にも真菰の頸へと、鬼が喰らいつこうとするその瞬間を、目にして。
「その手を、離せ」
炎の呼吸・奥義──玖ノ型:煉獄
直後に爆炎が、殺意に押されて引き裂くように駆け抜けた。
限界まで出し切っていたはずの速力を軽々と飛び越えるように距離を食いつぶし、混濁の刃が宙を裂く。
鬼の見開く目と視線が交差して、それより速く真菰を掴む腕へと刀を振り下ろす。
刹那、鋼にでも打ち付けたような衝撃が腕を走った。
斬り、落とせない──否! 斬り落とす!
一瞬だけ過ぎった思考毎斬り払うかのように力を込める、呼吸を深くする、意識を鋭く尖らせる。
同時、刀は加速する。
途中まで食い込み止まると思われたそれは、加速度的に飛躍していく力を込められたことにより勢いを取り戻し、ついにその両の腕を断ち切った。
半端に笑みを浮かべ、しかし驚愕に染めたその顔に流れるように焔を靡かせる。
炎の呼吸・弐ノ型:昇り炎天
金属を裂くような重圧が両手に伸し掛かり、それでも力づくで斬り倒す。
一瞬だけ漏らされた声と共に放たれた蹴りを紙一重で躱して真菰を掴めば彼女は意識もないままに何かを呟いていた。
言葉になりきらずに消えるただの音、それだけで未だ幻の中にいるというのが分かり、そのまま飛び退いた。
同時に周りに視線を走らせれば、獅童はぐったりと木の根元に倒れ込んでいた。
その周りは酷く暴れまわったのか、あちらこちらに斬撃の跡が残っていて、当の本人は酷く荒い呼吸のまま、震えながら刀を掴んでいる。
真菰と同じ──長い間幻覚から醒めなければああなるのだろう、そう察して渦巻く殺意を押し込め鬼を見る。
そうすれば鬼は何が面白いのか、薄く笑って口を開いた。
ですが、貴方一人で私を倒せますでしょうか。
その、小さな荷物達も守った上で、この私を、と。
それを聞き流しながら真菰を獅童と同じように木の根元に座らせて、息を吐く、そして息を吸う。
静かに、されど荒々しく。
そうしてそれから、一言だけ返した。
試してみるか、と。
瞬間、炎は燃え広がった。
金属音にも近い、高らかな衝撃音が時折響き、焔が揺らめく。
戦闘は膠着状態──いや、見栄を張るのはよそう。
戦闘は、圧倒的に不利な状態が続いていた。
刃を彼女の身へ届かせることすら困難であるにも関わらず、当たったとしても斬り落とせない。
今の俺では渾身の一撃でないと攻撃が通らないのだ。
その上でほとんどの攻撃が紙一重のところで躱される、いや、紙一重になるように躱されている。
つまり白兵戦においても眼前の鬼は俺より上であるということで、それはイコールで遊ばれている、ということに他ならなかった。
鬼が、ほら、此方ですよ、とふわふわとした笑みを浮かべながら動きを誘う。
このまま嬲り殺しても良いだろうに、彼女はどうしても幻に俺を落としたいらしい。
それが分かるからこそ、攻めを抑える。
参ノ型で動きを掴ませないようにしながら、じっくりと機をうかがう。
冷静さをかなぐり捨てず、常に殺意に焔を灯し、静かに刃を振るう。
躱される度に相手の動きを目に焼き付け戦闘を組み立て直す。
弾かれる度に呼吸を深め、次こそはと気炎を吐き出す。
未だ、甞められきっている今だからこそ出来ることで、それこそが唯一の俺の勝ち筋だった。
相手が本気になれば直ぐにでも潰えてしまう勝利への道筋、それを自覚しながらもそれに縋る。
極度の緊張感に押し潰されそうになりながらも慎重に、一歩踏み込むことすら最大限の注意を払って接近と離脱を繰り返していた。
刺突、回避、斬り下ろし、離脱、斬り払い、弾かれる、急接近、旋回、斬り上げ。
時折放たれる鬼の短剣をすんでのところで躱しながら何度でもそうしていればふと鬼は動きを止めた。
粘りますわね。
幻覚に嵌めるのは難しそう──となれば、もう加減をするのはやめましょう。
ここらでお終いです、と。
その言葉に不味いと思い、それから数瞬後に火花が散った。
防御できたのはほとんど奇跡みたいなものだった。
反射的に刀を前に出し、そこへ強烈な刺突が打ち込まれる。
その細腕からは考えられないほどの重みが刀へとのしかかり、余りある破壊力が腕を駆け抜け、歯を食いしばる。
刹那の間、視線が絡み合う。
互いの殺意が混ざり合って弾け合い、それから息を吐き抜き素早く流した。
直後に拳を振るう。
振り払った右手の逆、左手を握り込んで勢いづいた鬼の顔面へと目掛けて振るい、しかし躱される。
するりと滑るように。
それを認識すると同時に身体は跳ね上げられた。
強い衝撃が顎を貫き全身を浮かす。
良く今ので頭が飛ばなかったものだ、そう思いながら続く第二撃、落ちてきた俺へと向かい放たれた短刀を先んじて地に突き刺した刀で受け止め、流す。
同時、ゴボリと血を吐き出した。
あの一撃だけで頭が揺れて、目端から血が流れて落ちる。
だが、それでもまだ生きている。
生きているということは、まだ戦えるということであり、それはまだ殺すことができるということだ。
乱れそうになった呼吸を整える、揺れる視界を素早く戻しながら真菰へと近づけないよう、誘導するように刀を振るい立ち回る。
明らかに体力は切れていて、負わされた傷は確実に身体を蝕んでいる。
たった一撃、拳を受けただけでこれだ。
次を喰らえば間違いなく意識を落とす。
その確信があったがしかし、焦ることはなかった。
これまでの経験が、内から溢れ返る殺意が、荒れそうになる心を鎮めて落ち着かせる。
冷静に放たれた短刀を、拳を、躱して弾き、流して避ける。
身体は疲弊し尽くしていたがしかし、反比例するように動きは洗練されていっていた。
最初は見えすらしなかった動きが今は目で追える、追いつかなかった腕が徐々に追いつくようになっていく。
余計な情報がすり抜けるように薄くなっていき、鬼の姿が、動きがより鮮明に目に映る。
少しずつ相手の動きの"先"が見えてきて、それに合わせて刀を振るう。
呼吸がどんどんと精度を増している、深みが増している。
それを自覚しながら意識を沈めるように集中力を上げていく。
しかしそれと同時に、鬼も速く、強く、恐ろしくなっていく。
その綺麗に靡く長髪は薄っすらと入り込む月光を反射してキラリと光る。
浮かべられていた妖艶な笑みは鳴りを潜め、殺意が全面に表れている。
それですら美しくあったが、しかし関係は無かった。
ただ、ひたすらに殺すのみ。
僅かずつではあるが、それでも確かに鬼の肌を裂く回数が増えていく。
舞う互いの血の量が増えていく、鬼の緊張感が、圧が強くなっていくのが手に取るように分かる。
肌を裂く、肩に痛みが走る、腕を掠める、衝撃が腹を貫く、脇を刻む、片腕から悲鳴が上がる、焔が走る、胸を短刀が掠める、頸を浅く断つ、掌底を受け流す、腕を、斬り落とす。
一際大きく血が舞った。
クルリクルリと互いの間で鬼の片腕が飛び、直後に踏み込んだ。
短刀が走る、それでも構わず焔を吹き出す、加速する。
速く、疾く、捷く。
どこまでも、何よりも疾く、何よりも強く。
炎の呼吸──壱ノ型:不知火
最速の一撃、届かぬ場所へ届かせる必死の刃。
宙を引き裂き溶かしながら踏み抜いて──しかしそれは、届かなかった。
届くより先に、痛みと衝撃が胸を撃つ。
鬼の穿ち放った極みの二撃が、胸を十字に刻み飛ばした。
────。
声が、出ない。
あまりの破壊力に空へと浮いた身体は全ての感覚を根こそぎ奪ったようで、指先一本すら動かせない。
あれほど回っていた思考は今や全く動かずただ空白が占める。
ドスン、と己の身体が地に落ちた音が耳朶を打つ。
カハ、息と共に血を吐き出して、逃げ出すこともままならないままそこへ這いつくばった。
終わり、なのだろうか。
草を踏み、寄ってくる音を聞きながらそう思う。
ここで、おしまい。
何もかも半端なまま、最後は鬼に返り討ちにあって死ぬ。
仲間も守れず、己の立てた誓いも守れず、ただ負けて死ぬ。
その事実をしかし、受け容れてしまいそうだった。
俺は頑張った、ここまで、限界まで努力してきた、鬼を、殺してきた。
そもそも鬼を根絶するなんぞ、俺一人が頑張ったところで無理な話だ。
所詮、身に余る殺意と願望だった。
だから、ここで終わりだ。
霞んでいる視界をそのままに、薄っすらと見える空を見る。
死んだら、父さん達に会えるかな。
自然とそう思い、しかし同時にそれで良いのか、とそう自分の中の誰かがそう言った。
こんなところで諦めるのか、と。
けれどもそれは余りにも小さく、弱々しい声だった。
全身を支配する虚無感の前にそれは静かに消える。
故に、消えかけた心の灯火は、もう強く燃え上がらない。
このままただ、消えゆくのみ。
足音は、もう随分と近くに来ていた。
いっそ早く殺してくれと、そう思い、鍛え上げてきた五感が、鬼の一撃を察する。
さようなら、貴方はこれまで戦ってきた人間の中でも、最も強かったですよ。
そう聞こえると同時にそれは振り下ろされた。
──否、振り下ろされたと、そう思った。
「ごめん──本当に、ごめん。そして、守ってくれて、ありがとう」
「かたじけない、後は自分たちにお任せあれ」
霞む視界の中で、雷鳴が空に轟いて、水流が美しく飛沫を上げた。