喧嘩の後の仲直りのような、面映ゆい空気が部室に流れる。
別に喧嘩をしていたわけでも仲直りをしたわけでもないんだが、感じてしまうのだから仕方がない。
ちなみに俺は喧嘩も仲直りもしたことが無い。理由は言うまでもない。吾輩はぼっちである。友達はまだない。
「で、雪乃ちゃんは何か言っておくことある?」
そんな空気など素知らぬ顔で、陽乃さんは口を開く。
「……姉さんは、余計なことを言う気はある?」
「すっごいある」
はぁ。雪ノ下のため息が部室を満たす。まあ、確かに殴りたくなる笑顔だったな、今の。
雪ノ下はこめかみに指を当てながら、目を伏せて切り出す。
「比企谷君は知っていると思うけれど――去年あなたを轢いた車に乗っていたのは、私よ」
「「え、えー!?」」
由比ヶ浜の驚きと俺の驚きが重なった。棒読みにはなっていなかっただろうか。雪ノ下の視線が冷たい。
当然知っていた。雪ノ下陽乃は初めて会った病室で、俺に言った。
『その車に乗ってた子が、君の通う学校で楽しく学校生活を営んでたとして。君の所に見舞いにすら来なくても、なんとも思わない?』
よく覚えている。その試すような物言いに、去年の俺は随分と腹を立てていたから。
その条件に当てはまる雪ノ下姓の人間は、雪ノ下雪乃しか存在しない。
「別に私は乗り合わせていただけだし、特に思うところはないけれど――」「雪乃ちゃん気にするタイプだもんね、そういうの」
雪ノ下が陽乃さんをジトリとした目で睨む。しかし陽乃さんの言葉に、まあそうだろうなと俺は思った。
雪ノ下はあの事故に関して、加害者でも被害者でもない。ただ居合わせただけの、言うなれば傍観者。
俺だったら寝て起きたらそんなことは他人事になっているだろうが、彼女は違うのだろう。嘘を吐かず、目を逸らすことを許さない彼女にとっては。
恐らく俺にそれを黙っていること自体、ストレスだったのだ。そう考えると、むしろ悪いことをしてしまった気分になる。
雪ノ下はかぶりを振って続ける。
「……まあ、突然飛び出してきた人と犬には随分と肝を冷やしたけれど」
「「ごめんなさい」」
今度こそ、2つの謝罪が重なった。
「まあ、大事がなくてよかったとは思う。それに――」
雪ノ下はしょんぼりと垂れる由比ヶ浜の頭を、ポンポンと撫でる。
「それで由比ヶ浜さんと出会えたのは、良かったと思うわ」
「ゆ、ゆきのん!あたしもだよ!」
がっしり。由比ヶ浜は雪ノ下に思いきりハグをし、雪ノ下は困ったようにオロオロとしている。陽乃さんは面白いものを見るようにニヤニヤしている。急にゆるゆりの世界が展開される。ここで俺が間に挟まったら恐らく、過激派から殺されかねないバッシングを受けることだろう。百合に割り込んじゃうおじさんだよぉ。
「さてさてご感動の所悪いけど、そう時間もないからプレゼントのお披露目して、ケーキ食べてお開きにしようか」
「ケ、ケーキまであるの!?」
「姉さんに教えた覚えはないけど……」
「チョコケーキが焼けたいい匂いが、部室の外までしてたじゃない」
「……」
犬?顔を見合わせた俺らは、恐らく皆そう思った。
「まあいいわ。由比ヶ浜さん。私から」
「開けてもいい!?」
「ええ、どうぞ」
わぁ、と由比ヶ浜はプレゼントをのぞき込む。そこにあるのはフリルが付いたピンクのエプロン。
「エプロンだ! かわいい!」
「あの料理を見て由比ヶ浜にエプロンを与えるのか、お前は……」
「む、あたしだってあれから料理練習してるんだから!」
由比ヶ浜は軽くエプロンを当てる。
まあ、似合ってないことはなかった。
「おめでとさん」
流れで俺もプレゼントを渡す。中々どうして、経験がないだけに恥ずかしい。
「あ、ありがと……あっ、これってもしかして」
由比ヶ浜は包みを開き、目を輝かせる。いそいそと何かを準備し、スカートを翻してこちらを向く。
「に、似合う、かな?」
そこにいたのはそれはそれは立派な、犬ガハマさんだった。
「いやそれ犬の首輪だから……」
「は、はぁ!? ふざけんなし! それならそうと最初にいってよね! ヒッキーのバカ! アホ! ぼっち!」
「ぼっちは関係ねえだろ……」
もーまったく。由比ヶ浜はぶちぶちと文句を言いながら、犬の首輪を包みに戻す。いや、俺悪くないよね、これ。
「ああ、私の番か。――はい、ガハマちゃん」
「陽乃さんも!? あ、ありがとうございます……」
由比ヶ浜は少し戸惑った様子でプレゼントを受け取る。
「……ハーネスと、リード」
それはまた由比ヶ浜が好みそうな、ピンクのハーネスに同色のリードだった。俺と同じ、彼女の飼い犬へのプレゼント。頭の悪そうな装飾も彼女好みだろう。
しかし由比ヶ浜の顔は曇る。彼女も俺も雪ノ下も、そのプレゼントの裏に何かを感じてしまう。
「ガハマちゃん。私は迂遠な物の言い方は嫌いだから、はっきり言うね」
「は、はい!」
多分雪ノ下陽乃の目が、笑っていないからだ。
「きみ、バカ?」
低い、今日もっとも低く暗い声が部室に落ちた。
「君の不注意で人身事故が起きてる。犬の責任は飼い主の責任だ。でも君に責任なんて取りようがないから、うちと君の親と運転手が責任を取っている。ここまでは君の足りない頭でも理解できる?」
「ひゃ、ひゃい……」
淡々と、笑顔で、しかし何よりも低く。彼女の言葉は続く。雪ノ下すら口を挟めない。由比ヶ浜は上ずった声でコクコクと頷く。
「ならせめて君にできることは、二度と犬に不始末がないように注意を配ることじゃないのかな? にもかかわらず君、この間の幕張でも犬のリードを手から離してたよね。あの時と去年の事故の時だけ偶々そんなことが起きてるとは、到底思えないんだ、お姉さんには。他の所でも色々やらかしてるんじゃないの?」
「ひ、ひぃ……ごめんなさ――」
「別に私は謝ってもらいたいわけじゃない。ただ2度と君の不注意で私のおもちゃ――もとい誰かが傷ついてほしくないわけ。君が失敗から学べないなら、もう誰かが教えてあげるしかない。ねぇ、分かる?」
コクコクコク。由比ヶ浜は無言で、激しく頷く。その目にははっきりと涙が浮かび、ボロボロと彼女の制服を濡らしていた。いやまあ、誰でも泣くわ。俺でも泣く。さらっと玩具呼ばわりされたことも泣けてくる。
頷く彼女に陽乃さんは満足げに笑う。ハーネスとリードを頭の上に掲げる。
次の瞬間、ショーは始まった。
「じゃじゃーん! そこで私が今日ガハマちゃんにご紹介したいのが、このダブルリード!」
「だ、だぶる、りーど……?」
突然の陽乃さんのテンションの振れ幅に由比ヶ浜はついていけない。いや、誰もついていけない。さながら某テレフォンショッピングのようなハイテンションで、陽乃さんのプレゼンは続く。
「そう、ダブルリード! 読んで字のごとく、2つのリードを犬に付けてお散歩をすることです」
「2つつけて、お散歩……?」
あほの子になっちゃった。元々だけど、本格的にあほの子になっちゃった、うちのガハマちゃんが。由比ヶ浜はただ陽乃さんの言葉を反復する。
「ガハマちゃんは飼い犬に首輪しかつけてないみたいだけど、これからはこのハーネスもつけて散歩をしてもらいます」
「はい」
由比ヶ浜は素直に頷く。つけるの決定事項かよ、というツッコミは誰も入れられない。
「このリードは普通のものより少し長くできています。これをベルトのようにガハマちゃんの腰に固定して、ハーネスにつなげます。このリードは散歩における『命綱』の役割を果たします。わかる?」
「はい」
もはや由比ヶ浜は、虚ろな目で頷く機械となっている。
「首輪のリードは今まで通り手に持ってもらいます。でもガハマちゃんの腰とサブレのハーネスにもリードは繋がっているから、ガハマちゃんがお間抜けにリードを離しても、サブレ君は逃げられません! 事故も起こりません!」
「おー!」
反応の良くなった由比ヶ浜に気を良くしたのか、陽乃さんのプレゼンはヒートアップする。
「通常価格は3000円ですが、今回は他ならぬガハマちゃんのプレゼントだから大サービス! なんと1500円でのご提供です! 数量に限りがありますので、お早めにご連絡ください!」
「か、買います!」
ダン!と由比ヶ浜が机に千円札を2枚叩きつけたところで、ようやく世界にツッコミが戻った。
「誕生日プレゼントで金をとるのはやめなさいよ、姉さん……」
「由比ヶ浜にとっては、とんでもない誕生日になりましたね」
陽乃さんのテレフォンショッピングが終わった、帰り道。陽乃さんはつまらなそうに爪を眺める。
「ま、自業自得じゃない? 嫌なことを先伸ばすと、もっと碌でもないことになる。良い見本でしょう」
「碌でもないことにしたのはどこの誰なんでしょうね」
「そりゃあ誰でもない、ガハマちゃんだよね~」
「白々しい……」
陽乃さんは気楽に口笛を吹く。全く、白々しい。あそこまで追い詰める必要は無かったろうに。俺は少し由比ヶ浜に同情する。
――そうだ。俺は確かに気づいていた。その白々しさに、不自然な敵意に、排斥に、そして違和感に。
ただ、見ない振りをしていただけだ。
「由比ヶ浜には、「いい顔」しないんですよね、あんた」
いつも何か一つ、この人には隠している裏がある。
後ろからかなりのスピードで車が迫ってくる。俺は自転車を端に寄せ、陽乃さんも俺の前に立ち一列になる。
小さな舌打ちが聞こえた気がした。
「最近はよく私に物申すねぇ、君」
「いえ、そんな大袈裟なことじゃなくてですね。ちょっと引っかかっただけで」
前を歩く彼女の黒髪に、努めて平坦な声を投げる。
「言うまでもなく、あんたは俺なんかよりよほど対人経験が豊富です。人によってごく自然に態度を演じ分けられるし、それを周りに悟らせるほど馬鹿じゃない。その点に関して俺はあんたを信用している」
「比企谷君と対人経験比べられても説得力に欠ける気がする……」
いきなり話の腰を折るような正論はやめて欲しいものだ。無視して続ける。
「でも由比ヶ浜に対しては、最初からおかしかった。彼女の作るクッキーを必要以上に酷評し、普段の部活動やこの前のわんにゃんショーでも、あからさまに無視すらしていた。そして今日です」
彼女は諦めようとする人間に手を差し伸べるほど優しくない。逃げる人間を引き留めるほど人が良いわけでもない。
今日の、いや、今までの彼女は些かおかしい。
「あんたは嫌いな相手にこそ優しく、どうでもいい相手にこそ「いい顔」をする。そう思っていたんですが」
「1つ、君は誤解してる」
くるり。陽乃さんは俺に振り返り、後ろ向きで歩く。
「別に私はガハマちゃんのことが嫌いなわけじゃない。むしろ好きだし、尊敬すらしているよ。雪乃ちゃんの友達って言うことを抜きにしてね」
「……へぇ」
では、なぜ。そんな問いを挟む間もなく、彼女は続ける。
「素直だよ、あの子。私のことなんて嫌いだろうに、私の言葉を無視するでも反発するでもなく、ちゃんと受け止めた。私も雪乃ちゃんもいるのに、君に頭を下げて弱さを認めた。誰にでもできることじゃない」
「あんたは嫌われる自覚があって、ああいう振る舞いをしてきた。今日も」
陽乃さんは俺の確認に、満足気な表情で頷いた。出来の良い生徒を前にした時のように。
「じゃああれですか。『好きな相手にそっけない態度とっちゃう小3男子』みたいなことですか」
「君がそれで納得するなら、それでいいけど」
いいわけがない。ゆっくりとかぶりを振る。陽乃さんは小さくため息を吐き、俺の横に並ぶ。
「由比ヶ浜ちゃんは優しくて素直ないい子だ。少なくとも、他人に対しては」
「……含みのある言い方ですね」
「含みを持たせてるからね」
「結論から話すのはプレゼンの基本ですよ」
「謎解きの基本はそうじゃないでしょう? ドラマの結論は22時50分まで、崖際まで取っておくものよ」
「2時間ドラマにはあまりなじみがないもので」
軽く笑って見せる。陽乃さんも付き合い程度に微笑む。
「自分に甘いんだよ、あの子。自分に対して不誠実と言ってもいい。だから危機感も薄いし、学習能力も低い。楽することと、保身に余念がない君と真逆だね」
「ほっとけ」
軽口をたたきながら、背中に冷たい汗が伝うのを感じる。雪ノ下陽乃の人物評はなぜか当たるのだ、いつも。
「私が「いい顔」で優しく、由比ヶ浜ちゃんにハーネスとリードをプレゼントしたとしよう。最初の内は彼女はそれこそしつこいほど確認して、犬に付ける。私への義理でね。
でもね、本当に人のために動ける人なんていないの。賭けてもいいよ。半年、もしかしたら3カ月も経てば面倒になる。ハーネスも2本目のリードも付けなくなる。そしてまた彼女は言うだろうね」
形のいい唇が、妖しく歪む。
『すいませーん、うちのサブレがご迷惑をー』
甲高い、恐らく由比ヶ浜を真似しただろう声は、嫌に皮肉めいて聞こえた。不快だ。なぜか俺は、ひたすらそう感じていた。不快さの正体がわからないのも、不快だ。俺はそれを振り払うように口を開く。
「……あんたは由比ヶ浜と初めて会った時から、ただこの日のために」
「さすが、理解が早い」
また満足そうに頷き、彼女は俺の頭を撫でまわす。鬱陶しい。それを無意識に、乱雑に払う。しかし彼女は嫌な顔一つしない。そんな涼しい顔も、不快だ。
「躾けっていうのはね、怖いものを教える所から、始めるんだよ」
幼子に教えるようにゆっくりと、かみ砕くように。彼女は言った。
つまり彼女は最初から、『気持ち』なんてものを勘定に入れていなかった。
雪ノ下陽乃は目的を定め、そのために種を蒔き、待った。辛抱強く、根深く。これまでの奉仕部での由比ヶ浜への言葉も行動も、全てただこの時のために。
『由比ヶ浜結衣を躾ける』
そのための道具として、彼女の雪ノ下陽乃への恐怖心を利用した。そこには感情も同情も存在しない。ただ目的と手段がある。
そして。ああ、そうだ。俺が今日感じた『気持ち』のようなものは、全て雪ノ下陽乃の掌の上にあった。そういうことなのだろう。
不快だ。気持ち悪い。でもやはり、不快感の正体はわからなかった。
そこから先は何を話したか、よく覚えていない。でもまあ、普通の会話はできていたのだろう。特に問題は発生しなかった。
そして交差点が見えた。ここで彼女とは別れる。信号が青になり、それぞれの道に歩を進める。
しかし、まだ謎解きは終わらない。
「比企谷君!」
呼び止められ、振り返る。陽乃さんはまだ横断歩道を渡っていなかった。信号が点滅している。
「ごめん、1つじゃなかった! もう1つ、君と私は誤解していた。君と話して、理由を考えて。ようやくわかったよ!」
「……なんでしょう」
これ以上は、勘弁してほしかった。聞きたくはなかった。何か掴みかけたものが、いよいよ遠くに行ってしまう。またそれが何かわからなくなってしまう。そんな気がした。
あのねあのね。しかし彼女は、雪ノ下陽乃は。ただただ嬉しそうに、楽しそうに笑う。
「君が傷つけられてムカついてたんだ、私!」
返事は、できなかった。早く赤信号になって欲しい。そればかり思っていた。
「ガハマちゃんに心底ムカついて、腹が立った。それだけのことで表情も態度も感情も、コントロールできなくなっちゃった! ただの女の子みたいに」
これは驚くべき発見だよ、比企谷君!
初めて、そんなかおを見た気がした。さっきまでの昏い笑みを浮かべる女性は、どこかに行ってしまった。道路を隔てて大声を出す彼女に、下手な演劇を見ている気分になる。
「ムカついたから、私はガハマちゃんを躾けようとしたんだ。気持ちを理屈で後付けしただけだ、私も君も!」
今俺の目の前には、新しい玩具を前にした少女のように無邪気な。しかし確かな女性が、アンバランスに立っている。
「案外私って単純なのかもしれない。私が思う以上に!」
「――そう、ですか」
信号は赤になり、俺たちの前を車が行き交う。
横に立ってるだけじゃ足りないのかもしれない。
少女の危うい笑顔を前に、俺は初めてそう思った。