今宵は満月   作:生崎

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レミリアちゃんと最初の従者

「……これは?」

 

 ふと、十六夜咲夜(いざよいさくや)は掃除の手を止めて、目に付いたものへと手を伸ばす。

 

 紅魔館恒例年末の大掃除。飛び交う妖精メイドに指示を出しながら、紅魔の主人、レミリア=スカーレットの部屋を掃除していた咲夜は、部屋に飾られた一枚の絵画を取り外した先にあったものを眺めて手を止める。

 

 絵画の下に隠れるように飾られた一枚の小さな絵画。色褪せたそれは、元の描かれたものはよく分からないが、人物画であることは間違いない。椅子に座った少女と、その背後に立つ二人の影。顔は分からず、辛うじて体の輪郭から男女一組であることが分かる。椅子に座った少女の褪せた青い髪色を見て、咲夜はすぐにその人物が誰か思い至った。

 

「……お嬢様?」

「あら、呼んだかしら咲夜?」

 

 背に掛かる聞き慣れた柔らかな声に、咲夜は背筋を正し慌てて振り返った。咲夜の振り返った先で待っていたのは、小首を傾げた紅魔の主人。レミリアは咲夜と、その背後にある絵画を見比べると、僅かに目を見開く。パタリっ、と背から伸びる黒い翼をはためかせゆっくり絵に近寄りそれに手を添えるレミリアの顔は哀愁を帯びて、その顔を見た咲夜は急いで頭を下げた。

 

「申し訳ございませんお嬢様、掃除をしていたら見つけてしまい、つい手に取ってしまいました」

「そう……」

 

 怒られることもなく、ただ愛おしく絵を見つめるレミリアの姿は珍しいもので、咲夜はバツの悪い表情を浮かべながらも、頭を上げて再びその絵へと目を向けた。絵の中のレミリアと二つの影。絵を撫でるレミリアの柔らかな横顔を眺めながら、一歩咲夜はレミリアへと足を寄せた。

 

「……大事なものなのですか?」

「……ええ、昔ね、昔と言っても今から四百年くらい前、私が当主になった時に記念して描いてもらった絵なのよ」

「お嬢様が当主に……」

 

 四百年前。

 人間である咲夜には、想像もできぬ昔。当主のレミリアしか知らない咲夜からすれば、当主になる前のレミリアなど想像もできない。目を丸くする咲夜にレミリアは微笑み、絵からそっと手を放す。

 

「……お嬢様の後ろにいらっしゃる方々はお嬢様のご両親なのですか?」

 

 そう考えて咲夜は口にするが、即座にレミリアは首を横に振った。では誰なのだろう? と首を傾げる咲夜にレミリアは笑いながら、懐かしそうに天井へと顔を上げる。その先にあるものを見つめるように。

 

「この二人は私の初めての従者たち。初めて私が掴んだ宝物」

「お嬢様の初めての?」

「そうよ、なぁに咲夜聞きたいの? この二人の話」

 

 同じ従者であればこそ、咲夜は是非聞いてみたいと強く頷く。レミリアが昔の話をほとんどしないということもある。期待に目を輝かせる咲夜の顔を見上げて、たまにはいいかとレミリアは腰に手を当ててホッと小さく息を吐き出すと、「紅茶を淹れて」と言い部屋のベッドへと腰掛けた。

 

「少し長くなると思うから、口が渇くのは嫌だもの」

「あ、はい! すぐに!」

 

 一瞬で姿を消した咲夜にレミリアは笑い、力を抜いてベッドへと仰向けに倒れた。絵を見なくても鮮明に思い出せる昔の記憶。ただの小娘が当主になるまでの旅の軌跡。溢れてくる思い出をどう言葉にしようかと思いに耽るレミリアの耳に、すぐに走り寄って来る足音が届き体を起こした。

 

 随分急いで来たなと笑いながら、咲夜が来るのに足音が聞こえるか? と首を捻りながらレミリアが体を起こし切れば、ティーセットを準備している咲夜に続き、図書室に篭っているはずのパチュリー=ノーレッジと小悪魔、紅魔の妹フランドール=スカーレット、門番 (ホン) 美鈴(メイリン)までもが部屋にいた。

 

 そんなに私の昔話が聞きたいのかと苦い顔をするレミリアの前にティーカップが差し出され、レミリアは紅茶を一口飲むと仕方がないとため息を吐く。

 

 顔を上げたレミリアは美鈴と少しの間目を合わせ、お互い小さく笑うと唇を一度軽く舐めて口を開いた。話すのは遥か昔の物語。レミリアが当主になるまでの物語。その始まりは────。

 

「その日は満月だった────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日は満月だった。

 

 ────カサリッ、と。

 

 乾き切ったボロい布切れと、ベタつく潮の香りが交ざった風。それに包まれ内に隠された汚れの張り付いた細腕を摩る。路地の中、木造の壁を背に薄く重い色をした雲の切れ間から覗く目玉のような満月を見上げて、少女は人よりも幾分か伸びた犬歯を強く噛み締める。

 

 

 ────失敗したッ! 

 

 

 数ヶ月前に決死の覚悟で全てを賭けていた計画が脆くも崩れ去った。

 

 信じていたのにッ! 

 賭けていたのにッ! 

 妹のためにッ! 

 

 少女の妹は類稀なる才能を持ってこの世に生まれた。その才能のまま母親の体を破り抜き、この世に産声を上げた悪魔の妹。あらゆるものを破壊しうる『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』という性質を身の内に宿した恐るべき少女。

 

 フランドール=スカーレット。

 

 少女の父親は人間ではない。夜の世界を我が物顔で支配する夜の王。生物の体に流れる朱を啜る怪物。蝙蝠の翼と鋭い牙。指一本で人間を殺しうるだけの膂力。流れる風より速く動き、縦横無尽に空を舞う。

 

 吸血鬼。

 

 それが少女と少女の妹、フランドール=スカーレットの父親である。その娘である少女とフランドールもまた同じ。人を超える怪物だ。だが、怪物だからといって、人に必要なものが不必要なわけではない。それは優しさであったり、愛であったり、形はないが大切なもの。だがそれを親から少女が受け取ることはなかった。

 

 少女の親は野心家だった。父も母も、他人を顧みず己のことしか見ていない。欧州、ルーマニアの夜をいかにして支配するかということにしか高尚な頭を使っていない。だから母が死んだところで少女にとってはどうでもよかった。所詮、血の繋がりしかない相手。母から少女はなにも与えられていない。

 

 だが、妹からは違った。

 

 フランドールが初めて呼んだ人の名は、父の名でもなく母の名でもなく姉の名前。

 

「レミリアお姉ちゃん」

 

 と口にした妹の笑顔を見て、初めて少女、レミリア=スカーレットは愛を知った。いつも後ろをついて来て、姉の名を呼び笑顔を向ける。誕生日にはプレゼントをくれた。そんなフランにレミリアもよく贈り物を。フランの笑顔を見るために。そんな無邪気な妹は、ただその性質が故にレミリアと違い父に気に入られた。

 

 それが悪夢の始まりだ。

 

 フランの力があれば夜を獲れる。醜悪に歪んだ父親の顔をレミリアは今も忘れない。フランの力を試すため、あらゆる試練を父はフランに課した。日に日に擦り切れてゆくフランの姿を、どうしてもレミリアはそのままにしておくことはできなかった。

 

 だから使用人に頼み、考えを巡らせ、父親の魔の手から妹を取り戻すためにレミリアは計画を練ったのに。一人の使用人の裏切りで全てが終わった。

 

「惨めだなレミリア=スカーレット。お前は惨めだ。ひとりぼっちの卑しい娘」

 

 笑いながら見下ろしてくる吸血鬼の紅い瞳。

 

 悔しくて、悲しくて、父の言う通り惨めで、それでも逃げるしかなくて。居場所のなくなった屋敷から追い出されて数ヶ月。常に惨めな想いを握り締め、故郷から遠く遠く離れるしかない。それがどれだけ気に入らない行為でもそれを続けるしかないことが余計に心を掻き毟る。

 

 青い髪を小さく揺らし、枯れ果てた目元を強く擦る。常に妹への罪悪感と、自分の無力感に打ちのめされて。高鳴るお腹の音に手を添えて耐え、鼻を啜るも涙も出ない。頼る相手も、話す相手もいやしない。最後に零された父の言葉が楔のようにレミリアの心に突き刺さったまま。ひとりぼっちの卑しい娘。手に取れるものなど一つだけ。フランから誕生日の日に貰った、首から下げた十字架のネックレス。洒落が効いている贈り物を握り締め、レミリアはまた鼻を啜る。

 

 ────ドカッ! 

 

 そんなレミリアの隣で響く乾いた音になる、小さくレミリアは肩を跳ねる。背に付けた壁から感じた衝撃に少し背を浮かせ、レミリアは恐る恐る顔を横へと向けた。感じた衝撃の通り、隣に佇む人の影。擦り切れた黒い着物を風に揺らした赤っぽい髪をした男。口には安っぽい煙管を咥え、首を擡げると男はボロ布を僅かに捲り中に隠れたレミリアの顔を覗き込んだ。月明かりを反射して輝く紅い瞳と見合うは、青翠色をした瞳。男は眉を顰めて煙管を口から離すと、ふっと夜空に紫煙を吐いた。

 

「……────なんだ、人がいたのか。今宵寝るのに丁度いいぼろ切れがあると思うたのに。俺もツいてないな」

 

 つまらなそうにまた煙管を咥えて紫煙を吐く男の無遠慮さにレミリアはムッとするが、言い返す元気もなくそのまま壁にもたれてボロ布を纏い直す。夜風の寒さに鼻を鳴らしながらレミリアは動かず、そして何故か男も動かない。ちらりとレミリアが男を見れば、夜空を見上げて煙を吐くばかり。身なりからして家なき浮浪者かと首を傾げる吸血鬼の腹が再び鳴り、レミリアは気恥かしさからギュッと体を縮こませる。他人であろうと近くに誰かがいる時に響く自分勝手な胃袋に向けてレミリアが内心で悪態を吐いていると、軽く肩を小突かれる。

 

「いるかい?」

 

 男は着物の懐から小さな包みを取り出して、中にあるものを少女へと差し出した。薄ら笑みを浮かべる男と差し出された食べ物を交互にレミリアは見つめ、その様子に男は小さな笑い声を零す。

 

「そりゃあ『ぱん』とか言う食い物らしい。俺もさっき口にしたがどうにも口に合わなくての。白飯の方が口に合う。残り物でよけりゃあ、だが」

 

 笑う男にレミリアは顔を背け、より小さく縮こまった。いくらお腹が空いていても、施しは受けたくない。腐ってもレミリアは良家の娘。それも異国の地で。知らない者に。顔を前へと向ければ、行き交うのは、スーツ姿の欧州人と着物姿の極東人。その両極端な人間たちを眺めて、またレミリアは鼻を啜る。

 

「なんだいらないのか? あんなに盛大に腹を鳴らすものだからてっきり腹空かしだと思ったのだが。いらないとなるとこれは鼠どもの晩御飯になるしかないのだがなぁ。どうだ?」

 

 しつこい! とレミリアは身を捩るが、胃袋は素直である。しばらく何も入れていない腹はぐぅぐぅ鳴る。我儘なお腹を睨みつけて、レミリアは力の入らない手でお腹を叩くが、全く言う事を聞いてくれない。そんなレミリアに笑いながら男はパンを差し出した手を引っ込めず、鬱陶しさから「いらない」とレミリアは手を振って男に手を払おうとしたが、強引に口にパンを捻じ込まれた。

 

「なんだ喋れるんだな外来の娘。童は貰えるもんは貰っておくものだぞ? 痩せ我慢しても仕方がない」

 

 お節介焼きの男にレミリアは牙を剥こうと口を開きかけるも、口の中のパンに抵抗虚しく意識を持っていかれる。久し振りの食料。どういう経緯であろうと、口に入れば味わうだけ。ボソボソのパンは決して味が良いとは言えないが、それでもその味に貪り付き、両手で急いで口へと捩じ込む。急ぎ過ぎて咽せるレミリアに男はまた笑い、「ゆっくりでも、ぱんは消えん」と紫煙を燻らせる。

 

 施しを受けた。それも人間に。

 

 後から湧き上がって来る新たな無力感に自己嫌悪したところでパンを食べた事実は消え去らない。腕を掴み呻くレミリアへと男は目を落とすと、困ったように肩を竦める。

 

「で? 外来の娘が一人でなんでこんなところにいるのだ? 家出か? なら早く戻らんと置いていかれてしまうぞ。こんな小さな島で一生を終えたくはあるまい」

 

 男は指で地面を小突き、遠く路地の先、港に停泊している帆船へと目を向けた。

 

 十七世紀、日本。

 

 徳川幕府が日本を統一した世にあって、日本は海外と通ずる道を断つ。所謂鎖国。だが、そんな日ノ本の地で唯一外国と取引できる小さな島が存在した。今で言う長崎の端に造られた小さな人工島。出島と呼ばれる小さな島でのみ、対ポルトガル貿易、対オランダ貿易が行われていた。厳しく規制された小島の中で、なぜ小さな少女が一人ぼろ切れ纏って蹲っているのか? それが男には分からず、家出なら早く船か宿に戻るのがいいと促すが、レミリアは動かずそっぽを向くだけ。唯一零した言葉も、「……子供じゃない」というさしてどうだっていいものだ。

 

「ほう童子ではないと? その背丈でよく言ったものだ。早く帰らないと親が心配するぞ」

「私の親は心配などしない! あっち行け人間!」

 

 なにも知らないくせにッ! とレミリアは吠え、男は困ったように煙管を噛む。息を荒くするレミリアに、どうやら虎の尾を踏んだらしいと眉をハの字に曲げて、「そりゃ悪かった」とバツ悪そうに詫びた。

 

「だがならなぜこんな所にいる? 身なりから見て……まさか密航か? そりゃあ重罪だぞ。童子一人で危ないの」

「だから子供じゃない! 私はもう百歳を超えてる!」

「ひゃくさい〜?」

 

 布に包まるレミリアの頭の天辺から足元までを見て、下手な冗談だと男は大きく笑った。「笑うな人間!」とレミリアは怒鳴るが、どう見てもレミリアは十歳ほどの子供にしか見えない。男の五倍以上生きていると叫ぶ少女に「そりゃ悪かった」と笑いながら男は謝り、目尻に溜まった雫を指で払う。

 

「では、えー、あー名前はなんて言うのだ?」

 

 レミリアは口を引き結び、どうでもいいと答えようとしたが、一応は食料をくれた相手。気に入らなかろうとレミリアの胃袋が限界であったことも真実であり、最低限の礼は払わねばならないという貴族としての矜持がレミリアの名を紡がせた。

 

「……レミリア=スカーレット」

「れみ? なんだ外来人の名は難しいな。れみぃと呼ぼう。では、れみぃはなぜここに居るのだ? 女子一人で来るようなところではあるまいに」

 

 早速名前を略しだす無礼者に言う必要はないとレミリアは顔を背けるが、お節介な男は諦めるという事を知らないのか全くめげない。「んー?」と首を捻る男の口を閉ざすには、この場から去るか、言葉を返すか、物理的に口を開けなくするかの三択。

 

 だが、レミリアはもうくたくたで、何よりパンを食べたとはいえ未だに上手く力が入らない。去るのも怠く、人ひとり力で負かすのも気だるい状況に、二番目しか選ぶ選択肢がない。それでも正直に答えるなどという事はあるはずもなく、「……お前は?」と聞き返すことで話を反らした。そんなレミリアの問いに男は腕を組むと律儀に答える。

 

「俺は用心棒なのだ。それでここに居る」

「用心棒?」

「銭を貰って頼まれたものを守る仕事ぞ。今は丁度ここに運ぶためのものを護衛して来た帰りなのだ。夜も遅いし宿を取ろうと思ったんだが偉く高くてなあ、それで野宿というわけだ。なかなかいい場所を見つけたと思ったんだが、そしたられみぃが先に居ったという具合だな」

 

 特に言い淀むこともなく答える男に「ふーん」と適当な返答をレミリアは零す。そんなレミリアに「それじゃあ、れみぃの番だな」と男は笑い、レミリアは口を痙攣らせた。ここで野宿すると言った通り、男に動く気はなく、寝る前の暇つぶしとばかりに話を続けるらしい。煙管を咥え直して紫煙を零す男を見上げて、レミリアは弱く自分の肩を抱いた。

 

「……別に、家を追い出されただけ。でも、絶対帰るわ」

「……そうかい、……遠いのか?」

「距離は関係ないわ、絶対帰るの」

「……ひとりでか?」

「一人でよ! もう誰にも頼らないわ絶対!」

 

 みしりッ、と音が聞こえるかのように歯を食い縛るレミリアの姿に、力なく男は肩を落とした。震えるボロい布切れをしばらくの間横目に見つめ、大きく息を吸い込んで肺を紫煙で満たすとゆっくり長く息を吐く。「なあ……」と男は間を置いて、レミリアへと顔を向けた。言わずにはいられないと言うように。

 

「一人じゃあできないこともある。頼れる時は誰かに頼った方がいいぞ」

「……それで裏切られても?」

「……そりゃあ────」

 

 言葉に詰まった男に小さく笑い、レミリアは強く顔を顰める。鼻腔を擽る潮の香りに交じった獣の匂い。力ない体になんとか力を込めてレミリアは立ち上がると急いで歩き出す。背に掛かる男の声に一度振り返り、「パンありがと」と小声で礼を返してレミリアはもう振り返らず、ただ走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る速度は速いとは言えず、肌を撫ぜる風の心地悪さにレミリアは荒い息を吐いた。物凄い速度で近付いて来る人ならざる者の匂いから逃れるように足を進めるが、風に掬い取られるようにレミリアの体は宙に浮き、無様に砂の大地へと身を転がす。

 

 顔に降りかかった砂埃を振り払い顔を上げたレミリアの先に光る二つの眼光。鋭い牙と重く響く唸り声。月明かりを突き刺すような灰色の毛並みを見て、レミリアは小さく後退さった。

 

 人の形をしていながら、頭は狼。手足から伸びる鋭い爪は、容易く肉を裂いて骨を断つ。ルーマニアの屋敷で何度か見た怪物の姿。その姿を見てレミリアは強く歯を食い縛った。ウェアウルフ。吸血鬼、フランケンシュタインと並ぶ三大怪物。最悪の裏切り者。

 

「貴様はッ!!!!」

 

 内で渦巻く激情を吐き出しレミリアは握った拳を握るが、力の足りない吸血鬼のスピードに遅れを取る人狼ではない。退屈そうに人狼はレミリアの覚束ない足を払って地に転がすと、その小さな体へと足を落とし軽く踏み付けた。口から空気を吐き出す吸血鬼に嘲笑を零し、人狼は大きく満月に吠える。

 

「やっと捕まえたぞレミリア=スカーレット。鬼ごっこが得意らしい、こんなとこまで逃げやがって。おかげで俺までこんな島国に来ることになった。お前があの時死んでいればこんな島国に来ることもなかったと言うのに」

「貴様ッ! この、裏切り者! アイツに口添えしたな!」

 

 悲痛なレミリアの顔を味わうように人狼は舌舐めずりし含み笑う。熱くなっている小娘がなにを叫ぼうが、そんなものは力ない者の叫び。負け犬の遠吠え。敗者に敗北の二文字を突き立て刻み込むように、鋭い爪をレミリアの首元へと緩く当てる。

 

「小娘一人に協力してなにを得られる? お前を売ったおかげで俺の地位は上がったよ。その最初の仕事がお前のクビを持って来ることというわけだ。お前はもういらないとさ! 親に捨てられた哀れな娘!」

「くそッ! くそッ‼︎ 貴様ッ! 殺してやる!」

「はッ! 殺す? 俺を? どうやってだ!」

 

 強く踏み締められた人狼の足にレミリアの肋が痛く軋む。息を詰まらせ呻き声を吐き出した。それがご馳走であるというように人狼は歯をカチ鳴らし、潤む吸血鬼の瞳を覗き込む。それが溢れる様を見逃さないように。首に当てた爪をちょっとずつ押し込んで。レミリアが最も聞きたくないだろう言葉を吐く。

 

「あれから毎日お前の妹の泣き叫ぶ声が館に響いて止まないぞ。お前が失敗したからなぁ。良かったな知れて、俺に感謝しろよレミリア=スカーレット」

「ふざけっ‼︎ 貴様らフランをッ! 私のたった一人の妹をッ! 許さない! 絶対許さないからな!」

「お前の許しなんて必要ないな。無様だなレミリア、ひとりぼっちな哀れな娘」

 

 ────嫌だッ! 

 

 ────────嫌だッ! 

 

 声にならない悔しさが、レミリアの目の端から零れ落ちる。遠い島国で誰に知られることもなく命を散らす。妹の笑顔を再び見ることもできず、ただ悔しさと自己嫌悪と妹への罪悪感が胸の中で掻き混ざり、拳を握り締め、口から出る声は言葉になることなく夜空に木霊するばかり。それを聞いて身を躍らせながら、悲痛な声に人狼の笑い声が不協和音となって混ざり合った。

 

「くっはっは! なんだその拳は、殴れるものなら殴ってみろ!」

「じゃあ遠慮なく」

「は? ────ッ⁉︎」

 

 間の抜けた人狼の声が置き去りにされ、巨体が木造の倉庫の壁に突っ込んだ。目を瞬いたレミリアのぼやけた視界の中に立つ、短い赤毛を揺らす青い瞳の男。振り抜いた拳を怠そうに振って、呆けた少女の紅い瞳に笑みを与える。

 

「だから言ったろうれみぃ、一人じゃあできないこともあるって。頼れる時は頼った方がいいってな」

「貴方……、なんで……?」

「んー? 童子が泣く姿は見たくなくてなあ。……まあ個人的な理由だ気にするな」

 

 柔らかく笑って差し出される男の手をレミリアは弱々しく見つめ、おずおずと手を差し出そうとすれば、強引に男に掴まれて引っ張り起こされた。同時に轟音を上げて吹き飛ぶ倉庫に遠くで叫び声が上がり、困ったように男は頭を掻いた。這い出て来る人狼の鋭い眼光が男を射抜き、男は薄く笑い声を上げる。

 

「困ったなあ、これは早く終わらせないと人が来るぞ。それにしてもあれは……妖? 初めて見るタイプだな。と、いうことはれみぃも妖か。それなら百歳というのも納得ぞ」

「……貴方驚かないの? 怪物を見て」

「俺は用心棒だと言ったろう? 特によく相手をするのは実は人じゃあなくての。出島に来る前は東北の方で用心棒をしていたのだ。遠野辺りで、っと言っても分からないか。だからまあ見ておくといい、極東の侍ってやつをの」

 

「良い刀が落ちてるな」と笑いながら、吹っ飛んだ倉庫の残骸の中から男は刀を拾い上げる。軽く足を踏み調子を確かめながら、男は散歩にでも行くかのような気楽さで人狼に向かい一歩を踏む。唸る人狼の声に身を震わせて、男は体の力を抜く。

 

「なんだお前は? なぜその小娘を守る? 弱っちい人間が」

「童子を泣かせるような奴は糞だ。つまり俺は貴殿が気に入らない。そんなわけで斬らせて貰うぞ妖」

 

 微笑む人間の顔が癪に触る。斬ると言いながらまるで構えず、ただ歩いて来る男に人狼は牙を覗かせ唸り姿勢を落とした。隆起する動物的な筋肉の動きを男はゆったり眺めながら、一瞬の後、人狼の姿が消え、遅れて大地の抉れる音が轟いた。

 

 銃弾のように地を駆ける人狼の姿を見ることは叶わず、目も向けず突っ立つ人間を見て人狼はほくそ笑んだ。

 

 隙だらけ。

 

 一向に闘いの姿勢を見せない人間の首を跳ねるなど、片手間にやるより簡単だ。男がどんな叫び声を上げるのか、気道を切り裂かないように最低限の致命傷を与えようと爪を伸ばす人狼が男の横へと一歩を踏んだ瞬間、

 

 

 ────コキっ。

 

 

 軽い音と共に人狼の視界が上へと吹き飛んだ。男から満月へ。視界に映り込んだものの急激な変容に、人狼の口から間抜けな声が漏れそうになるが、顎の痛みに引き摺られて人狼の口からは言葉が出ない。その痛みの正体は、人狼もよく知る拳の痛み。目玉を動かした人狼の先に、隙だらけの状態から一転、拳を振り抜いている男の姿に人狼の目が見開かれる。

 

「おまッ……⁉︎」

「抜ケン術。寂れた流派の寂れた技さ。な?」

「は?」

 

 時が跳んだように、いつの間にか抜き身の刀を肩に置いた男の姿を最後に人狼の視界が斜めにズレた。

 

 『抜ケン術』。

 

 斬る技術、殴る技術というよりもその間の技の集大成。刀を抜く、拳を振るう。それをいかに無駄なく気取らせず繋ぎを見せないように行うか。極めれば極める程に普段と戦闘時の違いはなくなり、ただの動作が技となり昇華されてゆく。ただ歩く姿が既に決死の構え。隙だらけが必殺の間合い。初見殺しを極めた技術。達磨落としのようにバラバラに崩れ去った人狼の姿に、レミリアはぽかんと口を開けた。

 

「さてと、じゃあのれみぃ。捕まったら大変だ。お互いさっさと退散するとしようぞ」

 

 お達者でー! と手を振り去ってゆく男の背をしばらく呆然とレミリアは見つめていたが、はっと頭を振ると、慌ててレミリアは男の背中へと飛び付く。急に身にかかった重さに男は動かしていた足を緩めて、背中に張り付く吸血鬼へと目を向けた。

 

「どうしたれみぃ、悪いがもう行かねば。あの倉庫を見てみるといい。言い訳が大変だ。俺は捕まるわけにはいかなくての」

「待って! 貴方、……」

 

 強い。お腹いっぱいで全力ならば無論レミリアも追ってきた人狼に負ける気はない。が、フランの待つ館には、より多くの妖が、より多くの裏切り者がいる。なにより憎い父親が。一人で全てを打ち崩すのは、レミリアでも不可能だと、悔しいが分かってしまう。

 

 逃げて、逃げて、逃げ続けて、それだけでは永遠にフランの下に辿り着けない。いい加減前に進まなければならない。妹へと足を向けなければ、永遠に欲しいものは掴めない。本音を言えばもう誰にも頼りたくない。が、それでも前に進むため、なんとか引っ込みそうになる言葉をレミリアは絞り出す。

 

「────お願いっ、力を貸して欲しいの!」

「うぅん……、悪いが断る」

 

 少女の全力のお願いを、あっさり男は両断する。

 

「なんでよ⁉︎ 頼れる時は誰かに頼れって言ったのは貴方じゃない! 言ってることが違う!」

「俺は用心棒なのだ、タダ働きはしないのだ。俺も仕事で力を貸しているからの。そんなわけですまないの、れみぃ」

「あ、ちょっと⁉︎」

 

 レミリアを引き剥がして歩いてゆく男を見つめ、レミリアは歯噛みする。人間であろうと弱くはない。なにより極東の者ならば、故郷にいるレミリアの父親の息がかかっているはずもない。フランのことを思えばこそ、今はなんであれ力が必要だ。首に揺れるフランから貰った十字架のネックレスを握り締め、レミリアはもう一度男を引き止める。

 

「待って! なら、そう! 私が貴方を雇う! それならいいでしょ!」

「なに?」

「これは! 私が妹から貰った一番の宝物……、高価なものよ。これを貴方にあげるわ! だから……力を貸して! 妹を救うために!」

 

 強く輝く紅い瞳に、男は困ったように頭を掻き、レミリアが握るネックレスを見つめる。「俺は伴天連じゃあないのだが……」とぼやいてネックレスを見ようと手を伸ばして来る男の手をレミリアはぺしん、とはたき落とし、見えないように胸元に仕舞う。

 

「まだダメよ! あげるのは妹の下に着いた時、貰うだけ貰って逃げられたらイヤだもの」

「俺だって真っ当な用心棒だ。そんなことしないが……、うーん、まあいいか。ちなみにれみぃの妹君はどこにいるのだ?」

「海を渡った先……ルーマニアに」

「るーま……どこだ? 海を渡ったって外国か? そりゃあ……」

「妹を囚らえてる父を討ち倒し、妹を救う。そして私が新たな当主になる! 妹と自由に暮らすために! そのために貴方の力を貸して。答えは?」

 

 口を引き結んだレミリアの顔に目を落とし、男はしばらく考え込む。少女の紅い瞳を見つめながら、懐から煙管を取り出し火を点けると紫煙を吐いた。何度かそれを繰り返し、煙管を口から離すと乾いた唇を舐める。薄い潮の味に小首を傾げ、「いいだろう」と紫煙と共に男は吐き出した。

 

「……なら誓って、私は絶対に裏切りだけは許さない。その時は地の果てまで追ってお前を殺す! 誓える人間?」

「そんなことしないさ、れみぃ。引き受けたからには任せてくりゃれよ雇い主殿」

「雇い主殿? 優雅さに欠ける呼び方ね。私のことはレミリア様、もしくはお嬢様とでも呼びなさい」

「れみりゃ? あー、お嬢様にしよう。よろしく、れみぃお嬢様」

「ええなら行くわよ。頼むわ、……そう言えば貴方の名前は? 聞いてなかったわ」

 

 レミリアの問いに男は「あー」と呻き天を仰いだ。すぐに名を言わない男にレミリアは怪訝な顔を向け、慌てて男は言葉を探した。男は目を泳がせて周囲を眺め、天に輝く月を望む。

 

「満月……」

「なに?」

十五夜満月(じゅうごやまんげつ)だ。よろしくお嬢様」

「なにそれ……、ネーミングセンスを疑うわ」

「ほっとけ、他人の名ぞ。今からだと、西洋には直接は行けないぞ? 行けて大陸の方だが」

「なんだっていいわ、妹に近づけるのなら」

 

 前を行く小さな雇い主の背を見つめ、満月は肩を竦めて歩き出す。まん丸い月の見え方は西洋では違うのだろうか? と少し興味を抱きながら、満月は小さな背中を追いかけた。口元を緩やかな三日月に変えて。

 

 

 

 

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