必ず戻る。
そうレミリアが誓い約半年。
極東修羅の国、
五千年の歴史を刻む国、
絹の長道、
灼熱と極寒を繰り返す砂の大海、
世界最大の山脈、
王たちの霊廟、
屋敷に引き篭もっていたのでは見ることは叶わぬ世界の色彩。
極東の侍と中華の拳士。
見慣れぬ風貌の従者を二人、初めてできた従者を二人、異国の
絶対的な父親が全てを握る夜国の中で、最愛の妹の為にただひとり拳を握るも大敗を喫した日は遥か昔、信頼と友情と忠義と信念。ゆっくりと積み上がっていった大切なものが、今や手放せない形となってレミリアの傍に立ち背中を押す。勝利と敗北。たった二つに分かれている道先のどちらに向かうことになろうとも、その軌跡こそが大事であるともうレミリアは知ったから、ただの一介の小娘から夜の主へ、
だからこそ、レミリアは誰より速く一歩を踏み出す。
自分たちの道先を己自身で決めるため、決められた未来を踏み躙るために、勝利に向けての一歩をレミリアは────。
「ッ──⁉︎」
顔に走った衝撃に、レミリアの顔が大きく仰け反る。視界の中に舞う朱雫の欠片と、息の詰まる変形した鼻を抑えながらレミリアは強く目を見開いた。踏み出そうとする未来を否定するように、一歩先に手を差し向けるドラクル=スカーレットの一撃がレミリアの足を縫い止める。
「「お嬢様!」」
感覚で機微を拾えても反応する事は叶わず。レミリアよりも幾数年月長い時を生きる大人の吸血鬼。紡がれる二つの叫びに支えられるように、後ろに吹っ飛びそうになる体を足を踏ん張る事でレミリアは押し留めた。忌々しげに目を細めるドラクルの顔を見上げ、レミリアはひん曲がった鼻柱を摘むと、痛々しい音を鳴らし鼻の形を正す。
「……留まるか」
「御不満かしら?」
腕を組み夜空に舞う蛍のように宙を滑るドラクルに微笑みを向けてレミリアは服の汚れを払った。
未来を見る。
ルーマニアを統べる吸血鬼が絶対たる所以。不敵な笑みを向けながらも、レミリアは背筋に冷たい汗を流す。やることなす事先に居座るドラクルに、矛を向けたところでその先には既に居らず、見ている世界がそもそも異なる。先が分からず我武者羅にレミリアが動こうとも、ドラクルは見えている先を世界に落とし込むように動けばよいだけ。
目指す終着点が分かっているということがどれだけ余裕を生むことか。
レミリアの歩んだ世界の大路も、ルーマニアという帰るべき終着点が明確にあったからこそ、心折れそうになった時に助けになったところが少なからずある。ルーマニアの支配者に戦いを挑むということがどういうことか、レミリアだって分かってはいた。だが、出だしの一歩さえ潰される始末に、笑いながらも恐怖を覚える。出口分からぬ迷宮だと知っていながらも足を踏み出すことと同じ。
だからこそレミリアは冷や汗を垂らし、
そして、だからこそドラクルは眉間に皺を刻む。
レミリアが一歩を踏み出すことも、その結果どう動くのか、異国の従者はどう動くか、全て分かっていた上で、最も効率的にレミリアの動きを潰すため出鼻を挫いた。そこまでは思い通り。目に映る先と今が重なった瞬間、しかしそれが直後ズレとなって視界を割る。
頭が千切れるか、それとも壁に突き刺さるか、従者が支え三人仲良く地に転がるか。分岐する道先の何処であろうと転がっていた小さな吸血鬼が、膝さえ折らずに立っている。悔しさに歪めるはずの顔は笑みを浮かべ、あったはずの未来を吹き消すように立つ小さな吸血鬼が理解の外に爪先を着けた。
「貴様は、いつも私の期待を裏切ってくれる」
未来を見るドラクルと、同じく強大であった吸血鬼の妻との間に生まれたレミリアが、国を大きくする種となるはずだった未来を容易に打ち破った事に始まり、吸血鬼らしからぬ優しさと、なんの特別な力も見せない小娘が、再び未来を少しづつ削リ出す。何もないはずだった。それを見たはずなのに、まるで一人だけ別の未来に生きているようにレミリアの動きがほんの僅かにズレてゆく。既知は未知に。未来など分からないと、誰にとってもの普通がドラクルには普通ではなく、特別だったドラクルを普通に貶める小さな少女が何者であるのかさえ分からなくなる。
百年近くも側に居たのに、血の繋がっているにも関わらず、これまでドラクルが見てきたものを否定して立つレミリアの姿が、未来とも過去とも結びつかない。
「貴様はなんだレミリア=スカーレット」
フランに壊されるはずだった未来を壊し、負けるはずだった従者を奮い立たせる。未来の分岐点を背負ったような少女は、鋭い犬歯を覗かせる吸血鬼の言葉をゆっくりと飲み込みながら、飲み込み終えると小さな吐息を吐き出した。
冷酷で強大な吸血鬼には至れず、思慮深く聡明な賢者というわけでもない。我儘で無鉄砲で愚者で優しく勇敢な妖しい小さな吸血鬼らしからぬ吸血鬼。未来を決める運命の少女。それ即ち────。
「レミリア=スカーレットよ、他にある?」
両手を枝垂れさせ、壊れやすいなにかを大切に包むように肘を曲げ胸の前に掲げるレミリアの柔らかな姿形に、二人の従者の口元が緩む。怖さでも、強さでも、冷酷さでもなく、妖しい優しさを世界に滲ませる吸血鬼の微笑みを見つめ、ドラクルの中で何かが噛み合った。
同じ姓を持とうとも、その在り方は対極に位置し、分かり合えぬならそれは敵であることに変わりない。道端の小石から名のある宿敵へ、少女は確かにルーマニアの夜王の道端に足を落とした。
踏み潰せぬのなら腕を伸ばすしか残されていない。赤い妖気を立ち上らせ、瞬く赤い眼光が引き絞られる中、滑らかに空を滑っていた吸血鬼の足が鋭く小さな夜の王に前に落とされたと同時に二つのケンがそれを制す。
「邪魔をするか異国の
「二度はない。俺はレミリアお嬢様の刃でありますれば、誰であろうがただ斬るのみ」
「例えお嬢様の父君であろうとも、私の背に座すモノに手を触れる事はなりませんよ。まあつまり──」
「「
短な言葉が全て。
夜明け前の空のような青い髪を靡かせる少女の紅い双眸を写し取ったような紅が二人。
目配せすらせずに二人の従者が共に動く。己がすべき事は各々既に理解していた。
主に勝利を。
そのために目の前の敵を打ち払う。だがしかし、それが容易にいかないことも既に重々承知であった。『未来を見る』、ドラクルのその絶対的な芯とも言えるものを動かさぬ事には勝利はない。持久戦になればどちらが負けるかは自明の理。レミリアに何かがあると漠然と満月も美鈴もドラクルも分かっていようとも、レミリア自身にさえその正体が分からぬ中で、それに頼る事はできない。なればこそ、ドラクルの力を見破ることが勝利への第一歩。その一歩を踏むのはレミリアではなく従者の役目。
振られる刃と拳が振り切られるより速く身を滑らせ下がる吸血鬼から目は離さず、満月と美鈴はレミリアの前で肩を寄せる。
「さて、どう見る美鈴殿、未来を覗くそんな知人が俺にもいたが、それを撃ち破ろうなどと考えた事はないでな」
「我々武人は相手の呼吸や僅かな動作から経験則で動きの先を読めるようにはなりますが、実際に未来を見るわけではないですしね。困りました」
「とは言え禅問答のように座してれば答えを拾えるわけでもない。どこまで未来が見えるのか分からぬが、不足の事態というのを起こしてみるかね?」
「痛い役目は」
「俺が引き受けようとも」
「満月、美鈴……」
目配せし笑う満月と美鈴の背に掛かる小さな少女の声。僅かに動いた二色の青い瞳が紅い瞳と重なり合い、レミリアはぎゅっと手を握ると僅かに笑った。その微笑に笑みを合わせて満月と美鈴はふっと体の力を抜く。と、同時に極東の侍の身が増える。
二つ三つ四つ五つと揺れる紅い髪。眼に映る実体を持つ虚像の群れが一様に刃を振りかざしルーマニアの夜王に殺到した。速さで追いつけぬのなら、数で進路を塞ぐのみ。軌跡の波がただ一人に向けて渦を巻き、刃の雪崩が目前に迫ろうと腕を組んだまま手を出さず、紙一重で無数の刃の中を踊るドラクルに満月は小さく舌を打つ。
「曲芸か極東の
「その笑み引き千切ってくれるッ!」
「できるものならな」
軽く零された言葉と共に、緩く振られたドラクルの右拳が満月の側頭部を横薙ぎに叩く。無数の虚像の足が止まり消える中、切れた眉間から血を噴き満月は小さく頭を振った。正解など見えているとつまらなそうに首を擡げる吸血鬼に歯を食い縛り、より一歩を出した満月の身が、本人の予想以上に前に飛ぶ。背に大きな痛みを貼り付けながら。
満月の意識に関係なく、満月の背に隠れるように動いた美鈴の一撃がドラクルではなく満月を叩いた。己が動きを乱されながらも、形変わった未来を形作り振るわれる刃にドラクルは臆する事なく足を引く。目前を通り過ぎる刃を見送り放たれる弾幕を身に受けて後方に爆ぜた満月は血を吐き出しながらも足は止めず、美鈴に並んで口を拭う。
「……他人の意思の中に未来を見ているわけではないらしい」
「満月さん大丈夫ですか?」
「まだな」
「では次は──」
「お前が来るか大陸の
美鈴が足を差し出そうとした着地点にいち早く落とされる弾幕に、美鈴の動きが僅かにブレた。一歩先へ、一歩先へ。相手の未来を潰すように、敵というより陣地を埋めるように差し出される妖気の弾丸。棋士が駒を進めるかのように指先一つで動きを制し、満月と美鈴の身が合わさった瞬間を吸血鬼の指先が射抜いた。
従者の名を呼ぶレミリアの叫びに応えるように、弾幕を受け白煙を上げる刀を振るい満月と美鈴は背を合わせ、身から滴る血の雫を拭う事なく静かに呼吸を整える。
「未来を覗けるとはこれほどか……どこまで見えているのやら」
「気の動きに乱れもないと来ましたか。さて……」
「無為な事よ、休憩は終わりか?」
「ええ、お終いよ」
満月と美鈴の背を戸を開くように開けて間に降り立つレミリアに、満月と美鈴は目を瞬き、ドラクルは強く顔を顰める。「ひとりぼっちは寂しいもの」と首を傾げて微笑を浮かべるレミリアに満月と美鈴も笑みを返して身を前へと倒した。崩れぬ笑みにほんの少し目尻を吊り上げ、ドラクルはその姿にこそ舌を鳴らす。些細な未来の変貌が、目に付き気に障り仕方ない。口元に描かれる線の向き一つが、大きな違和感となり心を突く。その違和感の元を断つため、小さな青い影を掻き消すようにドラクルの一撃がレミリアの首元に飛来した。
レミリアはその一撃から目を逸らさず、身動ぎせずにただ立つのみ。ドラクルは瞳に映る未来に眉を寄せる。ドラクルの強さは言わばジャンケンで後出しできるのと同義。出だしが同じであるのなら、ルーマニアの夜王の一撃であろうと必ず防ぐとレミリアが信じる者が二人も今は側にいる。
吸血鬼の爪と刀が打ち合い舞う火花を潜り抜け、分かっていたと二撃目を振るうドラクルの拳に小さな手が添えられる。
「未来が見えるから、吸血鬼だから、技など研ぐ必要ないものね。でも私にはそれを教えてくれる師が二人もいた。背が小さいとね、懐に潜り込みやすいんだそうよ」
「貴様レミリアッ!」
敵を木っ端微塵にしようと言うような暴力の一撃はふわりとレミリアの頬を擦るだけで終わり、一歩を今度こそ踏み締めたレミリアの小さな拳がドラクルの身を吹き飛ばす。一撃目が無駄に終わるなら、二発目にそもそも照準を合わせていたのはレミリアも同じ。口から血を垂らすドラクルを見つめ、レミリアは確固とした答えを拳に握った。
「そう、
ドラクルから言葉は返されず、鋭い視線だけが返される。天から見下ろす神のように世界の全てを瞳に写しているわけではなく、二つの眼の見える中でだけ未来を見ている。だからいずれ己が赴く場、己が前に誰かが立つのが分かっても、瞳に映らぬ誰かが知らぬ場で何をしていてもドラクルには分からない。そう答えを出したレミリアの言葉にドラクルは口内の血を地に吐き捨て、肯定も否定もしなかった。
レミリアの答えは半分当たり。レミリアの言う通りであるが、間違いでもある。
二撃目の打ち合い。ドラクルは美鈴の一撃を見ていたはずが、その未来に割り込んで来た少女が一人。旅路は知らずとも、レミリアが何ができるかはドラクルにも見え分かっている。だが、その動きが見ていた形とまるで異なる。お前の未来は間違っていると嘲笑うかのように自由に未来を描き変えるレミリアだけがドラクルを否定していた。
「レミリア……貴様の力は未来を変えるか」
「ずっと言っているでしょう、私は私の未来を作るために来たと」
少しの動揺もなく言い切るレミリアに、小さいドラクルは目を細める。不定の未来を作り出す。それこそ人生。ただ誰もが知る普通をレミリアは言っているだけだが、レミリアの想いとドラクルの考えは違う。ただ意思の力で変わるようなものは未来ではない。全てを含めた軌跡の行き着く先こそ未来。絶対変わらぬはずのそれを変えてしまうレミリアの歪さに、レミリア自身すら気付いていない。
(危険だ……)
それでいて好機。
名称すら定かでない特異な力の正体をレミリアさえ気付いていない今だけが唯一レミリアを穿つ機会であると、ドラクルは静かに妖気を引き絞る。レミリアの未来だけが読めぬ今、遠い未来にレミリアがどんな存在になるのかさえ不明瞭。目で見ている未来さえ信じられない事実に、吸血鬼は強く奥歯を噛み締める。
何があった?
どこで違えた?
屋敷の隅で膝を抱えて百年近くも蹲っていた少女が、一年も満たぬ間に夜の主に相応しい空気を纏い目の前にいる。必要なものは出会いか、機会か、試練か、何もできないはずだった者が、何も持たぬはずだった者が、いつの間にか全てを手にそこに居る。
「いいだろう、レミリア=スカーレット。お前こそが私の未来に横たわる初めての壁だと認めよう。だが、所詮それも乗り越えられぬものでもない」
「あら強がりかしら?」
「その言葉、覚えておけよ」
口端から垂れた朱線を指で拭い去ったと同時に、ドラクルの姿が掻き消えた。満月と美鈴の目には映らずとも、レミリアはその姿を紅い瞳で逃さず追う。ドラクルは追わず、レミリアの視線を追って美鈴は手を円に動かす。横合いから飛んで来た蹴りを流すため、反れた一撃に返しの一撃を放とうとした美鈴だったが、分かっていたと合間を縫ってただ突き出されたドラクルの手に態勢を崩される。
「レミリア、貴様が見えずとも、その二人は別だろう? その二人はお前の刃だと? いいや、お前の首を締める首輪だレミリア」
レミリアを放っておけば、なにをしでかすか分からない。
で、あれば、間接的に崩せばいい。態勢を崩した美鈴に押されて動きの抑えられたレミリアに、ドラクルの暗い瞳が落とされる。如何様な武人であろうとも、技の出を潰し、なにをするか分かっていれば態勢を崩すことなど造作もなく、その間があれば吸血鬼にとっては事足りる。だが、その間を埋めるための刃がレミリアの元にはもう一本。
「美鈴殿! レミリアお嬢様を抱えて下がれ!」
「満月!」
「馬鹿が、私の狙いは初めから貴様だ」
美鈴と満月の未来は変わらず。レミリアもいなければ未来は動かない。レミリアと二人の従者を繋ぐ信頼と優しさが、邪魔であると切り捨てるドラクルの言葉通り、二人を守るために動く場所と動きも分かっているドラクルに満月を穿つ事など容易い。満月の振るう刃の軌跡の間を縫い、蹴り上げられたドラクルの足が紅い頭を引き千切る。
「引き千切られたのは貴様だったな人間」
「…………満……げつ?」
潰れた蛙のような声を絞り出す笑みの消えたレミリアにドラクルは深い笑みを差し向けた。バツンッ、と糸の切れたような音を残して静まり返った空間に少し遅れて落ちてくる鈍い音。首の失くなった体はしばらく理解が追いついていないと言うように立っていたが、崩れた壁から吹き込み夜風に押されて地に落ちた。
月夜に照らし出される肉の断面からは血が滴り落ち、レミリアが名を繰り返しても返ってくる言葉が一つもない。
「まず一人。レミリア、お前の周りから削ってやろう。今のお前一人なら障害にはならん。次はその従者を、次は言うことを聞かないフランドールを潰そうか。お前は最後だ。言っただろう私一人いれば事足りる。幸せな未来でも夢を見たか? お前の優しさがお前を殺す」
「え……あ……」
レミリアの身から覇気が消える。
勝利。
見えないはずだったそれを、二人の従者が見せてくれる。その道へと背を押してくれる。二人がいれば自分は負けない。
そう信じていた。
そうレミリアは信じていた。
長い旅路の中で、なにがあろうと横に並んでいた顔が一つ、虚空を見つめて冷たい床に転がっている。
その生気の消え去った青い瞳が、レミリアの未来をぼろぼろと形ないものに変えてしまう。
「うそ……まんげ……つ?」
中身の詰まっていない少女のか細い呟きに、美鈴は意識を取り戻し構えるも遅く、先を行く吸血鬼の足に踏み飛ばされた。壁にめり込む美鈴へと振り返り、壁から這い出ようとする美鈴の口から細い滝のように血が垂れる姿に、レミリアから血の気が失せる。
「小娘ひとりで未来を変えられると思ったか? レミリア、お前は危険だ。だがその芽は小さく摘み採れる。生まれて初めてひやりとしたぞ。その点は褒めてやる」
「お……まえ、お前‼︎」
「喚くな」
乱暴に頭を掴まれて、その手を引き剥がすこともレミリアには叶わない。一対一、自力なら未だレミリアは及ばず、レミリアの拙い技などという小細工では埋められぬ差を、他でもない力で教えられる。目の端に涙を浮かべるレミリアは、夜の王から小娘に戻り、ドラクルは小さく微笑んだ。
「お前の負けだ。ひとりぼっちの哀れな小娘」
負け。
再び渡されるその言葉に、レミリアは強く目を閉じた。
半年前と変わらない。信じて、勝利を夢見て、振るった拳は届かず終わる。
無力さと悔しさに押し潰されて影の中で一人声なく泣く。
自分の内に閉じこもり、ただ己を卑下する日々。
長い旅路も結局は────。
「────お嬢様」
背に掛かる美鈴の弱い声にレミリアは僅かに肩を跳ねた。
「っ────」
負け、そうなのかもしれない。
弱い、そんなことも知っている。
でも違う。
(私……)
届かない、それは違う。レミリアの拳はルーマニアを統べる者に確かに届いた。
ひとりぼっち、それは違う。信頼できる友が二人、離れず側に居てくれる。
結果ではなく過程が大事。そう教えられたのではなかったか? そう知ったのではなかったか?
例え負けでも、同じ負けでも、半年前とは雲泥の差。
だからレミリアは小さな手を握り締める。
(私は……レミリア=スカーレットだもの)
フランだけが優しく呼んでくれる名を、今は二人も嬉しそうに呼んでくれる。自分が誰で何者なのか、教えてくれる者がいる。「レミリアお嬢様」と背に掛かる美鈴の言葉に力が戻る。溢れそうになる涙を手で払い、紅い瞳が小さく輝く。
「私は……まだ負けてない」
「なに?」
「私は……レミリア=スカーレット、陽の上る果てから旅をして来た吸血鬼。私はお前を倒しに戻った。それまで旅は終わらない。そんな……終わりない旅に最高の友が二人付いて来てくれたから、私は私になったから、私は勝つの、負けないの」
両手を胸の前で枝垂れさせ、大事なものを抱え込む。二人が主らしいと言ったその姿を、レミリアは馬鹿らしいと鼻で笑ってしまったけれど。でも、恥ずかしくてもそれを悪いとも思えなかった。
「美鈴は私をいつも守ってくれるの。それで、満月は私に勝利をくれるの。だから私は負けないの。ねえ満月、貴方私に言ったわよね、勝てると言えと、そうしたら、“今”私に勝利をくれるって。頼っていいって言ったでしょ! 貴方に頼らせて! いつまでも! 私勝つから! 貴方は私の最高の友達だから!」
「壊れたか、滑稽な。せいぜいあの世で喚いていろ」
「その言葉ッ! 覚えておけよドラクル=スカーレット!」
振り上げられた吸血鬼の爪にぎゅっとレミリアは目を瞑った。振り落とされるギロチンなど見なければないのと同じだというように、敗北を拒絶するように閉ざされた世界の中で、レミリアの肌を裂く感覚などまるでなく、死とはこうも静かなのかと暗闇の中に意識を浮かべるレミリアの耳に小さな布擦れの音が届く。
「あいも変わらず無茶を言いなさる」
聞き慣れた男の声がレミリアの意識を揺さぶった。
ハッと目を開けたレミリアの先でドラクルの腕を掴む首のない侍。
座りが悪いと頭のあった場所へと手を伸ばしながら、頭を掻くように手を動かす満月の身に堪らずドラクルは拳を叩き込む。
「満月ッ⁉︎」
弾け四散した満月の身にレミリアは名を呼び掛けると、「なんでござりましょう」と床に落ちている満月の首から困ったような声が返された。
目を瞬き見下ろしてくるレミリアに笑みを向ける満月の首に血溜まりとなった体が流れるように集まると、傷のない体となって形を成す。体の調子を確かめるように刀を振るう満月にレミリアの口から声は出ず、呆然とするドラクルの顔面に満月の拳が沈み込む。
「うちの可愛いお嬢様を虐めてんじゃねえぞ」
「ぐっ、馬鹿なッ⁉︎ 貴様は! 貴様は人間のはずだ! なぜ死なない! なぜ立っているッ⁉︎ なんだお前はッ‼︎」
「十五夜満月、レミリアお嬢様の従者でござる」
「ふざけるなッ!」
力任せに振るわれたドラクルの拳を満月は手で受けるも引き千切れ、二つ目の拳に身が砕ける。物理的に細切れとなった満月の体は、しかしすぐに元に戻った。妖気もなく、人である空気が変わらないのに何故か死なない満月に、レミリアとドラクルの動きが止まる。満月の死をドラクルも見たのに、それを否定する存在がもう一人。
「満月貴方……」
「レミリアお嬢様、約束は守りますとも。勝つのでしょう?」
「……うん、うん! 勝つの! 私と貴方と美鈴で! 三人で!」
「では一切の仔細なし。貴女に勝利を我が主」
レミリアの顔に笑顔が戻る。
それを見られれば満足だと足を踏み出す満月の身を吸血鬼の刃が真っ二つに引き裂いた。が、結果は変わらず、満月の笑みは崩れることなく、その軌跡は止まらない。
「なんだ! なんなのだお前は⁉︎」
「ただやられるばかりも痛いな。行くぞ吸血鬼、極東の技その身に刻めよ。俺は極東の侍よ」
一撃に一撃を返される。ただ物言わぬ打ち込み台であるわけもなく、研ぎ澄まされた軌跡の技が夜の闇を切り裂きだす。分かっていたとその間を抜き去り放たれ肉を削る未来を覗く吸血鬼の暴力でも決して消えない軌跡の侍に未来が塗り潰されてゆく。
『武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり』
最良の行動ができる心境とは、自己を捨てたところにある。己が利で動かず、全体を見渡してこそ最良の結果を生むことができるという。満月の命は己にあらず、それはレミリアに預けている。故にレミリアが負けぬなら、満月はなにがあろうと負けぬのだ。レミリアが命を賭して救った満月だから、満月の中に流れるレミリアとの
「お嬢様が答えをくれた。貴殿の目に未来が映るのであれば、それを覆えばなにも見えまい? その視界俺で塗り潰してくれるッ!」
「吐かせ人間! 止まった時がお前の最後だ!」
「なら止まらぬよ」
「馬鹿めッ! 止まらぬ事など────ッ⁉︎」
刃を受ければ嫌でも止まる。吸血鬼以上の不死性を見せる満月であろうと、体を崩せば動きは止まる。そう結論を出しドラクルは刃を腕で受けるが、刃はドラクルに打たれたまま、満月の体が地を滑る。
刀を振るい、そして刀に振られる。満月の動きに刀が動かされるその真逆。振られる刃に振るわれて満月が動く。故に止まらず削るようにドラクルの身を滑り続ける軌跡の技こそ抜ケン術『
────ガツッ!
打ち鳴るは空を裂く音ではなく硬い音。見えていたと横に走る刃の間に腕を滑らせたドラクルの左腕に刀を捨てた満月の右腕が開いたドラクルの左側から首元へと伸び、強引に引き寄せると額を打ち合う。分かっていても、避けられぬ命には差し支えない意味のない動き。一瞬呆けたドラクルだったが、視界を覆う満月の笑みにツゥっと汗が頬を伝う。
「放せ貴様ッ‼︎」
「安心しろ、何度死のうと絶対放さん。さて、俺は何秒貴殿の視界を塞げたかな。何秒未来を潰せただろうか」
「数秒潰せたところでなにになる! お前に私を殺せるかッ!」
「吸血鬼は不死身に近い、俺じゃあ無理だが、きっとお嬢様たちならできるさ」
「世迷言を! 放せよ人間ッ‼︎」
ドラクルの身から溢れる妖気の熱に焼かれて満月の身が朽ちてゆく。それでも尚ドラクルを放さず笑みを浮かべたまま満月は大きく笑った。
たかが数秒、されど数秒、その数秒が必要だった。
レミリアは言った三人で。
崩れた満月に、その背後が明かされる。
夜風に靡く赤い長髪を振り、ただ一撃に全てを乗せる拳士の姿。
見えるから技の出が潰される。それは、出されればどうしようもない故に。空間さえ打ち崩す竜の一撃にも匹敵しよう拳士の拳に、心技体、それに加えて四つ目となる『氣』がただ一点に収束した。
「さあ来るぞ、月さえ崩す竜の咆哮が」
────コハァッ!!!!
と活火山がけぶりを吐き出すような空気の亀裂が美鈴の口から小さく漏れた。世界を震わす美鈴の叫び。その絶叫を拳に乗せて、吐き出される紅い軌跡が、吸血鬼と満月を轢き潰す。
気の極致。
世界の始まりのような七色の極光が、ドラクル=スカーレットの細胞を一つ残らず震わせる。その一撃にニの撃は要らず。
ズッと空間が揺れ傾き崩れる城の外壁を破り抜き、夜闇に浮いたドラクルを見つめながらレミリアの手に妖気の線が現界した。
「当たる、当たるわ……いや、当てるッ‼︎ 私が未来を作るのよッ‼︎」
「ふざけるなよッ! こんなところで貴様らになどッ‼︎」
動けば崩れそうな体を捻り、空を滑るドラクル目掛けて手の内に浮かぶ朱玉を握り締めた瞬間、妖気の線を追い紅い魔槍が形を得る。握るは槍の形をした運命。当たらない結果など必要ないと握り潰し、必中の槍が空を裂く。身を翻すドラクルを追いありえぬ角度で空を抉り曲がる槍の先端が、吸血鬼の身を空に張り付けた。
「あっ」
空を見上げるレミリアの頭上に光る銀の輝き。崩れてしまいそうになる身を泳がせるドラクルの傍に。美鈴の一撃に巻き込まれて舞い上がった満月の持つフランの歪な十字架が、空を泳ぎレミリアの元へと落ちてゆく。
地に転がり笑う美鈴、妖を千切りながら空を楽しそうに見上げるフラン、半分欠けた顔で笑いながら地に落ちてくる満月へと目を流し、レミリアは十字架を強く握った。
「お嬢様」
「……なあに満月」
「もうそれは必要ないでしょう。繋ぎ止めるものなど」
「…………そうね、今こそ返しましょう。フランに、美鈴に、それと貴方にね満月」
歪な十字の殻を破り、紅い十字が城を引き裂く。これまでの自分と決別する墓標とするように、ルーマニアの支配者を焼き潰し、闇夜に突き立った紅十字に照らされて、四つの笑い声が崩落した古城を喧しく包んだ。
「そんな感じかしらね、満足したかしら?」
喋り通しで疲れたとティーカップに残った紅茶を飲み干し、レミリアは深くベッドへと腰掛け直す。そんなこともあったようなと首を捻り笑いながら手を叩くフランと、給仕に徹していた美鈴、目を輝かせる咲夜や小悪魔の顔を見回して満足そうにレミリアは微笑むが、一人パチュリーは眉間に皺を寄せパタリと本を閉じた。
「信じられないんだけど……」
そんな言葉を吐き出して掛けていた眼鏡の位置を直すパチュリーに、「ちょっとパチェ」とレミリアは手のひらを掲げる。
「本人が言ってるのにどこをどう聞けば信じられないなんて言葉が出てくるのよ、事実よ事実。ノンフィクション」
「レミィこそ私が誰の孫だと思ってるのよ。おばあ様が晩年やたらとルーマニア行きを勧めて来た理由が分かったけどね。ドラクル=スカーレットの長ったらしい今際の際の言葉だとか、貴女が十五夜満月にフラれた事だとか色々なかったじゃない」
「アイツの長話なんて全部覚えちゃいないわよ! それに別にフラれてないからッ! その言い方だと私が満月に擦り寄ってるみたいになるでしょッ!」
「そう言えばお姉様、いつのまにかあのお侍居ないよね、なんで?」
古くからの一応の知り合いのはずが、地下に篭っていたせいですっかり存在を忘れてたと笑うフランに、レミリアは強く肩を落としそっぽを向く。「フラれたから言いたくないのよ」と一人勝手に納得し頷いているパチュリーにレミリアは牙を剥くも声は出さず、代わりに苦笑していた美鈴が手を合わせながらフランの疑問に答えてくれた。
「まだ紅魔館を建てる前の話です、人の人生一生分は働いたと百年経ったところで旅に出られたのですよ。お嬢様は拗ねてしまわれて、その後数年は大変でしたね」
「ちょっと美鈴、いいのよそういう事は言わなくて」
「それにしても美鈴さん、紅魔館の中でも古参だとは知っていましたけど、レミリアお嬢様の最初の従者だったんですね」
「なのになんで一番不真面目なのよ……」
感心する小悪魔と呆れる咲夜の視線を受けて、「いやぁ」と困ったように美鈴は頭を掻いた。昼寝ばかりして門番の仕事を半分ほど放棄している美鈴の今を咎められると思いきや、「美鈴はそれでいいのよ」と微笑むレミリアに咲夜はなにも言えず、美鈴は小さく頭を下げる。
「それでそれで! その後何があったのお姉様! まだ四百年分話が残っているわ!」
「あぁ、フランはあの後新しい屋敷に篭りきりだったものね。全くもう……」
「私も気になるわね、一応はおばあ様に聞いているけど」
再び灯り出した従者たちの好奇の瞳に、レミリアは紅茶のおかわりを注いでくれる美鈴と顔を見合わせ二人揃って肩を竦めた。
ドラクル=スカーレットが死に、ルーマニアは空前絶後の乱戦状態に突入した。支配者の消えた旧ワラキア公国領を巡り、旧モルダヴィア公国、トランシルヴァニア公国に拠点を持つ吸血鬼の一族が雪崩れ込み、漁夫の利を求めて西洋圏の吸血鬼たちが表立って、または水面下で手を伸ばした結果、ヨーロッパ中を巻き込んだ吸血鬼たちの夜の大戦へと発展することとなる。
ドラクル=スカーレットを討ったレミリアは、旧ワラキア公国最強の吸血鬼として、時に東洋の従者二人を率い表世界にまで顔を出しながら、幾らかの吸血鬼と同盟を組み百年掛けてヨーロッパを手中に収めた。吸血鬼の中でも世界の半分を踏破した珍しい吸血鬼として、人さえ率いる吸血鬼として、裏と表の両面に名を連ねたレミリアはその後 三百年自由に過ごしていたのだが、満月から聞いていた幻想郷を目指し五百歳にして大規模な引っ越しを完了したというわけだ。
語る事は際限なく、世界の歴史を見つめて来たレミリアの終わりない話を再び聞こうと従者たちが耳をそばだてる中で、急にレミリアの寝室の扉が勢いよく開いた。
現れた一匹の妖精メイドは息を荒く吐き出して、慌てた様子で乱れたメイド服も気にする事なく入室し、レミリアを目にすると慌ただしく姿勢を正す。幾つもの強者の視線に晒されてあわあわと妖精メイドが身を震わす中で、「どうしたのかしら?」と紡がれたレミリアの静かな声を合図に、妖精メイドは要件を吐き出す。
「お休みのところ申し訳ありません! お客様がお見えになられています!」
客。
その単語に一様に顔が歪められる。
出入り自由というように、紅魔館だけでなく重要な場所であろうとも好きに出入りする者の多い幻想郷の中で、逆に律儀に客として参上する者の怪しいことよ。泥棒や盗賊の類ではないのかとレミリアとパチュリーが眉を寄せる中で嬉しそうにフランは部屋を飛び出したが、すぐに何かにぶつかったように扉の前に腰を落とす。
「────紅い屋敷ができたと聞いてな、約束通り見に来たのだが……大丈夫か? 久しぶりだの妹君。門の妖の姿が見えぬと思えばこんなところにいるとは平和になったものよなあ」
紅い髪が夜風に揺れる。青い瞳が瞬いた。
目を見開く少女たちを見回して、笑う美鈴に客人は笑みを返すと静かに腕を組んだ。今更言葉など必要ないと言うように、始まりとなる『行ってらっしゃい』もなければ、終わりとなる『お帰りなさい』も客人に対しては必要ない。
レミリアは窓の外の夜空に輝く丸い月へと顔を向け、客人に顔を戻すとその名を呼んだ。『ただいま』などと言う暇がないくらい、三百年分の軌跡を埋める文句を言うために。
「遅いわ満月、貴方のせいで私はずっと長い時腕一本で頑張ってたのよ?」
「それは知らなんだ。なら今日から二本でございましょうか?」
「今はもっとかしら? 話す事は尽きないだろうけど、取り敢えず座りなさいな。夜は長いわ。だって────」
────────今宵は満月 完
『十五夜 満月』
人の一生百年分働いたという事で、ヨーロッパを制覇したのと同時にレミリアの元を離れて旅に出る。三百年世界を放浪した末、紅魔館の噂を追ってレミリアの元へ帰って来た。元島原の亡霊。レミリアの血が混じっている事で、『主と共にいる程度の能力』を持つ。その正体は、レミリアと満月を繋ぐ赤い糸。レミリアが死なない限り満月は死なない。満月の命はレミリアが持つ。侍精神と運命の御子の力が合わさった結果である。紅魔館の執事長。名前の由来は十六夜咲夜の前任者という事で十五夜、そして満月の名。レミリアのネーミングセンスが悪いのはだいたい満月のせい。
『紅 美鈴』
大陸、門の妖。なんの妖か分からなかったため、竜生九子という独自設定を付けてしまった竜の子供。恐らくレミリアより大分歳上。元メイド長であったが、紅魔館を建てたのを気に、念願の昼寝を好き放題できる門番となる。徒手空拳の近接戦闘なら幻想郷でもトップクラスだろうが、弾幕ごっこが主となった幻想郷ではその腕前を披露する機会も滅多にない。が、いざという時これほど信頼できる門番もいないとはレミリアの言葉。満月が帰ってきたことにより、満月との日課である組手が復活した。昔の気性が少し復活したせいで、満月と共に並んだ美鈴を相手にした不法侵入者たちが泣きを見る羽目になるのは別のお話。
『レミリア=スカーレット』
紅魔館の主にしてヨーロッパを統べる吸血鬼連合長の一人。『運命を操る程度の能力』にレミリアが気付いたのは、ヨーロッパの吸血鬼大戦中、ある金色の長い髪を持つ吸血鬼に会った際。運命を操る程度の能力は、言わば主人公補正みたいなものであるとこの作品中では考えている。つまり不可能を可能とする力。満月が帰って来たことにより紅魔館が完成したと大々的にパーティーを開いた。人里では最近満月と美鈴を伴ったレミリアの姿がよく見受けられる。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
満月たちがまた出るのかは、それはまたどこかで。