突き刺さる視線に呻きながら、レミリアは前を行く満月の背を追った。なんでもないように刀を背負いスタスタ前を歩き続けている満月にレミリアのストレスゲージは高まっていき、足元の小石に躓きレミリアがバランスを崩しても気にしない満月の姿に、遂にゲージが振り切れる。
「待ちなさい! このすっとこどっこいッ!」
光陰矢の如し。満月とレミリアが出会ってから既に数週間の歳月が過ぎた。この数日でレミリアは嫌という程満月がお人好しでなかなかに適当な性格であることを知る。特に子供にだ。
道端で腹を空かせている子供がいれば「食べるとよい」と言って惜しみなく食料を渡す。子供が売りつけてくる食べ物を必ずひとつは買う。マッチ売りの少女が満月の前に現れれば、マッチを全て買い切る勢いだ。レミリアも満月も手持ちの銭はほとんどないというのに、おかげで満月に至っては既に懐はからっから。
銭勘定もできず、見知らぬ子供相手に散財する用心棒が、ただでさえ言う事をあまり聞かないと言うのに、異国の地で好き勝手動くその背に遂にレミリアの飛び蹴りが飛来する。
が、満月に当たったとレミリアが感じた瞬間するりと満月の像は消え、いつの間にか横にスライドしていた満月に子供を抱き上げるようにレミリアは抱えられてしまった。ため息を吐きながら満月はレミリアを静かに下ろし、レミリアの全身を覆っている黒布がズレないように布端を巻き直した。
「どうしたお嬢様、そんな活発に動いては危ないぞ。聞いた話では、お嬢様は日光に弱いのだろう? なのにそんなにお転婆だと困り申す」
「誰のせいよ! 知らない土地で、しかも昼間に! それにこんなに人間だらけの中ずんずん先に行かれる私の身にもなってみなさいっての!」
そう言って周りを見よと言わんばかりにレミリアは大きく手を広げる。往来を歩く人々の数は、ルーマニアや日本の比ではなく、その着ている服も西洋や極東とは違った独特なもの。日ノ本の民が大陸と呼ぶ地、今で言う『中国』、その都である北京の大路地の上にレミリアと満月は突っ立っていた。
聞きなれない言語で会話する黒布に包まった小人と、見慣れぬ刀剣を背負う男に周りの視線が集中し、「雑技の練習でござーい」と満月は下手くそな大陸言葉を叫び手を叩くと、レミリアの背を押し足を動かした。
「気持ちは分かるがね、俺の気持ちも組んでおくれよ。アテが外れて北京なんかにいるのだぞ? お嬢様のせいでもあるのだからの」
満月の文句に「うぐっ」とレミリアは息を詰まらせて渋々自分も足を動かした。出島で人狼が暴れた折、捕まるのは面倒だとすぐに朝鮮へ向けて出航しようという
密航者だろうとなんだろうと、人を選び袖の下さえ渡せば意外とどうにかなるものであるが、どうにもならない場合がある。袖の下よりも巨額のお尋ね者、賞金首である場合。朝鮮で西洋行きの船を待つ一週間の間に、満月が西洋人からルーマニアの情報を得ようとして差し出された一枚の紙。「レミリア=スカーレット」と名前と共に書かれていた人相書きを見て満月は盛大に口端を痙攣らせた。
西洋に向かうまでの長旅で、人相書き溢れる航路で向かうのは不可能であると結論付けた満月は、仕方なく陸路でルーマニアを目指す事を決定した。長旅が恐るべき長旅になったことに対してレミリアは満月が「やっぱ辞める」と断念するのではないかと危惧したが、意外にも「一度引き受けたのだから構わん」と了承し、もう北京までやって来た。
満月がどういう思惑でレミリアと共にいるのか。
レミリアも気にはなっているが、どうにも聞くタイミングがなく、折角仲間にできた融通が利きづらいが、それでも有能な人間を手放したくはないために聞くのを見送っている。
「……それにしても、なんかこの都ピリピリしてるわよね。何故かしら?」
レミリアの文句を律儀に聞いて、隣を歩く用心棒からレミリアは視線を外すと周りの景色へと目を向ける。華やかな都の中にあって、人々の顔はどこか暗い。それに反して厳しい目つきをした刀剣を携えた者など、ちぐはぐな人間たちの様相にレミリアは首を傾げ、その問いには隣を歩く用心棒が答えた。
李自成の乱。
1640年代の中国、1627年と1628年。陝西と呼ばれる土地で起こった大旱魃を切っ掛けに、農民の反乱が勃発する。ただの百姓一揆と侮ることなかれ、多くの農民が一念発起し、現体制を打倒するために立ち上がった。この反乱は長い年月を掛けて仲間を集め、1641年には洛陽を陥落させ、1644年には北京城までもを手中に収める。その際の首領が李自成。満月がよく用心棒をしていた相手であるオランダ東インド会社が平戸*1にあった商館を出島に移したのが1641年のこと。この商館の大移動の際に満月は用心棒として積荷のいくつかを守った帰りにレミリアと出会った。
時代は正に新たなページを描いている真っ只中。李自成の軍勢がいつ北京まで伸びてくるのか。人々の不安と緊張が押し込められた北京の都は、都自体が触れづらい空気を放っており、絢爛豪華な建造物に溢れた都でありながら、昼間でも薄暗く目に映る。
農民の大軍勢が迫って来ているのだ、とあっけらかんと答える満月に、それやばくね? と、現実逃避の影を浮かべた瞳をレミリアは向けるが、満月は黒い布の隙間から覗く紅い瞳に笑みを向けた。
「寧ろ幸運ぞ。このゴタゴタに便乗して俺たちは農民たちの流れの逆を行く。北京さえ抜ければ今は関所も緩い。西安、昔で言う長安に向かうのだ」
「ちょうあん? どこよそれ、そこに行くとなにかあるの?」
「絹の道だよお嬢様。聞いたことぐらいあるだろう?」
絹の道。ヨーロッパと中国を結ぶ流通の街道。西端はローマ、シリア、東端は洛陽、長安、日本と諸説あるが、ユーラシア大陸を東から西へ、西から東へと向かう道であることには違いない。
絹の道が確立されたのは、レミリアが生まれた頃よりも遥か昔。その存在を当然レミリアは知っているが、勿論自分で歩いたことなどない。だいたいこの時代主流なのは海路であって、わざわざ陸路を歩いて行くようなモノ好きなどほとんどいない。やたらと学のある満月を不思議に思いレミリアが満月の横顔を見上げていると、その視線に気づいた満月は肩を竦めた。
「出島で用心棒なんてしてるとな、いやでも少しは外来言葉を覚えるしかない。それに、用心棒特権で俺は大陸にも何度か来てるからの、それで大陸言葉も少しばかり喋れるというわけだ」
「それにしたって詳しいわよね。貴方用心棒の前はなにをしてたの?」
「…………仕えてたんだ」
「仕えて? それっていったい……」
「それよりれみぃお嬢様よ、見てみるといい。ここでしか見れないぞ」
下手なはぐらかし方をする満月にレミリアは苦い顔をするが、無理矢理満月に両手で頭を挟まれ向きを変えられて、視界に映り込んだものを見て口をゆっくり引き結んだ。
中国の七大古都のひとつ、北京の都が象徴『紫禁城』。
1400年代に改築されてから1900年代まで、長らく皇帝の居として使われた荘厳な宮殿。青空の下に根を張った、夕焼け色の城にレミリアの目が奪われる。口からは感嘆の息を吐き、大地から生えた夕日が形を得たような城の美しさに小さく笑い声を漏らす。この紫禁城は、李自成の乱の際に一度焼失してしまうため、レミリアが目にした紫禁城は、焼失する前の最後の姿。紅い宮殿へと小さな手を伸ばし、手を開いても収まりきらない強大な権力の象徴に想いを馳せる。
「気に入ったのかお嬢様?」
「……えぇ、素敵ね満月。特に色が素敵。私も屋敷を持つならあんな色がいいわ……」
「そうかい……、建てたら見せておくれよ」
「ええ絶対建てるわ、当主になって」
「そろそろ行こうお嬢様。あんまりじろじろ見て宮仕えに捕まりたくはないからの」
満月に背を押され、紫禁城から目を外すことを惜しみながらレミリアは異国の宮殿の姿を目に焼き付ける。夕日のような色を持つ屋敷でフランドールと過ごす日々を夢見ながら、レミリアは満月と共に人混みへと紛れて行った。
「困ったな」
またもや子供の売り子の笑顔に負けて買った中華まんを椅子に座りほうばりながら満月は天を仰いだ。青い空が鬱陶しい。同じように中華まんを口へと運び、暑い肉汁にはむりと噛み付いた中華まんからレミリアは口を離し、火傷した舌を引っ張りながら満月へと目を向けた。
「はにがよ?」
「舌引っ込めてから喋っておくれお嬢様。農民たちの反乱のおかげで北京から抜ける関所の検問が厳しいみたいでの」
「それが?」
「俺もお嬢様も異国の者だ。ただでさえ北京に来るまで苦労した。まあ東インド会社に口を聞いてもらって北京に届け物でここまではなんとか通せたが、北京から出るとなると話は違う。東インド会社の助けももう得られないし、巡礼者のフリでもするかね?」
神に祈りを捧げる自分の姿を幻視して、それは嫌だと口をへの字に曲げるレミリアに肩を竦め、また一口満月は中華まんを口に運ぶ。はふはふと忙しく飲み込んで、唇を舐め、また天を仰いだ。諦めムードを滲ませる満月にレミリアは雑に頭を掻き、弱々しく満月の着物の裾を引っ張る。
「……なんとかなるわよね?」
レミリアの問いへの答えは沈黙。満月は言葉を吐く代わりに口に中華まんを突っ込んだ。最悪関所を力づくで突破することも不可能ではない。ここ数日満足に食べ物を得たレミリアの力は、出島に密航してきた時よりも大分戻った。が、満足とは言えない。吸血鬼にとって一番大事なものを口にしていないからだが、今最も欲しくないものは騒ぎ。通り魔吸血鬼事件でも起きて、通る国通る国お尋ね者になっても困る。故に力ずくで関所を突破する手も取りづらく、満月は中華まんを食べ終え煙管を咥えると火を点けた。立ち上る紫煙をしばらく眺めた後、用心棒を見上げたまま無言で固まっているレミリアへと目を落とす。
「……手があるにはあるのだが」
「じゃあ!」
喜ぶレミリアだが、難しい顔で腕を組む満月の姿にすぐに喜びは消え失せて、レミリアは振り上げた腕を下ろした。
「……なにかあるの?」
「あるような……、ないような……」
「なによそれ……」
言おうか言うまいか満月は悩み、時間を追うごとに痺れを切らしたレミリアが足をばたつかせるのを見て結局口を開く。
「一つだけな、さっきの売り子に聞いたのだが」
「それ大丈夫なの?」
「さあ? 兎に角、向こうの方に見える山があるだろう? あの山なら関所がなくて抜けられるそうなのだが……」
「だが?」
「なんでも妖怪が出るから抜けられないらしい」
なんじゃそら、と呆れた顔をレミリアが浮かべるが、本当にそうなのだから満月はなにも言えない。文句は売り子の子に言ってくれと紫煙を吐く満月に、しかし、そう言うことなら話は早いとレミリアは中華まんを急いで口へと詰め込み、暑さに負けて吐き出しそうになるのをなんとか堪えて飲み込んだ。ただ舌が火傷する。
「あっつ⁉︎ ハァ、妖怪ならこっちのものじゃない! 話して通して貰えばいいのよ!」
「そんな上手くいくかね?」
「いかなくても用心棒がいるもの、行くわよ満月!」
椅子から飛び降り歩き出すレミリアの背に紫煙を吐いて、煙管から火種を落として踏み消し満月も立つ。意気揚々と前を行くレミリアの姿が逆に不安であるのだが、雇われ者は行くしかない。
そうして歩き幾数時間。すっかり日は傾いて、空は赤らんで来てしまっている。そんな夕日の下を歩く黒い布に包まった小人は、ふらふらと足は千鳥足。先の長い坂道を見上げ、小さな腕を振り上げた。
「長い! なんで見えてたのにここまで来るのにこんなに掛かるの⁉︎」
「大陸は広大だな、もう夜になってしまうぞ。こんな場所じゃあ宿もないし……」
「あら私夜行性なのよ?」
「昼間も起きてたのにいつ寝るのだ?」
昼間人に紛れた方が動きやすいため、曰く夜行性の吸血鬼はすっかり人の生活サイクルに馴染んでいる。夜になればぐうすか寝ているレミリアの姿を思い出しにやける満月に眉を吊り上げ、ふらつきながらもレミリアは腕を振り上げ満月に張り付いた。
「なら血を寄越しなさい! そうすればすぐ復活するわ!」
「俺は低血圧なのだ! そんなことされたら動けなくなる!」
「使えない用心棒ね!」
「俺は用心棒であって食料庫じゃあないのだよ!」
少しの間騒ぎ合えば、それも疲れるとすぐにレミリアはへにょりとヨレる。元気がいいのか悪いのか分からない雇い主に呆れながらも、満月が坂の先へと顔を向ければ、視界を遮る大きな山門が地から伸びている。
夕日に照らし出された年季の入った山門は、小綺麗に見えるが人の気配が全くない。山へと続く道に途中にあった家々とは、世界が違うように巨大な木造の建造物は、岩のように行く手を遮り堂々と建っている。その山門を彩る貘の彫刻に目を這わせて、満月は嬉しそうに手を叩く。今宵の宿が決まった。
「よかった、屋根の下で寝れるな」
「寒そうだけど、ないよりはマシかしらね。そうと決まれば寝床を確保ね」
山門まで辿り着けば夢の世界へ旅立つだけ。最後の力を振り絞りレミリアは山門へと強く足を踏み出すが、山門に手が掛かるというところでふと、レミリアの手が止まる。レミリアの鼻先を掠める妖気の流れ。嗅ぎなれないその匂いに引っ張られ天を仰いだレミリアの紅い瞳の中に幾本の紅線が舞った。
薄く息を吐き出して身構えようとしたレミリアの体が意思に反して後ろへと吹っ飛んだ。首の襟を掴む満月の姿を最後にレミリアの視界は天と地を行ったり来たりかき混ざり、すっ転がった体を起こしたレミリアの目の先で拳が交差する。
ゆるりと靡く紅い髪が突き出された拳を絡め取るように巻きついたようにレミリアには見えた。次の瞬間空が弾けるような音と地を砕く轟音が打ち鳴って、満月の体がレミリアに向かって飛翔する。くるりと身を翻した満月の額からは一筋の紅い雫が垂れ、それを拭う満月は瞬きもせずに山門を睨む。
一瞬の相対。地から間欠泉が噴き出したかのように、突如落ちて来た紅い光へとレミリアは顔を戻す。
夕日よりも紅い妖が山門を背に立っている。
鮮紅の長髪を揺らし、龍のように鋭い目。森で染めたような緑のチャイナドレスのような格闘服に身を包んでいる。だが、服の至る所が解れており、両腕には荒んだ包帯のような白い布を巻き付けて、片腕の白布は大きく弾けていた。白布の解れた方の腕を軽く振り、右足を一歩紅い妖は前へと出す。
「……────何者かは知らないが、ここから先へは誰であろうと何人足りとも通しはしない。去れ。さもなくば追い返すまで」
鋭い眼光がレミリアと満月を隙なく突き刺す。紡がれる言葉には敵意や殺気の類はなく、ただ淡々と紡がれるのみ。だが、その言葉に詰め込まれた力強さに嘘はなく、背にした山門と同じように揺らぎない。それを受けてレミリアは……、
「……なに?」
あまりに流暢な大陸言葉故に全く聞き取れなかった。不動の紅い妖を前に、あたふたと満月の方へとレミリアは振り返る。目を反らすべきではないと、レミリアに顔を向けられても同じく微動だにしない満月に、レミリアは腕を垂れ下げた。仕方なく顔は動かさず、紅い妖の言葉を満月は訳す。
「誰も通さねえよボケと」
「なんでよ⁉︎」
「知らぬ」
「ちょっと、貴女! 私たち通りたいんだけど! いいでしょうがちょっと通してくれればいいんだから!」
そうレミリアは文句を叩きつけるが、紅い妖からすればわけもわからない言葉を喚き散らしているだけ。眉を顰める紅い妖に、満月が「通して欲しいと言っている」と伝えればようやく理解し、紅い妖は静かに首を横に振った。
「私は師にこの門を守ると誓った身。例え誰であろうとも決して通さず私は退かぬ。通りたくば力ずくで通ってみせろ。通れるものならば」
「……なんて?」
「私は師匠にこの門を守ると誓ったんだよ、てめぇらみたいな奴ら通すわけねえだろ。通りたかったら私を倒してみせな。まあ、できねえだろうがよ。と言っておる」
「本当に? そんな口悪いのアイツ?」
「大陸言葉はそんな得意じゃないのだ」
しかし意味はそう間違ってはいない。言葉が通じず、話し合いにもならないのなら、相手の言う通りやるしかない。満月に頼むか自分でやるか、満月と打ち合った一撃から、相手は弱くないとレミリアは見積もる。軽く腕を振りレミリアが口角を上げた瞬間、重い音が山の空気を震わす。発生源はレミリアの腹部。轟くお腹の音にレミリアは固まり、満月は堪らずそっぽを向く。
「…………これは、あれよ。ここまで登って来たから」
「……あっそう」
「貴方がほいほい散財するから満足にご飯が食べられないのよ! つまり貴方のせい!」
「俺は用心棒であってそこまでする道理はないのだ。本来飯代などというのは雇い主が出すものだろうお嬢様?」
「そ、それはそれこれはこれ!」
「どれだよ」
わちゃわちゃ満月に向けて騒ぐレミリアに用心棒の毒気が抜かれ、やる気がどんどん削がれてゆく。戦士と見える男の闘気がみるみる萎んでゆくのを見届けて、紅い妖も構えを解く。再び空を震わすレミリアの腹の音を聞き、呆れたように紅い妖はほっと一息吐くと肩の力を抜いた。
「おい、その少女は腹を空かせているのか?」
「ん? ああ、みたいだな。困ったお嬢様だ」
「……ハァ、食料なら分けてやる。ここで倒れられても面倒だ。その代わり食べたら帰れ」
「ちょっと、なんて?」
「飯をやる、その代わり食ったら帰れと言っておる」
「なによ、口は悪いけど良い奴じゃない。とりあえずご飯は貰いましょう」
帰る気ないなと満月は思うも口には出さない。紅い妖はそうと決まれば話は早いと言うように、門の裏手へ姿を消すとすぐに枝と鉄鍋を手に戻り、火を起こすと鉄鍋を放りすぐに水を入れどかりと胡座をかくと腕を組み瞼を閉じた。
今のうちに行く? という選択肢はご飯に釣られた吸血鬼の頭からは消え失せているらしく、鍋へと寄ってゆく雇い主の後を満月も追う。
野菜となにかの獣のスープ。なんの獣かはレミリアも満月も分からないが、味は悪くはない。夜へと一刻一刻近づいてゆく中で、一口大の肉を美味しそうに口に運び、レミリアは舌鼓を打った。
「悪いわね、食べたことない味だけどなかなか美味だわ」
「すまないな妖殿。わざわざ飯を作ってもらって」
「……食べ終えたら帰れ」
「それで? 師に誓ったからって? 貴女はなぜこの門を守っているの?」
ご飯まで貰っておいて厚かましいという感情をレミリアは抱かないようであり、満月はスープを啜ることで目を反らす。ただ、レミリアがなんと言っているか分からず首を傾げる紅い妖を見て、レミリアが満月の裾を引っ張るので、目を反らしたくても反らしきれない。
「妖殿は師に誓ったからってなぜ門を守っているのだ?」
「……お前たちに関係あるのか?」
「お嬢様が聞きたいのだと、まあ食事の合間の戯言だと思うてくれ」
「……必要があるとは思えんな。私のことなど」
紅い妖はそう言ってスープの入った器を傾け、押し黙ろうとするが、喋り続けるレミリアに鬱陶しそうに目を向けて、渋々器を置くと口を開く。
「……昔怪我をした時に師に助けられた。治療をしてくれ、弱かった私に技を教えてくれた。私にできることなど多くはない。だからせめて門を守ると誓ったのだ」
「なんて?」
「昔怪我をしちまってよお、師匠が治療をしてくれたのさ。雑魚かった私を強くしてくれたお礼に門を守ることにしたってわけだ。それぐれえしかできねえからよぉ。と言っておる」
「……本当にそんな口調なわけ? で? いつから守ってるの?」
「いつから守っておるのだ?」
「さあ? 少なくとも数十年は前だ。覚えていない」
数十年。それだけ長く山門を守っていると言い淀むことなく口にする紅い妖にレミリアの手が止まる。一人早々にスープを食べ終え煙管を噛む満月とレミリアを見比べて、紅い妖は空になった器を纏め始めた。打ち合う木の器の音を聞きながら、今度は紅い妖が問いを投げる。
「お前たちはなぜここに来た?」
「なんて?」
「てめぇらなんでここに来たのだ?」
「あぁ……、妹を救いに行くのよ、ルーマニアまで」
「るーま?」
「お嬢様の妹を救いに行く道中なのだ。通れる道がここしかなくてな」
僅かに紅い妖の手が鈍り、すぐにまた動くと空になった鉄鍋を持ち上げた。黒い布の奥に隠れたレミリアの紅い瞳を紅い妖は見つめ、瞳の中に淀みがないことを確認すると一瞬目を伏せ立ち上がる。その瞳の中に答えを見たから。
「……帰る気はないか」
ぽつりと零した紅い妖の言葉は理解できないが、紅い妖の雰囲気からその内に潜む意味をレミリアは掬い取る。戻る理由などありはしない。なぜならば、今進んでいる道こそ帰り道。妹が待つ家へ続く道。だからレミリアが言う言葉は決まっている。吐くべき言葉はひとつだけ。
「通るわ、妹が待っているのだから。満月、頼っていいわよね?」
レミリアの流された瞳に背を押されるように満月は立ち上がる。それを見据え、山門の手前に鉄鍋を置いて紅い妖も身を起こした。二つの青い瞳が重なるのを見送って、レミリアも腰を上げると数歩後ろへと足を下げた。紅い妖から膨れ上がる妖気とは違う眩い輝きに、レミリアは細い息を吐き出して、満月は小さく三日月を口元に浮かべる。同じように紅い妖も小さく口角を上げて────。
「お前はなかなかやるな人間、一撃を避けられたのは久しぶりだった」
「同じく、最初の一撃を防がれたのは何年振りか。相当使うな妖殿」
笑顔が向き合うが、間に流れる空気は人と妖の放つ空気に圧縮されて温度を上げる。静かに、だが確実に、チリチリと火花が散るように煮詰まってゆく山の空気が弾ける合図を、今か今かとお互い待つ。木々の葉音、風の唸り、吸血鬼の息遣い。それを全身の感覚器官を用いて拾い集めるが、どれも決定打には欠けるもの。だから合図は自分で決める。
「十五夜満月」
「紅美鈴」
覚えるべき名を与えた。それさえあれば他にはいらない。山間に流れる風に交わるように、体を沈ませ緩く手を前後に広げた美鈴の姿に満月も背に背負った刀を手に掴み足を出した。
一歩、一歩。
ただ散歩に行くように、柄を握り歩き寄って来る満月の姿に美鈴は驚くも呼吸は乱さず、静かにその姿に視線を這わす。隙。目に映る姿だけで言えば、刀を手に持っている以外に戦闘の姿勢は感じられない。だが、目には写らぬ気の流れに一分の隙もないのを肌で感じ、その動きに美鈴は呼吸を合わせた。
一歩、一歩。
待つということなく縮まってゆく距離に緊張の糸が張られる。目の横を伝う汗の雫に瞬きすることもなく、ただ目の前に集中する美鈴の視界に、音もなく銀線が滑り込んだ。初動を見逃さぬように気を張っていたはずだった。油断だってしていない。それでもなお意識の先を行かれる人間の技に目を見開きながらも、美鈴は目に見える事実より体をなぞる剣気の方へと反応を返す。
揺らぐ柳のように。吹き荒ぶ風のように。体の節を動かすのではなく、全身を水と化したかの如く淀みなく、全身を一本の蜘蛛の糸のようにしなやかに動かして、迫る銀線を絡め取り頭上へズラす。
太極拳。
今でこそ民間の健康療法として公園などで大人数で行われるものがよく知られているが、その本質は多くの門派が存在する戦闘拳。緩やかな流れは柔らかなものだけでなく、時に荒れ狂い氾濫する河川のように、激流となって対象を巻き取り破壊する。
頭上を過ぎ去る刃の空気を感じながら、美鈴は一歩を満月に向けて踏みしめた。足を落とした地面がその形に凹み震える大地のエネルギーを緩やかに鋭く突き出された腕に乗せ放つ。放つ手は弾丸。呼吸は火薬。震脚は撃鉄。その三つの掛け合わせによって生まれる研ぎ澄まされた一撃は、満月の頬を裂くだけで終わった。
飛び散る朱色を視界に収めながら、着弾点がズレたことに美鈴の瞳が開かれる。ゼロからイチに。その両端に行き着くまでの狭間を極める抜ケン術。始まりも終わりもなく、その中間を極めた技術。流れ続ける気の流れにも終わりはなく、その動きを見越して拳を打ち込むことは叶わない。思考を止めても抜拳はその間にも動き続ける。
美鈴の僅かな思考の隙をつき、動きの出だしを感じさせない拳が美鈴の腹部にぴたりと触れた。抜ケン術は始まりと終わりの間の技術。ただ打ち払うだけではない。ぴたりと美鈴の腹部に触れたまま、次の動作に移るための狭間の動きをねじり込むように拳が振り抜かれる。
打ち抜く軌跡で薙ぐように、その軌跡に乗せられて、山門の扉に美鈴の体が叩き付けられた。扉を砕き地を転がって、四つの線を地に描き止まった体をゆり起こす。腹部に残った拳の跡を摩りながら、口から垂れた朱を拭い、開いた山門を見つめる美鈴の体から闘気がふっと消えた。
「────見事……、門を開けたか。進めばいいさ」
「よいのか?」
「ああ……いい」
「……満月? 終わったの?」
打ち合ったのはお互いに一撃のみ。吸血鬼の目を持ってしても一瞬の出来事。お互い足で地に立ったまま、砕けたのは山門だけ。不思議な勝負の終わりに首を傾げ、刀を鞘に納めている満月から美鈴へとレミリアが目を動かせば、微笑んだ美鈴が身を翻し坂の先へと足を出す。レミリアと満月は顔を見合わせ、肩を竦めるとその後を追った。
「……なにこれ」
美鈴の足を止めた先。手を合わせ目を閉じる美鈴の先に広がった焦げた木片。人の気配は微塵もなく、ただ寂れた空気だけがそこにぽつんと残されている。レミリアの呟きの意味は分からずとも、揺れ動くレミリアの気の流れに美鈴は応える。
「……もう、数十年は前になる。私は師に助けられ、より力を求めて修行に出た。ただ力を求め、帰った時には師の姿はなく、寺院も、他の者の姿もなかった。山賊の仕業だ。師は殺され、残っていたのは山門だけ。私はその時いなかった。助けてくれた者の側に、だからせめて次は……、だから私は門を守った。残されたその先になにもない門を……」
なにを言っているのか分からずとも、手を合わせ祈りを捧げる美鈴の姿が雄弁に語る。たったひとりで数十年。先になにもない門をひとりぼっちで守り続ける。だがそれも終わりだと、美鈴はひとり祈るのだ。
「……貴女は誰かが門を通るのを待っていたの? 自分が居ても……きっと意味はなかったと……」
「……そうかもしれないな……それが私の敗因かな」
弱々しく笑う美鈴の顔を見て、強くレミリアは拳を握った。
「貴女は、これからどうするの……?」
「さて……、どこか遠くへ行こうかな……大分長く門にいた。少し世界が見てみたい」
「なら…………、私たちと来ない?」
零された言葉に美鈴は目を丸くした。山間から覗くまあるい月を見上げて、レミリアは身を包んでいる黒布から顔を出す。透き通るような青い髪と、それとは対極に位置する深紅の瞳。青い瞳を紅い瞳が覗き込む。鋭く伸びた犬歯を覗かせた口を柔らかく曲げて。
「私は妹を父の魔の手から救い出す。そのためには力がいるの。でもそれはただの力ではない。貴女の力が、山門を守る義の拳士。その拳を貸して欲しい、妹を救うために、守るために」
月明かりを吸い込む紅い瞳を見つめながら、美鈴は小さく俯いた。擦り切れた白い布を巻いた両手を見つめ、その手を強く握りしめる。次があるなら、次こそはきっと。次を逃すのか、掴むのか、決められるのは自分だけ。
「…………それで私はなにを得ることができましょうか?」
「なんて?」
「褒美は?」
「ああ、そうね……、そう、私が当主になった暁には! 昼寝でもできるようなそんな門の門番にしてあげる! どうよ!」
「お嬢……」
呆れ返った満月がレミリアの言葉をそのまま美鈴に伝えてやれば、大声を上げて笑い出す。目尻に溜まった雫を指で払い、両手を前に出し握った拳をもう片方の手で包む。
「引き受けましょう、この紅美鈴。次こそ守りきるために!」
「めいりん? それが貴女の名前ね! 私はレミリア=スカーレット。レミリア様か、お嬢様と敬意を込めて呼びなさい!」
「れみりゃ?」
「西洋言葉は難しいよのう。お嬢様でいいさ美鈴殿。言葉もゆっくり覚えればよい。るーまにあまで遠いらしいからな」
「そうか、よろしくお願いしますお嬢様、満月」
「さあそうと決まれば行くわよ貴方たち! まずは宿ね!」
「いや今日は野宿じゃないかこりゃあ?」
それはイヤァ‼︎ と叫ぶレミリアと刀で肩を叩きながら歩く満月の背を見つめ、美鈴は一度振り返ると今一度深く頭を下げた。強く握りしめた拳を柔らかくもう片方の手で包み差し出して、最大限の礼と祈りを捧げて。
「行って参ります師父! 謝謝!」
吸血鬼が夜の下を歩く。輝く星と丸い月。日本を出てから二度目の満月を嬉しそうに見上げて、己が持つ二つの紅い瞳と同じ、紅い髪を揺らす二人を引き連れてレミリアは強く足を出す。